「アメリカン・スナイパー」
2014年・アメリカ/マルパソ=ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ、他
配給:ワーナー・ブラザース映画
原題:American Sniper
監督:クリント・イーストウッド
原作:クリス・カイル、スコット・マクイーウェン、ジム・デフェリス
脚本:ジェイソン・ホール
製作:クリント・イーストウッド、ロバート・ローレンツ、アンドリュー・ラザー、ブラッドリー・クーパー、ピーター・モーガン
イラク戦線において160人もの敵を射殺し、米軍史上最強とうたわれた狙撃手クリス・カイルの回顧録「ネイビー・シールズ 最強の狙撃手」の映画化。監督は「父親たちの星条旗」、「グラン・トリノ」の巨匠クリント・イーストウッド。主演はプロデューサーも兼ねる「世界でひとつのプレイブック」のブラッドリー・クーパー。共演は「フォックスキャッチャー」のシェナ・ミラー。
米海軍特殊部隊ネイビー・シールズに入隊したクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)は、過酷な訓練を経て狙撃手としての腕を磨き、やがて出征したイラク戦争において驚異的な狙撃の精度で味方の窮地を幾度も救い、「レジェンド」と賞賛される。イラクへの派遣は4度に及び、過酷な戦場を生き延びた後、カイルは無事に帰国し、愛する妻子の元へ戻るのだが…。
クリント・イーストウッド、84歳。昨年公開された「ジャージー・ボーイズ」完成後、休む間もなく本作にとりかかり、昨年4月から撮影を開始し、年末のクリスマスにはもう全米で公開というハイペースでの完成。この歳で1年間に2本も映画を撮るというのも驚異的だが、昨年度のわが国映画賞を総ナメにした傑作「ジャージー・ボーイズ」に続いて、本作もまた素晴らしい傑作に仕上がっていた。なんというジイさんだ。夢かと思うくらい信じられない。早いけれども、本年度のベストワン候補である。
(以下物語の詳細に触れます。注意)
予告編にも登場するが、冒頭、戦場において建物の屋上から銃のスコープを覗くカイルの姿が映し出される。
やがて向かいの建物から女性と男の子が出て来て、女性がベールの下から対戦車手榴弾を取り出し、男の子に渡す。男の子はそれを持って走り出す。
その様子をスコープで逐一捉えていたカイルは銃の引鉄に手をかける。撃つべきかどうするか、瞬時の判断が必要だ。
そして画面は一転、カイルの少年時代に飛び、父と共に猟に出た少年カイルが銃で鹿を射殺するシーンが描かれる。
銃で獲物を倒すこのシーンが、現在の銃で標的を狙うシーンとリンクし、また父から、羊でも狼でもなく、“番犬”になれ、と諭された事が、スナイパーとして国を、家族を守るカイルの人生のスタートとなっている事も端的に示す。秀逸な導入部である。
そして現在、手榴弾を投げようとする子供を、カイルは射殺、それを見た女性は今度は自分が手榴弾を投げようとする。この女性もためらわず射殺。
これがカイルの、最初の射殺=殺人であった。
原作では最初の標的は女性だけだったようだが、映画は、男の子を最初に射殺する事で、よりショック度を強めている。
この後、部隊に戻ったカイルは同僚に「子供を撃ってしまった…」と呆然とした様子で話す。さすがに後ろめたく感じたのだろうが、同僚は「そのおかげで10人の仲間の命が助かったのさ」ととりなす。
女であろうと、子供であろうと、戦場では、味方を守る為に殺さなければならない。ためらったら味方が死ぬ。それが戦争なのだ。
この冒頭の掴み部分で、戦争の本質、主人公の立ち位置をもズバリ描ききっている。端的かつ鮮やかな導入部には唸ってしまった。
カイルはその後も、戦線に赴く度に多くの相手側の人間を射殺し、やがては“伝説(レジェンド)”と呼ばれるまでになる。
一方で相手側からは“悪魔”と呼ばれ、賞金まで懸けられる存在となる。
公式には160人を射殺したという事になっているが、これは確認出来た数字で、実際に射殺した人数は250人以上だとも言われている。
そんな彼も、帰還して家に帰れば、良き夫であり、2人の子供を持つ良き父親であった。
決して彼は“悪魔”でも“殺人鬼”でもない。ごく普通の家族を愛する一般市民なのである。
普通の善人を、戦場では悪魔に変えてしまう…。かつての太平洋戦争でも、そうした例はいくつもあった。
戦争とは、そんなものなのである。
この映画を観た人の間からは、特にリベラル派からは、これは好戦映画だとか、160人も殺した男を“ヒーロー”として描いていいのか、とかの批判も出て論争になっている。
だが、イーストウッド監督の映画を観続けている観客なら、そんな批判は的はずれである事が分かるだろう。イーストウッドは決してこの映画を、戦争賛美や、英雄の伝説物語として描いてはいない。むしろ、鋭いアメリカ国家批判、反戦映画になっているとさえ思える。
既に1992年の「許されざる者」で、自分なりの正義をふりかざす保安官を徹底否定し、“正義”とは何なのか、を追求したイーストウッドは、「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」の2部作(2006)で、“アメリカ国家は正しいのか、戦争は、正義の戦いなのか”という異議申し立てを行い、「グラン・トリノ」(2008)では遂に、“暴力に暴力で対抗する報復の連鎖はさらなる憎悪をもたらすだけだ、それは正義ではない”という理念にまで到達した(詳細は各作品評参照)。
本作にも、その理念は見事に貫かれている。
クリス・カイルという、“伝説”と呼ばれた男を主人公に据えながらも、イーストウッドの彼を見つめる視線はクールで客観的である。
女も、子供も殺す彼の仕事ぶりをじっと凝視し、さあ、これが正義か、と観客に問いかけているかのようである。
あの、アメリカが勝利した太平洋戦争に対してさえも懐疑の眼を向けたイーストウッドである。大量破壊兵器があるとウソをついて始め、いまだに終わるどころかより混迷の度を増すイラク戦争は、断じて正義の戦争ではないと確信しているに違いない。
カイルという人間を通して、イーストウッドはその現実を冷静に見つめている。高所から地上を見下ろすスナイパーの、さらにそのはるか上空から、神の目線で。
そしてもう一人、重要な人物が登場する。
敵の優秀なスナイパー、ムスタファである。腕前はカイルと互角か、ひょっとしたら上かも知れない。
ムスタファの狙撃に、カイルはタジタジとなる。この男との対決は、凄腕ガンファイター同士がライバルとして対峙する、西部劇の味わいも感じさせられる。
ムスタファには、妻も子もいる事が示される。彼もまた味方を守る為に、家族の為に戦っている。その意味では彼はカイルの鏡像のような存在でもある。
実際、スコープを覗くムスタファのアップが何度か登場する。そして彼はカイルに、敵ながら敬意を表しているようにすら見える時がある。
こうしてイーストウッドは、敵といえども、彼らはカイルたちと同じ人間で、血も通っていて、家族を愛し、国の(種族の)為に戦っている点で、アメリカ兵とは何ら変わりがない事を強調する。
どちらが正義だなんて事は無意味だ。殺し合っている点において、両者は対等であり、どちらも相手にとって見れば悪魔のような存在なのだ。
最後にカイルは、1,920メートルもの先のムスタファ狙撃に成功するが、ある意味では彼は自分の鏡像を倒したに過ぎないのかも知れない。
この戦いを最後に、カイルがスナイパーとしてのイラク派遣に終止符を打つ事になるのは、それ故なのだろうか。
愛する家族の元に帰ったカイルだが、平穏な時は続かない。彼の心は次第に蝕まれて行く。異様に血圧が高くなり(原作では、銃に触ると収まったそうだ)、子供にじゃれ付いた犬に殴りかかったり、泣く赤ん坊を看護婦が放置していると思い込む、といった、カイルにPTSDの症状が出ている事を暗示するシーンがいくつか登場する。
ベトナム戦争でも、イラク戦争でも、帰還した多くの兵士がPTSDに悩まされ、自殺したり精神を病んだりしている。伝説と言われたカイルですらも、それから逃れる事は出来なかった。
戦争はそれほどに、人の心を狂わせる。その事をイーストウッドは、静かな怒りを込めて描いている。
振り返れば、イーストウッド監督作品には、そんな元兵士がしばしば登場する。「父親たちの星条旗」では、ネイティブ・アリカンの兵士が帰還後PTSDによって精神を荒廃させて行く姿が描かれていたし、「グラン・トリノ」の主人公コワルスキーも、朝鮮戦争で人を殺したトラウマ(実質はPTSD)に悩んでいた。
その事を知っていれば、この映画が、ヒーローを描いた映画でも、アメリカの正義を描いた映画でも、決してない事が分かるだろう。
それでも、帰還兵のケアに尽力する等、少しづつ人間性を取り戻して来たかに見えたそんな時、彼はPTSDを患う元兵士に射殺されてしまう。
なんとも悲しい結末である。兵士ではない、戦争という狂気が彼を殺したのである。
ラストで、カイルの葬儀シーンが実写で淡々と描かれる、そのシーンに流れるのは、エンニオ・モリコーネによる"The
Funeral"。「葬送」という意味のこの曲は、米軍兵士の葬儀の時に演奏される葬送曲、"Taps"に着想を得て作られたもので(注1)、冒頭の旋律はほぼ同じである。
まさにこの場面にふさわしい荘厳なメロディだが、この曲は元々は、モリコーネが音楽を担当したマカロニ・ウエスタン「続・荒野の一ドル銀貨」で使われたものである。
マカロニ・ウエスタン、特にモリコーネが音楽を担当した「荒野の用心棒」で一躍名を上げたイーストウッドが、この曲を使ったというのが面白い。
その後の、エンドクレジットでは一切の音楽が流れず、無音であるのもいい。
何を読み取るかは、観客次第である。
それにしてもイーストウッド監督は凄い。この歳で、ここまで見ごたえがあり、かつ深く考えさせられる映画を作れる、そのパワーに敬服する。彼こそまさしく、映画の“伝説”である。
(採点=★★★★★)
(注1) "Taps"は、南北戦争中の1862年にダニエル・バターフィールドによって作曲されたとされている。映画「タップス」のタイトルもこの曲に由来する。
(さて、お楽しみはココからだ)
ところで、前述したラストに流れる"The Funeral"という曲、よく聴くと、ニニ・ロッソが演奏して大ヒットした「夜空のトランペット」とそっくりである。
部分的に異なる箇所もあるが、ほぼ9割方、同じ曲であると言ってもいい。
しかし「夜空のトランペット」は原題が"Il Silenzio"で、ニニ・ロッソ作曲とされている。一方"The
Funeral"はモリコーネ作曲となっており、一応別の曲扱いである。
ネットでも、両者が酷似している事が以前から指摘されているが、その謎は解明されいていない。ちなみに「夜空のトランペット」の発表は1964年、「続・荒野の一ドル銀貨」が公開されたのは翌1965年である。
まさかモリコーネがロッソの曲をパクッたとは思えないし、その事が問題になったという話も聞かない。ちょっと気になる。
私の想像では、モリコーネが作った曲を聴いたロッソが、いいメロディだから使わせてくれとモリコーネに頼み、まだ有名ではなかったモリコーネが、既成の曲(Taps)に手を加えて出来た曲でもある事だし、ああいいよと気前よく譲った、という所ではないだろうか。真相を知りたいものである。
ちなみに"Il Silenzio"とは「静寂」という意味。本作のエンドロールが無音の静寂であるというのも、不思議な縁ではある。
葬送曲 "Taps" https://www.youtube.com/watch?v=WChTqYlDjtI
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コメント
すいません!
間違えて2回もTB飛ばしちゃいました(汗)
この作品を戦争賛美だとして非難、
または賞賛する人たちの気持ちがわかりませんね。
どこをどう見て賛美していると思うのだろうか?
愛するものを守りたくて立ち上がった番犬が、
無残にも壊れていく姿。
とにかく痛くて、辛くて、悲しいではありませんか。
投稿: スパイクロッド | 2015年2月25日 (水) 09:46
◆スパイクロッドさん
TB、コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、どう見ても戦争賛美じゃありませんね。
クリス・カイルという人物に、肩入れするわけでもなく、突き放すわけでもなく、ただ壊れて行くさまをじっと凝視したイーストウッドのまなざしに心震える、凄い映画でした。
エンドロールの無音の間、いろんな事を考えさせられましたね。
投稿: Kei(管理人) | 2015年2月27日 (金) 00:06
ずっしりと重い映画でした。
イラク戦争でのカイルの戦いを描くイーストウッド監督の演出はさすがですが、結構キツイ描写も多いですね。
緊張感が途切れないので見せますが、かなり精神的にこたえます。
シエナ・ミラー演じる奥さんの描写もいいですね。
良い映画でしたが、個人的にはイーストウッド作品としては「ジャージー・ボーイズ」の方が好きですね。
投稿: きさ | 2015年2月28日 (土) 09:34
前にも書きましたが、現在のアメリカ映画の多くはあまりにリアル過ぎて見るのが辛い。戦争を経験した人たちのその後をまざまざと見せられ、かなり心にズシンと来たのだけれど、内容云々以前に映像を拒絶してしまった感じです。ただ奥さん役のシエナ・ミラー、初めて見ましたが 、とても良かったです。
投稿: オサムシ | 2015年3月 2日 (月) 09:21
◆きささん ◆オサムシさん
重くて、見るのが辛い映画には違いありませんが、これが今世界で起きている現実である以上(現実はもっとキツいでしょう)、我々は眼を背けてはいけないと思います。
それにしても本作はイーストウッド映画で最大のヒット作なんだそうですが、イーストウッドがこの映画に込めた思いを、どれだけの人が理解したか、それがとても気になりますね。
投稿: Kei(管理人) | 2015年3月 2日 (月) 23:28