「私の少女」
2014年・韓国
配給:CJ Entertainment Japan
原題:A Girl at My Door
監督:チョン・ジュリ
脚本:チョン・ジュリ
撮影:キム・ヒョンソク
製作:イ・チャンドン、イ・ジュンドン
虐待を受けている少女と、彼女を救おうとする女性警察官の行動が予期せぬ事態を招く社会派サスペンス・ドラマ。監督は本作が長編デビューとなる女性監督、チョン・ジュリ。主演は「クラウド アトラス」などで国際的に活躍するペ・ドゥナと、「冬の小鳥」「アジョシ」の演技が絶賛されたキム・セロン。また「オアシス」「シークレット・サンシャイン」の名匠イ・チャンドン監督がプロデューサーとして参加している点も要チェックである。
海辺の小さな村に、ソウルからエリート警察官のヨンナム(ペ・ドゥナ)が所長として赴任してくる。彼女はそこで、母親が蒸発し、継父ヨンハと義理の祖母から虐待されている少女ドヒ(キム・セロン)と出会う。村では、誰もがヨンハの暴力を見て見ぬふりしていた。ヨンナムはドヒを救おうと尽力するが、やがて自身のある過去が明らかにされ、窮地に陥ってしまう。そんなヨンナムを救おうと、ドヒはある決断をする…。
いつもの事だが、韓国では次々と新しい監督が誕生し、しかもいずれもデビュー早々にしてクオリティの高い社会派、あるいはバイオレンスの傑作を発表し話題をさらっている。
本作の監督、チョン・ジュリもこれがデビュー作で、しかも女性であり、脚本も自ら手掛けている。…そう言えばキム・セロンの出世作「冬の小鳥」の監督ウニー・ルコントも女性でこれがデビュー作だった。奇しくも、同作も製作は本作と同じイ・チャンドンである。
チョン・ジュリの脚本を読んだイ・チャンドンが製作を買って出て、映画化が実現したという事だが、こうした重鎮監督が若手で実力のある新人を発掘し、デビューさせて見事な成功を収めているのは素敵な事である。わが国も見習って欲しいものである。
「冬の小鳥」でもキム・セロンは父に捨てられ、過酷な運命に苛まれる薄幸の少女を熱演していたが、あれから5年、14歳になったセロンが、またまた壮絶な役柄で素晴らしい演技を見せている。
(以下ネタバレあり、注意)
最初は、児童虐待をテーマとした社会派ドラマかと思った。「冬の小鳥」が、まさしく父に捨てられた少女が、けなげに生きる感動の物語だったし、昨年にはやはり韓国映画で、幼女暴行事件を扱った社会派ドラマ「ソウォン/願い」(イ・ジュンイク監督)も公開されており、これもそんな流れの作品かという先入観を持ってしまう。
おまけに、継父ヨンハが経営する漁業会社が不法就労の外国人を雇っており、これも児童虐待と並んで、わが国でも深刻な問題となっている社会問題だから、余計そう思ってしまう。
だが、これが巧妙なミスディレクションとなっている。そんな一筋縄では行かない、これは手の込んだ作品である。
ヨンナムに扮したペ・ドゥナの演技がいい。警察所長としてテキパキした仕事ぶりを見せる一方で、どこか虚ろな表情を垣間見せたり、深夜に酒を飲んだりする行動に、人に言えない暗い過去を背負っている事が暗示される。
一見有能と見えるヨンナムが、何故辺鄙な村に赴任して来たのかも謎である。
やがて物語は、ヨンナムが、少女ドヒの可哀相な現状を見かねて、ドヒを自宅に預かり、面倒を見る展開となるのだが、それに不満を持つヨンハは、ヨンナムがどうやら同性愛者らしい証拠を掴み、彼女をドヒに対する性的虐待容疑で告発し、ヨンナムは警察に逮捕されてしまうという急展開を見せる。
ヨンナムがこんな村に左遷されて来たのも、どうやら同性愛がらみの事件を起こしたせいだという事も判って来る。
物語はここから一転、謎を孕んだ緊迫したサスペンス要素を帯びて来る。
ヨンナムは、この窮地からどうやって脱出するのか、ドヒはまた継父の虐待を受ける事になるのか。
巧妙な伏線となっているのは、ヨンナムとドヒの共同生活ぶりである。
ヨンナムはドヒを一緒に風呂に入れ、ドヒの背中の虐待傷につい手を触れたりするのだが、この行為が警察に、ドヒに対する性的好奇心と取られてしまう。
これが6~7歳くらいの幼女なら、そうは取られないだろうが、ドヒが14歳くらいの、大人になりかけている年代だから微妙である。ヨンナムには前歴があるから、疑われても仕方がない。
ここから物語は驚愕の展開を見せる。キム・セロン・ファンにも衝撃である。
ドヒはヨンナムを救う為(?)、継父を巧妙な罠にかける。それまでは不幸を背負った弱い被害者のように見えていたドヒが、突然別の顔を見せるこのシークェンスは、映画の性格をも一変させてしまう。社会派人間ドラマかと思っていたら、実はミステリー・サスペンスだったのである。
これまでは、ドヒへの虐待程度では家庭内しつけの範囲という事で警察も手を出せなかったが、児童への性的行為は犯罪である。ヨンハは逮捕され、つまりはヨンナムに対する刑事告発も見送られ、ヨンナムは釈放される。ドヒの作戦は見事成功する。
そう思えば、中盤に、いつもトラクターを運転していたヨンハの母が転落死するエピソードがあるのだが、この死もどこか不自然だった。
あるいはこれも、ドヒの巧妙な偽装殺人ではなかったか、とさえ思えて来る。
ドヒに同情を示した若い男性警察官は、ヨンナムに「彼女は薄気味悪い」とつい洩らす。ヨンナムもようやく、ドヒの本性を悟る。
ラストはこの町を去るヨンナムがドヒに「一緒においで」と誘う所で終わるのだが、この二人がその後どうなるかは観客の判断に委ねられる。
キム・セロンが凄い。前半は弱弱しい薄幸の少女、終盤で魔性の女(?)という二面性を持った少女像を見事に演じ分けている。まさに天才子役である。
ある意味、警察官が「薄気味悪い」と言った通り、彼女は怪物でもある。
だが、彼女を怪物にしたのは、ヨンハやその母、あるいは彼らのドヒに対する虐待を見て見ぬふりをしてきた、町の大人たちである。
セクシャル・マイノリティへの差別も含めて、この映画はさまざまな、社会が抱える問題点、人間の心の闇、業の深さ、を鋭くえぐりつつも、一面で女という生き物のしたたかさ、怖さをも描き、かつ全体として秀逸なミステリー・ドラマとしても成立させている。見事である。
特に、ヨンナム、ドヒという、それぞれに複雑な内面を見せる女たちの心理と行動は、女性監督ならではの視点である。
こんな、巧妙かつ怖い物語を、監督デビュー作で作り上げたチョン・ジュリも凄い。彼女もまた、怪物である。今後が楽しみである。
韓国映画の底力を見せ付ける、これは本年屈指の秀作である。 (採点=★★★★☆)
(付記1)
インタビューによると、チョン監督が一番尊敬しているのは、日本の今村昌平監督だそうだ。
そう言えば今村監督作品には、「にっぽん昆虫記」(1963)、「赤い殺意」(64)、あるいはドキュメンタリー「にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活」(70)といった、社会の底辺で、したたかに、たくましく生きる女たちを描いた作品が多い。
中でも、最初は横暴な夫に従順で弱かった女が、強盗に強姦された事を契機に、やがて強い女へと変貌して行くさまを描いた「赤い殺意」は、本作と共通する要素も多い。
(付記2)
女が、体を武器にして男を巧妙な罠にかける、という展開で思い出すのが、松本清張原作「霧の旗」である。映画化作品では、1965年の山田洋次監督作品が有名。
山田監督唯一のシリアス作品だが、兄の弁護をしてくれなかった弁護士(滝沢修)を恨んだ少女(倍賞千恵子)が、弁護士を巧みに誘惑し、犯させた上で、強姦容疑で告発する、という内容。少女の作戦が本作とよく似ているし、こちらもミステリー作品である。
なお1977年のリメイク版(監督:西河克己)では少女役が山口百恵、弁護士が三國連太郎という配役だが、三國は今村昌平監督の「神々の深き欲望」、「復讐するは我にあり」にそれぞれ重要な役柄で出演している、という縁もある。
| 固定リンク
コメント