「家族はつらいよ」
結婚50年を目前に控えた、三世代同居の平田一家の主・平田周造(橋爪功)は、今日が妻・富子(吉行和子)の誕生日だった事をすっかり忘れて酔っ払って帰宅した。周造はお詫びも兼ねて妻に誕生日プレゼントに何か欲しいものはないかと聞いてみると、その答えはなんと「離婚届」だった。突如として持ち上がった離婚話に、彼らの子どもたちは大慌て。すぐに家族会議が開かれることになるが、そこに何も知らず、次男の庄太(妻夫木聡)が恋人・憲子(蒼井優)を連れてやって来て…。
「男はつらいよ」シリーズ以来山田洋次監督が20年ぶりに手がけた喜劇、と宣伝されているが、シリーズ終了の翌年から2年にわたって作られた西田敏行主演「虹をつかむ男」(96~97)はなかった事にしたいらしい。まあそんなシリーズがあった事を知らない観客もいるだろうし。
それはともかく、初期の頃はハナ肇主演の「馬鹿」シリーズ等、多くのユニークな喜劇映画を作って来た山田洋次監督が、まったく久しぶりにコメディを手がけたという事で、昔からの山田監督の大ファンである私なんかは嬉しく、また懐かしい気分で本作を鑑賞したのだが…。
(以下ネタバレあり)
うーん、これはちょいと微妙。なんとも複雑な思いである。
確かに、楽しいコメディにはなっているのだが、いまや巨匠・名匠の域に到達している山田監督としては物足りない。これはごく普通の喜劇-ほとんど吉本新喜劇か松竹新喜劇あたりで上演するのに丁度いいようなお話である。
ごく普通の、中の上クラスの家庭で、ちょっとしたさざ波が起きて、すったもんだの末に最後は元の鞘に収まって万事めでたし。それだけのお話である。
今どき、3世代同居で、しかも一家の主(あるじ)が定年後も悠々自適、その上「オレだ、オレだ」の電話や、所構わず服を脱ぎ散らかして妻に後始末させるシーンに象徴されるように、家父長風を吹かせて威張っている家庭なんであるだろうか。一体いつの時代だと言いたくなる。「髪結いの亭主」という、今の若い人には意味が分からないだろう言葉も飛び出す。
昔の時代ならいざ知らず、今の時代、熟年離婚なんて大して珍しくもない。本人が自立して、夢だった小説家の道を歩みたいと言うなら好きなようにやらせてあげたらいいんじゃないか。亭主も今まで妻に身の回りの世話を頼り過ぎてた事を反省して、自炊や洗濯もやってみたらいい。妻に先立たれた時に役に立つし。一族が集まって大騒ぎするほどの事じゃない。
そもそも「東京家族」では、主人公周吉(橋爪功)は妻に先立たれ、子供たちも東京に帰ってしまって田舎で一人ぼっちの生活を始めなければならなくなったはずである。
本作でも、どうせ同じ役者ばかり集まって前作のパロディのような作りにするのなら、離婚が成立し、周造が広い家の中で何がどこにあるかも分からず、うろうろ、アタフタする様を描いた方がよっぽど笑えるし、観客も身につまされるだろう。
こんな予定調和では、終わっても後に何も残らない、と言えば言い過ぎか。
脚本にも、いつもの緻密さが感じられず、山田洋次らしからぬアラも目立つ。
例えば、長女の婿・泰蔵(林家正蔵)が、周造が浮気をしているのではないかと疑い、探偵を雇って調査を依頼するエピソード。両親の離婚を食い止めるべきなのに、そんな事をすれば余計トラブルの種を増やして離婚を促進するだけだろう。富子が離婚を言い出した原因を知りたければ、直接富子に聞けばいいだけの話である。
その探偵・沼田(小林稔侍)が周造の旧友だった事が分かるのだが、それだったなら、普通なら沼田は「親友の家庭を壊すわけには行かない」として調査を断るべきではないだろうか。だが結局証拠写真を泰蔵に渡している。この沼田の薄情な裏切りに対して、何のフォローもしていないのも山田らしからぬ手抜きである。そんな事なら、沼田が旧友だったと言うエピソードはバッサリカットした方が良かったのではないか。
長男の幸之助(西村雅彦)が手回しよく葬儀社のパンフレットを入手し、葬儀の段取りまで考えるくだりも、「男はつらいよ・望郷編」で既に使われたネタだが、寅さんだからこそ笑えるギャグなわけで、一流商社に勤める常識人がそんなバカな事したって不自然で笑えない。
そんな事に目くじら立てなくても、面白いんだからいいじゃないかという声もあるだろうが、他ならぬ山田洋次監督だからこそ苦言を呈したい。山田監督なら、笑いの中に、現代社会が抱える諸問題(例えば少子高齢化、老人介護問題、年金問題、格差社会…等々)に鋭く切り込んで欲しかった。大いに笑わせ、しかし終わってみるとふと考えさせられる、そんなシニカルかつ骨太の喜劇を作って欲しかったと思う。
そんな風に私が思う理由を、以下に述べる。
山田洋次の過去のコメディ作品を振り返れば、初期の「馬鹿」シリーズ、特に「いいかげん馬鹿」や「馬鹿が戦車でやって来る」等では笑いの中にも、無学で粗野な主人公が、村落共同体の中で疎外され、やがてははじき出されてしまう悲しみが描かれていた。
とりわけ、森崎東が脚本に参加した「なつかしい風来坊」、「吹けば飛ぶよな男だが」は傑作である。社会の最底辺で、たくましく、懸命に生きる名もなき庶民のバイタリティや純情が丁寧に描かれ、感動的であった。当時の山田洋次は、こうした下層庶民に限りない愛着を抱いていたと思う。
特に「なつかしい風来坊」では、生活に疲れた役所勤めのサラリーマン(有島一郎)がガサツな風来坊(ハナ肇)になつかしさと愛着を抱くのだが、ちょっとした誤解から風来坊を警察に渡す羽目となり、結局は有島の心のどこかに風来坊への差別意識が潜在していたのでは、という哀しくもシビアな結末となる(ラストの再会で救われはするが)。喜劇の形を借りた、痛烈な人間凝視、批判に満ちたこれは秀作だった。
こうした、社会からはみ出した人間に寄せる優しい視線が、やがて「男はつらいよ」に結実する事となる。この劇場1作目が森崎東との最後のコラボとなった。
それ以降の「家族」、「故郷」等のシリアス路線でも山田洋次は、貧困にあえぎ、過疎化の波に晒され、それでも懸命に生きる下層庶民の姿を通して、日本という国と人間を直視する姿勢を堅持していた。これは以後の「息子」や「学校」シリーズ、そして藤沢周平原作「たそがれ清兵衛」に至るまで一貫している。
「男はつらいよ」シリーズでも、平穏な車家の家庭の中でいつしか居場所をなくして行くアウトロー、寅次郎の哀しさが時として滲み出ていた。
そのいい例がシリーズの傑作「寅次郎相合い傘」(1975)の中で、メロンを切った時に寅の分を忘れていて大騒ぎになるエピソード。
観た時には大笑いしたが、寅次郎は結局、この一家団欒の中には加われない存在である事を示す秀逸な脚本であった。
またシリーズの作品の中で、寅次郎が旅先で、昔の友が寂しく野垂れ死にした事を知って、それが自分の未来の姿でもある事を意識し、悄然と立ちすくむシーンがあった。
コメディ映画であっても、笑いの中に人間のおかしさ、哀しさ、残酷さを鋭く凝視すると共に、底辺に生きる人間への限りない慈しみを描き、かつまた時代を映す鏡として鋭く時代の状況に斬り込む、鋭意な批評眼が垣間見えていた。
それが山田喜劇の真髄であった。
本作には残念ながら、そうした過去の作品にあった山田喜劇の良さ、エッセンスがほとんど感じられない。ありきたりのコメディに終わっている。
私が不満に思うのもお分かりいただけるだろうか。
無論、これは山田洋次作品をずっと観て来た、山田喜劇を偏愛する私の個人的な感想で、凡百のコメディに比べたらずっと上出来であるし、楽しめた人も多いだろう。
80歳をとっくに超えた年齢でコンスタントに良質作品を作り続けている山田洋次監督には、心から敬意を表したい。
これからも山田監督には、時代を鋭く照射する力作を期待するが故の辛口評とご理解いただきたい。 (採点=★★★)
(付記)
それにしても、冒頭の横尾忠則デザインのメインタイトル、積木細工の「家族」の文字が次々と崩れて行って、最後に全部なくなってしまうのだが、これ、“家族の絆が脆くも崩れてしまう”という結末になる事を暗示してるのかと、つい勘ぐってしまった(笑)。
| 固定リンク
コメント
>この沼田の薄情な裏切りに対して、何のフォローもしていない~
この部分ワチシは、小林稔侍演じる探偵が、
仕事と友情の板挟みになって、結局、写真は
依頼主に渡すが、録音テープは見逃してやる
という結論に達したのかな?と解釈した。
その結果、橋爪功父さんがブッ倒れる切っ掛
けは作るも、退院した後にそれ以上、不倫を
あれやこれや詮索されることもないという、
微妙~~なバランスを保てているように感じ
て、お見事!と思いましたけどネェーーーーw
投稿: ジョニーA | 2016年3月25日 (金) 00:10
◆ジョニーAさん
コメントありがとうございます。
私も、あれこれ善意に解釈してみました。ジョニーAさんのおっしゃる解釈もアリかなとは思います。
でも、それならどこかにそれを匂わすようなセリフなり伏線を配置しておくべきでしょうね。誰かがポツリと独り言で洩らすとか、又は沼田を再登場させるなりすべきではないでしょうか。昔の山田洋次なら、そういった事を脚本に必ず書き込んでいたはずです。
私の案ですが、ラスト間際に周造がバッタリ沼田と再会し、
周造「この野郎、泰造に写真渡したのはお前だな。おかげでヒドい目にあったぞ」となじると、
沼田「悪い悪い、しつこく聞くのでつい写真だけは渡したけど、金井さん(泰造)には『私が見た限りでは、女将さんに体よくあしらわれてるだけで、浮気ではないと思いますよ』と報告しといたんだけどな」
周造「まあオレも鼻の下伸ばし過ぎたし、疑われても仕方なかったかな。ヨシ、今日はお前のオゴリでカヨちゃんとこ行くか」
沼田「それはカンベンしてくれよ」
くらいのやりとりがあったなら大分違ったのではないでしょうか。
こんな具合に脚本に緻密さが欠けているのは、以前の良き脚本パートナー、朝間義隆の不在が大きいのではないでしょうか。朝間さんは1971年以来33年間に亙って、「男はつらいよ」42本を含む56本の山田監督作品の脚本作りに協力し、その間「幸福の黄色いハンカチ」「息子」「たそがれ清兵衛」と3度もキネ旬ベストワンを獲らせています。朝間さんとのコンビは2004年の「隠し剣 鬼の爪」で終了し、以後は現在の平松恵美子さんとのコンビが続いているのですが、平松さんが参加してからは、キネ旬では2006年の「武士の一分」の5位が最高で「東京家族」のようにベストテン圏外作品も増えて来たのは、山田監督の老齢化だけが原因ではなく、脚本パートナーの実力不足も起因してると思います。
酷な言い方ですが、もう一度朝間さんとのコンビを復活させるか(それにしても朝間さんは今どうしてるのでしょうか?)、もう少し実力のある脚本家とタッグを組んだ方がいいような気がします。
投稿: Kei(管理人) | 2016年3月27日 (日) 21:25
けいさんこんにちは。「六月の菖蒲」のayameと言います。
独自の観点からの貴レビュー記事、興味深く拝読いたしました。
本作には「コメディ映画であっても、笑いの中に人間のおかしさ、哀しさ、残酷さを鋭く凝視すると共に、底辺に生きる人間への限りない慈しみを描き、かつまた時代を映す鏡として鋭く時代の状況に斬り込む、鋭意な批評眼」が感じられないとの御説、私は真逆な感想を持ちました。
むしろ、山田監督の前作『東京家族』や、同監督がオマージュとした『東京物語』(小津安二郎監督)と合わせ観たとき、そこに通底するモチーフが、けいさんがおっしゃる「鋭意な批評眼」としてはめ込まれているのではないかと思ったからです。そうした意味で、私はこの3作は“オムニバス”作品として見てはいかがかと思いました。
拙ブログにもトラックバックをお寄せいただき、ありがとうございました。
投稿: ayame | 2016年3月29日 (火) 08:57
◆ayameさん こんばんは。
コメントありがとうございます。
映画に関する受け止め方は人それぞれ。いろんな見方があっていいし、それぞれに、自分の思った事を述べるのはとてもいい事だと思っています。ayameさんのご意見も、傾聴に値する素敵な内容だと思います。
その上で、私なりのayameさんのコメントに対するアンサーを書かせていただきます。
「東京家族」は、小津監督の「東京物語」をほとんどコピーしたように、人物名も物語展開もほぼ同じです。リメイクと言ってもいいでしょう。
ただし作品の底辺に流れる基調音は幾分異なります。
小津作品に一貫して流れているのは、「無常観」あるいは「諦念」です。
手塩にかけて育てた子供たちは自分たちの家族の生活で手一杯で両親に冷たく、親身に周吉(笠智衆)たち夫婦の世話をしてくれたのが、血の繋がりのない紀子(原節子)だけだったという皮肉。
そんな風に子供たちにあしらわれても、周吉は「欲言うたらキリがにゃあが。諦めにゃア」母とみも「私らあええ方でさア。幸せでさア」とつぶやきます。ラストの、孤独をかみしめる周吉の姿にも無常感が漂います。
それに対して山田監督「東京家族」では、小津作品では戦死していた次男を生かせておいて、妻夫木聡扮するこの次男は兄たちに比べ親思いで、紀子と幸福な家庭を築き、おそらくは父親周吉に対しても、夫婦で後々面倒を見るのではないかと思わせている点です。小津作品に比べ、家族の絆、温かさを強調させています。
小津作品にオマージュを捧げつつも、「東京物語」とははっきりと違うスタンスを示しています。そういう意味で、「東京物語」と似てはいるけれど「東京家族」はまぎれもなく山田洋次作品と言えるでしょう。
ただし作品的には、「東京物語」の方が間違いなく映画史に残る傑作です。芸術性の高さと言ってもよく、山田作品は“大衆的”、と言えるでしょう。どちらを支持するかは見た人次第、山田作品を好きだという人がいてもいいし、小津作品の方を支持する人がいてもいい。それでいいのです。
「家族はつらいよ」は、その大衆性、マイルド性をさらに強めた、楽しい娯楽作品になっています。ある意味「東京物語」とは真反対のベクトルにあると言えるでしょう。その中間に位置するのが「東京家族」というのが私の捉え方です。
ご参考になりましたでしょうか。またご意見など、お寄せください。これからもよろしく。
投稿: Kei(管理人) | 2016年4月 2日 (土) 01:00
みんな山田洋次が好きなんだなあ。
逆に批評性とかが全くない小噺みたいな映画を作れるというのもお年を召して、いい具合に力が抜けたからというのもあるんじゃないかと思いますが。常に社会性・批判性を伴わなければいけないという括り方は必要がないのに社会的視点を取り込んでしまう病気みたいな気がしてしまいます。今回は必要ないから取捨選択しなかったでいいんじゃないでしょうか?
私は山田洋次監督の数多くの旧作を見てないので、あまりそういう強い面を持った笑いと言うのがピンと来ないんですけどねえ。
投稿: ふじき78 | 2016年4月29日 (金) 00:52
◆ふじき78さん
まあ自分で言うのもなんですが、映画ファンてのは勝手なもんで、例えば熱烈な黒澤明ファン(特に「赤ひげ」までの白黒作品ファン)は、初めてのカラー作品「どですかでん」に満足せず、これ以降、三船が出演しない事も含めて黒澤映画を評価しなくなるのです。黒澤に関する著作がある小林信彦さんですら、カラーになってからは評価してませんからね。
熱烈なファンであるほど、ハードルを上げて辛口になってしまうものなのですね。自分でも分かってるんですが(笑)。
それと私は山田作品に、社会性・批判性を必ずしも求めているわけではありません。コメディとして秀逸であればそれでもいいのですが、本作はコメディとしての切れ味も以前の作品に比べて落ちていると感じたのでがっかりしたわけです。これは名優(盟友)・渥美清の不在も大きいかも知れません。カラー以降の黒澤映画に三船敏郎が不在なのと共通している様に思いますね。
投稿: Kei(管理人) | 2016年4月30日 (土) 01:37