「ヤクザと憲法」
大阪府堺市にある指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」の事務所。そこに東海テレビ局の取材カメラが入った。過去、住民たちとも共存して来たヤクザたちだが、「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴力団対策法)」「暴力団排除条例」が施行されてからは、これまで以上の逆風にさらされ、組員も減少しつつある。そうした状況の中で彼らヤクザはどのような日常を送り、何を考えているのか。カメラは組長や若頭、事務所に働く若者たちの日常を淡々と追って行く…。
ヤクザの事務所に、テレビカメラがベッタリ張り付き、その日常、暮らしぶりをすべてカメラに収めている。組長以下全員、素顔も名前もそのままで隠さない。テレビ局のインタビューにもごく普通に答えている。よくまあ組側が許可したものだと驚く。たぶんここまでヤクザに密着したドキュメンタリーは初めてではないだろうか。東海テレビ、すごい。
名古屋のテレビ局なのにわざわざ大阪に出張して撮影してるのは、恐らくは地元のヤクザにも取材を申し込んだのだろうがどこにも断られ(当たり前だろう(笑))、遠くまで足を延ばして探したあげく、ようやくOKを出したのがここ大阪の「二代目清勇会」だったのだろう。
タイトルがまた凄い。「ヤクザと憲法」と来たもんだ。なんともミスマッチな取り合わせに、最初は何でだろうかと違和感があったのだが、映画が進むと共にその理由が分かって来る。
私は(と言うよりほとんどの善良な国民は)、ヤクザは嫌いである。だが面白い事に、私を含めた日本映画ファンには、高倉健や鶴田浩二や藤純子(現・富司純子)が主演するヤクザ映画(いわゆる任侠映画)が大好きな人が多い。中村錦之助が主演する股旅任侠映画「関の彌太ッペ」(山下耕作監督)などは日本映画史上の最高傑作だと思っている。
(なお、ヤクザ同士が血で血を洗う暴力抗争を繰り広げた実話を映画化した「仁義なき戦い」シリーズは大ヒットし、今もファンが多いが、このシリーズを中心とする実録ヤクザ映画と、上に挙げた任侠映画群とは肌合いが微妙に異なる。事実、「仁義なき戦い」の登場で従来の任侠映画は衰退し、消滅してしまった)
なぜヤクザ(今は指定暴力団と呼ばれる)が、世間の冷たい視線を浴びながらも、江戸時代から今の時代まで生き残り続け、警察の厳しい取締りを受けても、無くなる事はないのか(暴対法の効果で徐々にその数は減ってはいるが)。そしてなぜヤクザ映画はファンに愛されて来たのか。
その答に近いものが、このドキュメンタリーからおぼろげながら窺い知る事が出来る。
大阪・新世界にある上部組織もカメラは取材しているのだが(こちらはケンもホロロに追い返されるが)、この新世界で商売を営むオバチャンは「警察に頼んでも相手にしてくれへん」と、組の方を頼りにしている。
また、清勇会の事務所に住み込んで雑用をこなしている21歳の若者は、(多分苛めにあったのだろうか)学校にも家にも居場所がなく、悩んだあげくにたどり着いたのがこの事務所だという。
職を失い、妻子とも別れ、誰も助けてくれずに途方に暮れていた中年男も、ここに拾ってもらい、その事に恩義を感じているという。
この人たちは、社会から見捨てられた存在だと言っていい。そうした、社会からドロップアウトした底辺の寄る辺なき人たちが逃げ込む場所として、裏社会がその受け皿になっている、という構図が見えて来る。
もう一つ、このドキュメンタリーで明らかになるのが、暴対法のせいで銀行口座が作れない為、子どもの給食費の口座振替が出来ず現金を持参しなければいけない事。
これによって、給食費を現金で持って来ると親がヤクザだと分かり、子供が惨めな思いをしているのだという。生命保険にも加入出来ないそうだ。
自動車保険でちょっとした事で交渉がこじれると、詐欺や恐喝容疑で逮捕されたというケースも語られる。
また、映画にもなった「悲しきヒットマン」等の著書で知られる山口組顧問弁護士、山之内幸夫氏も登場する。彼も暴力団に肩入れしていると、警察や弁護士会から執拗な攻撃を受け、事務員も多くが去り、今ではオバちゃん一人しか事務員はいない。
山之内氏もちょっとした事で告訴され、有罪判決を受けたりしている。それでも顧問弁護士を辞めないのは、アウトローの生き方しか出来ない彼らを、一種の社会的弱者とみなして共感を寄せているからではないだろうか。
救いは、本人も事務員のオバちゃんも明るくてメゲていない点である。
そこで登場するのが、日本国憲法の第14条1.「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」の条文である。
ヤクザと言えども、日本国民である。税金も払ってるだろう。弁護士を雇う権利も持っているだろう。であれば、ヤクザに対する不当な差別は、憲法違反ではないか、という論理である。これにはなるほどと思った。
だからヤクザを守れ、差別的な暴対法を廃止せよ、と言ってるのではない。これは日本において、いろんな理由、例えば性的マイノリティ、国籍、人種で差別されている人たちがおり、憲法14条に違反している点では、それらの人たちも、ヤクザも同じではないか、という事なのである。一種のメタファーと考えてもよい。
面白いのは、後半、警察が強制捜索にやって来た時である。カメラはそれらも捉えるのだが、警察は横柄で暴力的な態度を取り、カメラに撮られているのを知ると「写すな!」と怒鳴り、カメラに目隠ししようとする。どっちがヤクザか分からない(笑)。
無論、この映画は暴力団事務所側だけの取材のみで、相手側の警察や保険会社、学校への取材は行っていない。片方だけの言い分を取り上げている点で公正とは言えず、その点は映画として弱い。事務所の全面協力で可能になった取材ゆえ、事務所にとって都合の悪い部分は描かれていない可能性も高い。
「反社会的勢力・暴力団に肩入れするのか」という声も聞こえて来そうだ。
それでも、この映画を私は高く評価する。ヤクザとは言いながら、どこかうらぶれた、哀愁味さえ漂う生活ぶり。彼らや、年老いた山之内事務所の人たちを見ていると、やがてはこの社会も消え行く運命にある事を予感させる。
それは、レトロな昭和の匂い(新世界のオバちゃんに特にそれを感じた)が消えつつある事とも共通するものがある気がする。
だけどこの人たちも人間である。ひっそりとではあるが生きている。そうした人たちを通して、その背後に、マイノリティや弱者を排除しようとする時代の空気や、現代日本社会が抱える歪み、矛盾が浮き彫りになって来る。
もし警察の取締りが功を奏して組が解散したとなると、あの21歳の若者や、組に拾われた人たちはまた行き場を失ってしまう事となる。インタビュアーに「組を解散しようとは思いませんか」と問われた会長は、「どこが彼らを受け入れてくれるのか」と憤る。
単に排除するだけで、それで問題は解決するのだろうか。それは、IS(イスラム国)を排除し殲滅させたとしても、中東問題は解決しないばかりかますます混迷の度を深めるであろう現実とも関連しているようにも思える。
今まで誰も作ろうともしなかった、タブーに踏み込んだ、この映画が作られた意義は大きい。この映画を観て、みんなで考え、議論を戦わせて欲しい。そして憲法第14条をいま一度読み直して、法の下の平等とは、憲法の理念とは何か、を考えるきっかけとして欲しいと、切に願う。 (採点=★★★★☆)
(付記1)
この映画は現在大阪では、十三・第七芸術劇場で上映されているのだが、私が行った時は平日であるにも関わらず、2回の上映とも満席で、指定制でない為立ち見客も大勢入っていた。私は立ち見で観るハメになったが、この劇場で立ち見で観たのは初めてである。凄い事になっている。
東京のポレポレ東中野での上映も連日満席らしい。どうやら大ヒットの様子である。今後も全国上映が続く。お見逃しなく。
(付記2)
この事務所の会長は、殺人容疑で15年の実刑判決を受け、刑期を終えて事務所に戻って来るのだが、いい顔をしている。長塚京三と倉田保昭を足して2で割ったような風貌だ(右)。
映画俳優にしたいくらいだ(笑)。安藤昇氏も亡くなった事だし、組解散、引退後は俳優に転身しても面白いかも知れないと、ふと思った次第。
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