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2011年11月28日 (月)

「ミッション:8ミニッツ」

Sourcecode2011年・アメリカ/配給: ディズニー
原題: Source Code
監督: ダンカン・ジョーンズ
脚本: ベン・リプリー
製作: マーク・ゴードン、フィリップ・ルスレ、ジョーダン・ウィン
製作総指揮: ホーク・コッチ、ジェブ・ブロディ、ファブリス・ジャンフェルミ 

デビュー作「月に囚われた男」で注目を集めた、イギリス出身のダンカン・ジョーンズ監督の第2作。彼のハリウッド進出第1作でもある。主演は「ブロークバック・マウンテン」「ゾディアック」のジェイク・ギレンホール。

列車の中で目を覚ました、コルター・スティーブンス(ジェイク・ギレンホール)は、見知らぬ女性クリスティーナ(ミッシェル・モナハン)から親しげに話しかけられ当惑する。数分後、突然列車内で大爆発が起きるが、気が付くと狭いコックピットの中におり、やがてモニターに現れた米軍特殊機関のグッドウィン大尉(ヴェラ・ファーミガ)が、驚くべき事実を告げる。今朝、テロによる列車爆破事件が起きたが、軍の開発したソース・コードと呼ばれる特殊装置を使えば、列車に乗り合わせたある犠牲者の、事件発生8分前の意識に入り込み、その人物になりすませるのだという。コルターは8分のタイムリミットの内に犯人を見つけ出し、第2のテロを防止するという困難な任務を遂行する事となるが、その裏にはさらに驚くべき真実が隠されていた…。

前作もユニークなSF作品の佳作であったが、本作も謎が幾重にも絡められ、SFともファンタジーとも区分しにくい、一筋縄では行かない作品である。“映画通ほどダマされる”とキャッチコピーにあるが、確かに、“あの映画で見たのと同じネタだな”と思っていると、実はそれとは違う方向に進んで行く、と言う点では当っているだろう。

 
(以下ネタバレあり。未見の方は読まないでください)

“大規模なテロ事件が起き、政府の開発した極秘装置を使って、過去の時間帯に遡って事件を探索する”というストーリーを見ると、2007年に公開されたデンゼル・ワシントン主演「デジャブ」を思い出してしまう。前に観たような作品だな、と考えてしまう点ではまさに“デジャブ”だ(笑)。

「デジャブ」では、4日以内であればどんな時間帯にも、どんな場所にも行けたのに対し、こちらの場合は、時間は爆破直前の8分間、場所は列車の中だけ、と極めて限定されている。その代わりに、何度でもリセットして8分間を繰り返す事が出来る。

コルターは、運命の8分間において、何度か失敗を繰り返しながらも、次第に犯人に近づいて行く。

よく考えると、1回目から既に犯人を特定する伏線が巧妙に仕掛けられている(ヒントは札入れ)。うまい脚本である。

8分間を何度も繰り返すうちにコルターは座席に向かい合っている女性、クリスティーナに次第に好意を寄せて行くようになる。

コルターの尽力でやっと犯人を見つける事が出来、第2のテロを未然に防ぐ事には成功するのだが、最初の列車爆破事件は既に行われており、従ってクリスティーナは事故で死んでしまっている。コルターが見る8分間の世界は、あくまで“コンピュータ内の仮想現実”(言わば「マトリックス」のような世界)であり、過去の現実は変えることは出来ない。

だが、クリスティーナを愛してしまったコルターは、グッドウィン大尉に頼み込み、8分間の仮想現実世界の中で、爆破そのものを阻止する、という掟破りの行動を取ろうとする。

8分間の中では、コルターはどんな行動でも取れる、のであれば、爆破を阻止してしまったら、どんな事が起きるのだろうか。

ここで、物語はまったく意外な方向に進んで行く。

8分間におけるコルターの行動によって、本来判らなかったはずの犯人の特定という現実世界の歴史も変えてしまった、のは確かなのだが、映画は、最後の8分間でコルターが爆破を阻止したので、現実世界でも列車爆破はなかった事になってしまうのである。

つまりは、いつの間にか「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のように、“過去の歴史を変えたので、現在の状況も変わってしまう”事となるのである。あの8分間は仮想現実ではなく、“タイムマシンで行った過去の世界”だという事になってしまっているのである。

そう思えば、「デジャブ」でも最初は過去の世界を覗き見ていただけなのに、後半は過去の歴史を変えて、本当は死んでしまっている女性の命を救おうとする、本作ともよく似た展開となる。あっちも結構掟破りであった(笑)。

こうした、途中から別の方向に作品世界を捻じ曲げてしまう展開は、ヘタな監督にかかれば開いた口が塞がらないトンデモSFになってしまう所(悪い例が「フォーガットン」(笑))なのだが、ダンカン・ジョーンズ監督は、クリスティーナに寄せるコルターのひたむきな思いを丁寧に描く事によって、むしろ“運命だと諦めてはいけない。自分の信念に従い行動すれば、自ずと運命は切り拓けるものである”という、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」以来お馴染みの、最近では「アジャストメント」にも登場したパターンの、奇跡のファンタジー系作品として成功させているのである。

ラスト(シカゴ駅のシーン)はいろんな解釈が出来るだろう。現実のコルターは[事故で肉体を損壊し、ポッドの中でしか生きられない体]なので、クリスティーナと幸せそうにモニュメントを見つめるコルターの姿は、仮想現実…つまりは夢の中の世界でしかないのだ、と見る事も出来る。この世界では、クリスティーナは死んでいるし、コルターの将来も悲惨である。

もう一つの解釈は、8分間の中で彼が乗り移った“ショーン・フェントレス”という名の男の脳内に、そのままコルターの意識が住み付き、爆破事件を回避した後もコルターはずっとショーンとして、パラレルなもう一つの世界でクリスティーナと幸福に暮らす、というハッピーエンディングである。

後者の方は、本当はあり得ない展開なのだが、悲惨な前者よりは、後者の方がずっと望ましい幸福な未来である。…そうあって欲しい、という願望が生んだ、これは例えばジョージ・シートン監督の「三十四丁目の奇蹟」(1947)以来、アメリカ映画に脈々として受け継がれて来た、願望が奇跡を巻き起こす幸福のファンタジーの1本、と解釈すべきなのだろう。

 
上に挙げたように、この映画はいくつもの過去の素敵な映画を思い起こさせてくれる。そういう意味ではこれは、“映画通ほどダマされる”のではなく、“映画通ほど素敵な気分に浸れる”作品なのである。いや、コピーに従うなら、“映画通ほど、嘘と分かってて、ダマされてあげる”作品と言うべきなのかも知れない。

ダンカン・ジョーンズ監督、もはやデヴィッド・ボウイの息子なんて肩書は不要、立派な一流監督の仲間入りである。次作がますます楽しみである。     (採点=★★★★☆

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2011年11月24日 (木)

「恋の罪」

Guiltyofromance2011年・日本/配給:日活
監督:園 子温
脚本:園 子温
製作:鳥羽乾二郎、大月俊倫
企画:國實瑞惠
プロデューサー:千葉善紀、飯塚信弘

「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」の鬼才・園子温監督が、十数年前に東京のラブホテル街で実際に起きた殺人事件をベースに描く問題作。水野美紀、冨樫真、神楽坂恵の3人の女優がそれぞれに体当たりの熱演で魅せる。

どしゃぶりの雨の日、渋谷区円山町にある廃アパートで女性の凄惨な変死体が発見される。事件を担当する事となった刑事の和子(水野美紀)は、被害者の身元を調べるうちに、大学のエリート助教授・美津子(冨樫真)と、人気小説家・菊池由紀夫(津田寛治)の妻いずみ(神楽坂恵)という2人の女性の存在にたどり着く…。

いつもながら、園子温監督の作品は目まいがするほど過激で強烈だ。前作「冷たい熱帯魚」では殺人、人体解体というグロテスクな描写に圧倒されたが、本作ではエロティシズムが全面展開、3女優がヘア丸出しで過激なセックスシーンに挑んでいる。しかしそこで描かれるのは、女という存在の心の闇と謎、人間という生き物の不可思議さである。

映画のモデルとなっているのは、「東電OL殺人事件」として知られる、1997年に起きた殺人事件であるが、舞台が渋谷区円山町のラブホテル街である事と、被害者が昼間はエリート、夜は売春婦という二重の生活を送っていた、という点以外に共通性はなく、後は園監督が自由に物語を膨らませている。

(以下ネタバレあり)
中心となるのは、すべてである。売れっ子小説家の貞淑な妻いずみは、一見幸せそうだが、心は何か満たされていない。外に出てアルバイトを始め、次にAV撮影の仕事に誘われ、身も心も大胆になり自己を解きほぐして行く。

昼間は大学で文学の講義をする美津子は、夜はデリヘルで売春行為という二重生活を送っており、彼女がこの物語で一番不可解な人間である。
いずみは、ふとしたきっかけで美津子と出会い、その強烈な生き様に惹かれ、美津子と共に売春稼業にも手を染めて行く。

殺人事件を捜査する刑事・和子も女性であり、女性の視点からこの猟奇事件を追って行く。

そして後半に登場する美津子の母・志津(大方斐紗子)がまた強烈な存在感を示す。
穏やかな物腰ながら、ネチネチと美津子を責め、美津子も「クソババァ、早く死ねよ!!」とやり返す。それを平然と受け流し、傲然と構える志津は、まさに妖怪婆あである。

互いに、憎しみ合いながらも、それでも簡単には離れられない。男の場合と異なり、女は“”として、自らの体(母体)から分身の如く生命を産み出した強みがある。血の絆は断ち切ろうとて断ち切れないのである。

登場人物たちは、それぞれに表の顔と、それとは別の裏の顔を持っている。象徴的かつ一番エクセントリックなのは、エリート大学助教授と売春婦という、まるで両極にあるかのような顔を持つ美津子であるが、いずみもまた貞淑な妻という表の顔の下に、やがて淫乱な堕天使という裏の顔を獲得して行く。
刑事の和子も、裏では不倫に溺れているし、表の顔は売れっ子小説家であるいずみの夫ですらも、やがては売春婦を買う裏の顔が暴露されて行く。

人間とは、かくも複雑で、表向きは平常に見えても、仮面の下に得体の知れない魔性を抱えた、悲しい存在なのである。

 
ところでもう一つ、本作は園監督の前作「冷たい熱帯魚」とは、表裏一体の関係があるように見える。

前作の村田(でんでん)も、表の顔は温厚で人望のある経営者であるが、裏の顔はおぞましい狂気の殺人者である。本作の美津子の二面性とも似通っている。

その村田に、いつの間にか魅入られたように近づいて行き、その片棒を担がされる社本(吹越満)は、本作でのいずみの立場と共通するものがある。
村田は社本に、「お前はまるで昔の俺だ」と言い、怖気づく社本に「そんな弱気でどうする!」と叱咤するのだが、これも美津子の「おまえはわたしのとこまで堕ちてこい!」といずみに投げかけるセリフとの共通性を感じる。

さらに、これは私が前作の評で書いた事だが、村田が狂気の殺人鬼となった要因には、彼の父親の影響があるのではないかと感じたのだが、本作ではまさに、美津子の狂気の原因が、彼女の母にあった事が明示されている。

前作では、子による父殺しがメタファーとして隠されていると感じたが、本作では[母による子殺し]という、まるで前作の逆パターンが展開される。

ラストが、共に“ナイフによる自殺”で物語が閉じられるのも、偶然ではないだろう。両作品をじっくり見比べてみるのも面白いかも知れない。

ただ、エンドロールにおける和子の行動は、やや蛇足に感じる。本作のテーマとは乖離しているように思う。ない方が前記ラストシーンの余韻も残り、すっきりまとまったのではないか。そこがやや残念。

ともあれ、これはいかにも園子温らしい、強烈な毒が充満したまさに園子温ワールド。受け付けない人もいるかも知れないが、園ワールドに魅入られた人にはこの毒気がたまらない。毒を食らわば皿まで。とことん付き合わせていただこう。

それにしても、1月公開の「冷たい熱帯魚」で幕を開け、「恋の罪」が11月から年末にかけて公開されている2011年。まさに今年は園子温で明け暮れた1年、と言えるのではないか。来年は東北大震災も絡む「ヒミズ」が待機している。ますます園子温から目が離せない。    (採点=★★★★☆

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2011年11月15日 (火)

「ランゴ」

Rango2011年・アメリカ/配給:パラマウント
原題:Rango
監督:ゴア・ヴァービンスキー
脚本:ジョン・ローガン
製作:ゴア・ヴァービンスキー、グレアム・キング、ジョン・B・カールズ
製作総指揮:ティム・ヘディントン

「パイレーツ・オブ・カリビアン」のゴア・ヴァービンスキー監督によるフルCGアニメーション。SFX工房の最大手ILMが初めて手掛けた本格長編CGアニメでもある。

人間のペットとして飼われていたお調子者のカメレオン、ランゴ(ジョニー・デップ)は、飼い主と車で移動中に事故に遭い、砂漠の中に放り出されてしまう。途方に暮れる彼は、やがて寂れた荒野の町“ダートタウン”にたどり着く。酒場に立ち寄った彼は、口から出まかせに武勇伝を得意げに語ると、いつの間にか町の保安官に任命されてしまう。しかしやがてその嘘がばれて…。

…と、舞台も物語もまるまる西部劇。しかも、アオリ気味のロングショットと顔のアップのカットバック、といった演出スタイルからして、セルジオ・レオーネ監督を中心としたマカロニ・ウエスタンの匂いが芬々。後で述べるが、過去の西部劇映画からの引用シーンも多い。「カウボーイ&エイリアン」に続いて、またまた西部劇オマージュ作品の登場だ。西部劇ファンにとっては嬉しい限りである。

主人公の名前、“ランゴ”は、マカロニ・ウエスタンの傑作「続・荒野の用心棒」(66)の主人公ジャンゴのもじりだろうとは気が付く人も多いが、マカロニ・ウエスタンには他に、“リンゴ”(RINGO)もよく使われているのである。
まず1965年、ジュリアーノ・ジェンマの出世作となった、原題が“リンゴのピストル”なる作品(本邦未公開。テレビ放映題名「夕陽の用心棒」)が作られ、続いて同年、同じ監督(ドゥッチオ・テッサリ)・主演で、やはりリンゴが主人公の「続・荒野の1ドル銀貨」(原題“リンゴの帰還”)が公開される。66年には別主演者による「リンゴ・キッド」(監督セルジオ・コルブッチ!)も作られている。
つまり、“ランゴ”は、共にマカロニ・ウエスタンによく登場する、リンゴジャンゴを合成した名前なのである。本作がマカロニ・ウエスタン・オマージュであるのはこれらからも分る。
ちなみに、“リンゴ・キッド”の原典は、ジョン・フォード監督の名作「駅馬車」(39)でジョン・ウェインが演じた主人公の名前である。

CGで描かれたリアルな西部の風景も素晴らしいが、ジョニー・デップの動きをモーションキャプチャーでトレースさせたランゴの演技が実に自然で素晴らしい。ILMの高い技術が如何なく発揮されている。声優もデップが務めている。

このランゴが、保安官に任命され、町の人から正義のヒーローと期待されるものの、あっさり化けの皮がはがれ、失意のままに町を追放されるが、やがて自分を見つめ直し、最後に本物のヒーローとして町に戻って来る、という展開も、まさに王道パターンで安心して楽しめる。

そのきっかけとなるのが、砂漠でランゴが出会う“西部の精霊(Spirit of the West)”であるのだが、これがポンチョ姿に葉巻きの、まさにマカロニ・ウエスタンで大スターに躍進した、あの人なのにはもう感激。顔も、声もそっくりである。

中盤には、水を積んだ幌馬車の大チェイスという、西部劇では定番のスリリングなアクションも用意され、見ごたえ十分。このシーンに、「地獄の黙示録」でお馴染みの「ワルキューレの騎行」が流れるのも楽しい。

そしてラスト、町の中央通りに、砂塵の中からランゴが姿を現すシーンは、まさに西部劇のクライマックスそのままでカッコいい。

 
主人公をカメレオンとしたのが出色である。周りの色に合わせるだけで、自分の色を持たなかった意気地なしの男が、やがて自立し、“自分自身の色”(アイデンティティー)を獲得して行くわけで、これは主人公の成長の物語にもなっているのである。

また、大切な水をめぐる争奪戦と、町の実力者によって隠された陰謀、という背景も、水を石油に置き換えれば、現代の中東問題の暗喩になっているのかも知れない。

一見コメディだが、バックグラウンドは意外に奥が深い。西部劇オマージュも含めて、これは小さな子供よりも、大人こそが楽しめる快作なのである。西部劇ファンは特に必見。

「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズで知られるヴァービンスキー監督だが、こんなに古きよき時代の映画へのリスペクトに満ちた、コアな映画ファンを楽しませてくれる作品を作る人とは思わなかった。次回作が目を離せなくなって来た。    (採点=★★★★

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(さて、お楽しみはココからだ)

本作には、いくつかの西部劇オマージュが含まれているが、ここではあまり知られていない作品からの引用を取り上げてみたい。

(1)中盤の、水が詰まった巨大なビンを幌馬車で移送し、それを狙う一団との追いつ追われつの爆走シーン。

これは多分、ジョン・スタージェス監督の大作西部劇「ビッグトレイル」(1965)へのオマージュではないかと思う。

物語は、町の酒が底をついた為、遠くから40樽ものウイスキーを幌馬車で輸送しようとするが、それをめぐってインディアンや騎兵隊、禁酒運動を進める婦人団体等も巻き込んだてんやわんやの大騒動を描いたアクション・コメディで、なんと大都市ではシネラマ方式で上映された。

馬車の追跡アクションは西部劇にはよく登場するが、一味違うのが、運ぶものが大量の酒である点で、本作の水の輸送を思わせる。手綱を握っているのはこちらも女性であるし(下のプログラム表紙参照)。
Bigtrail2

さらに最後に、手違いから大量の酒が流砂に飲み込まれてしまう事となる。せっかく苦労して運んだのに、徒労だった、というオチも本作と共通する。
ついでにこれは、本作のラストの、地下から水が溢れ出るシーンの逆パターンにもなっている。

バート・ランカスター、リー・レミック、マーティン・ランドーが共演し、監督も「荒野の七人」「OK牧場の決闘」などで知られる、西部劇映画の巨匠ジョン・スタージェス、とメンツは揃っているのに、今ではほとんど忘れられている作品で、DVDも出ていないのは、スタージェス演出がコメディに向いていなかったせいでもあろうか。

ただ、クライマックスのシネラマ画面に繰り広げられる幌馬車大爆走シーンはなかなか壮観で、一番の見どころとなっている。忘れられてしまうにはもったいない、とヴァービンスキー監督らがオマージュ捧げたくなる気持ちも分るのである。

 
(2)次に、本物と間違われたにせ者が、最後に奮闘し、本物のヒーローとなる展開は、ジョン・ランディス監督「サボテン・ブラザース」などいくつか作られているが、その原型となった作品がマカロニ・ウエスタンにある。

それが、「進撃0号作戦」(1973)という作品。監督は前述の「続・荒野の用心棒」セルジオ・コルブッチである点も要チェック。

Shingeki0gou_3
メキシコ革命が舞台で、ヴィットリオ・ガスマン演じる劇団の役者と、パオロ・ヴィラッジョ扮する神父が、奇妙な友情に結ばれ、革命のさ中に右往左往するコメディで、ガスマンが政府軍に命じられ、にせ者のサパタを演じる事となるが、最後に勇気を奮い起し、命がけで政府軍に抵抗し死んで行く、というお話で、ヴィラッジョの腕の中で微笑みながらこと切れるラストが泣かせる、拾い物の佳作であった。
ちなみに本作はコルブッチ監督の「ガンマン大連合」「豹/ジャガー」と並ぶ「革命3部作」として、マカロニ・ウエスタン・ファンには根強い人気がある。但し厳密には本作はウエスタンではないが。

“にせ物を演じていた男が、最後に本物のヒーローとなる”という展開のパターンは、これ以前にはあまり記憶がない。「サボテン・ブラザース」もメキシコが舞台であるのは偶然ではない気がする。そう言えば、「サボテン・ブラザース」の主人公たちも役者だった。

ただ、有名な俳優が出ていないせいもあるが、この作品はほとんど宣伝もされず、従って興行的にも惨敗し、以後ソフト化もされていない、今では幻の作品である。捨て難い魅力を持つ佳作であるだけに、是非DVD化を切望したい。

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2011年11月 6日 (日)

「カウボーイ&エイリアン」

Cowboysaliens2011年・アメリカ/配給: パラマウント
原題: Cowboys & Aliens
監督: ジョン・ファブロー
原作: スコット・ミッチェル・ローゼンバーグ
脚本: アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー、デイモン・リンデロフ
製作: ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー、スコット・ミッチェル・ローゼンバーグ
製作総指揮: スティーブン・スピルバーグ、ジョン・ファブロー、デニス・L・スチュワート、ボビー・コーエン、ライアン・カバナー

19世紀の開拓時代の西部に宇宙人が現れ、それに立ち向かう西部の男たちとの間で繰り広げられる戦いを描いたアクションSF西部劇(?!)。
主演は「007」シリーズのダニエル・クレイグと「スター・ウォーズ」「インディ・ジョーンズ」シリーズのハリソン・フォードの豪華顔合せ。なお、プロデューサー陣もS・スピルバーグとロン・ハワードがタッグを組むなどこちらも豪華である。

1873年、米アリゾナ。荒野の中で目を覚ました男(ダニエル・クレイグ)は記憶をなくし、腕には見慣れない機械の腕輪をはめていた。男は近くの町にたどり着くが、そこは広大な牧場を持つダラーハイド大佐(ハリソン・フォード)が支配する町だった。やがて男は、お尋ね者、ジェイク・ロネガンである事が判明する。そんな時、突如として町に未知の敵が襲来し、ダラーハイド大佐の息子を含む多くの人々をさらって行った。ジェイクのはめた腕輪が敵を撃退できる唯一の武器であることから、ジェイクはダラーハイドとともに敵を追跡することになる…。

西部劇とエイリアン侵略ものとをドッキングした、という内容を聞いて、こりゃマンガだな、と想像したのだが、案に相違して、西部劇の部分はちゃんとした正統西部劇へのオマージュになっていた。西部劇の部分だけではであるが。

冒頭、ダニエル・クレイグ扮する謎の男がならず者たちに囲まれるが、あっという間に片付ける出だしからしてマカロニ・ウエスタン・タッチである。

やがてこの正体不明の男が馬に乗って、とある西部の街にやって来る―という場面も、クリント・イーストウッド監督・主演の「荒野のストレンジャー」等のいくつかの西部劇を思い起こさせる。

この街が横暴な権力者に牛耳られ、その息子が出来が悪くて、父の威光を借りてトラブルばかり起しているという設定は、ジョン・スタージェス監督の正統西部劇「ガンヒルの決闘」とそっくりである。

その他、スウィング・ドアのある酒場、ガンベルトにテンガロン・ハットのカウボーイたち、治安を司るシェリフ、留置所のある保安官事務所…と、西部劇ファンには既視感のある場面ばかり。これだけでも懐かしくて頬が緩んでしまう。
横暴な権力者ダラーハイドと流れ者ジェイクが対立し一触即発となる、という展開もまさに西部劇。

さらにはエイリアンの本拠に向かう途中で、無法の強盗団一味とか、アパッチ族とかの、これまた西部劇ではお馴染みの一群も登場する。

まあとにかくこういった具合に、いろんな西部劇的要素がこれでもかとてんこ盛り。…とここまではいい。

 
(ここからネタバレがあります。注意)

この強盗団一味(実はジェイクはこの強盗団のボスであった事が判明する)、街を牛耳るボスインディアン(と今は言わずにネイティブ・アメリカンと言うのだそうな)…これらが連合軍となって力を合せ、強敵エイリアンと戦うわけなのだが、よく考えればこの3者、かつての(古き良き時代の)西部劇では、いずれも悪役だった連中ばかりである(インディアンは時代の変化と共に立ち位置が変わってしまったが)。
こいつらが力を合せて街の平和を守りました、と言われても、なんかピンと来ない。悪党団のボスだったジェイクが、最後には正義のヒーローみたいな顔をしてるのには、なんとも困ってしまうのである。

謎が判明すれば、主人公は実は悪人グループの一味だったと判り、最後はいつの間にか善玉になってしまう、という展開は、リーアム・ニーソン主演の「アンノウン」とそっくりである。奇しくも、あちらも主人公は記憶を失っていた。これは偶然なのだろうか。

まあそんなわけで、せっかく前半は西部劇の雰囲気を残してていい感じだったのに、エイリアンとの戦いが始まる後半は、何ともグチャグチャ。気分台無しである。

一番の疑問。
エイリアンははるばる地球までやって来たばかりか、センサー付きの高性能腕輪型兵器を作るくらいの、すごく高度な知能を持っているはずなのに、なんで人類連合軍を襲う時は素手で、武器を持っていないのだろうか。

そして本作に限らず、エイリアンたちは何故いつも、宇宙服も装着せず、まるハダカなのだろうか。
特に、スピルバーグ製作のエイリアンものは、友好的・好戦的に係わらず、ことごとくそうである(「未知との遭遇」「E.T.」、今年の「スーパーエイト」しかり)。

エイリアンたちのいた星とは、空気成分も違うだろうし、細菌感染が命取りになる可能性もある、と言う事はH・G・ウェルズ原作「宇宙戦争」で実証済みだろうに(そう言えば最新リメイク「宇宙戦争」もスピルバーグ作品だった)。たまには、気密服にボンベを背負ったエイリアンが登場してもいいのではないか。

そういう突っ込みどころは別にしても、せっかく西部劇要素を盛り込んでいるのだから、クライマックスの対決も、西部劇からのオマージュを入れて欲しかった、と西部劇ファンは思う(例えば、エイリアンに囲まれて死を覚悟した時、ラッパの音が聞こえて騎兵隊の大群が救援に駆けつける…てなシーンを入れてくれたら大喜びするのだが(笑))。

 
冒頭にも書いたが、西部劇の世界にエイリアン侵略SFパターンを突っ込んだ時点で、あまりにバカバカしい設定で笑ってしまう。従って、それなら徹底してパロディ満載、西部劇オマージュてんこ盛りのお遊び作品にした方が気楽に楽しめたのではないか。変に深刻なシーン(身内が殺され悲嘆に暮れたり、オリビア・ワイルド扮する善玉エイリアンが爆弾抱いて特攻したり)なんかは、ない方がよかったのではないか。

そういう点では、同様の人類側連合軍対エイリアンもの「モンスターVSエイリアン」は最後までパロディ満載で大笑いしつつ、感動的なシーンもあり、十分に楽しい作品であった。本作に関しては方向性を間違えた気がする。

まあ、派手なアクションやサスペンスは適度にあるし、CGによるエイリアン(てかありゃモンスターでしょう)の不気味さと暴れっぷりは見ものだし、ダニエル・クレイグやハリソン・フォードが思ったより西部劇世界に溶け込んでいたりで、そういう所だけ観てればそこそこ楽しめる作品ではある。

そうそう、「スター・ウォーズ/EP・Ⅳ」(1977)で、ハリソン・フォード扮するハン・ソロが、西部劇のような出で立ち(黒いベスト)で、サルーンでテーブルの下から銃を撃って相手を倒す、という西部劇パロディ・シーンがあったのを思い出した。あれもSFでありながら、西部劇のみならず、戦争もの、海賊もの、ターザンもの等々いろんなB級アクションのパロディてんこ盛りで、本当に楽しかったなぁ。
あんな作品をこそ、作って欲しいとスピちゃんにはリクエストしておこう。    (採点=★★★

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