「アクト・オブ・キリング」
2012年・デンマーク・ノルウェー・イギリス合作
配給:トランスフォーマー
原題:The Act of Killing
監督:ジョシュア・オッペンハイマー
共同監督:クリスティン・シン、匿名1名
製作:ジョシュア・オッペンハイマー、シーネ・ビュレ・ソーレンセン
製作総指揮:エロール・モリス、ベルナー・ヘルツォーク、アンドレ・シンガー、ヨラム・テン・ブリンク、トシュタイン・グルーテ、ビャッテ・モルネル・トゥバイト
1960年代インドネシアで行われた大量虐殺を加害者側の視点から描いたドキュメンタリー。監督はアメリカ出身のドキュメンタリー作家、ジョシュア・オッペンハイマー。アカデミー賞・ドキュメンタリー長編賞にノミネートされた他、山形国際ドキュメンタリー映画祭2013インターナショナル・コンペティションで「殺人という行為」のタイトルで上映され、最優秀賞を受賞。
1965年から66年にかけて、インドネシアで軍部を中心としたクーデターが起き、その過程で共産主義排除を目的として、100万人規模とも言われる大虐殺が発生した。事件の真相は闇に葬られる一方、殺害を実行した者たちは罪に問われることなく、今なお国民的英雄として平穏な日常を送っているという。
この映画は、当時殺人を実行した加害者たちにレンズを向け、さらにカメラの前で彼らに殺戮の模様を再現させ、その衝撃の真相を明らかにしていくと共に、その事によって加害者たちがどう変化して行ったかを余す所なく記録した、衝撃のドキュメンタリーである。
まさに驚く事ばかりである。カンボジアでの、これも100万人規模の虐殺については映画「キリング・フィールド」等で我々も知っていたが、インドネシアでも同規模の大量虐殺があったとは不覚にも知らなかった。
だがそれも仕方ない。この事実はインドネシア国内でもタブーとなっており、今に至る歴代政権もこの事件の詳細を明らかにしたがらないという。
一種の、国家的恥部になっているのかも知れない。
また、共産主義者大量虐殺という衝撃的事実に触れたくないのか、西洋諸国もこれまで黙殺して来たという経緯もある。
殺害実行犯たちが、罪に問われる事なく、国民的英雄としてもてはやされ、悠々自適の生活を送っているという事実にもまた驚く。
この映画は、10年前にインドネシアの労働者の実態をドキュメンタリーとして撮影していたオッペンハイマー監督が、労働者たちから過去の虐殺の事実を知らされ、それから10年に亘って取材を続け、完成させたものである。
実はオッペンハイマー監督は当初、殺された被害者家族を取材しようとしたのだが、軍側が脅迫や妨害をして来た為、それは断念せざるを得なかったのだという。
そこで、それならと加害者の方を取材対象にしたというわけである。
オッペンハイマー監督は、そうした加害者たちの取材を2年間にわたって続け、そして41人目に、1,000人以上もの共産主義者を手にかけたとされる、アンワル・コンゴという男にたどり着く。
アンワルは、カメラに臆することなく、自慢げにどうやって殺したのかと、その時の行為をカメラの前で再現して見せる。
最初は武器を使って殺していたが、血が大量に流れるので、針金を首に巻いて引っ張るという方法を考案したと得々と語るシーンには気分が悪くなる。
アンワルとその周囲の人たちへの取材と撮影は5年間にもわたったという。この監督の執念と肝の据わり方にもまたまた驚く。
やがてアンワルと親しくなった監督は、彼に殺人の模様を映画の中で再現してみないかと持ちかける。
アメリカ映画のファンだというアンワルは、嬉々としてその申し出を受け、仲間たちとそれぞれ被害者、加害者役を演じて見せる。
血ノリまで使って、極力リアルに再現しようと懸命になる姿はどこかおかしくて、かなりブラックユーモア的である。
取材対象者にここまで深入りするオッペンハイマー監督の果敢なる突撃精神、わが日本のドキュメンタリーの傑作「ゆきゆきて神軍」を撮った原一男監督を思い起こしてしまう。あの映画の主人公・奥崎謙三もかなりブッソウな人物だった。
アンワルは、殺される被害者の役も演じるのだが、その後、アンワルに大きな心の変化が訪れる。
殺害のあった現場にやって来たアンワルは、やがて気分が悪くなり、何度も嘔吐してしまう。
殺される側の役を演じた事で、初めて自分が殺した人たちも、自分と同じ、子供も家族もいる“人間”である事に思い至ったのだろうか。あるいは、“殺される”という事がどれほど恐怖であり、精神的に耐えられない事であるかを身を持って知ったからなのだろうか。
いずれにしても、この映画に参加させた事によって、数千人を殺した殺人者に少しは罪の意識を感じさせた事で、我々はちょっとだけ安堵し、胸の痞えがおりる事となるだろう。
だが、我々は単にこの映画について、“残酷な殺人者が、最後は罪の意識に目覚めました”という結末だけで満足してはいけないと私は思う。
アンワルという、一個人を裁いた所で、何も解決したわけではないのである。
その背後にあるもっと大きな問題…、国家が軍隊や民間組織を使って、大量の殺戮を行った、その罪はまったく問われていないのである。
アンワルは、その大量殺戮の、ほんの千分の一、の役割を担ったに過ぎないのである。
よく、人の命は、地球1個よりも重い、と言われる。
人を1人殺せば、裁かれ、重罪に問われる。汝殺すなかれと、聖書にもある。
だが一方で、戦争や内戦では、夥しい数の人が殺されている。いや、殺し合いを行っている。
敵の人間を、少しでも多く殺す事が勝利の道であり、多くの敵を殺した兵士が賞賛される。
この大いなる矛盾。
チャップリンが監督・主演した「殺人狂時代」という映画の中でチャップリンは、「一人を殺せば殺人だが、百万人を殺せば英雄だ」という有名なセリフを吐く。
この言葉が、人類の抱えた矛盾を端的に象徴している。
アンワルたちが行った虐殺は、“殺人”と考えたら許せない行為だが、一種の“内戦”と考えれば、彼らは軍の指令の元で、(国を滅ぼす元凶と彼らが位置づけた)共産主義者を殲滅する戦闘行為を行ったに過ぎない。
だから、彼らの行為は、“国を守った英雄的行動”、“正義の戦い”という事になるのである。
第二次大戦でも、空襲や原爆投下で何の罪もない、何十万人という民間人が殺されたが、特に原爆投下についてはアメリカ人の多くが“戦争を終わらせる為にはやむを得なかった”と思っているのはよく聞く話である。
このドキュメンタリー映画を観て、改めて、戦争という名の、人類の抱えた大いなる矛盾について考えてみるのも、意義のある事かも知れない。 (採点=★★★★☆)
(蛇足)
タイトルの「アクト」とは、直接的には“行為”という意味だが、映画俳優の事を「アクター」と呼ぶように、“演技する”という意味もある。
従って本作のタイトルは、「殺人という行為」という意味と、アンワルたちが殺人を再現する為に行った「殺人の演技」という、2つの意味を兼ねているのである。秀逸なタイトルである。
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