« 自由学校 (1951) | トップページ | 「私の映画史―石上三登志映画論集成 」 »

2012年5月17日 (木)

「コーマン帝国」

Cormanworld2011年・アメリカ/配給:ビーズインターナショナル
原題:Corman's World: Exploits of a Hollywood Rebel
監督:アレックス・ステイプルトン
製作:アレックス・ステイプルトン

「B級映画の帝王」と呼ばれた名物プロデューサー兼映画監督、ロジャー・コーマンの半生を、本人や彼に育てられた映画人へのインタビュー、製作作品フッテージ等を交えて描いたドキュメンタリー。監督はドキュメンタリー製作者で、本作が初監督作品となるアレックス・ステイプルトン。

ロジャー・コーマンは、1950年代中期に、アメリカのマイナー映画製作会社、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)を根城に映画監督としてデビューし、以後現在まで監督として約50本、プロデューサーとしては400本以上もの作品を手掛けて来た。
そのほとんどが超低予算、短期間の製作日数で、出演俳優もその当時無名の者ばかり。取り上げる題材もSF、ホラー、犯罪アクション、エログロ、風俗もの…といった、まさにB級(C級もあった)映画ばかり。アカデミー賞とも、興行トップテンとも無縁の作品だらけである。

それだけ見れば映画界では無数に存在する、ありふれた弱小ムービー・メーカーの一人のように見えるのだが、実は彼の元で働いていた(悪く言えばコキ使われていた)スタッフや俳優の多くが、その後メジャーに躍り出て有名になっているのである。

そのうちの何人かは本作でもインタビューに答えているが、名前を聞けば錚々たる顔ぶれで、驚くばかり。以下その名前を列挙すると…。

俳優=ジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロ、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ブルース・ダーン、デヴィッド・キャラダイン、シルベスター・スタローン…

監督=フランシス・F・コッポラ、マーティン・スコセッシ、ロン・ハワード、モンテ・ヘルマン、ジョナサン・デミ、ジョー・ダンテ、ジョン・セイルズ、ピーター・ボグダノヴィッチ、そしてジェームズ・キャメロン…

脚本家=リチャード・マシスン、ロバート・タウン…

いずれも、今やアメリカ映画を代表する大物俳優・作家ばかりである。が、彼らがコーマンの元で働いていた頃はまったくと言っていいほど無名で、メジャーの映画とは無縁だった。わずかに多少ともそれまでにメジャー映画に出た経験のあるのはピーター・フォンダ、デニス・ホッパーくらい。それも芽が出ず、次第に映画に出れなくなっていた頃である。

彼らはみんな、コーマンの元で映画作りの修行をし、面白い映画の作り方を学び、作家の多くはコーマンのプロデュースによって映画監督としてデビューし、やがて一流監督になって行った。俳優もコーマン作品で注目され、メジャーから声をかけられ、やがて大スターになって行った。みんなコーマン・スクールの優等生と言っていいだろう。

映画を観れば分かるが、インタビューに答える多くの映画人が、コーマンに対し、感謝の言葉を述べている。
ジャック・ニコルソンに至っては、最後にはインタビューの途中で感極まり、涙ぐんでしまうくらいである。

 
Corman1 インタビューを聞く範囲では、どんな優れたプロデューサーかとも思ってしまうが、作る映画は本当にチープで、低予算であるのがモロ見え。監督作の中にはそれでも一連のエドガー・アラン・ポオ原作もの(「アッシャー家の惨劇」「ポオの恐怖物語」)など、まずまずの出来のものがあるが、大半は取るに足らない駄作のオンパレードである。

しかも、ケチケチ(商売上手)のエピソードは事欠かない。
例えば、ボリス・カーロフ主演のホラー映画「忍者と悪女」の撮影が予定より早く終った時に、撮影に使った立派なセットを壊すのはもったいない、と考え、急いでそのセットを再利用出来る1本の脚本を書き、自分で監督するが、時間がないので、修行中のコッポラ、モンテ・ヘルマン、さらには主演のニコルソンにまで演出をさせ、「忍者と悪女」の出番が終わったばかりのカーロフに、歩合を少し上乗せしてこの作品にも出演してもらい、2日間でカーロフ出演シーンを撮り終えてしまったという。作品の題名は「古城の亡霊」(1963)。

この作品についてはまだエピソードがあって、「古城の亡霊」が大きな利益を挙げた事を知ったカーロフのエージェントが、歩合の上乗せを要求して来た。コーマンは、カーロフが1本の映画に2日間出演してくれるなら要求を呑むと言い、OKが出ると即座にピーター・ボグダノビッチを呼び寄せ、こう言った。「いいか。カーロフの出演シーンを20分撮れ。そして『古城の亡霊』のフィルムを20分使え。あと40分付け足せば、なんとか映画になるだろう。それで完成させれば、それがお前の監督デビュー作だ」
なんとも無茶苦茶だが(笑)、監督昇進に燃えるボグダノビッチはこの要望に答え、有名な「テキサスタワー乱射事件」をモデルにしたサスペンス映画のシナリオを書き、映画を完成させた。これがボグダノビッチの記念すべき監督第1作「ターゲッツ」(1968・ビデオ邦題「殺人者はライフルを持っている!」)である。映画の中でドライブイン・シアターで延々上映されている映画が「古城の亡霊」である。

この他にも、ソ連から買い付けたSF映画が、色気が少ないからと、ボグダノビッチに複数の半裸の女性が海岸で生魚を食べたり、恐竜を拝んだりするシーンを撮影させ、同作品に挿入して公開した(テレビ放映時邦題「SF/金星怪獣の襲撃」)。フランシス・コッポラにも同じような事をさせている。

Corman3 こうしたエピソードは、やはりコーマンやコーマン・スクール卒業生たちへのインタビューを網羅した単行本 私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか―ロジャー・コーマン自伝」(ロジャー・コーマン/ジム・ジェローム著、石上三登志/菅野彰子翻訳)に詳しく紹介されている。コーマンについてより知りたい方にはお奨めである。

こうした経歴だけ聞くと、いかにも金儲け優先の商売人のように見えるかも知れない。

が、コーマンは単なる金儲け主義者ではない。本作の中でも取り上げられているが、1962年、コーマンは「不法侵入者」(原題:The Intruder)という、南部の人種偏見問題をテーマにした社会派映画を監督している。主演は後に「スター・トレック」でブレイクすることになるウィリアム・シャトナー。
当時としてはかなり先鋭な告発ドラマで、ヴェネチア映画祭にも出品されるなど評価は高かったが、さまざまな妨害を受けた事もあって興行的には惨敗した(コーマンは唯一の赤字作品だと言っている)。時代を先取りし過ぎたとも言えるだろう。同じようなテーマで興行的にも作品的にも成功した「ミシシッピー・バーニング」が公開されるのはそれよりずっと後、1988年である。

1966年、コーマンはピーター・フォンダ主演のバイク映画「ワイルド・エンジェル」を監督し(助監督を務めていたのはピーター・ボグダノビッチ)、興行的に成功すると、今度はやはりピーター主演の、LSDの幻覚をビジュアル化した「白昼の幻想」(67)を監督。脚本はジャック・ニコルソン、共演はデニス・ホッパーである。
キワ物企画のように見えるが、反体制運動が広がる時代の流れ、カウンター・カルチャーの状況を的確に見据えた問題作であると思う。この2本に触発されたフォンダ、ホッパー、ニコルソンが手を組んで作り上げたのがアメリカン・ニューシネマの金字塔「イージー・ライダー」である。
これも最初はコーマンの元に、フォンダからプロデュースして欲しいと申し入れがあり、コーマンは喜んで引き受けるが、所属するAIPの経営者がホッパーの監督に難色を示し、契約書に、撮影が3日以上遅れたらホッパーを解雇する条項を入れることを要求した。コーマンは強力にホッパーを推したが認められず、ピーターたちは企画を引き上げ、コロムビアに持ち込んで映画は大成功する事となる。
順調に行っておれば、コーマンは「イージー・ライダー」の製作者として名を上げたかも知れないのである。残念ではあるが、そうなれば「B級映画の帝王」の看板は降ろさざるを得なかっただろう。良かったのかどうか。

やはりコーマンがプロデュースし、マーティン・スコセッシの監督第1作となる「明日に処刑を…」を作った時も、AIPはスコセッシを解雇してコーマンに監督をするよう要求した。コーマンは「マーティはすばらしいものを撮っている」と言ってその要求を拒否し、スコセッシに監督を続行させた。結果として映画は大成功を収め、スコセッシはこれを足がかりに一流監督の道を歩み始める。スコセッシは今もコーマンに感謝しているという。

 
こうしたエピソードから窺えるのは、コーマンは時代を読む嗅覚に優れ、若者の才能を見抜く眼を持っている、という事である。並みの会社雇われプロデューサーだったなら、会社の要求に従いホッパーやスコセッシを監督から降ろしただろう(いや、代わりに監督をやれと言われたら喜んで引き受けるのが普通だろう)。
しかしコーマンは、若い優れた才能の芽を摘むような姑息なことは決してしなかった。反骨の人であるとも言えるだろう。常に彼らをを育て、サポートし、手元に置いておく方が便利と分かっていても、次々一本立ちさせ、結果としてその多くが一流作家となってハリウッド映画の隆盛に貢献する事となった。
すぐれたプロデューサーとは、本来はこういう人の事を指すのだろう。

AIPのやり方に嫌気がさしたコーマンは、その後AIPを離れ、自らの製作会社、ニュー・ワールド・ピクチャーズを設立し、相変わらず旺盛なB級映画作りを推進しながら、多くの若手作家たちにチャンスを与え続けて来ている。

コーマンの功績はそれだけではない。ニュー・ワールドを拠点に、外国の優れた映画を買い付け、アメリカで公開している。以下はその題名と監督。
「叫びとささやき」(イングマール・ベルイマン) 「映画に愛をこめて アメリカの夜」(F・トリュフォー) 「アマルコルド」(F・フェリーニ) 「デルス・ウザーラ」(黒澤明) 「ブリキの太鼓」(フォルカー・シュレンドルフ)。

いずれも、今では映画史に残る秀作ばかり。しかも驚く事に、ベルイマン作品を除き、いずれもアカデミー最優秀外国語映画賞を受賞しているのである。凄い確率だ。
コーマンが配給し、全国公開を行ったから多くの人の眼に留まり、それによってアカデミー会員の票を集めた可能性も大いにある。黒澤が「デルス・ウザーラ」でアカデミー外国語映画賞を受賞出来たのは、コーマンのおかげかも知れないのである。

なおコーマンは、黒澤明とも親交を結び、LAのコーマン宅に招いて夕食を共にしたこともあるそうだ。

Corman2 こうした功績が認められ、コーマンは 2009年には米アカデミー名誉賞を受賞する。本作の中でもその様子はカメラに収められている。
檀上には、スコセッシ、ボグダノビッチ、ロン・ハワード等コーマンに育てられた人たち、さらにはコーマンを敬愛するクエンティン・タランティーノの姿もあり、皆温かいスピーチを述べている。素敵な事である。
(しかし、マイナーなゲテモノと言われるB級映画ばかり作って来た人に名誉賞を与えるアカデミー協会もエラい。日本アカデミー賞で、B級映画一筋の鈴木則文監督に名誉賞を与える…なんて事は絶対にないだろう(笑))。

...........................................................................

観終って感じるのは、“映画作家を育てる為には、どうやれば、何をすればいいのか”という課題に対する答が、ここにある、という事である。

昔は日本の映画界でも、監督になる為には映画会社に入り、助監督として先輩監督の元につき、コキ使われながらも、映画作りのノウハウをマスターして行った。小津安二郎や黒澤明も例外ではない。

特に映画最盛期の東映、日活などでは毎週2本立のB級映画が量産され、助監督たちは寝る間もないほど働かされた。
監督に昇格しても、最初のうちは低予算、短い製作日数のプログラム・ピクチャーばかり撮らされ、そんな中で頭角を現して行った後の有名監督も多い。深作欣二も佐藤純彌も降旗康男も、東映時代は低予算のギャング、任侠アクション映画ばかり撮らされていた。

あるいは、日活ロマンポルノも同様である。倒産の危機にあった日活が窮余の策として、1本の製作費が5~600万円、製作期間は2週間程度、上映館は場末の成人映画チェーン、という過酷な条件での映画製作現場で、映画に情熱を燃やす若い作家たちがシゴかれながらも、映画作りのノウハウ、観客を惹きつけるにはどんな作品を作ればいいのか、という基本を学び、そこから多くの気鋭の監督たちが巣立って行った。根岸吉太郎、金子修介、曽根中生、田中登、中原俊、村川透、森田芳光、相米慎二…みんなロマンポルノで修業した人たちである。

今はそうした修行の場はほとんどない。一時はオリジナル・ビデオシネマがそんな環境で、三池崇史はそこで修業を積んだ。今はそれもない。せいぜいテレビくらいである。だが、修行になっていないのは、テレビ出身監督の作品がふやけた物ばかりで、心をうつ作品がないという現状が示している。
そしてまた、絶望的なのは、人材を育てるべきプロデューサーに、人がいないという現実である。大手だろうとインディペンデントだろうと、優れたプロデューサーがいる所には人材が育っていた。マキノ光男、岡田茂の昔から、黒沢満、佐々木史朗の現在に至るまで、名物プロデューサーに育てられた人材は数限りない。

今のアメリカ映画にしても、コーマンによって育てられた作家たちが中枢を担っている。そんなプロデューサーは多分二度と出て来ないだろう。コーマン以後の、人材育成システムをどう構築するか、撮影所なき現在の日本映画界にとっても他人事ではない、深刻な問題だと言えるだろう。

ともあれ、本作はそうした点も含めて、アメリカ映画史における、一つの時代を知る格好の教材と言えるだろう。    (採点=★★★★

 ランキングに投票ください → ブログランキング     にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ

私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか―ロジャー・コーマン自伝」
 

 
「別冊映画秘宝・衝撃の世界映画事件史」 大げさなタイトルだが、中身はロジャー・コーマンに関する記事が満載

|

« 自由学校 (1951) | トップページ | 「私の映画史―石上三登志映画論集成 」 »

コメント

映画もそうですが
Keiさんのこのレビュー、
とてもためになりました。
事後報告になりますが
拙ツイッターで
「鈴木則文」のくだり、
URLとともに紹介させていただきました。
m(._.)m

投稿: えい | 2012年5月19日 (土) 22:18

◆えいさん
拙文をご紹介いただき、ありがとうございます。

鈴木則文さんは、B級映画の監督だけでなく、「緋牡丹博徒」で藤純子を一本立ちさせ、「女必殺拳」シリーズの脚本で志穂美悦子を、「百地三太夫」で真田弘之をそれぞれスターに育て、助監督に付いていた関本郁夫、沢井信一郎が一流監督になる等、人材育成にも尽力され、自身が興した独立プロ、アジャックスでもB級映画を作り続ける等、ある意味日本のロジャー・コーマン的位置にいる方だと思っております。

こういう人をこそ、きちんと評価すべきだと常々思っているのですがねぇ。
日本アカデミーには全然期待はしておりませんので(笑)。

投稿: Kei(管理人) | 2012年5月23日 (水) 01:28

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「コーマン帝国」:

» コーマン帝国 [とりあえず、コメントです]
監督・製作者として多くの映画人に影響を与えてきたロジャー・コーマンの足跡を辿るドキュメンタリーです。 ロジャー・コーマンの作品は恐らく観たことが無いのですけど、どんな人なのだろうと気になっていました。 本人を含む様々な人のインタビューで綴られていく人物像は、何とも繊細なようで豪快な そして映画と共に人生を歩んできた人でした。 ... [続きを読む]

受信: 2012年5月18日 (金) 08:54

» 『コーマン帝国』 [ラムの大通り]
(英題:Cormans World : Exploits of a Hollywood Rebel) ----今日の映画は『コーマン帝国』。 これってロジャー・コーマンのドキュメンタリーだよね。 この人、いま一つよく分からないんだけど…。 「そうだね。 実はぼくが最初に彼の名前を目にしたのは、 雑誌...... [続きを読む]

受信: 2012年5月18日 (金) 22:47

« 自由学校 (1951) | トップページ | 「私の映画史―石上三登志映画論集成 」 »