「臨場 劇場版」
テレビ版は観ていなかったのだが、今回の劇場版公開に合わせてか、テレ朝系のABC放送が過去のテレビ放映分をまとめて再放送してくれてたので、そのほとんどを観る事が出来た。
で、テレビ版未見の方の為に、簡単なおさらいをして、劇場版の参考にしていただけたらと思う。
放送は、いずれも水曜日午後9時から1時間、2009年4月から1クール、翌年4月から「臨場・続章」としてやはり1クール放映された。
これでお分かりのように、いずれもテレ朝系の高視聴率番組「相棒」の半年放映後の後番組である。製作も「相棒」と同じ東映=テレビ朝日。
「相棒」のヒットを意識してか、スタッフにも脚本に吉本昌弘、佐伯俊道、岩下悠子、監督に橋本一と、「相棒」からの横すべり組がいるし、登場人物のキャラクターやストーリー展開にも、「相棒」と似た要素が含まれている。
例えば、主人公の検視官・倉石は変わり者で、権限もないのに捜査に口出しし、普通なら見逃しそうな些細な手掛かり、ヒントを元に真犯人を割り出し、事件を解決に導く。
つまり、杉下右京とよく似た立ち位置なのである。無論、性格的には一見穏やかで飄々としている杉下に比べて、横柄でぶっきらぼうで口は悪い、と多少変えてはいるが。
そう考えれば、倉石の鋭い観察眼と人柄に心酔して行く部下の検視補助官、小坂留美(松下由樹)は「相棒」の亀山(寺脇康文)に相当するし、切れ者の捜査一課管理官、立原(高島政伸)は同じく大河内管理官、常に倉石に突っかかる短気な坂東刑事(隆大介)は同じく捜査一課の伊丹刑事を思わせるキャラクターである。もっともこの管理官、大河内と違っていつも現場に真っ先に来ているが。
そして舞台は、原作がある地方都市(L県警となっている)であるのに、テレビでは「相棒」と同じ、東京警視庁所属に改変されている。よって倉石たちの制服は「相棒」の鑑識員・米沢と同じデザインだし、時々、警視庁の全景も画面に登場する。
つまりは、「相棒」をかなり意識した作りになっているのである。お話も、時にアリバイ崩し、時に社会派、時に泣かせる人情話…と、「相棒」ファンが観ても楽しめるエピソードが多い。その為か、続章では平均視聴率が17.6%とハイアベレージを記録している。
そうした人気に支えられ、満を持しての劇場版登場と相成ったわけである。監督も東映生え抜きで、テレビ版「臨場」及び映画「探偵はBARにいる」でそれぞれ手堅い演出を見せた橋本一。私もかなり期待したのであるが…。
都内で無差別通り魔事件が起こり、遺族の悲痛な叫びにも拘らず、犯人波多野(柄本佑)は刑法第39条の適用により、心神喪失を認められ無罪になる。2年後、その犯人を無罪にした弁護士と精神鑑定を行った医師が相次いで殺害され、合同捜査本部の神奈川県警、仲根達郎管理官(段田安則)は通り魔事件の遺族による犯行とにらむ。しかし、検視官・倉石(内野聖陽)は被害者の死亡推定時刻に細工をされた可能性を疑い、犯人は別にいると推測する…。
うーん、微妙である。突っ込みどころ、無理な設定が多い。
(以下ネタバレあり)
ドラマでは毎回冒頭に“検視官とは、刑事訴訟法に基づき、変死体の状況捜査を行う司法警察員である”とテロップが出る。
つまりは、死因が不明な変死体を検分し、死因が自殺なのか他殺なのか、あるいは事故死なのかを、検視結果から判定するのが役目であり、他殺と推定されれば帳場(捜査本部)が立つ。その時点で、検視官の役目は終わる。
だから映画のように、明らかに公衆の面前で殺され、他殺と分かっているのに、検視官が意気揚々と駆けつけ(おまけにヒーローの登場のようにスロー映像)、しかも現場で検視する、なんて事はおかしい。この状況なら、まず救急車が駆けつけ、心臓マッサージしてから被害者を病院に搬送するのが先決である。その為に、死体のあった場所にはテープで縁取りだけ残す。
現実には、検視は現場で行うものではなく、霊安室か法医学教室に搬送してそこで行うのが基本だそうだ。それでは臨場感が出ないので、ドラマでは現場検視に変えてある。フィクションだからそこまでは許せても、映画版のこの冒頭シークェンスは非現実すぎて違和感あり。
テーマは、“心神喪失は無罪とする”という刑法第39条に対する被害者家族の怒りと悲しみである。
これまでもドラマ版で、15年の時効の壁をテーマにする等、刑法の矛盾、不備に切り込んで来た「臨場」らしい取組みであり、それは悪くはない。
しかし、私が以前「相棒-劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン」評で指摘したように、劇場版に格上げになったからといって、あれもこれもと盛り込み過ぎて、かえってつまらなくしてしまう弊害がまたしても顔を出している。
後半には、唐突に“冤罪”テーマまで登場する。これはこれで、1本の作品で語るべき重いテーマである。ミスディレクションさせる為とはいえ、これではどっちのテーマもボヤけてしまうではないか。
ラストで、[真犯人である恩師に対して倉石が延々と説教垂れるのもヘン。もう一人危険な犯人がいるのだから、まず携帯で応援求めて確保すべきだろう。説教は警察に着いてからでも出来る。案の定、起き上がった犯人に恩師を刺し殺されてしまう。]これは倉石の大失態。部下に説教する資格はない。
しかもこの会話、やたらダラダラと長くて、作品のテンポを大きく損っている。「LIMIT OF LOVE 海猿」の恋人との携帯会話と並ぶ“そんな事やってる場合じゃないだろ”シーンである(笑)。
映画では「ホトケの最期の声を拾う」と倉石が言うのだが、これは、なぜ被害者が殺され、あるいは死ななければならなかったのか、その原因を遺留品等から探ることによって真犯人を追求する、あるいは被害者の心の闇を解き明かす、という目的があるからである。テレビドラマではそれが最後に判明し、泣かせるエピソードがいくつかあった(例えば、本作の脚本家である尾西兼一がシナリオを書いた「カウントダウン」はそこに的を絞った秀作)。
ところが本作では、通り魔に娘を殺された母親が「あの子の最期の声を聞かせてください」と叫ぶシーンがある。「そりゃ最期の声の意味が違うでしょ」と思わずツッ込みを入れそうになった(笑)。
この被害者の場合は、犯人が分かっていて、動機も行きずりなのだし、倉石の言う「最期の声」を拾う意味がない。「なぜ死ななければならなかったのか」と問われればこの場合、「運が悪かった」としか言いようがない。結局最後は、“なぜ娘があの場所にいたのか”という、テーマとは無関係の真相を探る話にズレていってしまう。
そもそも、原作も連作短編なのだが、これはやはりテレビドラマのように、45分という短い時間だからこそ持つ題材である。実際、テレビ版で前後編に拡大されたエピソードでは、間延びしてつまらなかったものがある。
言うなれば、O・ヘンリーの短編の如く、短い時間にテーマが凝縮されるからこそ、ストレートに感動出来るのである。原作の良さもそこにある。原作・横山秀夫と謳っているが、原作にないオリジナル・エピソードであるこの劇場版は、原作の持ち味も殺してしまっている、と言えるのではないか。
テーマそのものは悪くはないし、法制度の欠陥を追求すると共に、現代という時代が抱えた闇、不条理に迫ろうという意欲は買えるのだが、いかんせんスケールを広げ過ぎ、あれもこれもと詰め込み過ぎる、東映=テレビ朝日提携警察ドラマの劇場版の欠点をまたも繰り返してしまった。残念である。
ところで、冒頭とラストの、倉石の死を覚悟したかのような行動は、あれは何なのだろう。テレビ版ではまったくそんな素振りはなかったし。
原作はテレビ版でも使い果たしているし、これでテレビ版も含めて完結で、続編は作らない、という事なのだろうか。それならそうと発表すればいいのにと思う。それとも、これが当れば復活も選択肢にあるのだろうか。どちらにしても、こんな思わせぶりなパートは余計。却ってモヤモヤが残ってしまった。 (採点=★★☆)
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