「ゴジラのトランク」
きみさんは、1917年、茨城県の大地主の末娘として生まれ、1937年にスクリプターとして東宝に入社。その2年後、本多猪四郎と出会い結婚、以後彼と苦楽を共にし、監督・本多猪四郎を陰で支えて来ました。
その本多猪四郎(本文では一貫して彼を“イノさん”と呼んでますので、以下“イノさん”に統一します)は、不運なことに、3度も赤紙(召集令状)を受け取り、戦地に送られた為に母子ともども、大変な苦労をします(盟友・黒澤明は反対に一度も召集されておりません)。
ようやく九死に一生を得て、日本に帰って来たのは1946年5月でした。この為、東宝入社は黒澤明よりも早かったのに、監督昇進は黒澤や同期の谷口千吉らよりずっと遅れて昭和26年でした。
しかしこの体験が後に生きる事になります。
中国大陸から生還し、上陸した門司から東京に向かう途中で広島を通過した時、原爆投下後の悲惨な状況を見てイノさんは、「俺は何のために戦っていたのだろう」「戦争は終わったけれど、原子爆弾はこれからどうなるのだろう。進み過ぎた科学ってやつは人間をどこへ連れていくんだろう」と思ったそうです。
この思いが、後に「ゴジラ」の監督を任された時に生きます。プロデューサーの田中友幸はこれを、“怪獣が出て来てぶっ壊しまくる娯楽映画”にしたかったようで、イノさんはそれでは引き受けられないと思ったそうです。
しかし、水爆実験が背景にある、と聞いて、イノさんは広島を通過した時の事を思い出します。「被爆地をこの目で見た者として伝えられる事があるはずだ」―そう考えて、イノさんは監督を引き受けます。脚本もイノさんが20日間缶詰めで書き上げ、帰宅時は10キロ痩せていたそうです。映画は過酷な戦地を体験し、かつ被爆地を目の当たりにしたイノさんの、“戦争と原爆”に対する思いが込められた奇跡的な傑作となりました。
これはまさに、イノさんでなければ作れなかった映画でした。他の監督であったなら、田中プロデューサーの意向に沿った“怪獣が盛大にぶっ壊すだけ”の映画になってしまったかも知れず、映画史に残る傑作にはならなかったでしょう。
その他にも素敵なエピソードがたくさんあります。
きみさんが東宝に採用された時、砧撮影所からほど近い武蔵荘という下宿に住む事になるのですが、そこには黒澤明、後に黒澤作品のプロデューサーとなる本木荘二郎などが住んでいました。
そして、この武蔵荘には連日のように、一番広い黒澤の部屋にイノさんや谷口千吉などが訪れて、きみさんや本木も加わって、酒を飲んでは映画談義に花を咲かせていました。
イノさんときみさんが愛を育んだのも、この武蔵荘の集いからです。
きみさんは、“武蔵荘の懐かしい日々はまさにわが青春時代”と述懐しています。まるで手塚治虫や寺田ヒロオや藤子不二雄ら若いマンガ家たちが住んでいた“トキワ荘”を思い起こさせますね。
読んでいて、ジーンとしてしまうのは、イノさんの人柄がとても素晴らしい点です。何事があっても怒らないし(夫婦喧嘩は一度もないそうです)、自分より他人を思いやる優しさがあります。その為、イノさん夫婦はいろんな人と家族同然の付き合いがあります。黒澤明とは生涯の親友でしたし、志村喬夫妻や、谷口千吉・八千草薫夫妻とも家族ぐるみで仲良くしていました。
そしてなにより、きみさんの文章の温かさです。イノさんへの限りない愛に溢れた文章は、読んでいて何度も胸が熱くなりました(取材し構成した西田みゆきさんによる所も大きいのでしょうが)。
きみさんは、現在96歳になりますが、ご健在です。いつまでもお元気で過ごされますように。
なお巻末に、親友・八千草薫さんとの対談が掲載されていますが、これも読み応えがあります。
タイトルにあるトランクは、イノさんが戦地から持ち帰ったもので、イノさんが死ぬまで封印され、開けられませんでした。
残念なのは、この本では開けられないままで終わっています。何が入っていたかは、この本の発売(2012.12.17)直後にNHK-BSプレミアムで放映された(2012.12.20)「イノさんのトランク」と題する番組で明らかになるのですが(戦地に届いたきみさんや黒澤明の手紙や手帳に記した従軍日記等が入ってました)、どうせならこの本にもその中身を書いて欲しかったですね。本は読んだけどテレビ番組を見逃した人には気になるでしょうから。そこがやや残念。
ともあれ、ゴジラや、本多監督や黒澤明監督に興味のある方には特にお奨めの本ですが、映画ファンにも是非読んでいただきたい素敵な本です。
参考URL:本多猪四郎オフィシャルサイト
「ゴジラのトランク」
「『ゴジラ』とわが人生」(本多猪四郎・著)
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