「ヒューゴの不思議な発明」 (3D)
1930年代のパリ。駅の時計塔に暮らす少年ヒューゴ(エイサ・バターフィールド)は、事故で死んだ父親(ジュード・ロウ)の残した壊れた機械人形をコツコツと修理していた。ある日、駅のおもちゃ屋から部品を盗もうとして、店主のジョルジュ(ベン・キングズレー)に捕まってしまい、大事なノートを取り上げられてしまう。彼の後を追ったヒューゴは、その家に暮らす少女イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)と出会い、やがて彼女が持つハート型の鍵によって、機械人形を動かすのに成功する。そして人形は奇妙な絵を描き始めるのだが、そこには壮大な秘密が隠されていた…。
これまで、どちらかと言うと、裏社会や腐敗した街を舞台にハードなバイオレンスものを多く手掛けて来たスコセッシ監督にしては珍しい、子供が主人公のファンタジーで、しかもCG効果満載でかつ3D作品ときた。
どういう風の吹き回しか、と思ったが、観てみればこれは全編、映画黎明期における映画作家たちに限りないオマージュを捧げた、“映画への愛に溢れた映画”なのであった。特に、昔の古い映画が好きな映画ファンは絶対必見の、ステキな快作である。
これまで、フィルムの褪色問題など、古い映画の保存に熱意を注いできたスコセッシならではである。
冒頭、パリの上空から下降して来たカメラが、そのままパリ駅構内に入り、ゆっくり移動しつつ、最後に時計塔の文字盤から外を覗くヒューゴのアップになる、ワンカット・カメラ移動が素晴らしい。
これは思い起こせば、スコセッシが監督したザ・ローリング・ストーンズ・ライブコンサートのドキュメンタリー「シャイン・ア・ライト」のラストで、狭い舞台裏からカメラが外に飛び出し、やがてはるか上空に舞い上がり、コンサート会場を俯瞰するに至る流麗なカメラワークの丁度逆パターンである。
その時、上空に浮かぶ月がストーンズのトレードマーク、赤いベロに変るのだが、本作においても後半、“擬人化された月”が重要なポイントになっている。
スコセッシらしいお遊びであり、「シャインア・ライト」を観ていれば余計楽しい(その頃から本作を構想していたのだろうか?)。
本作は、その月のシーンが登場する、映画史上最初の本格的SF映画「月世界旅行」(1902)を作ったジョルジュ・メリエスへの熱いオマージュに満ちた作品である。
映画の創世記は、まだ映画は、単に“動くものを記録する”だけの、ごく単純なものだった。―それでも、“写真が動き出す”事だけでも、当時としては画期的なイベントだった。
日本では当初はこれを“活動大写真”と呼んでいたくらいである。
本作にも登場する、列車がこちらに向かって来る、というだけの映像でさえも、観客は驚き、本当に列車が向かって来ると錯覚して逃げ出したほどだ。
そんな時代に、元は手品師だったメリエスは、観客を驚かせ、魅了する“手品”の手法を映画に持ち込み、さまざまなトリック撮影を駆使した短編映画を製作・公開し、たちまち大人気となった。
そして1902年、ジュール・ベルヌの原作を基に、初めての本格的なドラマとしての「月世界旅行」を発表したのである。
わずか16分の短編ではあったが、ここには今に至る“映画の魅力”がぎっしりと詰まっている。
まず、起承転結がしっかりしたドラマがあり、アドベンチャー・ロマンであり、ファンタジーであり、空想科学物語(SF)であり、さらに技術的には、さまざまな特殊撮影(SFX)が使われている。
現在において、我々映画ファンの心をときめかす、スピルバーグやルーカスや、J・キャメロンらが作るSFやファンタジー映画の傑作はすべて、メリエスの「月世界旅行」がその元祖であると言えるのである。
私は数十年前、何かの博覧会(だったか?)で、この「月世界旅行」をスクリーンで観る機会を得たのだが、それまでに多くのSF・ファンタジー映画を観ていたにもかかわらず、メリエスの、観客を楽しませてやろう、という心意気、情熱、イマジネーションの豊かさに素直に驚き、感動した。当時の観客は、もっと感動したに違いない。
だが、映画史においてこれだけ貢献したにもかかわらず、晩年は不遇をかこち、いつしか映画界からは忘れられ、この映画に登場した通り、パリのモンパルナス駅で細々とおもちゃ屋を営んでいたという。
ブライアン・セルズニックによる原作は、そのジョルジュ・メリエスにもう一度スポットライトを当てたファンタジー小説(と言うか、鉛筆画的イラストが半分以上を占める絵物語)であり、映画はかなり原作に忠実に作られている。
ヒューゴの父が残した機械人形は動くのか、その正体は何なのか、駅構内の偏屈なおもちゃ屋の老人は何者なのか、さらに、ヒューゴを捕まえ、孤児収容所に送り込もうとする鉄道公安官から彼は逃げおおせられるのか…さまざまに張り巡らされた謎とサスペンスが、イザベルの持つ鍵が文字通りキーとなって収斂して行くドラマ展開がスリリングで目が離せない。
そして最後に、心を閉ざしていたメリエスが、ヒューゴのおかげでもう一度表舞台に立つ事となるラストは感動的である。
3Dも実に効果的に使われており、これは3Dで観る事をお奨めする。
特に楽しいのは、そのメリエスの「月世界旅行」が、シーンによっては3D化されている箇所で、これは見ものである。映画とは、まさにマジックである事をまざまざと体感出来る。
映画史や、古い映画に興味のある映画ファンは必見であるが、そうでない人にも間違いなく楽しめる事請け合いである。
スコセッシらしい、映画の歴史を作ったすべての人、そしてすべての映画を愛してやまない人々に捧げる、これは映画愛に満ちた、映画の為の映画なのである。 (採点=★★★★☆)
(さらに、お楽しみはまだある)
この映画には、古い映画を愛するスコセッシならではの、映画に関するお遊びもあちこちに網羅されていて、映画ファンであるほど楽しめる仕掛けが幾重にもほどこされている。
物語の後半、ヒューゴとイザベルが映画の歴史を辿る中で、サイレント・コメディの名作のワンシーンがいくつか登場する。
チャップリンの「キッド」(1921)
バスター・キートンの「キートンの大列車追跡」(1926・初公開時邦題「キートン将軍」)
ハロルド・ロイドの「ロイドの要心無用」(1923)
等であるが、それらの作品の有名なシーンが本作の中にもうまく引用されている。
鉄道公安官(サシャ・バロン・コーエン)が、ヒューゴを駅構内で追いかけ回したり、彼を捕まえ孤児収容所に送ろうとするシーン、これは「キッド」の中で、警官たちがチャップリンを追いかけ回したり、キッドを孤児収容所に入れようとするシーンの引用である。もっとも初期の作品ではチャップリンはいつも警官に追いかけられているのだが。
この公安官が、花屋の娘に想いを寄せ、恥ずかしそうに話しかけるシーンは、同じチャップリンの「街の灯」(1931)も思い起こさせる。
また、ヒューゴの夢の中で、列車が暴走し、駅の壁を破って転落するシーンがあるが、「キートンの大列車追跡」の中にも、機関車が強引に橋を渡ろうとして、河に転落するシーンがある。
そして、これは映画を観た方ならすぐに分かるだろうが、ヒューゴが公安官に追われて、時計塔の長針にぶら下がるシーンは、明らかに「ロイドの要心無用」の、ロイドが時計塔の長針にぶら下がるシーンのオマージュである。
ところでヒューゴは時計の修理が得意のようだが、チャップリンは短編「チャップリンの番頭」(1916)の中で、修理を依頼された時計を、ものの見事にメチャクチャに壊してしまうのである。ヒューゴが、巨大な歯車が稼動する時計塔の中を逃げるシーンも、チャップリンの「モダンタイムス」(1936)へのオマージュかも知れない。
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