「ノア 約束の舟」
2014年・アメリカ/パラマウント=リージェンシー
配給:パラマウント
原題:Noah
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル
製作:スコット・フランクリン、ダーレン・アロノフスキー、メアリー・ペアレント、アーノン・ミルチャン
旧約聖書「創世記」の中の1エピソード、「ノアの箱舟」の物語を大きく膨らませ、壮大なスケールで描くスペクタクル巨編。監督は「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキー。主役のノアを演じるのは「レ・ミゼラブル」のラッセル・クロウ。その他ジェニファー・コネリー、アンソニー・ホプキンス、「ハリー・ポッター」のエマ・ワトソン等多彩な顔ぶれが並ぶ。
ノア(ラッセル・クロウ)はある夜に見た夢で、世界が大洪水に飲まれ滅びるという事を予感する。強い使命感に突き動かされたノアは、嘗て人間と共に地上に降りた“番人”の力を借りて、数多くの動物たちを乗せる巨大な箱舟を作り始める。ノアの父を殺した宿敵トバルカイン(レイ・ウィンストン)は、群集を扇動してノアから力づくで箱舟を奪おうとするが、争いの最中に大洪水が始まってしまう。箱舟はノアの家族と動物たちを乗せて流されるが、舟にはトバルカインも忍び込んでいた。一方、神の意思を信じるノアは、ある恐ろしい計画を心に秘めていた…。
旧約聖書「創世記」については、1966年、イタリアのディノ・デ・ラウレンティス製作により映画化された作品が有名である。原題はずばり"The
Bible...in the beginning"。邦題は「天地創造」だった。監督はジョン・ヒューストンで、天地創造に始まり、アダムとイヴの誕生とかのいくつかのエピソードを羅列し、アブラハムの試練までを描いたもので、ノアの箱舟のエピソードは中盤に登場する。ノアを演じたのはヒューストン監督自身。創世記のエピソードを単にダイジェストして並べただけの散漫な作品であった。ただ豪華スターの顔見世と、70ミリフィルムで撮影されたスケール感あるSFXは、CGが無い時代にしてはよく頑張っていて、その辺りは見どころである。
当時は「十戒」とか「ベン・ハー」とか「偉大な生涯の物語」とか、聖書を題材としたスペクタクル超大作が多く作られていた時代で、同作もその流れに沿ったものである。
「創世記」をさらっとおさらいするにはピッタリの映画である。機会があれば観ておいて損はないだろう。
同作でのノアの箱舟のエピソードは、創世記にある通りそのままで、ノアが天から聞こえてきた神の声に従い、箱舟を作り、動物のツガイを乗せ、やがて大洪水によって箱舟に乗ったノア一族以外の人間がすべて滅び、箱舟が海をさまよった末にアララト山に漂着するまでが描かれる。
本作も、大筋ではほぼこのエピソードの通りである。
(以下、物語の内容に触れます)
だが、本作は重要な部分において、創世記(およびその映画化の「天地創造」。以下、これらを“原典”と呼ぶ)とは大きく異なる作品になっている。
一番の相違点は、ノアのキャラクターで、原典ではノアは神の教えを忠実に守る、無垢で善良な人物である。
対して本作では、神の意思をおもんばかる余り、“人類はすべて根絶やしにすべきである”という、一種の狂信的な観念に取り憑かれている、ファナティックな人物として描かれている。
その為、息子セムの妻であるイラ(エマ・ワトソン)が妊娠した事を知ると、その子が女の子であった時は殺すと宣言する。
原典では、神はノアにこれから起きる事を詳しく知らせ、また細かい指示を出している。舟の縦横高さのサイズはいくらで、乗せる動物は、清い動物は7つがい、清くない動物は1つがいづつとかまで指示している。ノアはすべてそれらの指示を忠実に守る。
だが本作では、実は神の声は一度も映画の中では聞こえていない。ノアが夢の中で地表が水没する光景を見たシーンが登場するだけである。だから、本当に神がノアに、すべての人類を絶滅せよと命じたかどうかは不明なのである。
ここらがまさに、アロノフスキー監督らしい人物造形である。ノアの人物像は、前作「ブラック・スワン」における“完璧さを求め過ぎたあまり、妄想に取り憑かれ、精神に異常をきたしてしまう”主人公・ニナ(ナタリー・ポートマン)の姿と重なる。
“人類は絶滅すべきである”というノアの信念は、ひょっとしたら神の意思ではないかも知れないのに、そう思い込んでいるノアは、一種の狂人に近いとも言える。
原典では、ノアの3人の息子にはそれぞれ妻がいて、神は3人の息子の妻が子供を産み、その子孫が存続する事を許可している。
ノアのような善良で神の教えに忠実な男の子孫なら、悪がはびこる以前のような世の中にはならないだろう、という事なのだろう(実際はやはり悪ははびこってしまうのだが)。
本作ではその点も考慮し、イラは最初は怪我で子供が産めない体であり、次男ハム、三男ヤフェトにも妻はおらず、ハムが妻にしようとした少女ナエルはノアが見殺しにする等、いろいろ改変が加えられている。
そのイラは、不思議な力を持つノアの祖父メトシェラのおかげで、奇跡的に子供が産める体になるのだが、その事自体が、神は人類を絶滅させる意思はない事を暗示している。
そしていよいよクライマックス、舟がアララト山に到着し、産まれたイラの双子の娘をノアが殺そうとするシーンとなる。
ここでノアは赤ん坊に手をかけようとするが、どうしても殺せない。
狂信的だったノアの心の中にも、まだ一片の人間らしさが残っていたという事なのだろう。
ここが、本作の重要なテーマである。
即ち人間は、絶対的な神の意思に忠実であるべきか、それとも神に背いてでも、命の大切さ、生きる事のかけがえのなさを選ぶべきか、という事である。
ノアは最後に、(自分が思い込んでいた)神の意思に背き、人間らしさを取り戻す。
もし神が“人類を絶滅させよ”と本当に命じたのであれば、ノアは神の意思に背いた事になり、罰せられるはずなのだが、そうはならなかった。
これは見方によっては、本当は神は人間を絶滅させる気はないのに、わざと過酷な試練をノアに与えて、彼が神に忠実かどうか試した、と見れなくもないが(注)、私はむしろ、
“人間は神の思し召しだとか、余計な事を考えず、常に人間らしく、人を愛し、生きるべきである”という作者の意思を感じた。
逆に考えれば、神なんて、人間を虫ケラのようにしか考えていない、傲慢な存在である、そんなものに頼る必要はない、とも感じ取れる、と言えば言いすぎだろうか。
本作が、一部のキリスト教信者から反撥を受けているのは、そういう所にも原因しているのだろう。
聖書の映画化というより、聖書をベースにして、人間という存在、人間らしく生きる意味について考えさせられる、まさにアロノフスキー監督らしい、これは問題作である。 (採点=★★★★☆)
(注)
この点については、創世記22章の「アブラハムの試練」のエピソードを参考にしているのではないかと思える。
これは、神がアブラハムに、彼の息子イサクを生贄として捧げよと命ずる話で、それでもアブラハムは神の命に従おうとする。
イサクの上に刃物を振り上げた瞬間、神はその行動を止めさせる。アブラハムが、神の命に絶対忠実な人間であると分かったからである。まあ一種のフェイントである。ほんと、神というのはなんて傲慢で尊大で、残酷な事を考えるものだと私などつくづく思ってしまう。
ちなみにこの話は映画「天地創造」の最終エピソードであり、ジョージ・C・スコットがアブラハムを演じている。
(で、お楽しみはココからだ)
原典には登場しないキャラクターとして、“番人”と呼ばれる、全身が岩石の堕天使が登場するのだが、この造形を見てて思い出した作品がある。
高畑勲監督の東映アニメ「太陽の王子 ホルスの大冒険」(1968)である。
これに登場する、全身が岩石で出来た岩男・モーグ(右)というキャラクターが、番人とよく似ているし、最初は訝っていたがやがて主人公の心強い味方になって行く、という展開まで本作と似ている。
原作が北欧神話である、という点も興味深い。
この作品は、高畑勲監督のデビュー作であると同時に、宮崎駿が場面設計・原画で参加し、宮崎アニメの原点ともなった作品である。
もう一つ、ノアが祖父メトシェラからもらった種を植えると、もの凄いスピードで成長し、あっという間に森が出来るシーン。
これも、宮崎駿監督「となりのトトロ」(1988)で、トトロからもらった種をサッキたちが庭に植えると、ある夜突然、猛スピードで木が生長する夢のシーンを思い起こさせる。
どちらも、原典には出て来ないオリジナル・エピソードである。アロノフスキー監督、宮崎駿監督のファンなのだろうか。
もっとも、宮崎アニメには、大雨で洪水となり、陸地が水没してしまう、というシーンがよく登場するし(「パンダコパンダ・雨ふりサーカスの巻」、「崖の上のポニョ」など)、「未来少年コナン」でも冒頭で地表のほとんどが水没していたり、「風の谷のナウシカ」では“火の7日間”(7日は、神が天地を創造した期間と同じ)で人類が滅亡の危機に晒される、といった具合に、創世記からヒントを得たらしきエピソードがよく登場する。
宮崎アニメと、「ノアの箱舟」エピソードとは、昔から縁が深かったのかも知れない。
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