「許されざる者」 (2013)
2013年・日本
配給:ワーナー・ブラザース映画
監督:李 相日
原作:デビッド・ウェッブ・ピープルズ
アダプテーション脚本:李 相日
撮影:笠松則通
製作総指揮:ウィリアム・アイアトン
ゼネラルプロデューサー:小岩井宏悦、石田雄治
Co.ゼネラルプロデューサー:由里敬三、鳥羽乾二郎、佐々木史朗
クリント・イーストウッドが監督・主演し、第65回米アカデミー作品賞、監督賞ほか4部門を受賞した傑作西部劇「許されざる者」(1992)を、「フラガール」、「悪人」の李相日監督が舞台を北海道に移し、日本映画としてリメイクした異色作。主演はイーストウッド監督「硫黄島からの手紙」に主演しイーストウッドとも縁がある渡辺謙。脇を柄本明、佐藤浩市、小池栄子ら実力派が固める。
明治初期、かつて幕府の命の下、幾多の志士を斬りまくり、「人斬り十兵衛」と恐れられていた釜田十兵衛(渡辺謙)は、幕府崩壊後に戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争に敗れ、蝦夷地(北海道)の雪深い奥地へと逃亡した。それから11年、十兵衛はそこで得た最愛の妻と、二度と人を斬らないと約束し、真人間としての生活を送っていた。その妻とも死別した今は子供たちと農地を耕していたが、作物は実らず、生活は困窮していた。そこに、かつての仲間、馬場金吾(柄本明)が賞金首の話を持ってやって来た。十兵衛は子供たちとの生活の為、封印していた刀を再び手に取り、旅立つこととなるが…。
映画史に残る名作・傑作をリメイクするのは難しい。はっきり言って無謀である。どんなに頑張ったって、オリジナルを超える事はまず不可能である。黒澤明作品のリメイク「椿三十郎」(森田芳光監督)、「隠し砦の三悪人」(樋口真嗣監督)は案の定トホホな出来だったし、洋画の「死刑台のエレベーター」の日本版リメイク(緒方明監督)に至っては完膚なき惨敗であった。
ハリウッドにおいても状況は同じ。ワイルダー「麗しのサブリナ」のリメイク「サブリナ」、ヒッチコックの「ダイヤルMを回せ」のリメイク「ダイヤルM」、共に今では誰も覚えていない(笑)酷い出来だった。
こうした、リメイクが失敗する要因は、一つはオリジナルが文句のつけようがないほど完璧な出来で、どう弄ってもオリジナルと比較され、オリジナルのファンからケチをつけられる場合が多いこと、もう一つはオリジナルが、その時代の空気を敏感に反映していて、今の時代に作ってもマッチしない場合があること、等である。また昔はいぶし銀の名優がいたが、その人たちと釣り合う俳優も今は少ない、という問題もある。
さて、そんな無謀な試みにチャレンジしたのが、過去2本続けてキネ旬ベストワンに輝いた李相日監督。今や日本を代表する名匠となった李監督だけにちょっぴり期待はしていたが、予想を上回る力作に仕上がっていたのはさすがである。
(以下ネタバレあり)
李監督自らアダプテーションした脚本が秀逸。イーストウッド版(以下、“オリジナル”と呼ぶ)と同じ1880年を舞台としているが、これは日本では明治13年。旧幕府軍が壊滅した箱館戦争が終結してから11年後に当る。
冒頭で描かれる、幕府側だった十兵衛が勝った新政府軍に追われ、雪の中を北海道の山奥へと逃げ延びたのがその明治2年。つまり1880年とは、十兵衛が北海道でアイヌの妻を得、その妻に支えられて剣を捨て、妻と死別し、二人の幼子と共に平穏な生活を送るに至るまでの、11年という年数を経た現在というわけである。
北海道という舞台そのものが、未開拓の広大な原野が広がっている、という点でアメリカの西部を思わせるし、先住民(アイヌ)がいて、本土から乗り込んで来た開拓民が彼らを迫害する、という状況まで、西部開拓時代との共通性は多い。ここに着眼した李監督はさすがである。
そういう舞台と時代背景が用意されているから、その中にオリジナルの物語を嵌めこんでも、ほとんど違和感なく展開して行くわけである。よって、物語はオリジナル版とほとんど同じに展開する…ばかりか、細かいエピソードまでまるごと盛り込む(冒頭で、家畜を世話する主人公が家畜に蹴られて泥に顔を突っ込んだり、馬に乗ろうとして落馬したりとか)徹底ぶりである。
しかし、オリジナルと大きく異なる点が1つある。主人公の経歴と立ち位置である。
オリジナルの主人公、ウィリアム・マニーは、極悪非道な悪人だったが、妻のおかげで真人間になった男、という設定である。
対して、本作の主人公、釜田十兵衛は悪人ではない。徳川幕府を守る為、倒幕を掲げる尊皇派の人間を斬る事を命じられたのであって、職務を果たしただけである。片岡千恵蔵主演でよく作られた映画「新撰組」等においては、尊皇派を討伐する側(新撰組)は明らかに正義であった。時代が変わった為に、彼らは賊軍となって新政府から追われる側になってしまったわけである。
そういう意味では、主人公の立場はオリジナルに比べてずっと複雑で屈折したものになっている。
ただそのおかげで、本作はオリジナルのメインテーマである“正義とは何か”という問いかけを、別の角度から追求した作品にもなっているのである。
もう一人、重要な人物、鷲路の町の町長兼警察署長である大石一蔵(佐藤浩市)は、法と秩序を守る為に、暴力と恐怖で町を支配している。
オリジナルのジーン・ハックマン扮する保安官ビル・ダゲットとほぼ同じ設定である。
ここでは、警察署長(保安官)が絶対的な正義であり、他所から賞金目当てで町にやって来る男たちは“悪人”として排除すべき存在である。
警告したにも関わらず、十兵衛たちは賞金のかかった男2人を殺してしまう。面目を潰された大石は怒りのあまり、捕えた十兵衛の仲間、金吾を拷問の末殺してしまい、十兵衛は金吾の復讐の為、敵陣に乗り込み、大石や警察官たちを斬殺し、いずこともなく去って行く。
オリジナルもそうだが、この物語の中では、正義と悪が何度も転調する。
女郎の顔を切り刻んだ男たちは、女郎たちから見れば間違いなく許せない悪である。
その悪を、警察が罰してくれないから、賞金をかけて退治してくれる正義の味方を求めた。
だが、大石たち警察から見れば、もう罪がなくなった2人の男を殺す事は“悪”であり、2人を守る警察こそ正義である。
そして、友であった金吾を惨殺した大石たちは、十兵衛にとってはまさしく許せない“悪”となる。
しかし警察官たちを殺した十兵衛は、今度は重罪悪人として、警察から追われる事となるのである。
本当の“悪人”とは誰なのか…。このテーマは、李相日監督の前作「悪人」のテーマとも重なっている点も興味深い。
渡辺謙の堂々たる存在感、李監督の風格さえ備わった澱みない演出、さらに北海道の自然の風景をさまざまな角度から捕えた笠松則通のカメラ、いずれも素晴らしく、オリジナルに迫る力作になっている。
特に、北海道の自然の雄大さが強調される事により、それに比べて、些細な事でいがみ合い殺し合う人間とはいかにちっぽけな存在であるか、というテーマも浮かび上がり、この点ではオリジナルを超えていると言える。
ただ、本作にはオリジナルと同じ展開では、やや無理な点もある。そこが難点ではある。
オリジナル作品でイーストウッドが問いかけたのは、当時、世界の警察として国家間の紛争に介入して来た“アメリカの正義”に対する異議申し立てであった。
「グラン・トリノ」評でも書いたが、数多くの作品において正義のヒーローを演じて来たイーストウッドが、「許されざる者」において打ち出したテーマは、もはや暴力に対し、暴力で正義を振りかざす時代(即ち、アメリカが世界の正義であった時代)は終わったのだ、という点であった。
同時にまたこの作品は、たそがれ行く西部劇への挽歌でもあった。故にラストシーンにおいて、マニーは伝説となった事が暗示される。
そうした、西部劇としてのバックボーンが下敷きにある故、ダゲットが余所者を徹底して痛めつける所も、自警意識が強く、保安官が最高権力であるアメリカの西部でなら納得出来る場面であるのだが、本作での、明治政府が出来、法律が整備されたこの時代ではやや違和感がある。
ましてや警察が、捕まえた主人公の仲間を、手を下した犯人でもないのに拷問し、死なせてしまう、というのは当時の日本ではちょっとまずいだろう。幕末の新撰組ならあり得る話ではあるが。
オリジナルの西部劇の時代では、殺人を犯しても、その町から遠く離れれば、追求の手は及ばない事が多い。だから、“マニーはその後家族と幸せに暮らしました”という結末にも納得出来る。
だが、日本の明治時代では、警察官を殺したら全国指名手配でずっと犯罪者として追われる事となる。子供たちと幸せに暮らすというわけには行かない。
よって本作のラストはオリジナルと異なり、十兵衛は子供たちの元には帰らず、何処ともなく去って行く。子供たちの所にやって来るのは、若い五郎(柳楽優弥)となつめ(忽那汐里)の二人である。
ついでに言うと、十兵衛が町にやって来た時、大石が「こいつは人斬り十兵衛だ」と名指ししながらも、顔に傷をつけただけであっさり逃がしてしまうのも不自然。追っ手を皆殺しにした逃亡劇から11年しか経っていないのだから(ましてや隠れキリシタンを皆殺しにしたという風説があるくらいだし余計に)、警察としてはまず彼を殺人犯として逮捕し、留置場にぶち込むのが普通である。
ちなみにオリジナルでは、この時点ではダゲットは彼がマニーだとは知らない。後に捕まえたネッドを拷問して初めてマニーの名前を聞き出すのである。本作でも、彼が十兵衛である事を最初大石は知らない、とした方が無理がなかったのではないか。
そんな難点もあるが、それでも明治維新後の北海道を舞台に選んだ着想は素晴らしいし、役者も揃った見応えあるドラマには仕上がっている。何より、映画史に残る名作のリメイクに敢然と挑み、オリジナルに遜色ない力作を作り上げた李監督の手腕は、大いに評価すべきである。 (採点=★★★★☆)
(さて、お楽しみはココからだ)
本作はイーストウッド監督作品のリメイクという事もあってか、イーストウッド作品にちなんだお遊びも紛れ込んでる(ようだ)。
川辺で、アイヌの子供たちが何かを口に挟んで、ビョン、ビョン…という音を出してるシーンがある。
この音、よく聴くとイーストウッド主演「夕陽のガンマン」の主題歌で冒頭からビョン、ビョンとリズムを刻んで流れている楽器(ジューズ・ハープというそうだ)の音とそっくりである。
中盤で、國村隼扮する元長州侍、北大路正春が大石にボコボコにされ留置場に入れられているシーンで、大石が北大路にピストルを向け、「俺もこのピストルに何発弾が入ってるか分からない」と言う場面がある。
これ、イーストウッドがハリー・キャラハンに扮した「ダーティ ハリー」1作目で、銀行強盗犯人の一人がハリーに撃たれ、横たわりながらもライフルを拾おうとする相手に対し「俺も何発ぶっ放したか数えてないので、こいつに弾が残ってるかどうか分からない。試してみるか」と言うセリフとそっくりである。
李監督、意外と遊び心があるのかも知れない。
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コメント
こんにちは。
『ダーティハリー』『夕陽のガンマン』への目くばせの話にハッとしました。
ツイッターの方でご紹介させていただきました。
事後報告すみません。
投稿: えい | 2013年9月28日 (土) 09:58
◆えいさん
いえいえ、ご遠慮なく。
ただ、ちょっと無茶ぶりかな、と(笑)。
投稿: Kei(管理人) | 2013年9月29日 (日) 20:11
こんちは。
渡辺謙の過去は悪ではない。と言うのは実は全然、意識しませんでした。そう言えばそうだ。ただ、映画では「人を殺す=悪」のように見えなくもないから、すっかり騙されてしまった。確かに「大義のための殺人≠悪」なんですよね、あの頃は。ただ、冒頭の殺人は殊更に獣のように人を殺す十兵衛として描かれていたので、そういう地獄に戻りたくないでもギリギリ通るかな。こういう正義の拠り所をどことするかの収まりが悪い所が逆にこの映画の魅力な気がします。
蝦夷地は無法地帯で内地と一枚岩的な統治がなされていないので、権力者が好き勝手やれるって素地はある気がします。だから、拷問しても取り繕いはできそうだなあ。
投稿: ふじき78 | 2013年11月 2日 (土) 07:01
◆ふじき78さん
コメントありがとうございます。
“何が悪なのか”というのは、前作に続く、李監督が描く作品のテーマになっているようですね。観た人がそれぞれに、いろいろと考えてみてください、と監督は言っているような気がします。
蝦夷地は明治政府成立と同時に北海道と改称され、日本の法制下におかれる事となり、明治4年には司法省に警察権が統一された、と北海道史にあります。まあそれでも辺鄙な地域では監督が及ばない事もあったかも知れませんね。フィクションとして大目に見ておきましょうか。
投稿: Kei(管理人) | 2013年11月 5日 (火) 00:14
こんにちは。
この記事を読んで思ったことをつらつらと書いておきます。
私はあまり映画を見たことがなく、李監督の作品は『フラガール』しか見ていなかったのですけれど、ソレを見たときに「過去の作品を換骨奪胎しつつ現代日本でウケる風潮を取り込んだ映画」だと感じていました(類似するのは『プリティガール』、『ブラス!』、『リトル・ダンサー』、『フル・モンティ』、ほかにもあるでしょう)。そういった作風を持つ人なのだと勝手に認識していたのですが、『許されざる者(2013)』で直接リメイクに携わり、そこでもオマージュを欠かさなかったのですね。
そして、基となった作品の設定や演出を取り入れた結果生まれる「歪み」が『フラガール』にもあると私は考えていまして、『許されざる者(2013)』にも不自然な点が現れていると記事に書いてあり、ここにも共通点を見いだせてしまう。
と、本記事を読んで自分の中で身勝手に納得してしまいました。過去の遺産をリスペクトする姿勢はすばらしくとも、そこに必ずつきまとう「つぎはぎ感」、「難解さ」、「歪み・不自然さ」を克服できていないのだと。
投稿: 24 | 2013年11月12日 (火) 00:12
上の投稿記事、「プリティガール」ではなくて「プリティ・リーグ」でした。すみません。ちょうど見ていた他サイトをそのまま引用してしまって・・・・。
投稿: 24 | 2013年11月12日 (火) 00:42
◆24さん
コメントありがとうございます。
「フラガール」についてですが、これは実話を元にした、いわゆる Based on a True Storyものです。
常磐炭鉱が閉山になったとき、ハワイアンセンターを設立して地元の女性を集め、最初は馬鹿にされたりしながらも、地道な努力を重ね、成功に導いた…という実話に感動した製作者が企画した作品で、かなり事実に近いストーリーです。松雪泰子さんが演じていたダンサーのモデルとなった女性も実在しており、今も今でも講師として後輩を育てております。
そんなわけですので、決して「過去の作品を換骨奪胎しつつ現代日本でウケる風潮を取り込んだ映画」ではないと思いますよ。
李監督の前作「悪人」を見ても、骨太の秀作に仕上がっており、私は優れた映画作家だと高く評価しております。
「許されざる者」は、イーストウッド監督のオリジナルに惚れ込んだ李監督がどうしても作りたかったのでしょうね。ただ日本を舞台にして物語をなぞると、私が指摘したようなアラが出て来てしまうのは仕方のない事で、「それでも映画化したかった」監督の執念には敬服せざるを得ず、アラを差し引いても、力作には仕上がっていると思います。
「悪人」未見でしたら、是非ご覧になってください。これを観れば、李相日に対する評価も変わると思いますよ。
投稿: Kei(管理人) | 2013年11月13日 (水) 01:06