「ミッション:8ミニッツ」
2011年・アメリカ/配給: ディズニー
原題: Source Code
監督: ダンカン・ジョーンズ
脚本: ベン・リプリー
製作: マーク・ゴードン、フィリップ・ルスレ、ジョーダン・ウィン
製作総指揮: ホーク・コッチ、ジェブ・ブロディ、ファブリス・ジャンフェルミ
デビュー作「月に囚われた男」で注目を集めた、イギリス出身のダンカン・ジョーンズ監督の第2作。彼のハリウッド進出第1作でもある。主演は「ブロークバック・マウンテン」、「ゾディアック」のジェイク・ギレンホール。
列車の中で目を覚ました、コルター・スティーブンス(ジェイク・ギレンホール)は、見知らぬ女性クリスティーナ(ミッシェル・モナハン)から親しげに話しかけられ当惑する。数分後、突然列車内で大爆発が起きるが、気が付くと狭いコックピットの中におり、やがてモニターに現れた米軍特殊機関のグッドウィン大尉(ヴェラ・ファーミガ)が、驚くべき事実を告げる。今朝、テロによる列車爆破事件が起きたが、軍の開発したソース・コードと呼ばれる特殊装置を使えば、列車に乗り合わせたある犠牲者の、事件発生8分前の意識に入り込み、その人物になりすませるのだという。コルターは8分のタイムリミットの内に犯人を見つけ出し、第2のテロを防止するという困難な任務を遂行する事となるが、その裏にはさらに驚くべき真実が隠されていた…。
前作もユニークなSF作品の佳作であったが、本作も謎が幾重にも絡められ、SFともファンタジーとも区分しにくい、一筋縄では行かない作品である。“映画通ほどダマされる”とキャッチコピーにあるが、確かに、“あの映画で見たのと同じネタだな”と思っていると、実はそれとは違う方向に進んで行く、と言う点では当っているだろう。
(以下ネタバレあり。未見の方は読まないでください)
“大規模なテロ事件が起き、政府の開発した極秘装置を使って、過去の時間帯に遡って事件を探索する”というストーリーを見ると、2007年に公開されたデンゼル・ワシントン主演「デジャブ」を思い出してしまう。前に観たような作品だな、と考えてしまう点ではまさに“デジャブ”だ(笑)。
「デジャブ」では、4日以内であればどんな時間帯にも、どんな場所にも行けたのに対し、こちらの場合は、時間は爆破直前の8分間、場所は列車の中だけ、と極めて限定されている。その代わりに、何度でもリセットして8分間を繰り返す事が出来る。
コルターは、運命の8分間において、何度か失敗を繰り返しながらも、次第に犯人に近づいて行く。
よく考えると、1回目から既に犯人を特定する伏線が巧妙に仕掛けられている(ヒントは札入れ)。うまい脚本である。
8分間を何度も繰り返すうちにコルターは座席に向かい合っている女性、クリスティーナに次第に好意を寄せて行くようになる。
コルターの尽力でやっと犯人を見つける事が出来、第2のテロを未然に防ぐ事には成功するのだが、最初の列車爆破事件は既に行われており、従ってクリスティーナは事故で死んでしまっている。コルターが見る8分間の世界は、あくまで“コンピュータ内の仮想現実”(言わば「マトリックス」のような世界)であり、過去の現実は変えることは出来ない。
だが、クリスティーナを愛してしまったコルターは、グッドウィン大尉に頼み込み、8分間の仮想現実世界の中で、爆破そのものを阻止する、という掟破りの行動を取ろうとする。
8分間の中では、コルターはどんな行動でも取れる、のであれば、爆破を阻止してしまったら、どんな事が起きるのだろうか。
ここで、物語はまったく意外な方向に進んで行く。
8分間におけるコルターの行動によって、本来判らなかったはずの犯人の特定という現実世界の歴史も変えてしまった、のは確かなのだが、映画は、最後の8分間でコルターが爆破を阻止したので、現実世界でも列車爆破はなかった事になってしまうのである。
つまりは、いつの間にか「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のように、“過去の歴史を変えたので、現在の状況も変わってしまう”事となるのである。あの8分間は仮想現実ではなく、“タイムマシンで行った過去の世界”だという事になってしまっているのである。
そう思えば、「デジャブ」でも最初は過去の世界を覗き見ていただけなのに、後半は過去の歴史を変えて、本当は死んでしまっている女性の命を救おうとする、本作ともよく似た展開となる。あっちも結構掟破りであった(笑)。
こうした、途中から別の方向に作品世界を捻じ曲げてしまう展開は、ヘタな監督にかかれば開いた口が塞がらないトンデモSFになってしまう所(悪い例が「フォーガットン」(笑))なのだが、ダンカン・ジョーンズ監督は、クリスティーナに寄せるコルターのひたむきな思いを丁寧に描く事によって、むしろ“運命だと諦めてはいけない。自分の信念に従い行動すれば、自ずと運命は切り拓けるものである”という、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」以来お馴染みの、最近では「アジャストメント」にも登場したパターンの、奇跡のファンタジー系作品として成功させているのである。
ラスト(シカゴ駅のシーン)はいろんな解釈が出来るだろう。現実のコルターは[事故で肉体を損壊し、ポッドの中でしか生きられない体]なので、クリスティーナと幸せそうにモニュメントを見つめるコルターの姿は、仮想現実…つまりは夢の中の世界でしかないのだ、と見る事も出来る。この世界では、クリスティーナは死んでいるし、コルターの将来も悲惨である。
もう一つの解釈は、8分間の中で彼が乗り移った“ショーン・フェントレス”という名の男の脳内に、そのままコルターの意識が住み付き、爆破事件を回避した後もコルターはずっとショーンとして、パラレルなもう一つの世界でクリスティーナと幸福に暮らす、というハッピーエンディングである。
後者の方は、本当はあり得ない展開なのだが、悲惨な前者よりは、後者の方がずっと望ましい幸福な未来である。…そうあって欲しい、という願望が生んだ、これは例えばジョージ・シートン監督の「三十四丁目の奇蹟」(1947)以来、アメリカ映画に脈々として受け継がれて来た、願望が奇跡を巻き起こす幸福のファンタジーの1本、と解釈すべきなのだろう。
上に挙げたように、この映画はいくつもの過去の素敵な映画を思い起こさせてくれる。そういう意味ではこれは、“映画通ほどダマされる”のではなく、“映画通ほど素敵な気分に浸れる”作品なのである。いや、コピーに従うなら、“映画通ほど、嘘と分かってて、ダマされてあげる”作品と言うべきなのかも知れない。
ダンカン・ジョーンズ監督、もはやデヴィッド・ボウイの息子なんて肩書は不要、立派な一流監督の仲間入りである。次作がますます楽しみである。 (採点=★★★★☆)
| 固定リンク | コメント (3) | トラックバック (19)
最近のコメント