「野のなななのか」
雪降る冬のある日、孫のカンナ(寺島咲)と一緒に暮らしていた元病院長、鈴木光男(品川徹)が他界する。告別式や葬式の準備のため、離れ離れに暮らしていた鈴木家の面々が古里に戻ってくる。光男の2人の息子はすでに他界し、82歳の光男の妹・英子(左時枝)以外は、孫にあたる冬樹(村田雄浩)、その娘・かさね(山崎紘菜)、冬樹の弟春彦(松重豊)とその妻節子(柴山智加)などであった。そこへ突然、謎の女・清水信子(常盤貴子)が現れる。彼女は何者なのか。やがてゆかりの人々によって、終戦直後に樺太にいた光男の過去が明らかになって行く。そして、死者を送る“なななのか(=四十九日)”の日がやって来た。
今年で76歳になる大ベテラン、大林宣彦監督だが、映画作りにかける意気込みはまったく衰えを見せていない。2年前に、大傑作「この空の花 長岡花火物語」を発表してファンを狂喜させたが、本作も前作同様、過去と現在を縦横に行き来し、三池炭鉱があった北海道芦別市の歴史、1945年8月15日の終戦以降もソ連軍が侵攻し、戦争が続いていた樺太の悲劇、さらにこれも前作同様、3.11の東北大震災の記憶までもコラージュされ、中原中也の詩文も飛び出すは、死者であるはずの光男も何度も画面に登場して生者に語りかけるは、と奔放かつダイナミックな映画作りは前作に引けを取らない。
前作も2時間40分と長かったが、本作はさらに長い2時間51分もある。それでも、退屈する事も、ダレることもなく一気に見終えたのだから凄い。まさに大林演出マジック健在である。
タイトルにある“なななのか”は、7×7日=即ち仏教の“四十九日”を指す。
四十九日までは、霊がこの世とあの世の中間に留まり、五十日目で成仏する。だから死んだ光男はその間、まるで生きているかのように生者と交流し、残された者たちに思いを伝え続ける。
特にテーマとなっているのが、「人は誰かの代わりにこの世に生まれ、誰かの代わりに死んでゆく」と字幕で表わされる、いわゆる“輪廻転生”の死生観である。
そう考えれば、謎の女、清水信子は、ひょっとしたら誰かの転生した姿ではないか、とも思えるのである。
前作でも触れた、3.11で亡くなった人々への鎮魂が本作にも登場するが、生きている人は、亡くなった人の分まで生き続けなければならないのだという思いが、生者と死者が交流する本作においてはより強調される事となる。
光男の過去に登場する樺太の終戦秘話は、映画「樺太1945年 夏 氷雪の門」(1974・村山三男監督)でも描かれていたが、日本の敗色が濃厚になった大戦末期、樺太を奪還したいソ連が、日本との不可侵条約を一方的に破って樺太に侵攻し、民間人も含めた多くの日本人が犠牲になった。この戦闘が終結したのは、無条件降伏を受け入れた8月15日より18日も後の9月2日であった。
あまり知られていない、こうした理不尽な戦争の悲劇が、映画の舞台にも近い北方領土であった事を、大林監督はどうしても伝えたかったのだろう。
戦争で、震災で、多くの人の命が失われたが、それらの犠牲を無にしない為にも、これからの未来を生きる若い人たちに明日への希望を託したいとする大林監督の思いは、熱いほど伝わって来る。
随所に登場する、美しい芦別の風景も見どころである。
ただ、前作では、“長岡花火大会の成功”という大きな目標に向かって人々が突き進み、そのクライマックスにおける怒涛の如き絢爛たる映像の乱舞に圧倒されたが、本作にはそうしたクライマックス部分がない為、前作と比較すると、やや物足りなさを覚える面もある。
が、それは前作が、さまざまな偶然や奇縁がもたらした、奇跡のような大傑作であったが故で、前作を観ていなければ、やはり奔放な映像とセリフの洪水に圧倒される事だろう。力作であるのは間違いない。
本作ではまた、「ふたり」や「あした」、「その日のまえに」など、これまでも大林映画に再三登場していた、死者を悼み、死者の魂と交流する事によって、生きる事の大切さを問いかける、というテーマが、前作以上に、よりストレートに訴えかけられている点にも注目すべきだろう。
そして、前作の花火に代わって、祝祭として登場するのが、沢山の楽器を抱えた、野の音楽隊の一団である。
雪の中、春の野原と、いろんなシーンに登場するこの楽隊は、ちょっとF・フェリーニ監督の映画(「8 1/2」等)を連想させたりもする。
ただ、ちょっと出すぎの感もあるが(苦笑)。
ともあれ、3時間近い長尺映画の中に、テーマをぎっしり凝縮し、描ききった本作は、やはり本年を代表する傑作だと言えよう。大林監督作品を観て来たファンは必見であるが、そうでない人にも是非観ていただきたいと思う。 (採点=★★★★☆)
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