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2011年10月23日 (日)

「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」

Riseoftheplanetoftheapes2011年・アメリカ/配給:20世紀フォックス
原題: Rise of the Planet of the Apes
監督: ルパート・ワイアット
脚本: リック・ジャッファ、アマンダ・シルバー
製作: リック・ジャッファ、アマンダ・シルバー、ピーター・チャーニン、ディラン・クラーク
製作総指揮: トーマス・M・ハメル

1968年に公開され、大ヒットとなって、その後続編が4本も作られた人気SF映画の、前章とも言うべき新作。監督は英国出身で、長編はこれが2作目となる新鋭ルパート・ワイアット。

製薬会社の研究所に勤める科学者・ウィル・ロッドマン(ジェームズ・フランコ)は、アルツハイマー病の新薬を開発中に、実験で投与していたチンパンジーの知能が飛躍的に発達していることに気付く。研究成果を発表しようとした矢先、そのチンパンジーが所内で暴れ射殺されてしまう。だがそのチンパンジーは妊娠しており、ウィルは残された赤ん坊チンパンジーを自宅へ連れ帰り、“シーザー”と名付け育てる。3年後、親猿の特殊な遺伝子を受け継いだシーザーは驚くべき知性を有し、すくすくと育っていた。一方、父・チャールズ(ジョン・リスゴー)のアルツハイマー進行に悩むウィルは、研究中止を命ぜられた新薬ALZ112をこっそり家に持ち帰り、父に投与すると、その結果、彼は驚くべき快復を見せる。だが、その新薬には人類の災厄を招く恐るべき副作用が潜んでいた…。

オリジナルの1968年作品は、SF映画史上に残る傑作である。人間と動物との支配関係が逆転した寓話的な設定と、そこから派生するさまざまなアイロニー、文明批判、そして衝撃的な結末。
とりわけ(既に有名であり、DVDのパッケージにもそのラストシーンの絵があるのでネタバレにはならないと思うが)、この惑星が実は地球だった、と言うオチには驚愕した。
実はリアルタイムで観ているのだが、何の予備知識もなく観に行って、あのラストで思わず「ああーっ"」と声を上げそうになった。
本新作のキャッチコピーである“これは人類への警鐘”そのまんまのラストだった。

既に結末が広く知られている現在において、このオリジナルを観る人は不幸である。何も知らないで観る方が確実に楽しめる(も一つ、あのネタバレDVDパッケージは止めて欲しい)。
…さらに言うなら、まだソ連が存在し、核戦争の脅威が根強く潜在しているあの時代(S・キューブリックのポリティカルSF「博士の異常な愛情」が公開されてからまだ4年しか経っていなかった)だからこそ、衝撃は何倍も大きかったわけなのだが。

キューブリックつながりで言うと、同じ1968年に、SF映画史上の大傑作「2001年宇宙の旅」が公開されている。
実は、私は「猿の惑星」を観た直後、同じ日にこの作品を観ている。
猿の映画でショックを受け、茫然自失状態のまま「2001年-」を観て、冒頭にまた猿が出て来たので、まだ続きを観ているのかとうっかり錯覚してしまった(笑)。私の映画歴でも、一生忘れられない日だった。

余談はさておき、本作だが、これもなかなか面白かった。オリジナルには及ばないが、今の時代に作られる意義は充分にある。

(以下、オリジナルも含めてネタバレがあります)
オリジナルを観終わった後、唯一疑問だったのが、“人類が滅びた後、何故猿が知性を得、人間の言葉を喋れるようになったのか”という点であった。

第1作に続くシリーズでは、第3作「新・猿の惑星」で、地球壊滅寸前に脱出したチンパンジー夫婦・コーネリアスとジーラの乗ったロケットがタイムスリップして1973年の地球にたどり着き、その子供・シーザーが第4作「猿の惑星 征服」で猿のリーダーになり、地球を征服する、という展開になる。
確かに、一見、それでシーザーが知性があり、言葉を喋れる理由にはなっているが、よく考えるとこれはおかしい。それだと、コーネリアスたちの祖先は、自分たちだった、という無限ループの自己矛盾に陥る事になる。ニワトリと卵、どっちが先かというのと同じ(笑)である。

本作はその矛盾を解消すべく、猿たちが知性と言葉を得るに至った理由をきちんと描き、同時に人類が滅びた原因についても匂わせる物語になっている。

その理由が、人間の老いと共に広がっている、アルツハイマー症を治す特効薬を開発する為、母猿に新薬を投与し、実験台にした事にある、というのが実に皮肉である。

人類が産み出した、発達したテクノロジーが、却って人類を滅ぼす元凶になった、という物語は、1950年代以降数多く作られた、終末ものSFにその例を見る事が多い。
その多くが、核戦争が起き、放射能が地球上を覆うというパターンで、ロジャー・コーマン監督の「原子怪獣と裸女」(55)など、B級ものが多いが、A級の代表作としては、スタンリー・クレイマー監督の秀作SF「渚にて」(59)がある。
宮崎駿監督のアニメ「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」もその範疇に入れる事が出来るだろう。

小松左京原作の「復活の日」は、生物兵器開発の過程で作られた猛毒ウィルスが世界に蔓延し、人類が絶滅の危機に曝されるという物語で、これ以降、ウィルスが人類滅亡の原因というパターンが多くなる。
本作は、そのウィルス滅亡ものの要素も含んでいる。

さらに、ジェームズ・キャメロン監督の原案・監督による「ターミネーター」シリーズも、“人類の幸福の為に開発されたはずの人工知能スカイネットが核戦争を引き起こし、さらにスカイネット指揮の機械軍によって、人類は滅亡の危機に瀕する”という物語で、よく考えたら、機械軍(ターミネーター)を猿に置き換えたら、本作とパターン的にはそっくりである。

オリジナルの「猿の惑星」も、人類が滅びた原因は核戦争、という事になっていた。

コンピュータがらみで挙げるなら、1970年の「地球爆破作戦」(ジョセフ・サージェント監督)では、国防ミサイル制御システムとして開発されたスーパー・コンピュータが、自我を得て、人類をコントロールするようになる、という展開で、この萌芽は実はあの「2001年宇宙の旅」にも既に見る事が出来る。

本作はそうした、“人類の幸福の為に開発されたはずのハイテクノロジーによって、人類が滅亡の危機に曝される”という、一連のシニカルSF作品の、言わば集大成的な作品である、とも言えるのである。

 
本作がよく出来ていると思えるのは、猿のシーザーが、檻に入れられ、人間による差別、虐待に苦しめられ、知性を得たが故に、その理不尽さに怒り、苦悩し、遂には人間に対し反乱を企てるプロセスが丁寧に描かれている点である。

パフォーマンス・キャプチャーにより、その第一人者であるアンディ・サーキスが演じるシーザーは、表情が実に豊かになり、悩んだり、怒ったり、悲しんだりといった感情表現も、人間のそれとほとんど変わらないほどに見事である。

アイデンティティーを持ったが故にシーザーは、自分勝手で、猿を一段低く見る人間を、次第に許せなくなって行くのである。
そして遂にある日シーザーは仲間たちと共に反乱を起し、人間たちの束縛から逃れ、自由の身になる事を決意し、その計画を実行に移す。

そのプロセスは、まるで奴隷や被差別民たちが自由を求めて反乱を起す、歴史ドラマのメタファーのようである。

映画で例を挙げるなら、旧約聖書の、モーゼの「出エジプト記」を題材とした「十戒」(セシル・B・デミル監督)とか、カーク・ダグラス主演「スパルタカス」等の歴史大作がその代表作だろう。

ちなみに、「十戒」の主演が、「猿の惑星」の主演者でもあるチャールトン・ヘストンであり、「スパルタカス」の監督が「2001年-」のスタンリー・キューブリックである、というのも、不思議な因縁である。ちなみに「スパルタカス」には、ジュリアス・シーザーもちょこっと登場している(笑)のも、偶然にしては出来過ぎている。
思えば、「2001年-」も、“猿がある外的要因(モノリス)によって、知性を得る”というエピソードが発端であった。

 
CGをフル活用した、猿たちと人間たちとの大バトル・シーンも見ものである。この猿たちがすべてCGというのが信じられない。ここはテクノロジーの発達に素直に感動しよう。

ラストは、ウィルと決別し、森に立てこもったシーザーたちの姿で終るが、これは単にサンフランシスコのある地域の猿たちが、人間たちから逃げて自由を得た、というだけに過ぎない。この後、猿たちが地球全土を支配するまでには、まだまだ長い物語が続くものと思われる。続編ではその辺りが描かれるのではないか。期待したい。

 
思えば、この作品が、東日本大震災の起きた同じ年に公開されたのも、不思議な因縁を感じる。

原子力発電は、人類の幸福の為に開発されたハイテクノロジーの象徴だったはずである。
それが一たび事故を起すや、制御不能となり、災厄となって多くの人間に不幸をもたらしている。

高度な科学技術の発達は、本当に我々に幸福をもたらすのか、逆に牙を剥くモンスターにもなり得るのではないか

本作も、原発事故も、その事に深く思い至らせ、人間の驕り、傲慢さに対し、警鐘を鳴らしている点ではまさに共通するのではないか。

多少物足りない所はあれど、そうしたいろいろな事を考えさせてくれた点でも、また、さまざまな映画的記憶をも呼び起こしてくれた点でも、これは大いに評価したい作品である。    
(採点=★★★★☆

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原作本(ピエール・ブール)

「猿の惑星」DVDボックス 「猿の惑星」ブルーレイ・ボックス

「猿の惑星」第1作DVD 「猿の惑星」第1作ブルーレイ

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2011年10月19日 (水)

「一命」

Ichimei2011年・日本/配給: 松竹
監督: 三池崇史
原作: 滝口康彦
脚本: 山岸きくみ
エグゼクティブプロデューサー: 中沢敏明、ジェレミー・トーマス
プロデューサー: 坂美佐子、前田茂司 

滝口康彦が1958年に発表した時代小説「異聞浪人記」を、三池崇史監督が3Dで映画化。主演は歌舞伎俳優・市川海老蔵。なお同じ原作で'62年にも小林正樹監督により「切腹」のタイトルで映画化されており、本作は2度目の映画化となる。

江戸時代初頭、大名の御家取り潰しが相次ぎ、困窮した浪人たちの間では、裕福な大名屋敷に押しかけて切腹を申し出、なにがしかの金銭、あわよくば仕官も得ようとする「狂言切腹」が流行していた。そんなある日、名門・井伊家の門前に元福島藩浪人・津雲半四郎(市川海老蔵)が現れ、切腹を願い出る。井伊家の家老・斎藤勧解由(役所広司)は数ヶ月前、やはり同じように切腹を願い出てきた若い浪人・千々岩求女(瑛太)の凄惨な最期をを語り、切腹を思いとどまらせようとしたが…。

原作は30ページほどの短編である。'62年の「切腹」はその原作を、名脚本家・橋本忍がいくつかのエピソードを追加して長編シナリオ化し、名匠小林正樹監督が重厚な演出で堂々2時間14分の大作に仕上げ、同年度のキネマ旬報ベストテン3位にランクインされた他、翌年のカンヌ映画祭で審査員特別賞も受賞した、映画史に残る名作である。

私はこれをテレビも含め10数回は観ている。何度観ても圧倒され、ズシンと心に響く。脚本、演出、俳優の演技、撮影(これも名匠・宮島義勇)、音楽(武満徹)、どれをとっても完璧である。映画ファンなら必見である。

本作のプレスでは、「切腹」のリメイクではなく、原作の新たな映画化と謳っている。「十三人の刺客」を成功させた三池崇史監督のこと、さていかなる出来かと期待したのだが…。

(以下ネタバレあり)
なんとまあ、橋本忍の脚本をほとんどなぞっている。井伊家の門前に半四郎が訪れる冒頭、斎藤勘解由の語りに始まり、半四郎の回想を挟んだ全体の構成、最後の大乱闘…と、ほとんど同一脚本と言っても過言ではない。
特に、原作では後ろの方で明らかになる、求女の切腹場面を前に持って来て、しかも原作では詳細が描かれていない、竹光で切腹する残酷なシークェンスを追加したり、これも原作では1行であっさり片付けている半四郎の最期を、怒りに燃えた大乱闘アクションへと展開したり、といった橋本忍がオリジナルで改変し、膨らませた部分がそのまま登場している。
半四郎が井伊家の宝=赤備えの甲冑をぶっ壊す、これも原作にない橋本オリジナルの重要シーンも、若干変えてはいるがちゃんと盛り込まれている…等、これではどう見ても橋本忍脚本のコピーである。

ところが、クレジットのどこにも“橋本忍”の名前はない。これはどうした事か。

脚本クレジットは、“山岸きくみ”一人だけである。これはおかしい。ここまで橋本シナリオをなぞるなら、クレジットは「原脚本:橋本忍、潤色:山岸きくみ」とすべきである。それが偉大なる先人に対する敬意である。

橋本忍の名前を出さないのであれば、原作を橋本シナリオとは違う切り口でアプローチし、橋本忍が改変・追加した部分を極力排除し、独自性を持たせるべきである。
もっともそこまでするには、「座頭市 THE LAST」という昨年度ワーストの駄作を書いた山岸きくみでは力量不足である。あれで彼女の技量が判ったはずなのに、なんでまた懲りもせずこんな大作に起用したのか。他に適任のベテラン脚本家はいるはずなのだが。

さすがにそのまんまでは具合が悪いと思ったか、部分的に橋本脚本と変えてある所もあるが、その変えた部分がどれも面白くない。井伊家と貧乏長屋にそれぞれ対照的な運命の猫を登場させたり、勘解由が食べるサザエと半四郎たちが分けて食べる饅頭といった対比など、あまりに絵に描いたような図式でつまらない。

求女が竹光で切腹するシーンは、橋本+小林「切腹」(以下「切腹」)の方がずっといい。腹に刺さらないのでとうとう体重をかけて竹光にのしかかり、ズブズブと腹に食い込んで鮮血がほとばしる描写は当時としてはショッキングであったし、演出もスピーディで無駄がなかった。本作では時間がかかり過ぎる上に、半分に折れた竹光で刺したのでは衝撃度が弱い。

その後、介錯人の沢潟彦九郎(青木崇高)が、なかなか求女の首を刎ねないので、見かねた勘解由が代わりに介錯するくだりも私には釈然としない。あれでは、勘解由は多少人間的な情を持っている侍、という事になってしまう。
だったら、何故竹光でなく、真剣で切腹させてやらないのか
あるいは、求女が「しばらくの猶予を、必ず戻って参ります」と懇願した時、何故一応理由を聞いてやらないのか。性格付けが中途半端である。

勘解由が、食い詰め浪人なぞ人間と思っておらず、竹光切腹で苦悶する求女の惨状を平然と見下ろしている冷酷な人間であるからこそ、半四郎の井伊家に対する怒りが観客にもダイレクトに伝わるのである。

またこのシーンでは、あまりの凄惨さに彦九郎の腰が引けているように見えるのもマイナス。これでは彦九郎があまり強いように見えず、終盤における半四郎と彦九郎との対決に緊迫感が生れない事となる。
「切腹」では、彦九郎は苦悶する求女を悠然と見下ろし、激痛のあまり求女が舌を噛み切ったのを見届けてから首を刎ねている。ここは彦九郎を演じた丹波哲郎の名演もあって、この男が凄腕の剣の使い手である事が十分納得出来、後半の半四郎との対決シーンが盛り上がるのである。

「切腹」での、仲代達矢と丹波哲郎の決闘シーンは、まるで黒澤明監督のデビュー作「姿三四郎」のラストの決闘を思わせる、風吹きすさぶ草原で行われ、この作品の見どころとなっている。

ラストの大チャンバラ・シーンも含め、これらのアクション・シーンは結構エンタティンメントしており、暗い内容でありながらも観客を楽しませるサービス精神にも溢れていたのである。本作はその辺も気配りが足りない。

ただ、本作ラストの立ち回りでは、「切腹」と異なり、真剣でなく竹光を使った、というのは新しい発想であり、これはこれでアイデアである。それを評価する人も多い。

だが、私にはこれは物足らなかった。
そもそも、橋本忍脚本で、なぜ最後に半四郎が井伊家の家臣たちを斬りまくったのか(「切腹」では死者3名、重傷者8名が出たと語られる)、その意図をきちんと理解しないと、この物語のポイントを見失う事となる。

本作で半四郎が、井伊家の面目を潰す為、“お主らには真剣を使うのもばからしい”とばかりに竹光で闘った、という考えも分からないではない。

だが、半四郎が(あるいは作者が)訴えたかったのは、同じ侍でありながら、一方(井伊家)は驕り高ぶり、他方(改易浪人)は貧窮の淵にあえぎ、恥を忍んで狂言切腹にまで走らざるを得ない、時代の理不尽さに対する怒りである。

一面では、井伊家は強請りに毅然と対応したまで。恨むのは筋違い、逆恨みとする見方もある。
だが半四郎が立ち向かったのは井伊家だけではなく、その背後にある、権力者が作り上げた「武士道」という見えない呪縛そのものなのである。

半四郎は言う。「侍とて人間である」。武士道にも、「武士の情け」があってしかるべきではないか、と問う。
だが、井伊家は、哀れな求女に情けをかけようとはしなかった。竹光切腹で苦悶する求女を、誰も助けようとしなかった。

自分が頑なに守り続けて来た大義=武士道とは、この程度のものだったのか…その怒り、絶望感が、井伊家の全家臣たちへの憎悪と殺意に向かうのも当然なのである。

井伊家にとっては、理不尽な逆恨みであろう。だが半四郎にとっては上記のような結論から、この行動が理不尽である事も、逆恨みである事も十分認識した上で事を起したわけなのである。もはや武士道など、信ずるに足らず。…だから半四郎は、悪鬼となって井伊家の家臣たちを次々と斬り倒して行くのである。

竹光で闘う、というのは、半四郎が、まだ武士の体面、武士道の大義を棄てていない事を示している。これでは中途半端なのである。

おまけに、いきなり雪が降り出す。これもあまり意味がないと思うが。まさか三池作品「スキヤキウエスタン・ジャンゴ」のラストのパロディではないだろうな(笑)。
だいたい雪でせっかくの立ち回りが見えづらい事この上ない。もし3D効果を強調する為にわざわざ入れたのなら、邪道である。

 
「十三人の刺客」
では、稲垣吾郎扮するバカ殿のキャラクター設定が秀逸であったり、首をサッカー・ボールのように蹴る、いかにも三池タッチの描写があったり、豪快で工夫を凝らしたチャンバラ・シーン、さらに「ワイルドバンチ」のオマージュもあったりと、オリジナルを超えた楽しい快作に仕上げていたのに、本作はそうしたエンタティンメント性、過激性が身を潜め、暗く重い作品に留まっていたのが残念である。これでは奇才・三池崇史に監督させた意味がない。

どうせなら、半四郎に徹底的に、バンツマ「雄呂血」のクライマックスに匹敵するくらいの大チャンバラをやらせ、井伊家家臣をほとんど全員斬りまくり、最後に命乞いする勘解由も斬り殺した後、半四郎が壮絶に切腹して果てる……
そのくらいの過激なカタルシスを盛り込んでくれれば、脚本の齟齬など大目に見て、さすが三池崇史監督、と絶賛を惜しまなかったのに。残念である。

 
無論、上記のような評価は私の個人的な思いである。前作「切腹」を観ていなければ、これは十分見応えのある作品である。観ておいて損はない。但し3Dは不要。2Dで十分である。

だが、私の一番の不満は、クレジットに橋本忍の名前がなかった事。この点を配慮出来ておれば、それと3Dなんかに色気を出さなければ、もう少し採点は良くなっていただろう。悪しからず。    (採点=★★

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(さて、お楽しみはココからである)
主演の海老蔵が、孫のいる中年男を演じるには若過ぎるのではないか、という声がある。

そこでクイズだが、「切腹」で津雲半四郎を演じた時の仲代達矢と、本作に出演した時の市川海老蔵とは、どちらが年上か、当てていただきたい。

 

多分、仲代の方が年上だろうと思う人が多いだろう。

で、正解を。海老蔵は現在33歳。それに対して、「切腹」出演時の仲代は、29歳!
つまり、仲代の方が年下なのである。―仲代は 1932年12月13日生まれ。「切腹」公開は1962年。海老蔵は1977年12月6日生まれである。

Seppuku2

上の写真を見比べれば分かるが、どう見ても仲代は初老の中年男にしか見えない。
これは、メイクアップや、本人の役作り等にもよるのかも知れない。前年の同じ小林正樹監督「人間の條件」に出演している時の仲代はもっと若く見える。

従って、海老蔵がこの役を演じても、年齢的には別に問題はない。問題は、40歳くらいに見えるよう、メイクで工夫をするなり、減量して痩せるなりの努力をすべきではなかったかという点である。

この点でも、本作は「切腹」に負けている、と言えるだろう。

 

原作本「一命」(「異聞浪人記」収録)

「切腹」DVD 「切腹」ブルーレイ

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2011年10月13日 (木)

「僕たちは世界を変えることができない。 But, We wanna build a school in Cambodia」

Bokutachihasekai2011年・日本/制作:セントラル・アーツ=配給: 東映
監督:深作健太
原作:葉田甲太
脚本:山岡真介
企画:黒澤満
企画・プロデュース:近藤正岳
プロデューサー:佐藤現、服部紹男

医大生が、カンボジアに学校を建てるため奮闘した実話を、本人が体験記として2008年に自費出版した同名のノンフィクションを映画化。監督は「バトル・ロワイアルⅡ・鎮魂歌」「エクスクロス~魔境伝説」の深作健太。

医大生の田中甲太(向井理)は、友人たちと楽しい大学生活を送っていたが、何か物足りなく感じていた。ある日、海外支援ボランティアのパンフレットの「あなたの150万円の寄付で、カンボジアに学校が建てられます」の文字に目が止まった甲太は、すぐに友人全員に「カンボジアに学校を建てよう!」とメールを送るが、集まったのは級友の矢野(窪田正孝)、芝山(柄本佑)と合コンで知り合った本田(松坂桃李)の3人だけ。それでも彼らはチャリティ・イベント開催での募金集め、カンボジアへのリサーチ・ツァーと行動を起こすが、やがて想像を絶する現実の重さに愕然となる…。

“社会貢献をした人の実話”というのはこれまでも何度か映画化されており、それぞれに感動できるお話である。

だが、それらの物語の主人公は、多くが実物以上に美化されており、“崇高な理念を持った立派な人”のように描かれているのが大半である。その方が、観客が感動するからである。

本作がユニークなのは、主人公甲太は特に強い信念があったわけでもなく、いかにも今どきの大学生らしく、目立たない存在で、口ベタだし、軽いノリで始めたものの、現実の重さに途方に暮れたり、壁にぶち当っては落ち込み、失恋してデリヘル嬢を呼んだりと、およそヒーローとは正反対のヤワな人間である。

これが却って、作品にリアリティを持たせている。どこにでもいる、等身大の普通の人間が奮闘する姿を密着取材した、テレビの報道番組を見ているようである。

現地のガイド役を演じたコー・ブティ氏は、実際に葉田甲太氏を案内した本物のガイドである。そのブティ氏の案内でポル・ポト政権が100万人を虐殺したというキリング・フィールドや、その歴史を保存したツールスレン博物館を甲太たちが訪れるシーンでは、本当に若い俳優たちが衝撃で言葉も出ない様子がカメラに捉えられている。

ブティ氏が、好物の卵も食べられずに死んだ父の話をしているうちに、ポロポロ泣き出し、甲太もたまらず彼を抱き抱えるシーンはこちらも泣けた。これらのシーンはほとんどシナリオなし、リハーサルなしのぶっつけ本番だったという。

過酷な体験を重ねた人の、真実の持つ重みが、圧倒的なリアリティでこちらに迫って来る。

他にも、エイズに冒された女性患者との対面とか、夥しい数の地雷が埋まっている地雷原、その中を走る子供たちの姿など、平和を取り戻したものの、未だ深い傷跡を残すカンボジアの実情に、何度も声を失い、また涙した。

甲太たちが帰国してからの、次々に起きる難題―援助を引き受けてくれたIT企業は刑事告発され、誹謗・中傷でサイトは炎上し、授業には身が入らず単位は落され、サークルも解体寸前に…という展開は、この手の青春奮闘ドラマのお約束パターンである。どこまで実話かは分からないが。

やがて、仲間や周囲の励ましで、甲太は少しづつ元気を取り戻し、どん底から這い上がり、目標に向かって再度突き進む…という展開もやはり青春奮闘ドラマの王道パターンを忠実になぞっており、新味がないと言えばそれまでだが、その分安心して物語に感情移入出来る。

ラストシーンの、カンボジアの子供たちの明るい笑顔が感動的である。…そう言えば、最近観た映画「未来を生きる君たちへ」(スサンネ・ビア監督)も、ラストシーンはアフリカの子供たちの明るい笑顔であった。
この子供たちの未来に希望あれ、と祈らずにはいられない。

 
我々平凡な人間は、いくら理想を掲げても、必死で頑張っても、世界を変えられるものではない。学校と言う入れ物を作ったところで、それだけでは世界は変わらない。タイトル「僕たちは世界を変えることができない」はまさにその通りである。

だが、たとえ一滴の雫でも、池に起した小さな波紋は静かに広がり、それらが共鳴し合えば、大きな波を起す事は出来る。

この映画の主人公のように、平凡な若者が、なんとなく思いつきで始めたボランティアであっても、小さな一滴は、原作を読んだ人たち、映画を観て感動した人たちの中に、きっと波紋を呼び起こすに違いない。そして、“平凡で取り柄のない私たちでも、何か出来るのではないか”と思わせる事が出来たなら、それは大きな意義のある事なのである。

過酷なカンボジアの歴史と現実をドキュメンタルに、克明に捉えつつも、極力暗くならずに、未来への希望を子供たち、若者たちに託し、全体を爽やかで明るい青春ドラマ・タッチにまとめあげた深作健太監督の演出が光る。

 
これまで刑事アクション(「スケバン刑事」)、ホラー・コメディ(「エクスクロス~魔境伝説」)、風俗もの(「完全なる飼育 メイド For You」)と、B級ピクチャーを堅実にこなし、実力をつけて来た深作健太監督にとって、本作はようやく一流監督の仲間入りを果たした、一つの里程標として記憶に残る秀作であると言えるだろう。今後のさらなる飛躍を期待したい。     (採点=★★★★☆

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2011年10月10日 (月)

「とある飛空士への追憶」

Toaruhikuushi2011年・日本/配給: 東京テアトル
監督: 宍戸淳
原作: 犬村小六
脚本: 奥寺佐渡子
アニメーション制作: マッドハウス

原作が発表されるや、評判を呼んでラジオドラマや漫画にもなった犬村小六原作の同名ライトノベルのアニメーション映画化。脚本は本作と同じマッドハウスが制作したアニメ「時をかける少女」「サマーウォーズ」や実写でも昨年の「パーマネント野ばら」、本年も「八日目の蝉」と好調の奥寺佐渡子。

中央海と呼ばれる海を挟んだ帝政天ツ上と戦いを続けている神聖レヴァーム皇国の飛空士シャルル狩乃(神木隆之介)は、次期皇妃ファナ(竹富聖花)を水上偵察機に乗せ、婚約者のカルロ皇子の元へ送り届けるという極秘任務に就く。目的地は敵の領域を横切る1万2,000キロ先。だが出発早々、シャルル機は敵艦隊の待ち伏せに合う。果たして二人は無事目的地にたどり着けるのか…。

…といった具合に、題名からは想像がつかないが、これは山中峯太郎原作の「敵中横断三百里」(古い(笑))を思わせる、波乱万丈、冒険大活劇である(ちなみに、1万2,000kmは3,000里。つまり「母をたずねて」ならぬ「敵中横断三千里」というわけだ)。そうした決死の逃避行を縦糸に、横糸として身分の低い兵士と、高貴な姫との道ならぬほのかな恋模様も描かれる。正に冒険活劇の王道パターンである。

プロダクション・ノートでは「ローマの休日」を下敷にしているとある。なるほど、プリンセスと庶民の恋とくれば、いやでも同作を思い出すが、私はむしろ”姫を守っての敵中横断大冒険”というストーリーから、黒澤明監督の傑作「隠し砦の三悪人」を思い起こした。無事姫を送り届ければ“黄金”が褒賞として与えられる点でも共通する。
ただし、“道中を続けるうちに、卑しい出身の若者と、姫との間にほのかな恋が生れる”という本作のポイントを見れば、これはむしろ黒澤作品よりも、それをリメイクした樋口真嗣監督の「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」の方にストーリー展開は近い。まあ男女二人が力を合わせて敵中を突破する、というお話は、H・ボガートとK・ヘップバーン主演の「アフリカの女王」を始め、枚挙にいとまはないのだけれど。
ちなみに、山中峯太郎原作「敵中横断三百里」は、黒澤明が戦前に小国英雄と共同で脚本を書くも映画化に至らず、ようやく昭和32年に大映で映画化(監督は森一生)された、という事実も知っておくと興味深い。

閑話休題。さて本作であるが、これが意外に面白かった。こういうストーリー展開なら、面白くならないはずがないのだが、敵艦隊や敵戦闘機との大空中戦バトルも、CGを巧みに生かして、スリリングかつダイナミックに描いており、飛行機ファンならワクワク・ハラハラ、アドレナリンが高まる事請け合いである。

メカデザインも、天ツ上軍の戦闘機は、第二次大戦中の旧日本海軍の戦闘機「震電」をモデルにしており(ただ、名称が「真電」と、同じ読みなのはどうかと思う)、これを見るだけでも戦闘機マニアには垂涎ものである。シャルルの操縦する水上偵察機は、これも旧日本海軍の雷撃機(機種不明)にやや似ているが、面白いのは車輪がついている上に、折りたたみ式フロートも備えている水陸両用機であるという点で、これも飛行機マニアの心をくすぐる。さらに燃料は海水から精製した水素ガスを使っているので、充填に一晩かかるものの、燃料補給が不要であるというのも面白い。これによって、1万2,000キロを航行する間の燃料補給はどうするのか、というストーリー上の難関をクリアしている。まあご都合主義と言えなくもないが(笑)大目に見よう。

(以下ネタバレあり)
そしてポイントとしては、最初は内気で控えめだったファナが、シャルルとの二人旅で、敵との遭遇・逃避行という苦難を乗り越えて行くうちに、シャルルを信頼し、時には励まし、二人の絆を深めて行き、やがては気丈で自己主張する、逞しい王妃へと成長して行く物語にもなっている点が挙げられる。深手を負ったシャルルを一人で陸に担ぎ上げ、包帯を巻いて看病するという、生れて初めての経験をし、一時は王妃の座など投げ出して自由な生活をしたいと望み(ここらは、ファナが髪を短く切るシーンも含め「ローマの休日」からの応用)、酒の勢いも借りて自分をさらけ出す辺りも悪くはない(ここで、出発時に餞別として差し入れられた酒が伏線になっているのはうまい)。

目的地間近でのシャルル機と敵のエースパイロット、千々石との、まるで騎士同士の決闘のようなドッグファイト・シーンもスリリングで見ごたえがある。ここでシャルルの合図に合わせ、ファナが後部座席の機銃を乱射するシークェンスは、二人が一心同体で力を合わせ、危機を乗り越えると同時に、二人の心がシンクロした事をも併せて示しており、見事な展開である。

そして最後、ファナとシャルルの別れのシーンも切ない。ファナへの断ち切りがたい思いにかられながらも、シャルルは任務を果たすべく、レヴァームの母艦にファナを引き渡す。意地悪なレヴァームの高官は、どうせ報酬に目がくらんだのだろうと言うが、本当の所は「ローマの休日」と同様、ファナには、“王妃としてこの国を統治する大切な役目がある”事を何より理解していた故だろう。

ここで渡される報酬が金貨でなく、砂金であるのが不思議だったが、ラストを見て納得。空中から降り注ぐ砂金の雨は、シャルルの行動が報酬目当てではない事を示すと同時に、それがファナの将来を祝福する花吹雪のようにも見えて感動的である。見事。

アクションに興奮し、切ない恋模様に心ときめき、爽やかな幕切れに感動出来る、予想以上に楽しめた作品である。

 
…と一応褒めておくが、欲を言えば、やや描き足りない部分もいくつかあり、傑作とは言い切れないのが残念である。惜しい。

原作ではきちんと描かれているのだろうが、シャルルが身分が低いにも係わらず、大役に任命された理由が判り辛い。セリフでは説明されているが、説得力ある画で見せるべきではなかったか。オトリとなった味方軍がその後どうなったかも不明である。
また、カルロ皇子が率いているはずの、レヴァーム軍の戦闘部隊がまったく登場しないのも物足りない。天ツ上軍の圧倒的戦力だけが目に付き、これでレヴァーム国は戦争に勝てるのだろうかと、つい思ってしまう。

せめて冒頭の掴みで、同僚も敬服するシャルルの見事な操縦テクニックを見せておき、それを見た軍の上層部が彼に注目する…という描写は入れておくべきではないか。

この所好調の 奥寺佐渡子脚本にしては、詰めが甘い出来である。演出にも問題があるのかも知れないが。

とは言え、観ている間は十分楽しめた。目だった収穫のない本年のアニメの中では力作の部類に入るだろう。
ミニシアターでひっそりと公開され、観客もあまり入っていないようだが、売り方次第ではもっと観客を呼べる作品であるのに、もったいない。是非多くの人に観て欲しいと思う。    (採点=★★★★

(付記)
細かい突っ込みで申し訳ないが、登場する航空機が、第二次大戦を思わせるプロペラ機ばかりなのに、敵の発射するミサイルが、近代装備である“自動追尾機能”付きなのは不思議。まあ舞台がパラレルワールドだからそれは許すとしても、技術的な疑問として、プロペラ機をどうやって追尾出来るのだろうか。素人知識で間違ってたら申し訳ないが、そもそも今のミサイルが追尾出来るのは、ジェット・エンジンの排気熱に含まれる赤外線を感知するから、と記憶しているが。
この辺り、映画の中で説明があれば納得出来るのだが(無理?(笑))。

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(で、お楽しみはココからだ)

本作を注意して見ると、宮崎駿作品へのオマージュも感じられる。以下いくつか挙げておきたい。

まず、巨大なプロペラが何枚も重なった敵飛行船のデザインが、「天空の城ラピュタ」に登場するゴリアテ号(下)によく似ている。見るからに宮崎デザインである。

Goriate

シャルルとファナが偵察機の中で、伝声管を通じて語り合うシーンも「天空の城ラピュタ」の、パズーとシータが狭い偵察機の中で語り合うシーンを髣髴とさせる。

シャルルが操縦する水上偵察機、サンタ・クルス号がフロートを出し、水上を滑空するシーンは、「紅の豚」に登場するポルコの愛機を思い出させる。
そう言えば、飛行艇を係留した島で、ランタンの灯りの下で、ポルコとフィオが語り合い、フィオがポルコを好きになって行く、という本作と似たシーンもあった。

そして、高貴な姫と、庶民の男とがいつしか心を寄せ合う、という展開は、「ルパン三世・カリオストロの城」とも共通する。
姫は男の為、身分を捨ててもいいと願い、男は姫を心の中で愛しながらも、姫の将来を思い、身を引くというオチも、「カリオストロの城」と同じである。

…それにしても、思えば上記作品の頃の宮崎駿作品って、どれも血湧き肉踊る面白い冒険大活劇ばかりだったなあ。本作に宮崎テイストを感じるのも、ゆえに当然なのかも知れない。

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