2015年を振り返る/追悼特集
今年も、あとわずかですね。いかがお過ごしでしょうか。
恒例となりました、この1年間に亡くなられた映画人の方々の追悼特集を、今年も行います。
ではまず、海外の映画俳優の方々から。
2014年12月30日 ルイーゼ・ライナーさん 享年104歳
昨年末に亡くなられていますが、昨年の追悼記事に載せられなかったので、追加として掲載しておきます。
1910年、ドイツ西部デュッセルドルフ生まれ。ドイツやオーストリアでの女優活動を経て、ハリウッドに進出。1936年「巨星ジーグフェルド」、翌37年「大地」と、2年連続でアカデミー賞を受賞した最初の俳優として有名です。ただ、そんなにうまいとも思えない、との声(ヤッカミ?)もあり、そのせいかこれ以降は大した作品もなく、1943年を最後に映画出演はなく、いつの間にか忘れられてしまったのは残念ですね。
1月7日 ロッド・テイラー氏 亨年85歳
オーストラリア出身。ローレンス・オリヴィエのオーストラリア公演を見て俳優を志し、オーストラリアでラジオや舞台の経験を積んでから1954年にハリウッドに進出。最初の頃は脇役が続きますが、1960年のSF作品「タイム・マシン 80万年後の世界へ」で主役に抜擢され、以後はトントン拍子。代表作は何と言ってもヒッチコック監督の傑作「鳥」(1963)のミッチ・ブレナー役でしょう。以後もいくつかのアクション映画で主役をこなしています。007ブームの頃には気の弱い男が誤解からスパイにスカウトされるという変わった役柄のスパイ・アクション「殺しのエージェント」(1966)に主演してます。個人的に好きなのは、雇われ軍人チームがアフリカで活躍する戦争もの「戦争プロフェッショナル」(1968)ですね。ハードで男臭さがプンプンの力作です。隠れた秀作としてお奨めです。最近もタランティーノ監督「イングロリアス・バスターズ」(2009)にウィンストン・チャーチル役で出演し健在ぶりを見せたばかり。これがどうやら遺作になったようです。
1月11日 アニタ・エクバーグさん 亨年84歳
スウェーデン出身で、ミス・ユニバースのスウェーデン代表となったことがきっかけでアメリカへ渡り女優となりました。最初の頃は雑誌のカバーガールやら、他愛ないB級映画出演が続きましたが、イタリアのフェデリコー・フェリーニ監督に見出され、同監督「甘い生活」(1960)に大抜擢。一躍トップ・スターとなりました。イタリアの代表的監督4人によるオムニバス「ボッカチオ’70」(1962)でもフェリーニ監督編で主演。色っぽいグラマーぶりを見せております。で、映画ファンとして押さえておきたいのが「007/ロシアより愛をこめて」の中で、敵の一人がビルの壁に大きく描かれた美女の口から逃げ出そうとして、ボンドの肩を借りたケリム(ペドロ・アルメンダリス)にライフルで狙撃されるシーン。この美女がアニタ・エクバーグでした。ボンドの「女の口は怖い」というセリフが笑えますね。ちなみにこの看板は007シリーズと同じH・サルツマンとアルバート・R・ブロッコリが製作したボブ・ホープとエクバーグ主演のコメディ「腰抜けアフリカ博士」(1963)のもの。イオン・プロがこんなのも作ってるのも意外ですが、エクバーグ嬢こんなコメディにも出演してたのですねぇ。
その後もフェリーニ監督に重用され、「フェリーニの道化師」(70)、「インテルビスタ」(87)などに出演しております。フェリーニ作品以外に、いま一つ代表作がなかったのが残念ですね。
2月14日 ルイ・ジュールダン氏 亨年94歳
フランス・マルセイユ生まれ。1939年にタレント・スカウトで映画界入り。第二次大戦中はレジスタンスに参加した事もあります。終戦直後にデヴィッド・O・セルズニックに見出されハリウッド入り。以後アメリカとフランスを行き来しながら多くの映画に出演しています。セルズニック製作、ヒッチコック監督の「パラダイン夫人の恋」(47)、MGMミュージカル「恋の手ほどき」(58)、エリザベス・テイラー主演の「予期せぬ出来事」(63)などが代表作。「予期せぬ-」には前掲のロッド・テイラーも出演しております。1983年には「007/オクトパシー」で不気味な敵役を好演し存在感を見せました。渋い、いい役者でしたね。
2月27日 レナード・ニモイ氏 享年84歳
この人はなんと言っても、1966年から放映されたテレビシリーズ「スター・トレック」(日本では67年から。当時の放映題名は「宇宙大作戦」)におけるバルカン人、ミスター・スポック役が有名です。大人気となったこのシリーズは79年にはロバート・ワイズ監督!により劇場映画化。これも大ヒットして以後パート6まで作られる人気シリーズとなりました。無論ニモイ氏もスポック役で連投。第3作「スター・トレック3/ミスター・スポックを探せ」と4作目「スター・トレック4/故郷への長い道」では監督も兼任してます。シリーズ6作目「スター・トレック6/未知の世界」(1991)では出演以外に製作総指揮・原案まで手掛ける等、スポック道を一直線。他にも出演作、監督作がありますが、それらが霞んでしまうほど。
映画デビューは1950年ですが、低予算B級映画ばかりでほとんど日本未公開。俳優業だけでは食えずタクシー運転手で糊口をしのいだ時期もありました。それだけに、俳優人生の転機となった「スター・トレック」には思い入れが深いのでしょう。2009年公開のリブート版「スター・トレック」にもスポック役で出演、そのパート2「スター・トレック イントゥ・ダークネス」(2013)のスポック役が遺作となりました。まさにミスター・スポック一筋の人生でしたが、これは幸運だったのでしょうか、それとも不幸だったのか、本人のみぞ知る所でしょうね。
4月7日 ジェフリー・ルイス氏 亨年79歳
ジョフリー・ルイスとも表記。さまざまな職業を転々とし、30歳半ばから俳優に転じます。1972年以降、無数の西部劇、アクション映画に脇役として出演。72年のクリント・イーストウッド監督・主演「荒野のストレンジャー」における悪役3兄弟の一人、ステイシー・ブリッジス役で注目され、73年のジョン・ミリアス監督「デリンジャー」におけるデリンジャー配下のハリー・ピアポン役でも強い印象を残しました。イーストウッドとはウマが合ったのか、以後「サンダーボルト」(74)、「ダーティ・ファイター」(78)、「ブロンコ・ビリー」(80)、「ダーティファイター 燃えよ鉄拳」(80)、「ピンク・キャデラック」(89)とほぼイーストウッド映画常連となって行きます。悪役からコミカルな狂言回し役まで、幅の広いいい役者でしたね。女優のジュリエット・ルイスは彼の娘です。
6月7日 クリストファー・リー氏 亨年93歳
本名はクリストファー・フランク・カランディーニ・リーと長い(笑)。イギリス・ロンドン生まれ。第二次大戦ではイギリス空軍パイロットとして活躍。戦後は映画俳優を志し、1947年から何本かの映画に脇役、端役に出演しますがなかなか芽が出ず、苦難の日々が続きます。ようやく57年、前年から怪奇映画専門の映画会社としてスタートしたハマー・プロの作品「フランケンシュタインの逆襲」においてフランケンシュタイン男爵(ピーター・カッシング)が造った怪物役で出演。これが大ヒットして、続く「吸血鬼ドラキュラ」(58)のドラキュラ伯爵役が大当り。以後数多く作られたハマー・プロ製のドラキュラ映画でドラキュラ役を快演。リーにとっての当り役となりました。ドラキュラ役は1973年の「新ドラキュラ/悪魔の儀式」まで続きます。尖った歯を剝き出すドラキュラの顔は怖かったですね。彼を超えるドラキュラ役者は多分いないでしょう。その他「怪人フー・マンチュー」シリーズ(64~68)におけるフー・マンチュー役も当り役です。なお007シリーズ原作者のイアン・フレミングは従兄弟に当り、その関係でフレミングも007の映画化作品への出演を希望しておりましたがなかなか果たせず、ようやく74年の「007/黄金銃を持つ男」におけるスカラマンガ役で実現するに至りました。
映画出演作は270本以上に上り、映画出演最多本数としてギネスブックにも載っています。最近でも「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズでのサルマン役、「スター・ウォーズ」エピソード2~3でのドゥークー伯爵役などで映画ファンにはお馴染みですね。遺作はこれまた「ロード・オブ・ザ・リング」からの派生作品「ホビット 決戦のゆくえ」 (2014)におけるサルマン役。なんと映画歴67年に及びます。本当にお疲れ様と言いたいですね。
6月22日 ラウラ・アントネッリさん 亨年73歳
ユーゴスラビア生まれで、イタリアに移住して女優になり、イタリア、フランスを又にかけて多くの映画に出演してます。「コニャックの男」で共演したジャン・ポール・ベルモンドとは一時恋仲でした。が、俳優として一気にブレイクした(と言うか話題になった)のは、1973年の「青い体験」において、性に目覚める少年をメロメロにさせた家政婦役ですね。思春期の映画ファンも胸をときめかせた事でしょう(笑)。以後もこうしたセックス・アピールで若い男をとりこにする役柄が定着します。75年の「続・青い体験」は同じ監督(サルヴァトーレ・サンペリ)ですが日本で勝手につけた題名で、連続性はありません。91年に作られた「青い体験2000」がむしろ1作目の続編と言えるでしょう。しかし只のセクシー女優にはとどまらず、巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督「イノセント」(75)やエットレ・スコラ監督「パッション・ダモーレ」(80)などの意欲作にも出演するなど、幅広い活躍ぶりを示しました。亡くなったと聞いて、「青い体験」を思い出す映画ファンも多かったのではないでしょうか。
7月10日 オマー・シャリフ氏 亨年83歳
オマル・シャリーフが発音的に近いでしょうが、我が国ではオマー・シャリフで定着しています。エジプト生まれで1955年よりエジプト映画を中心にいくつかの映画に出演。が、なんと言っても、デヴィッド・リーン監督の映画史に残る傑作「アラビアのロレンス」(62)におけるベドウィン族長アリ役で強烈な印象を映画ファンの目に焼き付け、これでゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞。D・リーン監督の次作「ドクトル・ジバゴ」(65)では主演のジバゴを熱演。これも各種の映画賞で主演賞を受賞。以後も世界的な名優として活躍しました。69年には「ゲバラ!」でチェ・ゲバラ役も演じてます。が、75年の「ファニー・レディ」でバーブラ・ストライサンドと共演して以降は、これといった代表作がないのがちょっと残念です。92年には吉永小百合主演の日本映画「天国の大罪」にも出演してますが、個人的にはこんなものに出なくても、と思ってしまいました。映画も凡作でしたしね。近年は渋い老年役で存在感を見せ、2003年の「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」におけるイブラヒムおじさん役はなかなか良かったです(これでセザール賞最優秀男優賞受賞)。逝去は残念ですが、「アラビアのロレンス」と「ドクトル・ジバゴ」という2本の忘れられない傑作を残しただけでも以て瞑すべしでしょうね。
10月24日 モーリン・オハラさん 亨年95歳
アイルランド・ダブリン出身の女優。1939年から多くの映画に出演してますが、41年の「わが谷は緑なりき」以降、ジョン・フォード監督作品の常連となり、ジョン・ウェインとも多くの作品で共演しています。52年のウェインとの共演作「静かなる男」は代表作として忘れられない名作ですね。フォード作品以外でも「マクリントック」(63)、「100万ドルの血斗」(71)などでウェインとのコンビが続きました。73年の「赤い仔馬」以降はほぼ引退状態でしたが、91年のジョン・キャンディ主演のコメディ「オンリー・ザ・ロンリー」(クリス・コロンバス監督)でキャンディの母親で久々の映画出演。老いても元気なアイルランド女性のキップの良さを見せていました。こうした役でもっと映画に出て欲しかったですね。
12月2日 ガブリエル・フェルゼッティ氏 亨年90歳
ガブリエーレ・フェルツェッティと表記してる場合もあるからややこしい。イタリア・ローマ生まれ。いくつかの劇団で舞台俳優として活躍。1948年からは映画にも出演。56年のミケランジェロ・アントニオーニ監督「女ともだち」で注目され、同監督の秀作「情事」(60)では主役を演じました。以後は個性的な脇役として多くの映画に出演。中でも「女王陛下の007」(69)で演じたヒロイン・テレサの父親で犯罪組織ユニオン・コルスの首領ドラコ役は光ってましたね。73年のリリアーナ・カヴァーニ監督「愛の嵐」でも存在感を見せました。…それにしても今年はなぜか、「007」シリーズに関連した役者さんが多く亡くなっていますねぇ。
さて、日本の俳優に移ります。
2月21日 十代目坂東三津五郎氏 亨年59歳
五代目・坂東 八十助として歌舞伎で活躍。父の跡を継いで十代目坂東三津五郎を襲名。歌舞伎界で著名ですが、少年時代からテレビでも活躍。69年のNHKテレビドラマ「鞍馬天狗」における杉作少年や、76年のNHK「快傑黒頭巾」での主役の七変化の黒頭巾役などを演じました。映画では1985年のポール・シュレイダー監督「MISHIMA」(日本未公開)における「金閣寺」編の主役・溝口役が最初。その後も「利休」(89・勅使河原宏監督)、「写楽」(95・篠田正浩監督)、「阿修羅のごとく」(2003・森田芳光監督)などに出演。印象に残っているのは、山田洋次監督「武士の一分」(2006)における憎っくき敵役・島田藤弥役でしょうね。さすが歌舞伎で鍛えた目の演技、刀さばきが素晴らしく見事でした。山田監督作には「母べえ」(2008)でも吉永小百合の母べえの夫・野上滋役で出演。それぞれ好演でした。59歳での急逝は早過ぎます。歌舞伎界にとっても、映画界にとっても損失ですね。残念です。
4月9日 三條美紀さん 亨年86歳
芸歴の長い女優さんです。お父さんが大映の演技課長をしていた関係で、学校卒業後、大映撮影所の経理課に入社しました。ところが理知的な容貌が社内上層部の目に留まり、俳優に転じたという変り種。最初の頃は、大映お得意の三益愛子主演の「母もの」シリーズで、三益の娘役を演じる他、多くの大映作品に出演しています。印象に残っているのは、伊藤大輔監督「王将」(48)における、バンツマ扮する坂田三吉の娘・玉枝役、並びに黒澤明監督「静かなる決闘」(49)における、三船の許婚者・松木美佐緒役でしょうね。55年頃からは東映に移り、こちらでは大映時代と逆に、「母星子星」等、美少女子役・松島トモ子の母親役をいくつか演じてるのが面白いですね。以後も東映、東宝を中心に夥しい数の映画に助演してます。72年には結婚を期に一旦引退しますが、76年の市川崑監督の角川映画第1弾「犬神家の一族」で、犬神家の次女竹子役でカムバック。市川崑監督に重用され、多くの市川監督作品に出演する他、映画、テレビで数年前まで活躍されてました。遺作は美術監督・木村威夫さんの監督第2作「黄金花 秘すれば花、死すれば蝶」(2009)における、老人ホームで暮らす自称元映画女優の老婆役です。長い間、お疲れ様でした。
4月15日 愛川欽也氏 亨年80歳
キンキンの愛称で親しまれ、声優から俳優、ラジオパーソナリティ、司会者、そして映画監督とマルチタレント振りを発揮しました。元は俳優座養成所所属の舞台俳優です。映画にも沢山出ていますが、やはり代表作は「トラック野郎」シリーズのやもめのジョナサン役でしょうね。これは愛川さん自身の企画です。74年には自身の製作・脚本・監督・音楽・主演とチャップリンばりの掛け持ちで映画「さよならモロッコ」を完成、小さな劇場でロードショー上映も行われました。晩年は妻のうつみ宮土理さんと共同で小劇場「キンケロ・シアター」を主宰し、ここでも自身の製作・脚本・監督・主演でいくつかの映画を製作、この劇場で上映しておりました。監督・俳優としても遺作となった「満州の紅い陽」(2014)は聞く所によると反戦テーマの作品のようです。愛川欽也監督作品はいずれもDVD化されておらず、関西でも上映されていないので私も1本も観ておりません。観たいですね。願わくば、是非DVD化するなり、テレビで放映して欲しいものです。
4月22日 萩原流行氏 亨年62歳
俳優だけでなく、ダンサーとしても有名というちょっとユニークな人。映画出演はつかこうへい事務所所属という縁から出演した「蒲田行進曲」その他数本と少なく、かつあまり印象に残る作品もありません。が、萩原さんの出演作で個人的に思い入れ深いのが、テレビで放映されていた「スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇」(86~87)における教師・依田役です。なんでかというと、この作品、現代に忍者が登場だけでも笑えるのに、さらに「スター・ウォーズ」のパロディが随所に盛り込まれるという、なんともキテレツな珍品なのです。なにしろダース・ベイダーそっくりの扮装をした悪役は登場するし、ラスボスは電磁波を放射する暗黒皇帝そっくりの怪人だし、登場人物の名前からしてエージェントの美女の名前が城戸礼亜(レイア)、主人公の育ての親が帯庵和尚(オビ・アンとも読める。ちょっと苦しいが(笑))そして萩原さん扮する、主人公を助ける教師の名前が依田(ヨーダ)という凝りようで、あまりのバカバカしさに大笑いしつつ楽しく見た記憶があります。交通事故で急死されたのは残念ですね。
5月3日 滝田裕介氏 亨年84歳
この人のお名前を聞いてすぐに思い出すのは、1956年から約9年間、NHKで放映されていたテレビドラマ「事件記者」における東京日報の記者、伊那(イナちゃん)役でしょうね。好評で59年からは日活で映画化。こちらも4年間で10本作られ、映画でも同じ役を演じておりました。当り役と言ってもいいでしょうね。その他テレビ、映画で渋い脇役として多くの作品に出演しました。ただ、いい意味で作品に溶け込み過ぎて、印象に残っている作品は少ないですね。そんな中で印象に残っているのが、松本清張原作・野村芳太郎監督の「影の車」(70)における、主人公の少年時代の記憶の中で、釣りをしている最中に事故死(?)してしまう浜島のおじさん役です。役柄の幅の広い、いい役者でしたね。
5月28日 今井雅之氏 亨年54歳
この人も個性的ないい役者でしたね。映画は1989年頃から出ていたようですが、強烈な印象を受けたのが、伊丹十三監督の「静かな生活」(95)におけるストーカー役。本当にイヤな奴だと思いました(笑)。これでキネマ旬報賞新人男優賞や日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞しました。自ら原作・脚本も手掛けた、現代の漫才師が戦時中へタイムスリップし特攻隊員になるというSFファンタジー「WINDS OF GOD」は舞台で何度も演じ、ニューヨーク・オフ・ブロードウェイでも公演するなどの入れ込みよう。95年には映画化もされてるのですが、2006年には自ら監督も兼任して「THE WINDS OF GOD KAMIMAZE」として再映画化。まさにライフワークと言えるでしょう。54歳は早過ぎますね。残念です。
5月31日 小泉 博氏 亨年88歳
元々はNHKのアナウンサーだったという変り種。1950年に軽い気持ちで藤本プロ(今井正監督「青い山脈」を作った所)製作の映画「えり子とともに」のオーディションを受けたら合格、映画に出演する事になり、そのままNHKを辞めて俳優に転進した、という経歴が面白いですね。
映画は東宝を拠点として数多く出ていますが、個人的に大好きなのが、マキノ正博監督が東宝で撮った「次郎長三国志シリーズ」(53~54)における追分三五郎役ですね。なにしろ調子がよくて、森繁久弥扮する森の石松を散々利用しオチョクリまくるという、ヘタな役者が演じたら総スカン食いそうな役なのに、この人が演じると何か憎めないのですね。森繁さんを(映画の中とはいえ)ここまでコケにした役者は、多分後にも先にも小泉さんだけでしょう(笑)。
当り役…と言えるかどうか分かりませんが、東宝で56年から61年まで10本も作られた、江利チエミがサザエさんを演じる「サザエさん」シリーズで亭主のフグ田マスオ役をずっと演じ続けました。江利チエミとの息もピッタリでしたね。あと東宝名物の円谷英二特撮SF映画でも、55年の「ゴジラの逆襲」を皮切りに数多く出演。「モスラ」での言語学者・中條役、「モスラ対ゴジラ」(64)における三浦博士役など、学者、博士役で存在感を見せていました。後年はテレビの司会などで映画から遠のいていましたが、久しぶりに映画に復帰した2003年の「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」では、「モスラ」と同じ言語学者・中條を演じていたのが嬉しかったですね。粋な計らいです。これが映画最後の作品となりました。
7月21日 川崎敬三氏 亨年82歳
1954年、大映に入社。大映専属俳優として多くの作品に出演。ちょっと気の弱そうなサラリーマンや亭主を演じて絶品でしたね。60年代中期では、若尾文子の相手役を多く演じています。面白いのは、1965年頃、ラジオ(TBS)で放送された「サザエさん」において、前掲の小泉博さんと同じく、フグ田マスオ役を演じている、というのが奇縁ですね。
印象に残っている役柄をいくつか挙げておきます。市川崑監督の「満員電車」(57)において医学生を演じているのですが、最後に「僕は人生を三段跳びでやってみせる」と言って、いきなり道端で3段跳びをやり、ジャンプした勢いでバスに轢かれてしまうというヘンな役でした(笑)。役名も和紙破太郎と笑えます。ブラック・ユーモアに満ちた怪作でした。あと市川雷蔵主演の時代劇コメディ「濡れ髪喧嘩旅」(60・森一生監督)での、ちょっと頼りない勘定奉行配下の役人遠山金八郎役も楽しかったですね。1974年頃からテレビの司会やらレポーター役で俳優業が開店休業になってしまったのが残念です。初老になったらどんな役柄を演じるか、楽しみだったのですがねぇ。
7月31日 加藤 武氏 亨年86歳
ちょっと強(こわ)持ての風貌で独特の個性を持った、好きな役者さんでした。黒澤明監督「悪い奴ほどよく眠る」(60)における、三船敏郎演じる主人公を助ける相棒の板倉訳は印象に残っています。黒澤作品ではなんと「七人の侍」で町を歩く侍役でエキストラ出演もしていたそうです。今度見る時探してみましょうかね。それと「隠し砦の三悪人」の冒頭で、壮絶な死に様を見せる落武者役も熱演です。ここで手を上げたまま死んで、ジッとしてるのも大変ですが、実は横を通り過ぎる馬に蹴られていたそうです。よく動かず我慢したものです(笑)。他に「蜘蛛巣城」や「用心棒」、「天国と地獄」にも出演。隠れた黒澤映画常連俳優と言えるでしょう。あと深作欣二監督「仁義なき戦い」シリーズの時に強気、時に優柔不断な打本組長役も良かったですね。後年の市川崑監督の金田一耕助シリーズで、毎回「ヨシ、分かった」と手をポンと叩く警部役も楽しかったです。最後に一つだけ。晩年のテレビドラマ「最後のカチンコ~新藤兼人・乙羽信子~」 (2012)で、新藤兼人監督役を演じていて、おだやかで静かな演技が印象的でした。ご冥福を祈ります。
9月5日 原 節子さん 亨年95歳
この方の訃報はショックでした。昭和映画史に残る、正真正銘の伝説の女優でした。私が映画に夢中になった頃は既に引退していて、リアルタイムでは観ていません。既に伝説の存在でした。後に名画座や名画鑑賞会等で旧作を追いかけるようになって、小津安二郎監督作品や、戦後間もない頃の名作「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督)、「青い山脈」(今井正監督)、「お嬢さん乾杯」(木下惠介監督)、「わが青春に悔なし」「白痴」(共に黒澤明監督)などを観る度にファンになって行きました。どの作品でも、原節子は輝いておりました。この人の出演作をリアルタイムで観れなかった事がとても残念でなりません。「東京物語」は中でも小津、原節子の共に最高傑作です。もう何度名画座、テレビ、DVDで観たか数え切れません。特に引退後、一切公の場に姿を現さない、マスコミが何度アプローチを試みても無駄だった、という点でも伝説をさらに押し上げていると思います。多分多くの映画ファンにとっても、このまま永久に伝説として語り継がれる存在、であって欲しいという思いが強かった事でしょう。亡くなったなんて、今も信じられません。悲しくて胸にポッカリ穴が開いた感覚です。
山田洋次監督は、「永遠に生き続けてほしい、と誰もが願っていた女優さんだったのではないでしょうか。あの人は絶対に死んだりしないと僕は思っていた。だから一番聞きたくない知らせです。永遠に聖なる女優。神の領域に達していたとでも言ったらいいでしょうか」と述べていますが、私もまったく同感です。そんな印象を持たれる映画俳優は、多分、と言うか確実に、彼女しかいないと確信します。
でも、映画の中で、彼女はいつまでも若々しいままで生きています。42歳という年齢で引退したからこそ、我々は老いた原節子を想像出来ないままに、これからも若く美しいままの彼女と対面できるという至福を味わえるわけです。素晴らしい事だと思います。
永遠の女神、原節子さん、安らかに…。
10月12日 香取 環さん 亨年76歳
原節子さんの後に書くのは気が引けるのですが、でも逝去日順だから仕方ない(苦笑)。こちらは伝説のピンク映画女優です(なんちゅう落差か(笑))。でも是非取り上げたかった人です。
ミスユニバースの熊本代表で、全国大会で準ミスに選ばれた後、1958年に日活第四期ニューフェイスに採用され入社。以後本名の久木登紀子名義で多くの日活アクションに出演、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎とも共演しています。61年に日活を退社、そして翌62年、低予算の成人映画「肉体の市場」(小林悟監督)に、映画の役名を取って香取環に改名し主演。大手以外のマイナー・チェーンで公開されるやこれが大ヒットして、以後続々とこの種の成人映画(ピンク映画と命名される)が量産されるきっかけとなり、香取さんも「ピンク女優・第一号」と呼ばれる事になります。
出演した本数は62年から72年までの11年間に600本以上と言われています。ギネス級です。クリストファー・リーも及びません(笑)。若松孝二監督とのコンビ作品も多く、同監督デビュー作「甘い罠」(63)以降、「性賊 セックスジャック」(70)や「性輪廻 死にたい女」(71)、沖島勲監督の「ニュージャック&ベティ」(69・若松プロ作品)などの意欲作・問題作にも出演。ピンク映画の隆盛に大きく貢献しました。
71年、日活がロマンポルノの製作を開始。香取さんも出演依頼を受けますが、古巣であった日活がポルノ映画を撮ることに不快感を示し拒絶。そのせいでもないでしょうが翌年引退を決意。以後映画界からは姿を消してしまいます。しばらくは忘れられた存在でしたが、2011年、ラピュタ阿佐ヶ谷が「60年代まぼろしの官能女優たちⅡ」と題するピンク映画特集上映を行い、この時香取さんが熱望に応じて熊本から上京してファンとの交流イベントが行われ、まさに40年ぶりの表舞台への登場となりました(後に、神戸映画資料館主催の「まぼろしの昭和独立プロ黄金伝説」にも登場)。それから4年後の逝去でした。日陰に咲いた仇花と言われるかも知れませんが、これもまた映画の歴史のひとコマとして記憶に残る存在でありましょう。
11月1日 深江章喜氏 亨年89歳
舞台活動を経て、1954年、映画製作を再開して間もない日活に入社。当初は端役が多かったようですが、やがて裕次郎の登場をきっかけに日活がアクション映画を量産するようになると、凄みのある容貌を買われて数多くのアクション映画で、主に悪役として活躍しました。60~61年頃は多い時には年間12~3本も出まくっています。一度見たら忘れられない面構えで強く印象に残っています。渡哲也主演の「無頼」シリーズ(67~69)などの巧演が特に光ります。日活がロマンポルノに転じると日活を退社、東映、東宝などのアクション映画で活躍しました。後年はテレビにも出たりで88年以降は映画出演は途絶えていましたが、2003年、松方弘樹が初監督に挑戦した「OKITE やくざの詩」に久々に出演。これが映画での遺作となりました。
11月2日 加藤治子さん 亨年92歳
松竹少女歌劇団の出身で、1939年、17歳の時に東宝に迎え入れられ、映画デビューと言いますから70年以上の芸歴があるわけですね。最初の頃は御舟京子という芸名で、エノケンこと榎本健一主演のコメディにに多く出演しています。41年頃からは新劇の舞台の方に活動の場を移し、映画からは離れますが50年代半ばからまた映画にも出はじめます。また60年代中期からはテレビにも多く出演。覚えているのは森繁久弥主演の「七人の孫」におけるお母さん役ですね。おだやかで包容力のある母親役を数多く演じ親しまれました。近年も山田洋次監督「おとうと」(2009)などに出演。でも、一番印象に残っているのは、宮崎駿監督の2本のアニメ「魔女の宅急便」(89)の老婦人と「ハウルの動く城」(2004)のサリマン役ですね。本当にやさしいしゃべり方で、お声を聴いているだけでも癒されます。素敵な名優でした。
11月14日 阿藤 快氏 亨年69歳
大学卒業後、劇団俳優座の舞台部に加入。ここで原田芳雄の演技に魅了され、自分も役者になる事を決意したようです。そんなわけで初期は原田芳雄出演作品への助演が目立ちます。いずれもチョイ役ばかりでしたが。「無宿人御子神の丈吉」シリーズ(72~73)、「赤い鳥逃げた?」(73)、「祭りの準備」(75)、「君よ憤怒の河を渉れ」(76)等々。なお当時の芸名は阿藤海。その原田を兄貴分と慕う松田優作にも感化されたようで、78年頃からは松田優作主演映画への助演が多くなります。「最も危険な遊戯」「殺人遊戯」(共に78)、「俺達に墓はない」「蘇える金狼」(共に79)、そして「野獣死すべし」(80)へと続きます。私が阿藤さんを意識したのはこの頃で、「殺人遊戯」における、松田をいつも「鳴海さぁ~ん」と慕う弟分役がとても印象的でした。また日活ロマンポルノにも、「襲う!!」(78)、「赫い髪の女」(79)、「ワイセツ家族 母と娘」(82)と積極的に出演。どんな作品でも個性的な顔だちで目立ちました。87年頃からはテレビ出演も多くなって、映画出演が減ったのがちょっと残念です。それでも2003年頃からポチポチ映画にも戻って来たようです。そして2007年、沖島勲監督・脚本のSFファンタジー「一万年、後....。」において最初にして最後の主演を果たします。阿藤さんは一万年後の未来世界にタイムスリップした謎の“叔父さん”を演じています。奇妙な味わいの異色作でした。今年公開の「シネマの天使」では閉館間際の映画館の映写技師を演じており、これが遺作となりました。地味な作品で公開規模も僅かでしたが、亡くなられたニュースでこの「シネマの天使」の出演シーンが何度もテレビに登場して、映画の知名度が一気に上がったのは映画にとっても僥倖でしたね。これで、この作品を観ようと思う人が増えたなら、阿藤さんも天国で喜ぶ事でしょう。実は、阿藤さん自身が「シネマの天使」だったのかも知れません。
12月6日 平良とみさん 亨年87歳
沖縄を本拠に活躍された名優です。79年頃から、高嶺剛監督の「オキナワンチルダイ」(79)、「パラダイスビュー」(85)、「ウンタマギルー」(89)に連続出演。そして何より絶品だったのが、中江裕司監督の傑作「ナビィの恋」(99)におけるタイトルロールのおばあ・ナビィ役ですね。これで平良さんも一躍全国区になり、テレビ「ちゅらさん」に繋がって行きます。中江監督とは「ホテル・ハイビスカス」(2002)でもタッグを組みます。…それにしてもブレイクしたのが70歳を超えてから、と超遅咲きでしたね。悠然とした存在感ある演技が忘れられません。
12月16日 安藤 昇氏 亨年89歳
凄い(というか怖い)経歴の異色の俳優です。戦後の暴力団抗争の中心人物で、愚連隊のリーダーを経てやがて安藤組を結成、全盛期には組員1000人を超えたという伝説のヤクザです。58年には東洋郵船・横井英樹社長銃撃というセンセーショナルな事件を起こし服役。出所後、組を解散し、突然映画俳優に転進、半自伝的な内容の松竹映画「血と掟」(65)で衝撃のデビュー、これが大ヒットして、以後同様の自身のキャリアを生かした多くの暴力団映画に主演します。演技はうまいとは言えませんが、立ってるだけで威圧感を感じる本物のヤクザの風格には圧倒されましたね。そんな中で、加藤泰が監督した安藤主演三部作「男の顔は履歴書」「阿片台地・地獄部隊突撃せよ」(共に66)「懲役十八年」(67)は、加藤演出の冴えもあって見事な秀作になっていました。その後も数多くの任侠、ギャングアクション映画に主演、助演し、いずれも強烈なオーラを発散して存在感を示しました。
また功績としては、「男の顔は履歴書」に端役として出演していた菅原文太を東映に紹介し、これがきっかけで松竹でくすぶっていた文太さんが東映でブレイクし、大スターへの道を邁進する事となります。文太主演の「懲役太郎 まむしの兄弟」(71)の中で、中途半端な刺青の文太が、立派な刺青を背負った安藤昇の裸の背中を見て思わずブルッてしまうシーンは楽しいですね。後年はオリジナル・ビデオ出演が多くなり、自身の半生を描いたものばかりになってやや食傷気味になってしまったのが残念です。
さて、ここからは映画監督の部です。まず外国勢から。
1月10日 フランチェスコ・ロージ氏 亨年93歳
イタリアの政治的・社会派的映画を多く監督した名匠。ルキノ・ヴィスコンティ監督の「揺れる大地」(48)「ベリッシマ」(51)などの助監督を経て58年「挑戦」で監督デビュー。以後、マフィアの中心人物サルバトーレ・ジュリアーノの暗殺事件をセミ・ドキュメンタリータッチで描いた「シシリーの黒い霧」(62・ベルリン映画祭銀熊賞受賞)、政治家の腐敗を強烈に批判した「都会を動かす手」(63・ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞)、国営公社総裁の謎の事故死と国際独占資本の陰謀を描いた「黒い砂漠」(72・カンヌ映画祭パルム・ドール受賞)などの傑作・意欲作を発表しました。なんとこの3本で、世界三大映画祭をすべて制覇したわけですね。その後もマフィアのボス中のボス、ラッキー・ルチアーノの生涯を描いた「コーザ・ノストラ」(73)など秀作を連発。後年はガブリエル・ガルシア・マルケスの同名小説を映画化した「予告された殺人の記録」(87)など、文学的作品も多くなります。個人的に好きなのは、ある闘牛士の栄光と死を描いた「真実の瞬間」(65)ですね。イタリア・ネオレアリズモの伝統を社会派告発映画に発展させた、イタリア映画界の功労者だと思います。
4月2日 マノエル・ド・オリヴェイラ氏 亨年107歳
100歳を超えてもコンスタントに映画を作り続けたポルトガル映画界の巨匠。監督デビューは23歳でしたが、しばらく休業期間が続き、本格的に映画を作り始めたのは60歳を超えてからです。日本では未公開の作品が多く、わが国でようやく注目されたのは93年の「アブラハム渓谷」辺りからでしょう。この時なんと85歳なんですね。あまり作品を観ている方ではありませんが、21世紀になってから観た「ブロンド少女は過激に美しく」(2009)は、年齢を感じさせない瑞々しい演出に魅かれました。そしてつい最近観た「アンジェリカの微笑み」(2010)、これは傑作でしたね。若くして亡くなった少女アンジェリカの死に顔を撮ったカメラマンが、その少女の亡霊に恋し幽玄の世界に堕ちて行くという怪異譚。これを撮ったのが101歳の時だというから凄い。2014年まで映画を撮り続けたようです。もっとこの人の作品を観たいものですね。
7月1日 セルジオ・ソリーマ氏 享年94歳
イタリア・ローマ生まれ。62年に監督デビュー。スパイ・アクションからマカロニ・ウエスタンまで、いろんなアクション映画を監督しました。サイモン・スターリング名義でも監督しています。面白かったのはリー・ヴァン・クリーフ主演のマカロニウエスタン「復讐のガンマン」(68)、それとチャールズ・ブロンソンが一匹狼の殺し屋を演じる「狼の挽歌」(70)でしょう。イタリア映画らしからぬスタイリッシュかつクールなアクションの秀作でした。あと、オリヴァー・リード主演の組織と警察の癒着を抉った「非情の標的」(72)も、エンニオ・モリコーネの音楽と共に印象に残る佳作ですね。監督本数は少ないですが、記憶に残る個性派監督だったと言えるでしょう。
9月27日 ジョン・ギラーミン氏 亨年89歳
イギリス出身の映画監督。初期はターザン映画などの当り障りのない映画を撮っていましたが、65年のパトリシア・ゴッジ主演「かもめの城」が少女の揺れ動く心を繊細に捉えた佳作で、続くジョージ・ペパード主演3部作「ブルー・マックス」(66)、「野良犬の罠」(67) 「非情の切り札」(68)がいずれもシャープなアクション、ハードボイルド・タッチの切れ味の良さで見応えがあり、これで私も注目しました。以後もコンスタントに戦争映画、アクション映画を撮り、74年のディザスター・ムービーの大作「タワーリング・インフェルノ」で大ヒットを飛ばし一流監督の仲間入りを果たします。勢いに乗ってこれも超大作「キングコング」(76)を手掛けたまでは良かったのですが、その続編「キングコング2」(86)が観るも無残なトホホ駄作で批評的にも興行的にも惨敗。これで信頼を失ったか以後劇場監督作はないままでした。この人はむしろ初期の頃のような、こじんまりとした小品やB級アクションの方が性に合っていたのかも知れない、と思うとやるせないですね。
さて次は日本の監督です。
5月5日 野村 孝氏 亨年89歳
1951年大学卒業後、映画プロデューサーを志して亀井文夫監督の所属する青年俳優クラブに入り、やがてここが製作した市川崑監督「億万長者」(54)の助監督につきます。これで監督業に興味を持ったのか、翌55年、市川崑と共に日活に入社し、助監督修業。そして60年、「特捜班5号」で監督デビューとなります。アクション映画、青春映画をいくつか手掛けますが、63年の石原裕次郎主演「夜霧のブルース」が、愛する人を失った復讐の情念と叙情味が絶妙にブレンドされた佳作でなかなかの力作でした。そして67年、宍戸錠主演の「拳銃(コルト)は俺のパスポート」というハードボイルド・アクションの傑作を発表。ラストの決闘シーンにはシビれました。今もカルト的な人気があります。宍戸錠も自身の最高作と認めております。残念ながら上記2本以外は、悪くはありませんがこれといって特色もない無難な出来で、器用な監督ではありますが個性を打ち出せなかったのが惜しいですね。まあ「拳銃(コルト)は俺のパスポート」1本を残しただけでも良しとすべきでしょう。
6月13日 高橋 治氏 亨年86歳
83年「秘伝」で第90回直木賞を受賞、85年「風の盆恋歌」とヒットを飛ばした小説家、というのが一般的な印象ですが、元々は松竹所属の映画監督です。
53年、松竹に助監督として入社。同期に篠田正浩がいました。この年、小津安二郎監督の「東京物語」に助監督として付き、小津監督の演出を目の当たりにして、後に82年、小説「絢爛たる影絵-小津安二郎」(直木賞候補)に結実する事となります。
60年「彼女だけが知っている」で監督デビュー、松竹ヌーヴェルヴァーグの一角として評価されます。松竹で6本ほど映画を監督しますが、これといったものはありません。69年に俳優座製作・イスラエルとの合作という異色作「少年とラクダ」を完成させますがほとんど評価されず、これで見切りをつけたのか映画監督の足を洗い小説家に転進します。こちらで大成功となりましたから、これで良かったのかも知れませんね。
7月2日 沖島 勲氏 亨年74歳
この人の経歴が面白いのですね。日大芸術学部映画学科在学中から、同学部1年先輩の足立正生と一緒に自主製作映画に関わり、足立と共同で「椀」、「鎖陰」などを作ります。卒業後は二人で若松孝二監督率いる若松プロに入り、若松作品の助監督となります。若松監督に信頼され、69年、若松プロ作品「ニュー・ジャック&べティ モダン夫婦生活讀本」で監督デビューを果たします。ピンク映画はこれ1本で、やがて突然テレビ界に転進、TBSのアニメ「まんが日本昔ばなし」の構成・シナリオライターとして活躍します。沖島さんが手掛けた脚本の数は1,230本にも上り、長寿アニメシリーズ「日本昔ばなし」の高評価に貢献します。映画監督は諦めたのかと思っていたら、89年、一般映画「出張」で映画監督に復帰します。平凡な中年サラリーマン(石橋蓮司)が東北出張中に、原田芳雄率いるゲリラ部隊に誘拐されてしまうという奇想天外なブラック・コメディの佳作でした。まあこれも一種の“おとぎ話”でしょうか(笑)。96年には新東宝で成人映画「したくて、したくて、たまらない、女。」を監督…といった具合に、成人映画と子供向けアニメの間を行き来する、なんとも変わったと言うかユニークな人生ですね。その後も源義経(Y)、源頼朝(Y)、平清盛(K)らが集まり、歴史の誤解について撮影スタジオで論議するという「YYK論争 永遠の“誤解”」(99)、タイムスリップSFファンタジー「一万年、後....。」(前掲)、自らも出演し、井の頭公園付近の風景を記録しながら、開発により自然が失われる事への怒りを語ったドキュメンタリー「怒る西行」(2010)など、なんとも異色の映画を監督し続けます。遺作となったのが2013年の「WHO IS THAT MAN!? あの男は誰だ!?」。これがまた、「“自由民主共産あっかんべぇー”政権と“お前等アホちゃうか”政権と“何さらしとんねん”政権とがそれぞれ勝手な法案を出し合って事態がどんどん混乱して行く」という素っ頓狂な社会批判コメディです。なんじゃこりゃですね(笑)。
まあ要約すれば、反骨と諧謔とペーソスの入り混じった、日本という国を斜めから見据える視線を持ちながら、どこかすっトボけた、不思議な人だった気がします。あるいは、1万年後の世界からやって来た未来人だったのかも知れません。ほとんどの作品がマイナーな形でしか公開されていませんが、もっと評価されてもいい人ではないかと思っています。追悼の意味で、どこかで特集上映でもやってくれないでしょうかねぇ。
それにしても、香取環さん、阿藤快さんと、沖島さんに縁のある方が同じ年に相次いで亡くなられているのですね。
8月19日 大嶺俊順氏 享年81歳
この人の名前を意識したのは、64年、山田洋次監督の“馬鹿”シリーズ2作目「いいかげん馬鹿」を観ていっぺんに山田監督のファンになり、脚本を書いたのは誰だろうと思ってチェックしたら、大嶺俊順の名前があったからです(熊谷勲と共作)。初期の山田監督作を観ると大抵「助監督・大嶺俊順」の名前を見る事が出来ます。そうして山田監督の下で長く助監督を務めた後、「望郷」(71)で監督に昇進。その翌年には山田洋次も脚本に参加した「喜劇 社長さん」を監督します。出演者がハナ肇に倍賞千恵子、犬塚弘で撮影が高羽哲夫 と山田一家で占められ、山田監督に気に入られていた感があります。が興行的にもパッとせず、以後助監督に逆戻り。78年、久しぶりの監督作「俺は上野のプレスリー」(原作は山田洋次)を発表しますがこれもどうってことない出来。また助監督に戻されてしまい、以後監督作はありません。期待していたのに残念です。なにくそと奮起して欲しかったですね。
さて、以下はその他の方です。
1月2日 白坂依志夫氏 (脚本家) 亨年83歳
父はロシア文学者から脚本家に転じ、映画脚本家として活躍された八住利雄氏。大学中退後、55年大映東京撮影所に脚本家として入社します。何本か脚本を書いた後、高校時代から交流があった三島由紀夫原作の「永すぎた春」(57・田中重雄監督)で注目され、以後は増村保造とウマが合って、「青空娘」「暖流」(共に57)、「巨人と玩具」(58)、「最高殊勲夫人」「氾濫」(共に59)、「偽大学生」(60)、「好色一代男」「うるさい妹たち」(共に61)と立て続けに増村作品の脚本を手掛けます。57年には大映を退社、フリーとなって各社を股にかけて意欲的な力作脚本を執筆します。「完全な遊戯」(日活58・舛田利雄監督)、「われらの時代」(日活59・蔵原惟繕監督)、「野獣死すべし」(東宝59)「僕たちの失敗」(東宝62・共に須川栄三監督)、「素晴らしい悪女」(東宝63・恩地日出夫監督)などが代表作。増村とはその後もコンビを続け、「盲獣」(69)、「動脈列島」(75)、独立プロ作品「大地の子守歌」(76)、「曽根崎心中」(78)と傑作、力作を連打します。また東宝において、西村潔監督のハードボイルド・アクション「白昼の襲撃」(70)、同「薔薇の標的」(72)も執筆するなど、旺盛な活動を続けました。父親とは違う方向で才能を発揮したと言えるでしょう。お疲れ様でした。なお脚本家桂千穂さんは白坂さんの直弟子です。
1月9日 須崎勝彌氏 (脚本家) 亨年93歳
戦争中、学徒出陣で海軍航空隊に配属、沖縄戦線にも出撃しています。その経歴を生かし、戦後は脚本家として「人間魚雷回天」(55) 、「潜水艦イ-57降伏せず」(59)、「太平洋の翼」 (63) 、「勇者のみ」(64・アメリカとの合作)、「太平洋奇跡の作戦 キスカ」 (65)、「あゝ同期の桜」(67)、「連合艦隊司令長官 山本五十六」 (68)、「日本海大海戦」(69)、「大空のサムライ」(76)、「連合艦隊」 (81)など、数多くの戦争映画の脚本を書きました。そんな中で私が大好きなのが、第一次大戦を舞台とした「青島要塞爆撃命令」 (63・古澤憲吾監督) です。大らかな複葉機空中決戦に、最後は敵要塞の大爆破スペクタクルと、アクションとユーモアが絶妙に噛み合った日本版「ナバロンの要塞」とも言うべき傑作です。
その一方で、若尾文子主演の「十代の性典」「続十代の性典」「十代の誘惑」(以上・53)と続く大映の危ない青春ものも執筆。その流れは70年代に入っても、「高校生番長」「高校生番長 棒立てあそび」「高校生番長 ズベ公正統派」(いずれも70)と続いて行きます。しかし「棒立てあそび」…って(笑)。
硬と軟の、両方に大きく振幅した、幅の広い名脚本家だったと言えるでしょう。
1月29日 眞鍋理一郎氏 (作曲家) 亨年91歳
1956年以来、各社を股にかけてもの凄い数の映画音楽を担当しています。ジャンルもSF、怪獣映画、ホラー映画、時代劇、任侠映画、社会派作品、ドキュメンタリーと多岐に亘ります。以下一例。
SF「スーパー・ジャイアンツ」シリーズ(57~58)、怪獣映画「ゴジラ対ヘドラ」(71)、「ゴジラ対メガロ」(73)、そしてホラーでは山本迪夫監督の一連の和製ドラキュラもの「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」(70)、「呪いの館 血を吸う眼」(71)、「血を吸う薔薇」(74)、さらには日活ロマンポルノ「恋の狩人 ラブ・ハンター」(72)、「女教師 甘い生活」(73)、「花と蛇」 (74)、「性処女 ひと夏の経験」(76)まで、異色作、秀作が並びます。
また、大島渚監督とは、デビュー作「愛と希望の街」(59)以降、「青春残酷物語」、「太陽の墓場」、「日本の夜と霧」(以上60)、「飼育」(61)、「天草四郎時貞」(62)と、初期のほとんどの作品でコンビを組んでいます。
そんな中で、とても印象に残っているのが、出目昌伸監督の秀作「俺たちの荒野」(69)ですね。映画も大好きですが、音楽もリリシズムと哀愁に満ちた素晴らしい出来栄えでした。出目監督とは「沖田総司」(74)でもコンビを組んでいます。
後年は浦山桐郎監督とのコンビが多く、「青春の門」(75)、「青春の門 自立篇」(77)、テレビの「飢餓海峡」(78)、「龍の子太郎」(79)、「太陽の子 てだのふあ」 (80)などがあります。
ジャンルの幅広さでは、作曲家の中でも群を抜いていたのではないでしょうか。素敵な音楽、本当にありがとうございました。
3月7日 辰巳ヨシヒロ氏 (劇画作家) 亨年80歳
このユニークな漫画家の生涯を描いた「TATSUMI マンガに革命を起こした男」を昨年鑑賞したばかりでした。亡くなる前に映画が公開されて良かったですね。詳しくは作品評をお読みください。
3月19日 3代目桂米朝氏 (落語家) 亨年89歳
関西落語界の第一人者で、上方落語を復権、落語界で2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)であり、落語界初の文化勲章受章者…とまあ凄い人。映画には「女殺油地獄」(57・堀川弘通監督)、「喜劇 夫婦善哉」(68)、「“経営学入門”より ネオン太平記」(68・磯見忠彦監督)など5本程度でいずれもチョイ役。あまり深く映画には関わっていません。
で、なんでここに取り上げたかと言うと、実は私、大学受験生時代に京都で下宿していて、その頃気分転換にラジオを聴いていたのですが、近畿放送(現・KBS)から流れて来たリクエスト番組で軽妙なしゃべりをやってる人に聴き惚れ、これが桂米朝さんでした。視聴者からのハガキも読んでくれてたので私も投稿し、そのうちの数通が採用されて米朝さんが読み上げてくれました。無論ハンドルネームでしたが、文面にユーモアたっぷり感想を言ってくれるのでとてもいい気分にさせて貰いました。そのおかげ(かどうか)で大学にも合格。苦しい受験勉強時代での唯一の楽しい記憶です。これで米朝ファンになり、何度か独演会にも行きました。大長編の「地獄八景亡者の戯れ」には聴き惚れました。またラジオ大阪で放送していた、SF作家小松左京氏との掛け合いも楽しい「題名のない番組」も聴いていました。これも楽しい番組でした。
この方の凄いのは、落語だけでなくこうしたラジオ番組に出たり、SF作家との交流など人脈も幅広く、それらも全て肥やしにして、関西落語の隆盛に繋げて行った点でしょうね。ラジオを聴いていた当事は話の分かる親しみ易いご近所のおじさん、みたいな感覚でしたが、その人が人間国宝にまで上り詰めるとは、当事は想像も出来ませんでした。わが青春の忘れられぬ思い出です。亡くなられた、と聞いてあの頃を思い出し、熱いものがこみ上げて来てしまいました。米朝さん、本当にありがとうございました。
5月5日 高橋二三氏 (脚本家) 亨年89歳
どう読むのかずっと判りませんでしたが、訃報で“たかはし にいさん”と読むと判りました。
55年から脚本を書き始め、初期には日活を中心に、他愛ないコメディが多かったのですが、65年、大映で特撮怪獣映画「大怪獣ガメラ」(65)を手掛けて以降は「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」(66)、「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」(67)、「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」(68)、「ガメラ対大悪獣ギロン」(69)、「ガメラ対大魔獣ジャイガー」(70)、「ガメラ対深海怪獣ジグラ」(71)と、ガメラシリーズのほとんどを書きまくりました。ガメラをゴジラと並ぶ人気怪獣に育てた功労者と言えるでしょう。80年にリメイクされた「宇宙怪獣ガメラ」も担当。ゴジラ映画の本多猪四郎監督からも褒められたそうです。
そんな一方で、大映末期のセックス路線、「あるセックス・ドクターの記録」(68)、「ある女子高校医の記録 妊娠」(68)、「フリーセックス 十代の青い性」(68)、「ある女子高校医の記録 初体験」(68)、「ある女子高校医の記録 失神」(69)なども一手に引き受ける等、前掲の須崎勝彌と並ぶ八面六臂の活躍ぶりを見せました。で、面白いのは大映の「ヤングパワー・シリーズ」と名づけられたシリーズの1作目「新宿番外地」(69)を高橋氏が、2作目の「大学番外地」(69)は須崎氏が書いているのですね(監督はどちらも帯盛廸彦)。ある意味、大映末期のセックス路線、青春路線をお二人で交互に担当していた事になりますね。そのお二人が同じ年に亡くなられた、というのも不思議な縁を感じますね。
6月4日 青柳哲郎氏 (プロデューサー) 亨年80歳
この人、映画ファンなら知る人ぞ知る、映画史を騒がせた大変な人物なのですが、亡くなった時、マスコミでもほとんど騒がれなかったのが意外です。経歴にも、“日本のテレビプロデューサー、C.A.L創業者”としかなっていませんでしたので、私も一瞬同姓同名の別人かと思ったくらいです。
何がそんなに重要かと言うと、あの黒澤明監督がハリウッドで撮る予定だった「トラ・トラ・トラ!」を突如降板させられた、その原因を作った元凶として当事マスコミ等で散々叩かれた人物であるからです。その詳しい真相は、田草川弘氏の労作「黒澤明vs.ハリウッド」(2006・文藝春秋社刊)に掲載されていますので知りたい方はそちらをお読みになってください。(映画ファンならとっくに読んでるとは思いますが)
ざっくりこの人の経歴を以下に辿ります。この人は映画監督として知られる青柳信雄氏の子息で、そのツテで慶応大学卒業後東宝に入社。助監督を経験後、東宝ニューヨーク駐在となって本場アメリカ映画界の製作事情を研究しますが、59年頃東宝を退社、ニューヨークの映画プロダクションでカツカツの生活を送っています。父が黒澤明と親しかった事もあって両家の交流も深く、黒澤はよく青柳家を訪れ、黒澤から「哲ちゃん」と呼ばれるほどの仲でした。そんな縁もあって、65年、黒澤が「赤ひげ」公開後東宝と決別し、海外での映画製作を考え始めた頃に、黒澤は青柳哲郎氏を黒澤プロに迎え入れ、外国映画会社との交渉役に指名します。そして66年、青柳氏は米エンバシー・ピクチャーズとの提携による黒澤初の海外作品「暴走機関車」のプロデューサーとして奔走します。が、これはアメリカとの映画作りの体制の違いもあって迷走、製作中止に追い込まれます。「黒澤明vs.-」では触れていませんが、当時のキネ旬編集長・白井佳夫氏がキネ旬に長期連載した「『トラ・トラ・トラ!』と黒澤明問題ルポ」(キネマ旬報社刊「黒澤明集成Ⅲ」所収)によると、エンバシーは35ミリ、モノクロでと希望してたのに青柳Pは黒澤に70ミリ・カラーだと説明したり、米側脚本家と意思疎通する人物をアメリカに追い返す等、首を傾げたくなるような行動をしてたようで、こういう問題を起こす人物を黒澤は頭から信用して「トラ・トラ・トラ!」のプロデューサーにも抜擢、ここでもいろんなトラブル(背任に近い行為etc..)を起こして黒澤解任の原因を作っています。「黒澤明vs.-」も読み応えはありますが、これと合わせて前述の白井佳夫氏によるルポもお読みになると、さらに真相に近づけると思います。ただ連載中に、今は亡き黒澤明夫人が登場する局面が出て来て、黒澤本人が「この件に、女房を巻き込みたくないんだ」という意向を示した為、連載は結論が出ないままに中断した状況で現在に至っています。
青柳氏は、白井氏が公平を期す為送った質問状にも回答を拒否していますし、こうした著作に対しても反論を行わず沈黙を守り続けました。そしてとうとう、真実を語らないままに冥界に旅立たれたわけですね。黒澤明も亡くなり、青柳氏も亡くなった現在、白井氏はもうそろそろ、連載の続きを公にしてもいいのではないでしょうか。まあ死者に鞭打つのはどうか、との意見もあるかも知れませんが。
それにしても、訃報の経歴「C.A.L創業者」は事実と異なります。C.A.Lを創業したのは電通のラジオテレビ局長だった梅垣哲郎氏で、初代の社長には哲郎氏(青柳の方。ややこしい)の父・青柳信雄氏が就任したというだけの関係です。Wikipediaの「C.A.L」を検索しても青柳哲郎の名前は出て来ません。同じ哲郎名なので梅垣氏(2006年逝去)の経歴を拝借したのでしょうか。最後まで嘘の人生だったようです(笑)。
で、キネ旬がこの人の訃報記事を(私が知る限り)まったく載せていないのは何故でしょうか。これも不思議です。
文庫本「黒澤明vs.ハリウッド」
6月10日 ロバート・チャートフ氏 (映画プロデューサー) 享年81歳
67年、アーウィン・ウィンクラー氏と共同で、チャートフ=ウィンクラー・プロダクションズを設立。リチャード・スターク原作「殺しの分け前/ポイント・ブランク」 (67・ジョン・ブアマン監督)、同じスターク原作「汚れた七人」 (68)とハードボイルドもので注目を集め、その後「ひとりぼっちの青春」(69)、「いちご白書」(70)とニュー・シネマの秀作を立て続けに発表します。その後もアクションものと青春ものを交互に製作しますが、76年、シルベスター・スタローンが持ち込んだ「ロッキー」の脚本を読んで即座に映画化を決意、これが大ヒットを記録した上アカデミー賞10部門にノミネートされ、見事作品賞、監督賞を受賞、スタローンは大スターへの道を歩み始め、「ロッキー」シリーズは全部で6作も作られるドル箱シリーズとなります。
この他にも、ロバート・デ・ニーロ主演、マーティン・スコセッシ監督のコンビによる「ニューヨーク・ニューヨーク」(77)、同じコンビの「レイジング・ブル」(80)、フィリップ・カウフマン監督の秀作「ライトスタッフ」(83)、ベルトラン・タヴェルニエ監督のジャズ映画「ラウンド・ミッドナイト」(86)などの意欲作、秀作を数多くプロデュースして来ました。最新作は、ロッキーが若いボクサーを育てる「クリード チャンプを継ぐ男」(2015)。これがチャートフ氏の遺作となりました。エンド・クレジットには「ロバート・チャートフ氏に捧ぐ」と献辞が表示されていました。
それにしても、半世紀近く、同じ二人のプロデューサー・コンビが共同で映画を作り続けて来た、というのも珍しいケースですね。
6月22日 ジェームズ・ホーナー氏 (作曲家) 亨年61歳
アメリカ・ロサンゼルス出身。英国王立音楽アカデミーにおいて作曲を学び、その後UCLAの大学院で修士号を取得した後、同大学で教鞭を執っていましたが、ここであのロジャー・コーマンと出会い、コーマンがプロデュースする低予算B級諸作品「ジュラシック・ジョーズ」(79)、「赤いドレスの女」(79)、「モンスター・パニック」(80)、「宇宙の7人」(80)などの音楽を担当する事になります。その後徐々にハリウッドのメジャー作品も担当するようになり、エディ・マーフィ主演「48時間」(82)、ロン・ハワード監督のSF「コクーン」(85)などで次第に名声を高めて行きます。そして86年、前述のコーマン製作作品「宇宙の7人」で知り合った、当時スタッフとして働いていたジェームズ・キャメロンに呼ばれ、「エイリアン2」の音楽を担当、これが大ヒットしてホーナーも押しも押されもせぬハリウッドを代表する映画音楽作曲家の名声を確立します。このキャメロンとのコンビは、「タイタニック」(97)、「アバター」(2009)へと続く事となります。
そんな順風満帆だったホーナーですが、今年6月、自身で操縦していた飛行機が墜落、事故死した事が明らかになりました。まだまだこれからの活躍も期待されていただけに残念ですね。キャメロンもショックだった事でしょう。61歳は若過ぎますね。
7月6日 ジェリー・ワイントローブ氏 (映画プロデューサー) 亨年77歳
この方もアメリカ有数の名プロデューサーです。75年のロバート・アルトマン監督「ナッシュビル」辺りからプロデューサーとして頭角を現し、84年に製作した「ベスト・キッド」が大ヒットして、94年まで4作を数える人気シリーズとなります。面白いのはこのシリーズ1~3作目までを監督したのがジョン・G・アビルドセン、音楽がビル・コンティと前述の「ロッキー」と同じ組み合わせなのですね。明らかに二番煎じを狙ってます(笑)。ロバート・チャートフはライバルなのかも知れません。同じ年に亡くなったのも、何かの縁でしょうか。ワイントロープ氏のもう一つのヒット・シリーズが「オーシャンズ11」(2001)に始まる「オーシャンズ」シリーズ。こちらも3作目までシリーズ化されています。
7月9日 林 土太郎氏 (録音技師) 亨年93歳
(正しいお名前は“土”の右肩に"、"が付きます)この方は、わが国を代表する録音技師の大ベテランです。子供の頃からの活動写真好きが高じて片岡千恵蔵プロに出入りするようになり、1937年(昭和12年)、15歳の時に父の知人の紹介で日活京都撮影所に入社、最初は監督部を希望したのですが空きがなく、同撮影所の録音助手に採用されます。やがて日活は戦時統制で大日本映画製作(のちの大映)に合併され、林さんも招集を受けて戦地に赴きます。やがて終戦、大映に復帰します。
50年には、黒澤明監督「羅生門」にチーフ録音助手としてクレジットされます。53年に「水戸黄門 地獄太鼓」で録音技師に昇進、以後林さんは大映一筋に録音技師として活躍されます。手掛けた作品は膨大な数に及び、勝新、雷蔵作品から、特撮時代劇「大魔神」(66)に至るまであらゆるジャンルに亘ります。
70年には昔の先輩に誘われ、独立録音スタジオ「京都シネ・スタジオ」創立に参加、大映作品のみならず、テレビやCMも手掛けるようになります。大映との仕事は、71年の大映倒産まで続きました。その後は旧知の勝新率いる勝プロ製作の若山富三郎主演「子連れ狼」シリーズ、やはり勝プロのテレビ版「座頭市物語」シリーズと、勝新太郎からは絶大の信頼を寄せられました。その後もテレビ、映画と、多くの映像作品で林さんの活躍は続き、95年のテレビ「清水次郎長物語」を最後に引退されました。
2007年に、その人生を綴った「映画録音技師ひとすじに生きて 大映京都六十年」(注)を出版、録音技師の目から見た大映の歴史が裏話も含めて書かれており、読み応えがあります。
お歳ですので仕方ないとはいえ、こうした日本映画の歴史と共に歩み、作品を裏から支えた大ベテランの方が亡くなられるのは寂しい気がします。ご冥福をお祈りいたします。
(注)この本の中で1箇所、誤りがあります。69年、雷蔵急逝の後を継いで作られた「眠狂四郎卍斬り」(池広一夫監督)で、主演の眠狂四郎役を演じたのは田村正和、とありますが、正しくは松方弘樹。田村が演じたのは狂四郎と同じ混血の敵役、梅津一郎太役です。扮装が狂四郎とも似ているので記憶違いでしょう。
単行本「映画録音技師ひとすじに生きて 大映京都六十年」
7月20日 武末 勝氏 (脚本家) 亨年79歳
山本迪夫監督のデビュー作「野獣の復活」(69)で映画脚本家デビュー。ハードボイルドの秀作でした。以後も「呪いの館 血を吸う眼」、「血を吸う薔薇」と山本監督とのコラボが続きます。その他では日活ロマンポルノ「赤線最後の日 昭和33年3月31日」(74)、「くノ一淫法 百花卍がらみ」(74) 、一方でテレビ「流星人間ゾーン」(73)、「電撃!! ストラダ5(ファイブ)」(74)などの子供向け作品も手掛けています。この人も幅が広いですね(笑)。後年はテレビ作品が多くなり、映画の方はご無沙汰になってしまったのが残念です。
9月24日 福島菊次郎氏 亨年94歳
日本の写真家、ジャーナリスト、ノンフィクション作家。この方については、2012年に作られたドキュメンタリー映画「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳」をご覧になる事をお奨めします。詳しくは私の同映画評を参照ください。とにかく凄い方です。
9月29日 山内 久氏 (脚本家) 亨年90歳
この方はなんと言っても、テレビ「若者たち」(67)の脚本で有名ですね。視聴率は良くありませんでしたが一部の視聴者から熱狂的な支持を集め、映画にも進出、「若者たち」(67)、「若者は行く -続若者たち-」(69)、「若者の旗」(70)とシリーズ化されました。
経歴が面白い。50年、東京外国語大学卒業後、松竹大船撮影所脚本部に入社。すぐに50年の「花のおもかげ」で脚本家デビューというから実力はあったのでしょうね。その後もコンスタントに松竹作品を手掛けます。この間、同じ松竹で助監督をやっていた今村昌平とも知り合います。
57年、日活に移籍していた今村昌平に請われ、今村がチーフ助監督を務めた川島雄三監督作品「幕末太陽傳」の脚本作りに参加。松竹在籍中だったので“田中啓一”というペンネームを使用しています。その後も松竹作品の脚本を書く傍ら、今村監督に呼ばれては「盗まれた欲情」、「果しなき欲望」(共に58)と連続して今村作品に協力します。この時は“鈴木敏郎”のペンネームを使用。59年に松竹を退社してフリーに。やっと晴れて本来の山内久名義で、今村監督の「豚と軍艦」(61)の脚本を手掛けるに至ります。あと、浦山桐郎監督の傑作「私が棄てた女」(69)の脚本も忘れられません。よく考えると浦山監督も「幕末太陽傳」のセカンド助監督をやっていたのでその縁でしょうかね。
その他で注目すべきは、山田洋次監督の落語ネタ「運が良けりゃ」(66)の脚本を執筆。「幕末太陽傳」で落語に詳しいと思われたのでしょうかね。但しほとんど山田洋次が書き直したようで、公式には山内久脚本となっていますが、クレジットでは“原案・山内久、脚本・山田洋次”となっております。
数々の傑作シナリオを書いた、日本映画を代表する名脚本家だったのではないでしょうか。99年には紫綬褒章も受章、91年には日本シナリオ作家協会理事長にも就任しています。
それにしてもこうやって振り返ってみますと、今年は日本映画のベテラン脚本家の方が多く亡くなられていますね。白坂依志夫氏、須崎勝彌氏、高橋二三氏、武末勝氏、そして山内氏…
昨年はベテラン撮影技師の方が多く亡くなられていますし。なんかそういう巡り会わせがあるのでしょうかね。
11月4日 メリッサ・マシスンさん (脚本家) 亨年65歳
…と書いた直後に、今度はアメリカの脚本家の方の逝去です。
なんと言っても、スティーヴン・スピルバーグ監督の傑作「E.T.」(82)の脚本で有名ですね。アカデミー脚本賞にもノミネートされました。残念なのは、これ以外には大した脚本は書いていないのですね。97年にはマーティン・スコセッシ監督の「クンドゥン」の脚本を書いていますが、スコセッシ作品の割には低評価でした(キネ旬ベストテンでも25位留まり)。「E.T.」でしか評価されていないのは寂しいですね。65歳という享年も若過ぎます。
…
今年も、素晴らしい功績を残された方々がお亡くなりになりました。映画史に残る方も多く見受けられます。
慎んで哀悼の意を表したいと思います。
今年1年、おつき合いいただき、ありがとうございました。来年もよろしく、良いお年をお迎えください。
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コメント
明けましておめでとう御座います。旧年中は大変御世話になりました。本年も、何卒宜しく御願い致します。
海外の映画俳優で言えば、レナード・ニモイ氏とラウラ・アントネッリさんが、そして国内の映画俳優で言えば“キンキン”と加藤武氏の死が、個人的にはとてもショックでした。人間誰しも命が尽きる日を迎えなければいけない訳ですが、とは言え、幼少の頃より見知って来た方々が鬼籍に入るのは、何とも言えない寂しさを覚えます。
昨年は映画館に足を運ぶ機会が、自分的には物足りない1年でした。そんな中、映画の情報、其れも時には自分の“守備範囲”では無い作品の情報に触れられる此方のブログは、とても貴重な存在。今年も楽しみにしております。
P.S. トラックバックをして戴いたとの事ですが、サイト側の不調なのか反映されていない様でした。申し訳ありません。
投稿: giants-55 | 2016年1月 1日 (金) 01:08
◆giants-55さん
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
人間、寿命を迎えられた方が亡くなるのは仕方のない事であきらめもつきますが(それでも原節子さんの逝去はショックですが)、まだこれからの人生がある方が若くして亡くなられるのはなんとも遣り切れないですね。特に坂東三津五郎氏、ジェームズ・ホーナー氏の死去には愕然となりました。早過ぎます。悲しいですね。
拙ブログご愛読いただきありがとうございます。個人的なモットーとしては、大ヒットの話題作より、ミニシアター等でひっそり公開されたけれど心に沁みた埋もれた佳作を紹介して、少しでも多くの方に見ていただけたらと思っております。レンタルショップでお目に留まりましたら見てあげてください。
TBは何度やってもうまく行きませんでした。時々こういう時があるようです。すみませんでした。
投稿: Kei(管理人) | 2016年1月 2日 (土) 01:40
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
力作ですね。ざっと読みましたが、またじっくり読ませていただきます。
安藤昇さんはあまり新聞などで取り上げられず、年末に知りました。
身近にいたらアレですが、存在感のある俳優さんでした。
投稿: きさ | 2016年1月 2日 (土) 08:36
◆きささん
いつも書き込みありがとうございます。
>力作ですね。
2ヶ月くらい前から準備して書き溜めてますので結構なボリュームになってしまいました。
ただ書いてるうちに、無性に故人の作品見たくなってDVD引っ張り出して見たりするもんですから、時間がいくらあっても足りない(苦笑)。
今年もよろしくお願いいたします。
投稿: Kei(管理人) | 2016年1月 3日 (日) 23:38