「マレフィセント」
2014年・アメリカ /ロス・フィルム
配給:ディズニー
原題:Maleficent
監督:ロバート・ストロンバーグ
脚本:リンダ・ウールバートン
撮影:ディーン・セムラー
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
製作:ジョー・ロス
製作総指揮:アンジェリーナ・ジョリー、マイケル・ビエイラ、ドン・ハーン、パラク・パテル、マット・スミス、サラ・ブラッドショー
ディズニー・アニメの名作「眠れる森の美女」(1959)を、アニメでは邪悪な魔女とされていたマレフィセントの視点から描いた実写3D映画。監督は「アバター」、「アリス・イン・ワンダーランド」のプロダクションデザインでアカデミー美術賞を受賞したロバート・ストロンバーグ。これが監督デビュー作である。マレフィセントを演じるのは製作総指揮も兼ねるアンジェリーナ・ジョリー。他にオーロラ姫役でエル・ファニング、その幼少期をジョリーの娘ヴィヴィアン・ジョリー=ピットが演じているのも見所。
とある王国に、待望のプリンセス、オーロラ姫が誕生し、盛大なお祝いのパーティが開かれた。ムーア国から親善でやって来た3人の妖精たちもオーロラ姫を祝福した。そこに、“魔女”と恐れられる邪悪な妖精マレフィセント(アンジェリーナ・ジョリー)が現われ、“16歳の誕生日の日没までに、姫は永遠の眠りに落ちるだろう。そして、それを解くことができるのは真実の愛のキスだけ”と恐ろしい呪いをかけてしまう。呪いを恐れた王は、オーロラを3人の妖精に託し、森の奥で身分を隠して育てられる。やがて美しく成長し、幸せな少女時代を送るオーロラ姫(エル・ファニング)。そんな彼女の姿を、マレフィセントは秘かに、しかもなぜか温かな眼差しで見守っていた。なぜ彼女はオーロラ姫にあのような恐ろしい呪いをかけたのか。その謎を解く鍵は、マレフィセント自身の封印された過去にあった…。
この所、「アリス・イン・ワンダーランド」(原典は「不思議の国のアリス」)とか、「スノーホワイト」(同・「白雪姫」)とか、かつてのディズニー・アニメの古典的名作を別の視点から実写化した作品がよく作られている。この流れに乗って、やはりディズニー・アニメの名作「眠れる森の美女」を新解釈で実写化したのが本作である(なお「アリス-」も本作も、どちらも配給はウォルト・ディズニー・ピクチャーズ)。
ただ、「アリス・イン・ワンダーランド」にしろ「スノーホワイト」にしろ、どちらも残念な出来の失敗作であっただけに、本作も観る前は危惧していた(-特に製作会社が「アリス-」、「スノーホワイト」と同じジョー・ロス率いるロス・フィルムであるだけになお)。おまけに主役がオリジナルでは悪役であった魔女マレフィセント。あーこりゃダメかな…と不安だらけであった(さらに予告編では派手な戦闘シーンが登場しているだけに、今回もまたプリンセスに甲冑を着せて闘わせるのではと心配になった(笑))。
ところが、さすがソ連アニメ「雪の女王」の再映画化を「アナと雪の女王」として、見事な傑作に仕上げ成功させてノッているディズニーである。
本作も、意外と言っては失礼だが、新解釈が成功し、感動の傑作になっていた。
(以下ネタバレあり)
上に挙げた梗概は、オリジナルとほぼ同じ内容であるのだが、どっこい、本作はその前に長い前置きがあって、この部分の作りが秀逸であり、中心部分は同じお話であるのに、まるっきりマレフィセントのキャラクターが180度異なった、まさしく彼女が魅力的なヒロインの物語になっているのである。あの原作から、よくぞまあここまで思いついたものである。そこに感心した(ちなみに原作者は「長ぐつをはいた猫」等で知られるシャルル・ペロー)。
オリジナルで疑問だったのが、“なぜマレフィセントはたかが招待されなかったというだけで、オーロラ姫に16歳で永遠の眠りに落ちるという恐ろしい呪いをかけたのか”という点である。たかだか招待されなかった、という程度の怨みにしては執念深すぎる、もっと他に原因があるのでは、という所から本作の発想が生まれたのだろう。
本作で、前史として描かれるお話は、マレフィセントは実はムーア国という妖精の国における、翼を持った妖精であったという設定であり、平和の国、ムーア国を征服しようとする人間の国の野望を阻止すべく戦う正義の戦士なのである。
この辺り、妖精の国のビジュアルといい、出だしのお話自体といい、マレフィセントのスピード感ある飛行シーンといい、「アバター」によく似ているな、と思ったら、監督が「アバター」の美術監督だったと知って納得した。テーマ自体も「アバター」とかぶる所があるようだ。
一方、マレフィセントは過去に、この国に迷い込んだ人間の少年ステファンと恋に落ちた事がある。国としては反目し戦っているけれど、それでも愛に国境はない、というのはよくある展開である。
だが、人間の欲望はあさましい。人間の国の国王ヘンリーに仕える身となったステファン(シャールト・コプリー)は、マレフィセントを倒せば跡継ぎにしてやるという国王の約束に目が眩み、マレフィセントを騙して眠り薬を飲ませる。しかしどうしても殺す事が出来ず、代わりに翼を切り取って持ち帰る。王が亡くなった後、ステファンは国王となり、そしてオーロラ姫が生まれ、前述の中心ストーリーに繋がって行くわけである。
つまりは、悪いのは人間たち、とりわけ野望と企みで国王まで昇りつめたステファンであり、マレフィセントはステファンを愛し、信用したばかりに裏切られ、翼までもぎ取られた可哀想な悲運の女性、という事になるのである。
怒りと復讐心のあまりオーロラに呪いをかけたものの、元々は善の心を持つマレフィセント。陰からオーロラを見守っていた彼女は、オーロラを育てる3人の妖精の頼りなさに業を煮やした事もあっていろいろと面倒を見、次第に可愛らしく無垢なオーロラに限りない愛情を注いで行くのである。
オーロラに向けるマレフィセントの優しいまなざしは、母親そのものである。
この辺り、実生活においても養子も含めて大勢の子供を育てているアンジェリーナ・ジョリーの、母親としての貫禄というか存在感も大いに作品に寄与しているようだ。
そして、自分がオーロラにかけた呪いは間違っていた、と後悔し、呪いを解こうとするのだが、“この呪いは絶対に解けない。真実の愛によるキス以外は”という呪いの呪文が優先する為、彼女ですらも呪いは解けない、という設定が秀逸である。
そして昔のアニメでは定番であった、王子による真実のキスであるが、これもここ数年のディズニー作品に登場する王子が揃いも揃ってヘタレで頼りない(注1)、という前例に洩れず(笑)、本作に登場する王子フィリップもその顔付きからしてなんとも頼りなく、一応キスはするものの、“真実の愛”とは程遠く、オーロラは目覚めない。
“真実の愛とは何なのか”というテーマは、「アナと雪の女王」でも重要なテーマとなっていたが、本作でもその主題は引き継がれ、まったく意外な形での、“真実の愛”が物語を牽引する事となる。詳しくは映画を観て欲しい。
そう言えば、オリジナルのソ連アニメ「雪の女王」でも、女王は氷の宮殿に子供を攫う悪役であったのだが、「アナと雪の女王」では本作と同じく善人役に改変されており、悪役はむしろ王子の方だった。
それらの点も含めて、本作は「アナと雪の女王」とは表裏一体の関係にある作品と言えるだろう。
その上、本作では先にも書いたように、「アバター」とも共通する、“戦争を仕掛ける人間の愚かさ、醜さ”に対する痛烈な皮肉が込められている。
本作のラストで、人間の国と妖精の国は統一されて一つの国となり、平和が訪れるのであるが、これも今の不安定な世界情勢に対する一つの答であろう。“憎しみ合うよりも、お互い理解し合い、愛をもって向き合えば争いはきっとなくなるだろう”という平和への願いが込められている気がする(注2)。
そういった意味でも、本作はオリジナルの「眠れる森の美女」が持っていた“勇敢な男(王子様)が、可憐な女性(姫)を守って活躍する”というテーマが、もはや時代に合わなくなっている事をはしなくも露わにし、今の時代にふさわしい、優れたテーマを持った見事な秀作に仕上がったと言えるだろう。
前作「眠れる森の美女」を観ていれば、細かいキャラやエピソード(3人の妖精や、カラスの従者や最後に登場するドラゴン、そしていばらの森等)も、実に巧妙にアレンジされている事に感嘆するだろうし、あのフィリップ王子をここまで情けなくするかよ、と笑ってしまったりと、余計楽しめるだろう。が無論、前作を知らなくてもまったく問題ない。お奨めの秀作であるが、多国間紛争や自衛権問題で揺れる今の時代への痛烈なアイロニーとして観るのもまた面白いだろう。 (採点=★★★★☆)
(注1)
「魔法にかけられて」(2007)では、冒頭11分のアニメに登場する王子はまだ従来と変わりないが、これが現代のニューヨークにやって来た実写パートでは、その喧騒ぶりについて行けずなんとも情けないうろたえぶりを見せるし、毒リンゴを食わされ永眠したジゼル姫にキスをしても目を覚ましてくれない。で最後はあわれジゼル姫にソデにされてしまう。この設定はそのまま本作に引き継がれているのが興味深い。
「 プリンセスと魔法のキス」(2009)では王子はカエルにされてしまい、気の強いティアナにほぼ振り回されている。
そして無論本年公開の「アナと雪の女王」では、アナを亡き者にして王国乗っ取りを計るという悪役にまで堕落しているのはご承知の通り
(注2)
アンジェリーナ・ジョリーは本作に関するインタビューで、以下のように語っている。
「今回の映画には、人間はお互いを思いやるため、忍耐が必要だというメッセージが込められているの。現実の世界には、あまりにも戦争や暴力があふれている。難民の数は第2次世界大戦のときより増えていて、5100万人もいるのよ。もし私たちが他者への態度、他者に対する見方を変えることができたら、この状況は好転するし、変えなければならないと思うわ」
さすが、国連親善大使もやっているアンジーのこの言葉、重みがある。
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コメント
招待されなかったくらいでそんなに怒るだろうか? という事で、、、、仮に『マレフィセント』みたいな過去起因ではなく、怒るとしたら、、、、、
「招待されない」で思い出したのは、吸血鬼や魔物は招待されない家屋には入れないという俗説。マレフィセントは家屋に入れたのだから、実際、魔物ではない事になる。魔物でないにもかかわらず、魔物扱いするというのは差別であるし、神に背く存在である事が生死を分かつ事になりえた中世期であれば、呪詛と言ってもいいかもしれない。言葉一つの力で相手を魔物のラインにまで引き下げる。だから、マレフィセントが真に魔物としての力に覚醒したのは王室に出向き、王の呪詛(招待しない事)を確認した時からだったかも。ってのは大袈裟ですか?
投稿: ふじき78 | 2014年8月10日 (日) 22:48
◆ふじき78さん
新解釈ありがとうございました。
>吸血鬼や魔物は招待されない家屋には入れないという俗説。
あーでも、吸血鬼や魔物は、普通の感覚では招待したくはないですね(笑)。
こうやって、あれこれと解釈してみるのも、映画をより楽しむ方法だと思っておりますので、またご何か思いつきましたら書き込みお待ちしております。これからもよろしく。
投稿: Kei(管理人) | 2014年8月16日 (土) 23:56