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2013年2月17日 (日)

「塀の中のジュリアス・シーザー」

Cesaredevemorire

2012年・イタリア/配給:スターサンズ
原題: Cesare deve morire
監督:パオロ・タビアーニ、ビットリオ・タビアーニ
脚本:パオロ・タビアーニ、ビットリオ・タビアーニ、ファビオ・カバッリ
劇中戯曲:ウィリアム・シェイクスピア
製作:グラーツィア・ボルピ
製作総指揮:ドナテッラ・パレルモ

刑務所の中で、シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」が演じられるという異色の作品。監督は「父 パードレ・パドローネ」「グッドモーニング・バビロン」等の傑作で知られるイタリアの代表的映画作家、タビアーニ兄弟。本作は2012年・第62回ベルリン国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞している。

これは極力、予備知識なして観るべきである。もし貴方がこの作品に興味があり、これから観る予定であるなら、以下の文章は読まないで、まず映画を先に観てから、後で読む事をお奨めする。

 
ローマ郊外にあるレビッビア刑務所では、囚人たちによる演劇実習が定期的に行われており、ある年、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」が演目に選ばれる。オーディションで囚人たちの中から役柄に応じた配役を決定して行き、劇場が改装中であるとの理由で、刑務所の施設も利用して稽古が行われる。やがて囚人たちは次第に役と同化し、そして上演の日がやって来る…。

これはドキュメンタリーとも、フィクションともつかない不思議な作品だ。

まず最初に、カラーで、舞台劇「ジュリアス・シーザー」上演の様子がカメラに映し撮られて行く。
劇は終幕し、カーテンコールで俳優たちが観客にお辞儀し、観客は拍手で賞賛する…。

ここまでは普通の劇場で上演される舞台劇の様子とあまり変わりはない。

だがその後、演技を終えた役者たちは、刑務所の独房の中に、一人、また一人と収監されて行き、彼らが実は刑務所の囚人である事が示される。

そして「6ヶ月前」と字幕が出て、画面はモノクロとなり、「ジュリアス・シーザー」上演が決まって、役者を囚人の中から選ぶ、オーディションの様子が映し出される。
ここでオーディション・スタッフから、自分の名前、出身地、家族の名前等の自己紹介を、最初は悲しみの表情で、次には怒りを込めて表現せよ、と指示が出て、囚人たちはそれぞれに、地方訛りもそのままに、指示通りの方法で自己紹介を行う。

実はここまで、私はこれは、俳優に囚人役を演じさせた、再現ドラマではないかとずっと思いながら観ていた。
本物の囚人なら、自身や、家族の名前を言ったりはしないだろうし、なにより冒頭の舞台劇における役者たちの演技が迫真的で、いわゆる素人の演技にはほとんど見えないからである。

以下、配役が決まり、練習風景となるが、たまたまなのか、劇場が改装中で使えないからと、刑務所内の施設を使って、時には掃除をしながら廊下で練習が行われる。

この間、囚人たちの日常生活や迫真的な練習風景等が、フィックスで捕らえたカメラワークに、劇映画と変わらないカット割りとモンタージュで描かれるので、本当に刑務所内で、本物の囚人たちを撮影しているのかどうか、私(も含めた多くの観客)はずっと半信半疑のままであった。

そもそも、囚人たちが、自分や両親の名前、出身地等を平然と述べたり、刑務所内をカメラが自由に動き回るなど、日本では絶対に考えられない事である。プライバシー配慮とかで、名前は仮名、顔にはボカシが入るのが当たり前である。

特に最近は、フェイク・ドキュメンタリーと称して、いかにもドキュメンタリーかと思わせる描写の、悪く言えば“やらせ”の偽ドキュメンタリー映画が横行しているので、余計“ドキュメンタリー”と言われても信用出来ないケースが多くなっている。疑いたくなるのも当然である。
(まあ、タビアーニ兄弟作品だから、そこらのバッタもんとは違うと理解はしているのだが)

やがて練習を重ねるうちに、配役された囚人たちは次第に役になりきり、鬼気迫る表情になって行く。演目がシーザーの暗殺という、殺人劇である故に、自身が犯したであろう犯罪(殺人や脅迫)の記憶とも重なり合うのだろうか。
観ている我々もいつしか、過去のローマ帝国にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ってしまう事となる。

冒頭にドキュメンタリーとも、フィクションともつかないと書いた理由がお分かりだろう。

まさにこの映画は、映画を鑑賞していると言うよりは、観客自身が真実と虚構のはざまに陥ってしまう、不思議な感覚を体験していると言うべきなのかも知れない。

そして最後に、もう一度冒頭と同じ、舞台劇「ジュリアス・シーザー」上演の様子がカラーで登場する。
冒頭と同じ映像であるにもかかわらず、観客は冒頭とはまったく異なる感覚でこの場面に見入る事となる。
囚人たちが、全身全霊を傾けて、ローマ帝国人になり切って役に没頭する姿は美しく、神がかり的なものを感じてしまう。

そして再度、独房に収監される、役者であった囚人たちの姿を捕らえて映画は終わる。
役割を終えて、ホッとした、というよりは、目標を失った虚脱感のような空気を、カメラは冷徹に捉えている。

 
映画館を出る時の我々観客も、今観たものは何だったのかと不思議な感覚に囚われてしまう。
あれはドキュメンタリーだったのか、ドラマだったのか、現実だったのか、夢の世界に浸っていたのか…さまざまな余韻が脳裏を離れない。

なお、エンド・クレジットでは確か、シーザー、ブルータス等の役名の後ろに演じた役者(=囚人)の名前が並んでいたのも、“やっぱりあれは役者が演じたドラマだったのか”と思わせる効果をもたらしていた。

あとでプロダクション・ノートを読んだら、演じたのはすべて本物の囚人であり、オーディションで述べた本人や家族の名前もすべて真実であると知って驚いた。
監督は囚人たちに、都合が悪いなら仮名にしてもよいと伝えたところ、なんと全員が本名、両親の名前から出身地まで明かしても構わない、と答えたという事だ。
囚人たちはむしろ、世界から隔離された状態にある自分の存在を、少しでもアピールしたい、塀の外にいる人々に、自分たちが元気に暮らしている事を伝えたい、だから積極的に役を演じることを望んだのだという。
撮影に際しては、刑務所側も、刑務所の中をどこでも自由に撮影することを許可したそうだ。

さすがは、ルネッサンス、イタリア・オペラを生んだ国である。同時にマフィアを生んだ国でもある。犯罪者も自己顕示意欲が強いのだろう。この2つが見事な化学反応をもたらしたと言うべきなのだろうが、そこに着目して、こんな不思議なドキュメンタリーを完成させたタビアーニ兄弟もまた素晴らしい。

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考えてみれば、映画の歴史のスタートは、実写映像(=ドキュメンタリー)である。

19世紀末期に、映画の開祖と呼ばれるリュミエール兄弟が公開した世界最初の映画は、駅のプラットフォームに蒸気機関車がやってくる情景を撮したもの(「ラ・シオタ駅への列車の到着」)や、工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を撮したもの(「工場の出口」)など、多くが“記録画像”であった。
日本で最初の映画(当時は“活動写真”)製作は、やはり「浅草仲見世」、「芸妓手踊」などの実写映像であった。
さらに、フィルムが現存する最も古い映画は、1899年に市川団十郎・尾上菊五郎が出演する歌舞伎の一場面を撮影した「紅葉狩」という作品(国の重要文化財に指定)であり、これもまた、役者の演技をドキュメンタリーとして捕らえたものである。

フィクションとしての劇映画も、考えれば役者が本物になり切って迫真の演技をするさまを記録した映像ではないのかとふと思う。

舞台劇は、演じる度に毎回役者の演技は変わる。円熟味を増しつつも、反面容貌は年を経るごとに衰えて行く。
だが、映画は、その時の役者の演技が記録されている。後になって再現しようにも不可能なものである(若い時とか、子役時代のものは特に貴重)。

また役者だけでなく、例えば、昭和20~30年代の映画には、ロケ先での、当時の建物や風景がそのまま写っている。これは貴重な記録である。
こうした映像が、後世いつまでも残る映画とは、まさにその時代の人間、風景、さらにはその時代の空気をも写した、すべてが記録映像と言っても差し支えない。

最近は、“シネマ歌舞伎”と称して、歌舞伎の舞台をそのまま記録した映像が映画館で上映されている。
これは果たして、ドキュメンタリーなのか、役者が演じる劇映画なのか…その境界は極めてあいまいである。

本作の鑑賞は、まさに貴重な体験であり、かつ改めて、映画とは、この不思議なメディアについて、あれこれと考えたくなってしまう。そういう点でも、この映画の価値は大きい。

タビアーニ兄弟、今年83歳と81歳になるが、年齢を感じさせない実験的な映画作りに改めて感動を覚えてしまう。
思えば、映画の開祖もリュミエール兄弟。映画に新しい歴史をもたらした「マトリックス」の監督もウォシャウスキー兄弟…。
映画の変革期には、なぜか兄弟が登場しているのも、これまた面白い。   (採点=★★★★☆

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(付記1)
ブルータスを演じたサルバトーレ・ストリアーノは、演劇実習により、演技に目覚めて、出所後は俳優に転向したそうで、本作でブルータスを演じる為に刑務所に戻ったという。

(付記2)
第24回パームスプリングス国際映画祭では、コジーモ・レーガ(キャシアス役)、サルバトーレ・ストリアーノ(ブルータス役)、ジョバンニ・アルクーリ(シーザー役)が国際批評家連盟賞外国語映画最優秀男優賞を受賞した。役者になったストリアーノはともかくも、2人の服役囚が演技賞を受賞したというのも、2人の熱演を褒めるべきか、囚人に演技賞を与える映画祭側も太っ腹と言うべきか、いやはや。

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コメント

こんばんは。

<客貧>へのご指摘ありがとうございました。恥ずかしいです。(汗)

さて、この映画。
この「劇映画と変わらないカット割りとモンタージュ」に
ぼくも眩惑されました。
どこまでが脚本で、どこまでが偶発的なものか…?
虚実の境目を往来しているようなこの不思議な感覚は、
これまで味わったことがないモノ。
映画には、まだまだ可能性があるという希望を垣間見させてくれました。

投稿: えい | 2013年2月20日 (水) 23:12

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