「あなたへ」
富山刑務所の指導技官・倉島英二(高倉健)は、最愛の妻・洋子(田中裕子)を53歳で亡くした。洋子は2枚の絵手紙を遺言として残しており、1枚には「遺骨は故郷の海に散骨してほしい」と記されていた。もう1枚は彼女の生れ故郷である長崎の平戸市の郵便局留で、一定期限内でしか受け取れないという。倉島は妻の真意を知るため、手作りで改良した自家製キャンピングカーで妻の故郷・長崎へと向かう。
日本映画界最後のスターと言われる高倉健も、はや81歳。昭和30年代のギャング映画(「花と嵐とギャング」等)や大ヒットした任侠映画の時代からずっとその活躍を観て来たファンとしては、感慨深いものがある。
ここ数年も、いくつも出演オファーがあったものの、自分のやりたい作品がない、と断り続けて来たという。
さすが、身体を鍛えているせいか、背筋もピンとしていて、とても80歳を超えているとは思えない元気さに、ファンとしては一安心。作品の中でも、定年を迎えた後、嘱託として木工指導に当っている、という役柄で、多分64~5歳くらいの設定なのだろう。確かにそういう年齢に見えなくもない。
だが、ショックだったのは、その手の甲に刻まれたシワである。あのシワはどう見ても80歳代の手だ。健サンは確実に老いている。もうあと何本も映画には出られないかも知れない。
無論、共演の大滝秀治のように、老人役として出演するならまだまだ出られるだろう。が、伝説の映画スターに、老醜を晒す脇役は演じて欲しくない。主演としては、おそらくは本作辺りが最後になるような気がしてならない。
そう思ったら、自然と涙が溢れて来た。とてもこの作品を冷静に評価出来ない。これは、間違いなく、伝説の映画スター、高倉健の映画そのものなのである。
それでも、とりあえずは作品について語ってみよう。多少文章が乱れる場合はご容赦。
この作品、一言で言うなら、“思いをうまく伝えられない人たちの物語”であると言えよう。
(以下、ストーリーの重要な部分に触れています。未見の方はご注意ください)
健サンが出演したCMのコピーに「不器用ですから」というのがあったが、登場人物たちはみな不器用で、きちんと思いを相手に伝えられない人たちばかりである。
洋子は、“自分の遺骨を故郷の海に散骨して欲しい”という気持ちを、生きている間に英二に伝えられず、わざわざ遺書管理のNPOを迂回する、という面倒な事をしている。
言えば、反対されると思っていたのだろうか。そういえば、刑務所に服役している、元の夫か恋人らしき男に対しても、直接会う勇気がなかったのか、歌手として慰問に訪れるだけだった。
旅の途中で出会った、イカ飯販売員の田宮(草彅剛)も、陽気な表の顔とはうらはらに、妻が浮気をしている事を知っている。
だが、それを妻に問い詰める事も出来ず、逃げるように販売員として各地を転々と回っているだけだ。
その田宮の下で働く南原(佐藤浩市)は、田宮より年上なのに、何故か後から入社しており、どうも数年前に一度人生をリセットした形跡がある。
彼もまた、残して来た家族への思いを心に秘めたままである事が、後に判明する(その点については後述)。
そして到着した長崎・薄香港で知り合った食堂の女主人、濱崎多恵子(余貴美子)も、船が遭難し、行方不明となっている元の夫に伝えたい事を、うまく伝えられないでいる。
みんな、それぞれに不器用な生き方をしている。だが、それが人生でもある。
倉島は、旅を続けるうちに、そんな、いろんな人生、いろんな顔を持った人たちとふれ合い、不器用な人生を歩んだ洋子への思いを深めて行くのである。
なぜ洋子は散骨を頼んだのか…。それは多分、この世に自分の痕跡を残さない事。それによって、倉島に自分の事は忘れて、新しい人生を歩んで欲しい、という事を伝えたかったのだろう。
最後の絵手紙に「さようなら」とだけ書かれていたのも、その為だろう。
海に沈んで行く、散骨の骨のかけらが、まるで桜の花びらが散って行くように見えて感動的である。
沈みゆく太陽と合わせて、映像の美しさが心に沁みる。
そして、こちらも寡黙で、やはり不器用な人生を歩んで来たであろう、老漁師、大浦吾郎(大滝秀治)がポツリと呟く「久しぶりに、きれいな海ば見た」という言葉も印象的だ。
“きれいな海”とは、文字通りの意味もあるが、洋子の夫に対する思い、妻の遺言を忠実に守った、倉島の純粋な行動を見て、“人の心の美しさを久しぶりに見た”という気持ちも込められているような気がする。
お話としては、ややご都合主義的な所もあるし、倉島に種田山頭火の本をプレゼントする杉野(ビートたけし)の人物像もよく分からないし(旅と放浪の違いという話は面白いが、実は車上荒しだったという展開はやや唐突)、いくつか難点もなくはない。
だが、それでも前記のような心うつエピソードにはジンと来たし、何よりもファンにとっては、健サンの雄姿が見られただけでも嬉しい。年輪を重ねた男の哀愁…、旅の途中の、懐かしさを感じる日本の美しい風景の中で、その風景に溶け込むように悠然と立ち、日本の今を見つめている男の後ろ姿…。もうそれだけで十分である。
健サンと永い間、映画を共に作り続けて来た降旗康男監督は、健サンの姿をどう描くべきかをよく分かっている。
よく観れば、この映画はまさに高倉健映画の集大成になっている。
例えば、“寡黙な男の哀愁”、“不器用だが実直な生き方”はまさに健サンのキャラクターそのものであり、“刑務所”と言えば「網走番外地」、“車を駆ってのロードムービー”とくれば「幸福の黄色いハンカチ」(1977)という代表作をそれぞれ思い出す。
途中に寄る、思い出の地、グリコの電飾看板輝く大阪・道頓堀は、「ブラック・レイン」(1989)の冒頭のロケ地でもある。
“長崎”という目的地も、降旗監督との最初の出会いでもある「地獄の掟に明日はない」の舞台なのである。
出演者も、高倉健映画に馴染みの顔ぶれが揃っている。
田中裕子とは、「夜叉」「ホタル」で組んでおり、ビートたけしも「夜叉」での演技が印象深い。大滝秀治とは、「無宿(やどなし)」(1974)以来の長い付き合いであり、また降旗監督「冬の華」(1978)以降、「あ・うん」(1989)に至るほとんどの降旗=高倉作品に出演しており、健サン映画には欠かせぬ人である。
主人公の名前、倉島英二も、漢字は違うが、「駅 STATION」(1981)の三上英次、「居酒屋兆治」(1983)の兆治の本名、英治、および「海へ See You」(1988)の本間英次とそれぞれ同じ呼び方であり、健サンファンには馴染み深い名前である。倉島という苗字は、おそらくは「幸福の黄色いハンカチ」で健サンが演じた島勇作と、高倉健から1字づつもらっているのだろう。
ついでに、兵庫・和田山の竹田城址のシーンで流れるトゥーツ・シールマンスの楽曲は、「夜叉」で印象的に使われた曲である。これは降旗監督が意識的に入れたのだそうだ。
とすると、もしかしたら、降旗監督自身も、これが健サンとの最後の映画になるかも知れない、と思っているのだろうか。
洋子の、最後の絵手紙の言葉「さようなら」は、あるいは健サンから、ファンへのメッセージ、と取れなくもない。
そう思うと、余計涙が溢れて来た。
高倉健のファンは無論のこと、人生の終盤に差しかかった人も是非観ていただきたい。生きる事の大切さ、せつなさに胸打たれるだろう。採点は公平に見れば★★★☆といった所だが、健サンファンとして、★一つおマケしておこう。 (採点=★★★★☆)
(付記)
終盤、南原が実は元漁師で、濱崎多恵子の行方不明の夫であった事が判る。
これは、倉島が多恵子から海に流して欲しいと頼まれた、娘とその婚約者が写った写真を、倉島が南原に渡す事で明らかになる。
最初に観た時には、何故倉島が判ったのか、唐突な感じを受けたのだが、じっくり観れば周到に伏線が張られている事に気付く。
南原は倉島に、「この人なら力になってくれる」と大浦吾郎の住所と名前を書いたメモを渡すのだが、食堂のテーブルに置かれたそのメモを見て、多恵子が一瞬ハッとなるシーンがある。
普通なら見過ごしてしまいそうな、しかしカンのいい人なら気付くだろう絶妙の間合いである。余貴美子ならではの名演技である。
かなりクセのある筆跡である。これを書いたのは夫だと多恵子は判ったのだろう。倉島も、なにかあると察したはず。
その後、多恵子は車で寝泊りしていた倉島を無理に自宅に誘い、深夜には寝られないと言って、倉島と酒を酌み交わしている。
多分、メモを書いた人物の情報を知りたかったのだろう。が、どうしてもはっきりとは聞けない。彼女もまた不器用で、思いをうまく伝えられない人間なのである。
話を聞けば、多恵子の夫が海で行方不明になった頃と、南原が人生をリセットしたであろう頃とが時期的に一致している。これで倉島も多分、彼女の夫が南原だと薄々気付いたのだろう。
そして多恵子は、娘と婚約者の写真を倉島に託す。考えれば沖に出る船は沢山あるのに、わざわざ倉島に渡したのは、“この写真を夫に渡して欲しい”という意味が込められているからなのだろう。多くの受刑者と接して、いろんな人生を見て来た倉島がその事に気付いても不思議はない。
そうやって思い起こせば、なかなかうまく練られた脚本だと言える。もう一度観直せば、セリフや俳優のリアクション等、もっと気付く所もあるかも知れない。
(さて、さらにお楽しみはココからである)
本作は、同じく80歳を超えたばかりの、同じく伝説的な映画スター、クリント・イーストウッドの傑作、「グラン・トリノ」との共通点も見て取れる。
まず主人公が、どちらも妻を亡くしたばかりの老人である。
また、どちらも改造した主人公の愛車が重要なキーとなる。
イーストウッド扮するコワルスキーは、長い人生の間、仕事一筋に、無骨に生きて来た男である。
倉島も、実直に、仕事一筋に生きて来た。その生き様も共通している。
さらに、車を盗もうとしたモン族の若者タオに、コワルスキーは、本当の男とはどう生きるべきなのかを身をもって教える。
本作では、若くて未熟な若者・大浦拓也(三浦貴大)が、倉島の一挙手一投足を見て、人を愛するとはどういう事か、人生とは、生きるとは何なのかを確実に学んだと見て取れる。
彼もまた、本当の男の生き様を倉島から教えられるのである。
思えば、イーストウッドも高倉健も、カッコいいヒーローを演じ、そして裏街道を歩く孤高のアウトローを演じて来た、アメリカ、日本の、それぞれ最後の映画スターである。
本作はその意味でも、高倉健にとっての「グラン・トリノ」と言えるのではないだろうか。ますます本作が、健サン最後の主演作のような気がして来た。
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