「嗤う分身」
2013年・イギリス/Alcove Entertainment
配給:エスパース・サロウ
原題:The Double
監督:リチャード・アイオアディ
原作:フョードル・ドストエフスキー
原案:アビ・コリン
脚本:リチャード・アイオアディ、アビ・コリン
製作総指揮:マイケル・ケイン
文豪ドストエフスキーの小説「分身」を元に、時代を近未来的世界に置き換え、不器用で気の小さい青年が、もう一人の自分に次第に人生を乗っ取られて行く姿を描いた不条理的な物語。監督・脚本はデビュー作「サブマリン」(2010・日本未公開)で注目されたリチャード・アイオアディ。原案・共同脚本は「ミスター・ロンリー」(2007)のアビ・コリン。主演は「ソーシャル・ネットワーク」のジェシー・アイゼンバーグと、「アリス・イン・ワンダーランド」のミア・ワシコウスカ。製作総指揮が、イギリスの名優・マイケル・ケインという点にも注目しておきたい。
内気で要領が悪く、会社の上司にも同僚にもバカにされ、サエない毎日を送っている青年サイモン(ジェシー・アイゼンバーグ)。彼はコピー係のハナ(ミア・ワシコウスカ)に密かに思いを寄せているが、まともに話しかけることもできず、毎日自宅の向かい側にある彼女の部屋を望遠鏡で覗くだけの日々を送っていた。そんなある日、サイモンと全く同じ顔をした新人ジェームズ(アイゼンバーグ)が入社してくる。容姿は同じでも、2人の性格は正反対だった。サイモンは次第に要領がよく行動的なジェームズに翻弄されて行くが…。
先日観た「複製された男」と同様、またもドッペルゲンガーがテーマの作品の登場である。同じ年に、こうした特殊なテーマの作品が重なるのも珍しい。
「複製された男」は作品評にも書いたが、ドッペルゲンガーも含めていろんな解釈が出来る作品である。私は同一人物の二重人格説を採ったが。
それに対して本作は、はっきりドッペルゲンガーを描いた作品になっている(相手を殴れば、自分自身も傷つく)。
それと、「複製-」はサスペンス・スリラー的雰囲気のある作品だが、本作は、内気で不器用な若者が、恋する女性に思いを打ち明けられずに悶々とする青春映画としての色合いが濃い(注1)。
本作は、そんな、我々の周りにも、どこにでもいる内向的な性格の若者が、もっと自分を変えたい=男らしい男になりたいと望み、その潜在願望がドッペルゲンガーを生み出してしまう、そういうお話としてみれば分かり易いだろう。
(以下、ネタバレあり注意)
面白いのは、その独特の世界観である。
全編を通じて、太陽の光が一度も射さず、常に薄暗い。また使われている機器類はかなりレトロで、電話は据置型プッシュホンだし、コンピューターはオープンリールがカタカタ回るタイプ。どうやら時代は1960年代辺りと思われる。
しかしその割りに、会社への出入りはIDカードが必要で、厳格な入退室管理が行われている辺りはもっと未来のようにも思える。会社の壁には“大佐”(ジェームズ・フォックス)と呼ばれる男の肖像画が架けられ、この大佐が絶対的に君臨している様子が伺える。
なにやら、ジョージ・オーウェルの「1984」を思わせる世界だが、「1984」が書かれたのは1948年、つまり36年後の未来を予測して書かれている。
それから察するに、本作も、ずっと過去の時代から未来を予測して描いたような雰囲気がある。ドストエフスキーの原作「分身」が書かれたのは1846年だそうだから、本作は1846年の時代から予測された未来世界、と思っていいかも知れない(注2)。
この、何とも悪夢的かつレロトチックで退嬰的なムードが、ドッペルゲンガーという、まさに悪夢のような存在の登場に、うまくマッチしている。
冒頭の、誰も乗っていない電車の中で、不気味な男に「ここは俺の席だ」と言われるシーンからして悪夢的である。
IDカードを入れたカバンが電車に挟まれ持って行かれた事から、会社に入るにも自身の存在が否定されてしまう事に象徴されるように、サイモンは社内でも極めて存在感が薄い。まるで元から存在していなかったかのようである。
居場所のない男が、何もかも自身とは正反対の分身ジェームズに、会社における自身の存在意義さえも奪われてしまうのも、当然である。
この分身、ジェームズは、まさにすべてがサイモンと正反対。不器用で内気なサイモンに対して、ジェームズは要領が良くて行動的。反面、真面目で優しいサイモンに対して、ズル賢くて狡猾なジェームズ。
サイモンは、最初は自分に欠けている性格を持つジェームズに羨望の眼差しを向けるが、ハナを取られそうになった時、ようやくサイモンはジェームズに対抗する気になる。
最後に、主人公は飛び降り自殺で自身の存在を抹殺しようとするが(どちらの意思による行動か判りにくいが、相手を抹殺するにはこれしかないと決断したサイモンのようにも思える、が、意地悪なジェームズの意思とも取れる)、運よく命は取りとめた。救急車に乗ったハナとサイモン(?)の姿を捕らえて映画は終わるが、サイモンの運命がどうなったかは不明である。
その未来は、観客それぞれが考えて欲しい、というのが監督の狙いなのだろう。
何故か、日本の1960年代のポップスが4曲も流れる。坂本九の「上を向いて歩こう」と、ブルー・コメッツのヒット曲がなんと3曲も使われている(「ブルー・シャトー」、「草原の輝き」、「さよならのあとで」)。
不思議な取り合わせだが、「上を向いて歩こう」は失恋か何かで悲しみを紛らわす歌、「さよならのあとで」は別れの歌、残り2曲はメルヘンチックな夢想の歌、であるから作品内容とどこか共通する歌曲であると言えるだろう。
ブルー・コメッツは私も大好きなので、余計親しみが沸いた(笑)。
不思議で難解ではあるが、奇妙な魅力を持った佳作である。“自分”とは何なのか、を問いかけた、異色の青春映画として評価したい。「複製された男」よりも個人的にはこちらの方が好きな作品である。 (採点=★★★★☆)
<以下は、お楽しみを兼ねた注釈>
(注1)
リチャード・アイオアディの監督デビュー作「サブマリン」は、15歳の、妄想癖のある少年が恋愛を通して成長して行く姿を描いた作品であり、本作の主人公、サイモンの人物像とも幾分重なっている。
また、原案・共同脚本を担当したアビ・コリンは、兄のハーモニー・コリンが監督した「ミスター・ロンリー」(2007)という作品で共同脚本を担当しているのだが、その作品の主人公は不器用な性格で、別人になりたいという妄想を膨らませ、マイケル・ジャクソンになりきってしまう、というちょっと変わった青春映画である。
本作の、内気で不器用な性格の主人公サイモンが、自分とは性格がまるで正反対の分身、ジェームズを生み出してしまう、というストーリーと、やや繋がる作品であると言える。
こうして見ると、本作は、共同で脚本を書いたこの2人の、上記に挙げたそれぞれの前作の要素が巧みに配分された作品である、と言っていいだろう。
この2本の作品を観ていれば、本作がより楽しめるかも知れない。
ちなみに、「ミスター・ロンリー」には冒頭、ボビー・ヴィントンが歌って1964年に大ヒットした「ミスター・ロンリー」の曲が流れる。
本作の中でも、1960年代の日本のヒット曲が流れているが、どうやらこの選曲は、1960年代の懐メロ好きと見受けられる、アビ・コリンの趣味が反映された結果なのかも知れない。
(「上を向いて歩こう」は、「スキヤキ」と題してアメリカで大ヒットし、1963年6月には日本の曲として唯一、ビルボード誌ヒットチャート、ベストワンになっている)
(注2)
「1984」の1984年という年号は、原作が書かれた1948年の下2桁をひっくり返しただけ、という説がある。
面白いのは、ドストエフスキーの原作が書かれた、1846年の下1桁"6"を逆さまにして並べ替えると、1984になる。
(さらに、お楽しみはココからだ)
ドッペルゲンガーを扱った映画としては、もう1本、紹介しておきたい作品がある。
1967年に製作されたフランス映画「世にも怪奇な物語」である。
ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニの3監督がそれぞれ1話を担当した、3話からなるオムニバス映画で、その第2話「影を殺した男」(ルイ・マル監督)がズバリ、ドッペルゲンガーをテーマとした作品である。
主人公(アラン・ドロン)の前にもう一人の自分が現れる。いちいち分身に自分の邪魔をされた主人公が、最後にもう一人の自分を短剣で刺して殺すが、自身も教会の塔から墜落して死ぬ。そのわき腹には短剣が突きささっていた、というお話。
こちらの方は本人が狡猾で女たらしで、分身が正義の人。なにより、本人が投身自殺まがいに墜落死するラストが本作のラストを連想させる。
ちなみに、第3話の「悪魔の首飾り」(F・フェリーニ監督)は、アイオアディ監督自身が本作製作に当たりインスパイアされたと語っているらしい。
第2話にも影響を受けた可能性は、大いにあるだろう。
DVD「世にも怪奇な物語」
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