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2011年9月25日 (日)

「アジョシ」

Ajoshi2010年・韓国/配給: 東映TRY△NGLE
原題:아저씨
 (英題: The Man from Nowhere)
監督:イ・ジョンボム
脚本:イ・ジョンボム
武術監督:パク・ジョンリュル

2010年に公開されるや、観客動員数630万人突破という大ヒットを記録し、韓国アカデミー賞〈大鐘賞〉8部門にノミネートされ、主演のウォンビンに主演男優賞をもたらした話題作。脚本・監督は「熱血男児」(2006年)に次いでこれが2作目となる新進、イ・ジョンボム。主演は「母なる証明」で高い評価を得たウォンビンと、「冬の小鳥」で絶賛された子役キム・セロン。なお日本での配給は、24年ぶりに洋画の配給を再開した東映。

過去のある事件をきっかけに、世間を避けるように、古ぼけたビルで質屋を営み、孤独に暮らしていたテシク(ウォンビン)。隣家の少女ソミ(キム・セロン)は母親が仕事で忙しく、テシクを「アジョシ(おじさん)」と呼び、たった1人の友だちとして慕っていた。そんなある日、ソミの母親が組織の麻薬を横取りした為に、ソミと母親が組織に拉致される。テシクはソミを守り抜くと決意し、一人で組織に乗り込んで行く…。

(以下ネタバレあり)
ウォンビンが凄い。前作「母なる証明」では、内気で無垢なように見えながらも、心に闇を抱く複雑な人間像を完璧に演じた彼が、ここでは一転してジェイソン・ボーンを思わせる、強靭な肉体を持った元特殊工作員を見事に演じている。同じ俳優とは思えないくらいだ。さすがである。

物語の前半では、テシクは髪を長く垂らして、片方の眼がほとんど隠れて見えない風貌であるのだが、これが、この男が暗い過去を持ち、心に傷を負ったが故に他人に心を閉ざし、ひっそりと生きて来た事の暗喩にもなっている。

一方、そんな彼の元を頻繁に訪れる隣家の少女ソミも、一見明るく振舞ってはいるが、彼女もどこか心に闇を抱いている。父親は居らず、母からは疎まれ、他に心を許せる人間がいないが故に、無愛想で普通の人から見れば取っつきにくいテシクにもなつく訳である。

この前半の、二人の交流を丹念に描いている為、いつしかソミはテシクを父親のように慕い、テシクも、ソミを娘のように可愛がる心の変遷が、観客にも無理なく理解出来るのである。

事実、ソミは窃盗で捕まった時、通りかかったテシクを、父親だと名指しする。
だが、他人に決して心を見せないテシクは、無視して通り過ぎる。…これは警官に調べられて過去を詮索されるのを避けたいという思いもあるのだろうが。

その後、誰もいない所でテシクはソミに謝るのだが、そこでソミがテシクにかける言葉が泣ける。「もしおじさんが悪い人でも嫌いにならない。おじさんまで嫌いになったら、私の好きな人がいなくなっちゃう」

こうした心をうつ名シーン、名セリフがあるからこそ、拉致されたソミを、テシクが命がけで救おうとする行動にも説得力が生れるのである。見事な脚本である。

その後、テシクにはかつて、身重だった最愛の妻を、敵との闘いの中で失ったという過去がある事が判明する。

この事実で、テシクが心を閉ざしていた訳と、ソミを娘のように思う、その2つの理由が同時に明らかになるのである。実にうまい脚本である。

妻のお腹の中にいたのは、多分娘だろう。自分の任務のせいで、妻ばかりか、娘も失ってしまった。生きていればソミのような女の子に育っただろう。

それ故、ソミを守る事は、自らの失った過去を取り戻す闘いでもあるのである。
もう二度と、愛する人を失いたくはない…その思いが彼を戦いの場に駆り立てて行く。

髪を短く刈り、武器の準備を整え、敵陣に乗り込んで行くクライマックス・シークェンスは、まるでかつての東映任侠映画の殴り込みを思い起こさせるほどにカッコいい。これぞ正統アクション映画の真髄である。

配給が、洋画配給としてはまったく久しぶりの東映になったのは、まことに不思議な縁である。

敵の用心棒であるベトナム人ラム・ロワン(タナヨン・ウォンタラクン)のキャラクターがまたいい。悪の側についてはいるが、どこかに優しい心を持っている。組織がソミの母を捕らえ暴行する場面では、ソミの目をそっとふさぐ気配りも見せる。
任侠映画で言えば、高倉健と敵対する、池部良のような役回りであろうか。あるいは、最後にテシクと死闘を繰り広げた末に倒される姿は、「座頭市物語」(第1作)における、敵の用心棒で死闘の末に最後に市に斬られる平手造酒(天地茂)を思わせる。

ネタバレになるので書かないが、ラストも泣ける。ハードなアクション映画でありながら、感動し、泣ける映画は珍しい。

韓国からは、一昨年の「チェイサー」(ナ・ホンジン監督)、昨年の「息も出来ない」(ヤン・イクチュン監督)と、毎年新人監督によるハード・バイオレンス映画の傑作が誕生しているが、本作もまぎれもなくその系列に入れる事が出来るだろう。イ・ジョンボム監督、今後も目が離せない。

残酷なシーンもいくつかあるので、それを覚悟の上で観る必要があるが、それでも映画ファンなら観ておくべき、本年屈指の傑作である。お奨め。    (採点=★★★★★

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(さて、お楽しみはココからだ)

この映画には、過去のいくつかの傑作映画のエッセンスも巧みに盛り込まれている。

ストーリーの骨子は、リュック・ベッソン監督の名作「レオン」(1994)が下敷きになっていると思われる。これは多分映画ファンならすぐに思いつくだろう。

Ajoshi2 が、もう1本、「タクシー・ドライバー」(1976)の要素も入っていると思われる。この作品も、少女(ジョディ・フォスター)を救う為に、男が銃で武装して殴り込むシーンが見せ場である。

それだけでなく、テシクが殴り込む前に髪を切っているシーン。鏡の前で、上半身裸で準備を整えるカットが、「タクシー・ドライバー」で、トラヴィスが鏡の前で銃の練習をするシーン(右)によく似ているのである。

それにしても、前者で少女を演じたナタリー・ポートマン、後者で少女を演じたジョディ・フォスター、どちらも今やハリウッドを代表する大女優に成長した。

本作のキム・セロンも天才少女と言われているが、前記二人にあやかって大女優に成長して欲しいものである。

 
それからもう1本、子供を臓器売買目的で拉致しているシーンが出てくるが、これは我が国の阪本順治監督の秀作「闇の子供たち」(2008)にインスパイアされている可能性がある。あの映画の舞台はタイだったが、韓国でも同じ問題を抱えているのだろうか。

…と思っていたら、公式ページを覗くと、ラム・ロワンを演じたタイ人俳優、タナヨン・ウォンタラクンは、その「闇の子供たち」に出演していたそうである。
この映画を見たイ・ジョンボム監督が、彼の目が気に入り、すぐに「アジョシ」のオファーをしたのだそうだ。

それから判断すると、イ・ジョンボム監督が本作に子供の臓器売買テーマを盛り込んだのは、その「闇の子供たち」に触発された可能性が大である。

阪本順治監督と言えば、韓国人ヤクザが登場するバイオレンス・ヤクザ映画「新・仁義なき戦い。」(2000・これも東映製作・配給)も手掛けている。

イ・ジョンボム監督、案外阪本順治監督のファンなのかも知れない。

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2011年9月19日 (月)

「日輪の遺産」

Legacyofthesun2011年・日本/配給: 角川映画
監督: 佐々部清
原作: 浅田次郎
脚本: 青島武
製作: 池田宏之、阿佐美弘恭、長尾忠彦、臼井正明
プロデューサー: 根津勝、臼井正明、青島武

ベストセラー作家・浅田次郎の同名小説を、「夕凪の街、桜の国」「出口のない海」等戦争関連の作品も多い佐々部清監督が映画化。

敗色濃い昭和20年8月10日、近衛第一師団・真柴司郎少佐(堺雅人)は、陸軍が奪取した900億円ものマッカーサーの財宝を、祖国復興を託した軍資金として隠匿(いんとく)せよと密命を受ける。真柴は小泉主計中尉(福士誠治)や望月曹長(中村獅童)らと共に、勤労動員として集められた20人の少女たちを指揮して任務を遂行するが…。

くだんの財宝は、マレーの虎・山下奉文大将がフィリピンで奪取したものだという。山下財宝の話は昔からよく、戦中秘話としていろいろ取りざたされており、映画の方では、1963年に三船敏郎が三船プロ第1回作品として、自らメガホンを取って「五十万人の遺産」の題名で映画化している。

(以下ネタバレあり)
浅田次郎の原作は、ミステリー・タッチの出だしでグイグイ引っ張って読ませる作りであるが、映画は20人の女子生徒のうちの、ただ一人の生き残りである金原久枝(八千草薫)が、子供や孫に語って聞かせる、女子生徒たちの悲しい決意と運命の物語としてまとめられている。従って、フィリピンを舞台にし、財宝の奪い合いを中心としたミステリー・アクションであった「五十万人の遺産」とはまるで肌合いの違う作品になっている。

最後に泣かせる辺り、あるいは彼女たちの霊が現れる辺りはまさに浅田次郎ファンタジーそのものである。

真面目で丁寧な作りでは定評のある佐々部清監督らしい作品ではあるが、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」でも描かれた、陸軍将校たちの反乱決起、阿南陸軍大臣(柴俊夫)の壮絶な自害、等のエピソードも盛り込まれたり、マントを羽織った謎の伝令が影のように出没したりするサスペンス・タッチの部分と、くったくがなくて明るい少女たちのエピソード部分とが、うまくかみ合っていない気がする。

先生に引率され、最初は遠足に来ているような気分の少女たち(「出て来いニミッツ、マッカーサー」(注)と歌うシーンが印象的)が、やがて壮絶な死を選ぶに至るプロセスが、どうも説明不足なのである。

原作では、最後に少女のモノローグで、死を決意するに至るまでの心情をきちんと描いているので、ここでドッと泣けるのに対し、映画ではそこが省かれているので唐突な印象を受けてしまう。

無論、沖縄“ひめゆり部隊”等、少女たちが自決を選んだ話もないではないが、それはまだ戦時中であり、かつ戦闘の最前線で、米軍の上陸を前にして、追い詰められての玉砕であり、これはある意味仕方ない。

それに対しこちらは、玉音放送を聴いて、戦争が終わり、平和な世が訪れた事を知った後である。新しい世の中を築く為には、老人や軍人たちは死んでも、これからの時代を担う若者たちは、生き続けるべきである。その事をこそ描くべきではないだろうか。
“死”を美化するような話は、私は好きになれない。

せめて、もう少し少女たちの描写にウェイトを置いて、各人がそれぞれ、死を選ぶに至った、心の変遷をこそ丁寧に描くべきではなかったか。

これが本当に守らなければならない、日本の宝であるならまだしも、アメリカから横取りした、不純?な財産である。そんな金が、日本の復興に役立つとは思えない(使おうとしたって、出どころ不明の何兆円もの金が出てきたらアメリカが不審に思うだろう)。
日本が復興し、立ち直ったのは、金の力ではなく、一人一人が勤勉に働き、努力した結果である。それこそが、財産なのである。

 
そんなわけで、私には今ひとつしっくり来ない作品ではあったが、原作の味わいはまずまず出ていたので、原作を読んで感動した人には楽しめる作品には仕上がっているのではないか。    (採点=★★★☆

(注)
少女たちが歌う「出て来いニミッツ、マッカーサー」とは、「比島決戦の歌」(作詞:西条八十、作曲:古関裕而)という軍歌の中の一節である。
→ http://www.youtube.com/watch?v=oERBTPp0yj8
細かい事だが、正しくは「いざ来いニミッツ、マッカーサー」である。「やって来い」と歌ってる訳だから、「出て来い」とはおかしいのだが、昔の人に聞くと「出て来い」と間違って歌ってた人もいるらしい。
が、少女たちがこの歌を学校で習ったなら、やはり正しく「いざ来い」と歌わせるべきではないかと思う(と、細かいことが気になる私(笑))。

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(で、お楽しみをちょこっとだけ)
Mifunerikiya マッカーサーの通訳を務めた、日系人イガラシ中尉の若い時代を演じた役者にちょっと注目。この人の名前は、三船力也という。

で、ピンと来る方もいると思うが、この人は三船敏郎の長男、三船史郎の息子である(1988年生まれ)。…つまり、三船敏郎の孫に当る。

お父さん(三船史郎)と眉毛、目鼻立ちがそっくりである。

三船力也は、10歳の時、1998年製作の香港=日本合作「ホーク/B計画」という派手なアクション映画で、三船史郎と親子共演を果たしており、これが実質映画デビューである。確か役柄も史郎の息子だったと思う。

一応、三船プロ(史郎が社長)に所属している。が、映画出演はこれまで「青空のゆくえ」(2005)他数本しかない(しかもマイナーな作品ばかり)。
本作を契機に、メジャーな作品からお呼びがかかり、役者として大きく成長する事を期待したい。

Longestdayinjapan で、よく考えれば、上記に挙げた本作との関連作、「五十万人の遺産」「日本のいちばん長い日」、どちらも祖父の三船敏郎主演作である。「日本のいちばん長い日」では三船敏郎は阿南惟幾陸軍大臣を演じている。これも壮絶な切腹シーンが話題になった。

そうした作品に、三船敏郎の孫・三船力也が出演しているというのも、不思議な縁である。それともプロデューサーがキャスティング時に意識した…なんて事はないでしょうね(笑)。

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2011年9月15日 (木)

「探偵はBARにいる」

Tanteibar2011年・日本/配給: 東映
監督: 橋本 一
原作: 東 直己 (「バーにかかってきた電話」)
脚本: 古沢良太、須藤泰司
音楽: 池 頼広
エグゼクティブプロデューサー: 平城隆司
プロデューサー: 須藤泰司、上田めぐみ、今川朋美

東直己原作の、人気ミステリー・シリーズ「ススキノ探偵シリーズ」の第2作「バーにかかってきた電話」の映画化。監督は東映生え抜きで「新仁義なき戦い/謀殺」 (2002)で劇場作品デビューし、「茶々 天涯の貴妃」 (2007)、テレビ「相棒」シリーズ等で知られる新進・橋本一。

札幌・ススキノで探偵業を営む“俺”(大泉洋)は、事務所代わりにしているバーにかかってきた“コンドウキョウコ”と名乗る女に、ある仕事を依頼される。簡単な仕事だと思い引き受けたが、実行直後に雪に埋められ、半殺しの目に遭う。やがて“俺”は相棒の高田(松田龍平)と組んで、その依頼の背後にある4つの殺人事件の謎に迫って行く…。

東直己のススキノ探偵シリーズは、1992年発表の「探偵はバーにいる」を第1作に、現在まで11作が作られている人気長寿ミステリー・シリーズである。で、本作はその2作目で、シリーズ中でも評価の高い「バーにかかってきた電話」を映画化したものである。映画のタイトルは1作目と同じ(但し“バー”はアルファベットに変っているが)なので紛らわしいが、「バーにかかってきた電話」という題では売りにくいし、映画としては第1作(続編の話もある)なので許せる範囲か(しかしこれで原作1作目は映画化しにくくなった(笑))。

原作は、明らかにダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーのハードボイルド・ミステリーを意識している。主人公が愛飲する酒は、チャンドラー原作の探偵フィリップ・マーロウのそれと同じギムレットだし。…但し、やはりチャンドラー・オマージュの原尞(「そして夜は蘇る」等)作品が主人公のキャラクターまでフィリップ・マーロウまんまであるのに対し、ススキノ探偵シリーズはどこかトボけていてユーモラスである。

映画化された本作は、“俺”を演じているのが大泉洋という事もあって、さらにコミカルな要素も増えている。相棒の高田がクールで無口であるのに対し、“俺”の方が饒舌でドジもするし、強そうな奴に追われると、ひたすら逃げまくるという人間くささには親近感を感じて楽しい。
その点では、奇しくも松田龍平の父、松田優作が演じた「探偵物語」のテイストに近いものを感じる。

こういう探偵ものは好みである。アクションもあり、随所に謎と、カギとなる伏線も配され、謎の美女=ファム・ファタールも登場し、最後に、愛と哀しみの復讐のクライマックスが訪れる展開も悪くない。

バーにかかってきた謎の依頼人の正体はある程度予測はつく。小説と違って、映画では声で判ってしまう、というハンディがあるのだが、むしろ本作は謎解きよりも、作品のムードを楽しむ映画であると考えれば、これは大した欠点ではない(てか、原作を先に読んでる人にはとっくに判ってる事ではある)。

主人公は、携帯を持たないし、バーに座ると、無口なマスター(演じる枡田徳寿という役者?がいい)がさりげなく缶入りピースと、これも缶入り胃腸薬を差し出す。白を裏返せば黒に変るオセロに関する講釈もいい。これはまた、善人か、はたまた悪女か予測がつかない沙織(小雪)のメタファーでもあるのだろう。

そして、全編に漂うレトロな、昭和のムードがまたいい。バーの電話機は黒のダイヤル式だし、高田の運転する車もレトロな丸っこいポンコツ車である。思えば、ファム・ファタールを演じる小雪は、昭和テイスト満載の「ALWAYS 三丁目の夕日」のヒロインでもあった。
冒頭に歌手として登場し、エンドロールでも歌っているカルメン・マキも懐かしい。元気なその姿を見られただけでも嬉しい。歌もこれまた懐かしい「時計をとめて」。

 
監督の橋本一は、今ではほとんど絶滅品種(笑)の、撮影所育ちの社員監督である。彼の所属する東映は、時代劇から、任侠映画、そしてエログロ作品と、ひたすらオールド・ファッションな昭和テイスト作品を連発して来た会社である。これまでの橋本監督作品も「仁義なき戦い」の続編、「極道の妻たち」の続編、そして時代劇「茶々 天涯の貴妃」と、見事に昭和テイスト作品ばかりである。…まさに、本作には適任である。テレビ「相棒」でも橋本監督作品には注目していたのだが、本作では、これまで埋もれていた作家としての資質が見事開花したようで、まことに喜ばしい事である。

随所に仕掛けられた遊び(後述)といい、ハードボイルド探偵ものの味わいといい、ひさびさに登場した、大人が楽しめるウエルメイドなエンタティンメントの快作である。幸いな事に、興行的にもヒットしているようで、是非続編も橋本監督で、息の長いシリーズとして作り続けて行く事を期待したい。採点は大マケで…。     (採点=★★★★☆

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(さて、お楽しみはココからである)
その1
 
Tanteibar2 高田の愛車は、原作ではトヨタ・カローラ1300となっているのだが、映画では光岡自動車製・ビュートに変更されている。で、このクルマを見てて気が付いたのだが、本作はどうやら宮崎駿の「ルパン三世・カリオストロの城」にもオマージュを捧げているようだ。

なにしろ、この光岡ビュートの丸っこい感じが、「カリオストロの城」に登場するルパンの愛車、フィアットにそっくりだし、探偵が車の屋根に登っている、そっくり同じショットが「カリオストロの城」にも登場している(右参照)。

大泉洋扮する探偵の、女に弱いコミカルなキャラクターは、ルパンと似ているし、相棒の無口だが格闘技に強い高田は、五右衛門のキャラクターに似ている。ファム・ファタールな美女もルパン・シリーズによく登場する。

…と思ったら、インタビュー(キネ旬9月下旬号)でも橋本監督、「カリオストロの城」を意識したと語っている。うーむ、遊んでいる(笑)。

その2
映画ではあまり出てこないが、原作には映画の題名がいっぱい出てくるので、映画ファンにとっても原作は楽しい。

「バーにかかってきた電話」では、のっけから黒澤明監督作品の題名が頻出している。「七人の侍」、「用心棒」、「野良犬」…。

また本作にも出たと思うが(やや記憶曖昧)、探偵は偽名として、“桑畑十郎”(笑)をよく使う。シリーズの「探偵は吹雪の果てに」の中にも登場している。原作者は黒澤明の大ファンなのだろう。

で、この「用心棒」自体が実はダシール・ハメットのコンチネンタル・オプもの「血の収穫」の巧妙ないただきなのである。主人公自身は名前がないし、「用心棒」でも三船扮する素浪人は名前がない。名を聞かれて窓の外を見て適当に“桑畑三十郎”と言っただけである。「名前などどうでもよかろう」と言っているし。

つまり探偵が“桑畑十郎”と名乗るという事は、案外ダシール・ハメット・ファンであり、かつ黒澤映画ファンでもある探偵(と言うより、原作者)の趣味の反映、であるのかも知れない。探偵に名前がないのも、それで納得出来る。

こういう具合に、映画にも、原作にも、いろんな遊びが仕込まれている。そういうのを見つけてニンマリするのも、映画ファンのこの上ない、お楽しみなのである。

(9/17補足並びに訂正)
映画の中で探偵が示す偽名刺の名前が、記憶が不確かだったのでいろいろ調べたら、“桑畑十郎”と「用心棒」の主人公まんまだった。

さらに原作シリーズの中を探すと、本映画の原作「バーにかかってきた電話」に登場する偽名刺には”桑畑十郎”(笑)とある。数字が増えたのは大泉の年齢に合わせたのだろう。原作ではこの当時探偵は20歳代だったはずだから。

さらに調べると、シリーズ最新作の「半端者」(第一作の前日譚)では、“桑畑十郎”を使っている。
上記「探偵は吹雪の果てに」では“桑畑十郎”を名乗っているが、これは、この時は探偵は40歳代半ばになっていたからである。
この調子だと他にもあるかも知れない。知っている人がいたら教えてください。

そんなわけで上記の記事、少しだけ訂正しておきます。

 

原作「バーにかかってきた電話」

ススキノ探偵シリーズ第1作

橋本一監督・デビュー作 「新仁義なき戦い 謀殺」

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2011年9月10日 (土)

「神様のカルテ」

Kamisamanokarute2011年・日本/配給: 東宝
監督: 深川栄洋
原作: 夏川草介
脚本: 後藤法子
音楽: 松谷卓
テーマ曲: 辻井伸行
製作: 市川南、小林昭夫、大西豊、藤島ジュリーK.、石田耕二、町田智子

現役医師の作家・夏川草介によるベストセラーで、2010年本屋大賞第2位にも選出された同名小説を映画化。監督は「60歳のラブレター」「半分の月がのぼる空」「白夜行」の俊英・深川栄洋。

栗原一止(櫻井翔)は、信州・松本市の総合病院、本庄病院で勤続5年になる若い内科医。この病院は24時間・365日対応医療を看板にしている為、患者が引きも切らず訪れ、一止は看護士たちと力を合わせながらも連日激務に追われていた。そんな一止にとって、同じアパートに住むちょっと変わった仲間たち、そして最愛の妻・榛名(宮崎あおい)の存在が、疲れた心を癒し元気を与えてくれる何よりの支えとなっていた。或る日、研修で母校の信濃医大病院を訪れた一止は、教授に気に入られ、医局での勤務を打診される。一止は最新医療が結集した医局に魅力を感じつつも、本庄病院の患者のことが気に掛かり、決断出来ない。研修期間を終え、本庄病院に戻った一止の前に、研修中に診察した末期ガンの患者、安曇雪乃(加賀まりこ)が現れる。

主演がアイドルグループ「嵐」の櫻井翔と聞いたので、また人気アイドルを使った安易な企画かと最初はあまり触手が動かなかった。題材が最近食傷気味の、余命何日の難病ものらしかったので、これも足が向かない要因。まあ久しぶりに加賀まりこのお顔を見たかったので、気が向かないままに鑑賞。
ところが、原作も良かったのだろうが、意外にも感動し泣かされた。やはり映画は観てみないと分からない。

 
主人公のキャラクターが面白い。夏目漱石を愛読し、そのせいか会話が文語体で、本人によるナレーションもどこか淡々、昔のNHKテレビ小説のような味わいがある。女性看護士が親しく話しかけて来る度、「私は妻ある身ゆえそのような誘いは…」と返すのがなんともおかしい。

住んでいる借家が、玄関ガラス戸に“御嶽旅館”と書かれてある元は古い旅館で、住人もどこか浮世離れしていて、写真家の妻・榛名も若いのに、どんな時にも泰然と構え、一止を優しく包んでくれる。礼儀正しく朴訥な会話も含め、まるで昭和の古い日本映画(とりわけ、小津安二郎作品)を観ているようである。

このムードがなんとも心地よい。そしてこの、優しさと人間くささに満ち溢れた登場人物たちのムードが、映画の最後で強調される、”病気を治すだけが医療ではない、心のケアこそが大切なのだ”というテーマにも繋がって行くのである。

(以下、ネタバレあり注意)
後半は、医大病院から誘われ、一止は出世を取るか、小さな病院で患者と向き合うかの決断を迫られる。だが、医大病院で余命半年と知らされ、「あとは好きなことをして過ごして下さい」と見放された末期ガン患者・安曇さんが、一止を訪ねて本庄病院までやって来た事から、物語は大きく転換する。

現代医療では、延命治療は出来ても、安曇さんの命を救う事は出来ない。「好きな事をして過ごしてください」という医大病院の言葉も間違ってはいない。だが、そう言われても絶望の淵にある患者は何をしてよいか分からず、ただ嘆き悲しむ日々を送るしかない。

一止は安曇さんの残された日々を、心を込めて向き合って行く事にする。亡くなった夫が好きだったというカステラを榛名に買って来させ、食べさせたり、安曇さんの誕生日には、医大のセミナーをキャンセルしてまで付き合ってあげ、屋上から信州の美しい風景を見せてあげる。…これらは、医療行為を逸脱しているのは無論である。だが、残された日々を、充実した心で過ごさせてあげる事も、死に行く人を看取る医者にとっては重要な仕事ではないだろうか。むしろ、人との繋がりが薄れた現代だからこそ、なお心のケアはもっと重視されるべき要素ではないか。…作者はそう訴えたいのだろう。

安曇さんが安らかな気持ちで夫の元に旅立った後、一止に宛てた安曇さんの手紙を読むシーンでは泣けた。タイトルの意味もここで明らかになる。

そして一止は上司の貫田医師(柄本明)に、医局への誘いを断り、この病院に残る事を告げる。ある程度予想は出来たが、爽やかで気持ちいい幕切れである。

実は、古ダヌキと仇名される貫田自身も、かつては信濃医大の医局にいたのだが、そこを捨てて本庄病院にやって来た変り種である。

貫田は一止を、「まるでオレの若い時にそっくりだ」と言うのだが、ならば、出世よりも地方医療を選んだ貫田と同じ道を一止が辿るのも、ある意味当然であったのかも知れない。残念そうに貫田は言うが、実は予想していたのかも知れない。さすが古ダヌキである(笑)。

 
私はこのラストで、黒澤明監督の秀作「赤ひげ」を思い起こした。あの作品も、最初は出世欲に燃えていた若い医師・保本(加山雄三)が、小石川養生所で赤ひげ(三船敏郎)に鍛えられ、貧しい人々を治療したり、死に行く人々を見送る中で人間的に成長して行き、やがて出世を捨てて、養生所に留まる決意を固めるまでを描いている。
テーマといい、主人公の心の変遷といい、よく似ている。貫田のキャラクターも赤ひげとそっくりである。

医局への誘いを断った一止に、貫田は「後悔するぞ」と言い、「お前はバカだ」と言うセリフもある。

実は「赤ひげ」でも、養生所に留まると言った保本に対し、赤ひげはやはりこの2つのセリフを口にするのである。

「お前は馬鹿だ」というのは原作にもあるが、「後悔するぞ」という言葉は原作にはない。あるいは監督(もしくは脚本家)は、「赤ひげ」が頭にあったのかも知れない。

安曇さんを演じた加賀まりこがとてもいい。かつては小悪魔と呼ばれ、「月曜日のユカ」(中平康監督)などでコケティッシュな魅力をふり撒いていたが、もうこんな気品ある老女を演じる歳になったのか。感無量である。
その他柄本明、信濃医大・高山教授を演じた西岡徳馬、看護士を演じた吉瀬美智子、池脇千鶴、みんなそれぞれいい味を出していて好演。無論宮崎あおいもいい。櫻井翔は、ベテラン陣に圧されて分が悪いが、まあ頑張った方だろう。

そして盲目のピアニスト、辻井伸行さんが作曲したテーマ曲がまたいい。山々が連なる信州の風景といい、音楽といい、死んだ人をおくる「おくりびと」を思い起こした。こちらの方は、“死に行く人をおくる”もう一つの「おくりびと」とも言えるだろう。

 
と、一応誉めたが、難点もいくつかある。御嶽荘の住人のエピソードがうまく一止の心の成長にからんでいない。特に学士(岡田義徳)のキャラクターが中途半端。桜吹雪で見送る所は感動の場面のはずだが、大学生だと偽ってフラフラ生きているだけのこの人物に感情移入出来ないから、感動が盛り上がらない。原作通りなのだが、もう少し脚本で掘り下げて人物像に深みを持たせるべきである。

榛名さんが、どうやって一止と知り合ったのか、彼の何処に惹かれたのかも知りたい所。いつの間に子供を作ったのかも描かれていない。フラッシュでの回想でもいいから押さえておいて欲しかった。

同じような医療テーマの昨年の「孤高のメス」が出色だったのは、ベテラン加藤正人が推敲に推敲を重ねた見事な脚本の力による所が大きい。やはり映画は脚本次第。本作も、加藤か、奥寺佐渡子クラスの実力派ライターが手掛けていれば、本年を代表する傑作になったかも知れない。そこが残念である。

…とは言え、感動出来るウエルメイドな佳作には仕上がっている。観ておいて損はない。主人公の名前に引っ掛ける訳ではないが、イチ押しである。    (採点=★★★★

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