「小さいおうち」
昭和11年、田舎から出てきた純真な娘・、布宮タキ(黒木華)は、東京郊外に建つモダンな赤い三角屋根の家で女中として働き始める。その家では主人で玩具会社に勤める平井雅樹(片岡孝太郎)、その美しい妻・時子(松たか子)、5歳になる息子の恭一の3人家族が穏やかに暮らしていた。ある日、雅樹の部下である板倉正治(吉岡秀隆)という青年がこの家に出入りするようになり、時子の心は次第に板倉へと傾いていく。それから60数年後、亡くなったタキが残した大学ノートに綴られた自叙伝を読んだタキの親類・荒井健史(妻夫木聡)は、この小さいおうちで起きた事件とタキの秘密を知る事となる…。
山田監督、82歳。「男はつらいよ」を46本も監督し、その他映画賞に輝く数多くの名作、傑作を作って来た、今の日本では唯一とも呼べる巨匠である。
11年前には、藤沢周平原作の時代劇にチャレンジし、その1作目、「たそがれ清兵衛」は映画賞を総ナメする快挙を達成した。
その後も意欲作を作り続け、そして今回はこのお歳でなお、愛欲が渦巻くミステリー、というまたまた新しいジャンルにチャレンジし、水準を超える力作に仕上げた。素晴らしい事である。
あの黒澤明監督も、木下恵介監督ですらも、70歳を超えた頃からは目に見えて作品からパワーが衰え、ファンとしては物足りない出来だった事を思うと、これは大変な事である。本当に敬服せざるを得ない。
本作が描くのは、貞淑と思われていた人妻の、道ならぬ恋、今で言う“不倫”である。現代では罪ではないが、映画で描かれていた時代には刑法の「姦通罪」があり、旧刑法第183条では「夫のある女子が姦通したときは2年以下の懲役に処す」と定められていた。敗戦後の新刑法では廃止される事となったが、戦前では重罪だったのである。その事をまずは頭に入れておくとよい。
主人公たちの家庭も、これまで山田監督が描いて来た、つつましい庶民ではなく、女中を雇えるくらいハイソな、いわゆるプチブル階級である。これもまた異色である(もっとも、監督がオマージュを捧げる小津安二郎監督作品には、「晩春」をはじめプチブル家庭はよく登場しているが)。
(以下内容に触れます。注意)
この映画が描こうとしたものは、大きく2つ、小さなおうちで起った、貞淑な妻の小さな過ち=不倫とそのてん末、そしてもう一つは、昭和10年代の日本が次第に戦争に突き進んで行く時代に生きる人々の生活である。
良き夫と子供がおり、何不自由ないはずなのに、若い男に身も心も寄せて行く妻・時子の心理は不可解だが、次第に戦況が不利になって行く中で、どこか不安が増殖し、心のバランスが崩れて行ったのではないだろうか。
そのきっかけを、台風が吹き荒れた為に板倉が平井家に泊る事となった夜とした辺りがうまい。嵐は人の心を狂わせるのである。
戦況が悪化する様子を、ガラス窓にいつしか米の字に紙テープが貼られていったり、灯火管制が敷かれたり、家庭から鉄類(鍋、釜)が徴収されたりといった描写を積み重ねる事で示しているのもいい。
最初の頃(昭和11年)には、東京オリンピックが4年後に開催される事が決まったり(その後中止)、日中戦争で南京陥落の報に雅樹が「これで4億の市場が開ける」と喜び勇んだりと、国民がイケイケの気分であった事が描かれるが、当時の気分が今の時代と似ているのではないかというのが山田監督の思いなのだろう。
こうした空気と、平井家の事件をすべて見ていた女中・タキの目と、さらにその経過とてん末を綴ったタキの自叙伝を現代の若者・健史が読む、という多重構造にした物語の組み立てが面白い。
それにしても本作は、これまでの山田作品にはほとんど登場しなかった、性的なニュアンスが色濃く漂う。
板倉の下宿を訪れた時子が、部屋の手前で板倉に手を掴まれ、引っ張り込まれる描写はハッとさせられるし、タキが時子の素足をマッサージするシーンも、何やら妖しい雰囲気が漂う(その前に伏線として、時子の旧友が、時子は女学校時代に同性の憧れの存在だったとタキに語っている)。
松たか子は「夢売るふたり」(西川美和監督)でも艶めかしいシーンを演じていたし、こういう役柄にはピッタリの適役である。
それでも、こういうシーンを描いても、さすが山田洋次、格調と品位を保っているのはさすがである。間接的な描写と、タキの目ざとい観察眼で、ちゃんと不倫である事を示している。
ただ、雅樹も鈍感というか不注意である。独身男性である板倉の家へ人妻を何度も行かせる事自体、この時代では、何もなかったとしても誤解され易いし、あらぬ噂を立てられかねない。
やがて板倉が出征する事となった時、時子は最後の別れをする為に板倉の下宿に行こうとするのだが、ここでタキが時子を行かせまいと必死で説得するシーンが白眉である。
揺れる手持ちカメラでワンショットで捕えたこのシーンは予告編でも使われているが、これが主人思いのタキの誠意、と思わせて、実は終盤である遺品が登場する事によりどんでん返しとなる。
タキの真意はどこにあったのか、これが最大のミステリーとなっている。映画ではその真相は隠されたままであるので、観客があれこれと想像するしかない。
まず、あれはどう考えても、タキは時子と板倉を会わせたくなかったという事である。
その理由は何なのか…。それより何より、タキは手紙を持って出て、板倉の下宿に行ったのかどうか、という点である。
[私は行った、と考える。しかし時子の手紙は渡さなかった。では何しに行ったのか、という事になる。
実は、タキも板倉に密かに思いを寄せていた。その思いを打ち明けたのではないだろうか。
その伏線となるのは、現代のタキの家に飾られていた絵である。そこにはあの赤い小さなおうちが描かれていた。
それを描いたのは、戦後画家となった板倉以外にありえない。つまり、戦後に復員した板倉はタキに会っているという事である。
私の推測だが、タキは板倉に思いを寄せていたが、時子夫妻が空襲で死んだ事を知り、二人を最後に会わせなかった事を激しく後悔したのだろう。
タキは板倉を好きだったが、時子への贖罪意識から、板倉とは結婚しないと心に決めた。板倉はその思いを理解し、せめてもの想い出にあの絵をタキにプレゼントしたのだろう。]
タキは自叙伝を書き上げた後、「私は長く生き過ぎた」と慟哭するのだが、これは、一番罪の重い自分だけが一番長生きしてしまった事への後悔であろう。
この物語は、“罪”が大きなテーマである。
時子が板倉と逢瀬を重ねた事が、まず罪である(当時の法的にも)。
その事を知り、ある意味嫉妬心から、時子と板倉との最後の別れを妨害したタキの行為もまた小さな罪である。
だが当時、日本全体が戦争に突き進み、国民の多くも疑う事なくその流れに追随し、破滅の道に至ってしまった。
その事自体が、日本人が背負った大きな罪ではないだろうか。山田監督はその事を言いたかったのだろう(注)。
黒木華が素晴らしい。いかにも昭和初期の田舎にいそうな、純朴で働き者の女性らしい雰囲気が見事に伝わって来る。本年度の助演女優賞は当確だろう。
82歳、82作目の新作において、山田洋次監督はまたまた新境地を開拓したと言えるだろう。本当に敬服に値する。まだまだ元気に、映画を作り続けて欲しいと願う。 (採点=★★★★☆)
(注)先日、テレビ「徹子の部屋」を見ていたら、ゲストの山田洋次監督が本作について、同主旨の事を言っていた。
(付記)
ところで、山田監督について調べていたら、興味深い記事を見つけた。
山田監督とは脚本を共作する等、長い付き合いである森崎東監督への、山田監督についてのインタビューなのだが、それによると、山田洋次は戦前、満州の高級官僚(つまりプチブル階級)の家に生まれ、田舎から出て来た女中を雇っていたが、彼女は山田少年をとても可愛がってくれてたらしい。ある日その女中と一緒に映画を見に行ったら、彼女が映画を見ながらボロボロ泣いた。それが山田少年にはとてもショックだったという。昼間はかいがいしく働いている女中の別の一面を見て、普段の仕事では見せないけれども、女中とて人間であり、時に感情を表に出す事もあるという事を知る。この体験が、山田映画の原点になっているのではないだろうか、というのが森崎氏の意見である。(キネマ旬報刊・「世界の映画作家」No14より)
つまりは本作は、山田洋次自身の幼少期の体験とも繋がっており、山田監督がこの原作を読んで惚れ込み、映画化を決意したのもその原体験が心の隅にあったのではないかと思われる。
本作は原作以上に、タキが女中の仕事を超えて、自分の感情を表に出し行動する、あるいは裏の一面を隠し持っている、という部分に特に演出の力点が置かれているように思えたのだが、それもこの山田自身の体験がベースになっていると思えば十分納得出来るのである。
(さらに、お楽しみはココからだ)
この作品にも、前作「東京家族」と同様、小津安二郎作品へのオマージュが随所に見られる。
冒頭、火葬場の煙突から煙が立ち昇るシーンは、小津作品「小早川家の秋」(1961)のラストに、ほぼ同じようなシーンが登場している。
また、健史の家のシーンで、小津作品ではお馴染みの、赤いヤカンがさりげなく出て来る。
平井家の廊下を低い位置から捉えたショットも小津アングルを思わせる。
小津作品と言えば、娘の結婚とか親子の断絶とか、家族・親子関係の機微を描いた作品が多く、本作のような不倫とか三角関係とかのドロドロした話とは無縁のように思われがちだが、実は結構暗い話も撮っている。
1956年の「早春」は、妻のいるサラリーマン(池部良)がオフィス・ガールと不倫をする話であるし、「風の中の牝鶏」(1948)では終戦後が舞台で、5歳の子供がおり、夫がまだ復員せず生活が苦しく、子供の入院費の為に一夜だけ過ちを犯してしまう(売春)という話である。
ちなみに、その主人公の妻(田中絹代)の名前が、時子であるというのも、不思議な偶然ではある。
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コメント
黒木華さんがベルリンで受賞したようです。
最優秀女優賞に黒木華さん ベルリン映画祭
http://www.asahi.com/articles/ASG2J0RNCG2HUCLV00M.html
投稿: タニプロ | 2014年2月16日 (日) 08:11
◆タニプロさん
ベルリン銀熊賞 受賞しましたね。
昨年度はいろんな映画賞の新人賞を総ナメしましたが、今年は本作で主演または助演女優賞を独占する予感がします。受賞がさらに後押しするでしょうね。
山田監督いわく「日本一割烹着が似合う女優」だそうですが、今年はSTAP細胞の小保方さんと合わせて、“割烹着”がラッキー・アイテムになりましたね(笑)。
何はともあれ、受賞効果で本作に足を運んでくれる観客が増えてくれればさらにありがたいですね。
投稿: Kei(管理人) | 2014年2月19日 (水) 01:00
たしか「キャタピラー」の時に若松孝二が寺島しのぶさんに「世界一モンペが似合う」とか言ってたような・・・。違いましたっけ。
投稿: タニプロ | 2014年2月22日 (土) 03:24
◆タニプロさん
若松監督のインタビューを読んだら、
「これほど『もんぺ』が似合う女優さんはいない」
と言ってたようですよ。
http://www.loca-niigata.net/interview/caterpillar/
ま、同じようなもんですが(笑)。
投稿: Kei(管理人) | 2014年2月23日 (日) 15:15
「小さいおうち」には胸震えました!山田映画でこんなに心ざわめいたのは初めてかもしれません。
平成の時代まで開かれなかった手紙は、パンドラの箱。戦前の東京オリンピックを控えた時代と、今がリンクしてくる戦き!
山田監督は紛れもなく進化してますね。
投稿: 牧村利光 | 2014年3月21日 (金) 02:29
◆牧村さん
本当に、80歳を超えても次々新しいジャンルに挑戦し、秀作を作り続けている山田監督には敬服しますね。
戦時中の日本人と時代の空気については、「母べえ」でも描かれていましたが、本作はさらに、ミステリー的要素も加わっている点が新しいですね。
この先どこまで進化するのか、目が話せませんね。
投稿: Kei(管理人) | 2014年3月23日 (日) 01:01
録画で見ましたが感動しました。
山田洋二監督の最近作でも出色の出来ではないでしょうか。
やはり黒木華が凄いですね。
彼女はどの役でも別人の様に役になりきってますね。
彼女の演技が素晴らしいのでラストは泣けました。
投稿: きさ | 2015年3月22日 (日) 07:43