「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」 「同・エンド オブ ザ ワールド」
100年以上前、突如現れた巨人たちに人類の大半が捕食され、文明は崩壊。生き延びた人々は巨大な壁を三重に築き、その中で暮らしていた。壁に守られた生活に苛立ちを覚えるエレン(三浦春馬)は、壁の外に出る事を夢見ていたが、ある時、人々の目の前に人類の想定を超える超大型巨人が出現。壁の一部を破壊し、そこから巨人たちが町になだれ込み、次々と巨人が人間を捕食する。からくも生き延びたエレンは、2年後、対巨人兵器の立体機動装置で武装した調査兵団の一員になっていた。エレンたちは壊された外壁を修復する為、決死の作戦に赴くが……。
原作はチラッと立ち読みした程度。ほとんど予備知識なしだったが、面白そうだったので期待していた。
前編を観た限りでは、これはいろんな寓意が込められたダーク・ファンタジーだと思った。
“ある日突然現れた巨人に人間が襲われ、食べられる”という物語は、まさに悪夢である。一昨年公開された洋画「ジャックと天空の巨人」を連想した。あの映画の後半、地上に降りて来た巨人が人間を襲うシーンはまさに本作を彷彿とさせる。
原作では、舞台は産業革命以前のヨーロッパらしい。これも中世を舞台にした、妖怪や巨人が跋扈するいくつかの伝説ファンタジーや、トロールと呼ばれる巨人が登場する北欧神話等を思わせる。
前編冒頭の、巨人が壊れた壁から続々と現れ、人間を捕食するシーンのビジュアルが壮絶で息を飲む。まさに地獄絵だ。
全身赤い超大型巨人は、まるで地獄の赤鬼のようである。
三重の巨大な壁は、刑務所を連想させる。巨人からの侵攻を防ぐ為とされているが、むしろ人間たちを閉じ込めておく牢獄のようにも見える。エレンが壁の外に出る事を望んでいるのは、牢獄からの脱出=自由への希求願望ではないかとも思えるのだ。
もう一つ連想したのが、宮崎駿原作の「風の谷のナウシカ」である。火の七日間によって文明が崩壊し、人々は小さなコミューンで細々と暮らしているし、登場する兵士の装具は中世ヨーロッパの騎士を思わせる。そしてあの人類を災厄に導いた“巨神兵”はまさに恐怖の巨人そのものである。また自在に空を飛び回る立体機動装置は、ナウシカが操る自在に空を飛ぶ装置、メーヴェを連想させる。
偶然ではあるが、樋口真嗣監督の前作は「巨神兵東京に現わる」である。
そんなわけで、前編はかなり面白く観た。いろいろ謎が散りばめられているし、後編では、人類が力を合わせて巨人を倒し、自由を得る、というハッピーエンドを予想した。
ただちょっと気になったのは、映画の方ではどうも時代が中世ではなく、ほぼ現代(20世紀中盤以降)に設定されているようだった事。ヘリコプターの残骸が壁に引っかかってるし、移動手段も原作では馬なのに、映画ではトラックや装甲車に改変されている。さらに、俳優が皆日本人であり、名前もシキシマ等、原作に登場しない日本テイストが加味され、ヨーロッパの雰囲気が希薄になっている。
この、原作に漂う中世ヨーロッパ的ムードを消したのは疑問である。これでは“中世風ダーク・ファンタジー”の要素が薄れてしまい、作品のムードが変わってしまうのではないか。
まあ日本人俳優を起用する日本映画ゆえ、仕方ない面もあるが。原作に忠実に映画化しようとするなら、俳優は全員外国人にしなければならないだろう。
そんな危惧を抱いて観た後編だったが…。
(以下ネタバレあり)
まだ原作の連載がが続いており、どういう結末になるかも分からないのに、映画のエンディングには物語としての収束も用意しなければいけないという制約の中での映画化はかなり難しいだろうとは思う。相当端折るか、あるエピソードのみに限定するのもやむを得ないだろう。
しかしそれにしても、前後編という長い時間がある割りに、物語は単に“巨人に壊された壁を修復に行く”と、ただそれだけのお話である。長い原作の中の、ほんのワンエピソードにすぎない。
これなら、2時間強の、1本の映画でも十分語れるのではないか(後述するが、前後編合わせた上映時間自体もあまり長くない)。
そして、終盤で明らかになる、巨人の正体。まあ薄々感じてはいたが、それにしてもこの真相は拍子抜けである。
これじゃ、ダーク・ファンタジーではなくSFではないか。
しかも巨人の登場は、[権力者による、民衆を抑え付ける為の謀略だった]という種明かしには唖然とした。それだったら、国家を統治する国王なり君主の姿がどこかに出て来るべきだろう。物語を見る限り、巨人のせいで文明が崩壊し、統治機構が存在しないようにすら見える。この真相はあまりに唐突で、伏線すらどこにもなかった気がする。
クバル(國村隼)が最後に[超大型巨人に変身する]のも唐突で意味不明。どうやら彼の正体は権力者側の人間らしいのだが、前編を見る限り調査兵団の団長的扱いで、そんな裏の顔を持った人物には見えない。これにも伏線が張られていないのは、脚本の不備である。
それと、エレンやシキシマが爆発的細胞分裂とかで巨大化するのは認めるとしても、クバルが細胞分裂作用だけであんなに超巨大(人間の100倍は超えてるだろう)になれるのか、科学的には疑問。それに簡単に元の人間の体に戻れるものか、さらに疑問。まあSFでは「ミクロの決死圏」とか「ミクロキッズ」のように、体が超小型になったり戻ったりもしてるので、スルーしてもいいが。
そもそも前述のように、壁の穴をふさぐ…ほぼ前後編の大半をそれだけの為に費やし、その為に多大な犠牲を出したり、クライマックスでそれを妨害する超大型巨人との間に死闘を繰り広げたり、まるで穴をふさぐ事ですべてが片付く、かのようなストーリーなのだが、穴が開いたのは2年前、その間に大勢の巨人が既に壁の中に入って来てしまってる。もうこれ以上、巨人は入って来ないかも知れない。―つまり、今さら壁の穴をふさいだって、手遅れではないか。実も蓋もない事を言うようだがそういう事だ。
しかもラストでは、エレンとミカサが外の世界の光景に感動し、やがて外の世界へと出て行った事が示されている。
だったら、せっかく苦労して壁の穴をふさいだけれど、それならむしろ壁を壊して穴を開けた方がいい事になる。人間がみんな外の世界に脱出出来るのだから。
(エンドロール後の、たぶん権力側の会話でも、二人が逃げたと言っている)
なんか、中途半端と言うか消化不良な気分である。まあ、壁を爆破する事で壁の穴をふさぐ、というミッション自体どこか中途半端ではある。
せっかく、壮大な中世的退廃ムード漂うダーク・ファンタジー世界が原作の魅力であるのに、映画ではSFとしていろいろと説明をつけた為に、かえって作品としての世界観が安っぽくなってしまっている。
原作ファンが怒るのも無理はないだろう。
結局の所、見どころは“巨人たちが人間を捕食する悪夢的ビジュアル”、“巨人同士の壮絶バトル”という、SFXスペクタクル・シーンだけという事になる。
原作者が、東宝怪獣映画「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」を観てトラウマとなり、原作のアイデアにつながったと言っているように、エレン対シキシマの戦いは「サンダ対ガイラ」を想起させ、そこだけは東宝怪獣映画ファンとしては楽しいが、SFXだけが見どころ、て言うんじゃ映画としては困るのである。
三浦春馬の演技も一本調子で絶叫してるし、三浦貴大も不貞腐れてるばっかりで人物像が不得要領。だが一番の問題は樋口真嗣監督の、人間がきちんと描けていない演出にある。いつもの事だが。
脚本に参加した町山智浩氏によると、樋口監督によって町山氏の意図とは違う方向に脚本が改変されたようである。良い方に直すのならいいが、この出来では直さない方がよかったのではないか。
そんなわけで、原作に思い入れのない私でも、これは困った作品となった。多分雑誌「映画秘宝」でも決算号ではトホホ作品にランクインするだろう。そこで気になるのは、秘宝トホホと言えば町山智浩氏と柳下毅一郎氏のメッタ斬りコーナーが楽しいのだが、町山氏がこの作品をどう評価するのかが見ものである。今から待ち遠しい(笑)。
採点は前編が★★★、後編は残念ながら★☆。
(付記)
この頃の日本映画の話題作には、やたら前後編の2部に分けて別々に公開するケースが増えている。いずれも原作が膨大な長さで、2時間程度では描ききれない、という事もあるのだろうが、それでも昔は3時間を越える上映時間でも、大抵は一挙公開してたはずだ。3時間20分の「七人の侍」も、間に5分程度のインターミッションを入れて一挙に見せてくれた。洋画の「ベン・ハー」や「風と共に去りぬ」なんかは4時間!もかかるがそれでも一挙に見て感動したものだ。
特に本作のように、アクションが続く作品などは、前編から1ヶ月以上も間が空くと、どうもテンションが削がれて作品に入り込めない。料金を2割くらい上げてもいいから前後編一挙上映すべきではないだろうか。
しかも本作の場合は、前編が98分、後編が87分とかなり短い。おまけに後編は冒頭に前編のダイジェストが5分程ある。一挙上映ならこれとエンドロールも1本分ですむから実質上映時間はもっと短くなる(前編末尾の後編予告もいらない)。後編の時間を計ってみたら、ダイジェストとエンドロール合わせて11分。つまり一挙上映なら賞味上映時間は170分少々である。テンポを詰めたら2時間半くらいで収まるだろう。ひょっとしたら、2本分の料金を取れる、という営業政策で前後編に分けたのでは、と思いたくもなる。前後編方式は、どうしても通しで4時間くらいかかる長大な作品に限定すべきではないだろうか。再考して欲しい。
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