「64 ロクヨン」前編・後編
わずか7日間で閉じた昭和64年に発生し、犯人が捕まらないまま迷宮入りした少女誘拐殺人事件・通称「ロクヨン」。平成14年、事件から14年が過ぎ、時効が目前に迫っていた。かつて刑事部の刑事としてロクヨンの捜査にもあたった三上義信(佐藤浩市)は、現在は警務部の広報官として、記者クラブとの確執や、刑事部と警務部の対立などに神経をすり減らす日々を送っていた。そんなある日、新たな誘拐事件が発生。犯人は身代金2000万円を要求し、父親に車で運ばせるなど、その手口は明らかに「ロクヨン」を模倣していた…。
最近やたら増えて来た、前後編2部作による公開。これも批評は前後編まとめて一緒に行う事にする。
前編に関しては、テンポよく、警察組織内の権力闘争、キャリア上司との確執、隠蔽工作、それに記者クラブとの丁々発止の駆け引きと、まるで警察版「仁義なき戦い」のようなダイナミックな展開で引き込まれた。
多くの登場人物を重層的に配置し、それぞれに人生、苦悩を滲ませた構成もいい。これは原作による所が大きいだろう。
14年前の誘拐事件が、いろんな人々の人生を狂わせて行く。そして第二の誘拐事件発生で、これが14年前とどう絡んで来るのか、いやが上にも緊張が高まった所で前編終了。続きは1ヵ月後の後編待ちとなる。
あんまり気を持たせないで欲しいねという不満はないでもないが、この調子を後編でも持続出来たなら、これは本年を代表する傑作誕生となるのではないかという予感もあった。
(以下ネタバレあり)
ところが、後編に至って映画は失速する。
原作では、4分の3を過ぎた頃から登場する、14年前を模倣したかのような第二の誘拐事件を、映画ではかなり力を込めて、後編の2時間近くの時間をまるまる費やして描いているのだが、その為、前編の中心的テーマだった、組織内抗争ドラマの部分がいつの間にか隅に追いやられてしまっている。
前編の(というか原作の)重要なポイントは、ロクヨン時効を目前にして警察庁長官が県警に視察にやって来るのだが、その目的は実は、県警の刑事部長のポストを中央からのキャリア組にすげ替える事にあり、それに対して刑事部が組織をあげて抵抗すると言う、まさに仁義なき権力抗争劇が展開される所にある。
ところが映画では、第二の誘拐事件発生で、この大事なエピソードがほとんど語られないまま、いつの間にか立ち消えになってしまっている。後半に至っては原作にない、三上と容疑者との対決に話が絞られて行く。
これなら、警察庁長官の視察エピソードなど不要である。バッサリカットして、被害者の父・雨宮(永瀬正敏)の心の内面や、犯人が誘拐事件を起こした動機、娘をなぜ殺してしまったのか、その理由、などを丁寧に描いた方がずっと見ごたえのある作品になっただろう。
原作でも、誘拐事件のサスペンスは描かれてはいるが、その部分は(私個人の感想だが)意外と力が入っていない。というかサラッと流している。
だいたい、第二の事件では娘は誘拐されておらず、たまたま夜歩きしてただけ、携帯もたまたま娘が置き忘れただけという、偶然が重なっての実行というかなりズサンな計画でツッ込みどころだらけである(注1)。
つまり原作者が描きたかったのは、あくまで警察や記者クラブといった、組織の内側で繰り広げられる抗争劇や、組織内部の軋轢の中で苦悩しながらも、戦い続け、あるいは脱落して行く人間たちのドラマ部分であり、誘拐事件は話を盛り上げる為のおマケのような扱いに思える(それでも凡百のサスペンスよりはずっと面白いが)。
小説というものは、作者の筆の勢いで、―特に文章の場合は登場人物の心の内面も緻密に表現出来るので―多少のアラがあっても、読んでいるうちは無類に面白いものだが、その小説を映像化してみると、読んでいる時には目立たなかった欠点が結構見えて来て、案外つまらなかったりする場合がある(注2)。
本作で特に私が問題だと思ったのは、最初のロクヨン事件で、誘拐犯の声を機械の操作ミスで録音に失敗した件。
これによって、警察がこの失態を隠蔽し、録音班の幸田(吉岡秀隆)や日吉(窪田正孝)の人生が大きく狂うドラマを産み出し、かつ“犯人の声を聞いているのは雨宮だけだ”という事実が、後半、雨宮が犯人を突き止める重要なカギとなる。これは確かにドラマとしては面白いのだが…。
そこで大問題、これまでの誘拐事件、例えば戦後最大の誘拐事件とも言われる吉展ちゃん事件(1963)をはじめ、“録音された犯人の声をテレビ等で一般公開し、これによって犯人逮捕につながった”事が度々あったはずだ(吉展ちゃん事件でもこの録音音声から犯人・小原保を突き止める事に成功している)。
つまりは、いずれ警察上層部、あるいはマスコミから「録音されている犯人の声を公開しろ」という声が出て来るのが当然である。それはやがて「なぜ犯人の声を公開しないのだ」という疑問、不審に繋がって行く。
だから隠蔽した所で、“録音失敗”というミスは隠し通せるはずがないのである。それが事件から14年も経っても、どこからも「録音されたはずの犯人の声はどうなった」という疑問が出て来ないのは、原作の致命的な欠陥である。これを指摘する声が少ないのはどうしてだろうか。
それともう1点、本作のように、謎を孕んで緊張感が持続するミステリー作品は、前・後編2部に分け、日数をおいて公開するシステムには向いていないと思う。
本作を見ても、前編でいくつもの伏線(無言電話の話など)がバラまかれ、それが後編で回収されて行く構成になっているので、後編公開まで日数が空くと、観ている方も細かい伏線など忘れてしまっており、映画を鑑賞する上で非常にマイナスで、楽しめない事になる。
せめて、2部に分けるにしても、間隔を空けないか、出来れば一挙同時公開にすべきである。
しかし連続して観たとしても、前編が組織内抗争ドラマ、後編が誘拐ミステリー・サスペンス、と、全体的なストーリーの一貫性がない。
組織内抗争部分は力がこもっているし、見ごたえがあったが、ロクヨン誘拐事件部分とは、どうも噛み合っていない。
前・後編を通して観終わった、私なりの感想を言うと、これは、組織内抗争部分を思い切ってカットして、誘拐事件のみに物語を絞って、2部に分けるのではなく全体で2時間半程度の1本の作品にすべきだった(この意見は他のいくつかのレビューでも出ていた)(注3)。
そうやってカットして余った時間を、本作で描ききれなかった犯人の犯行同機、心理描写に回せばずっと面白くなったはずである。
組織内抗争部分も面白いので、これはこれでロクヨン誘拐事件とは別のサイドストーリーとして、例えばテレビで同じキャストで放映し、映画と連動させる、という手もあったのではないか。
思い返してみれば、ここの所作られた前・後編2部作ものは、「ソロモンの偽証」、「進撃の巨人」、そして本作と、揃いも揃って、前編面白い、後編失速、と言う作品ばかりである。これは問題である。
製作会社にすれば、興行面を考えたら、2部に分けてそれぞれ1,800円の料金をいただく方が旨みがあるだろう。
しかしその為に、映画が冗長になったり、前編で期待して、後編を観て期待外れでガッカリ、なんて事を繰り返していると、結局は自分の首を絞める事になりはしないか。そろそろこの方式は考え直すべきではないだろうか。
採点は、前編は(★★★★☆)、後編は(★★★)、前後編総合評価で大甘だが(★★★★)。
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(注1)せっかく犯人を突き止めたなら、まだ時効が成立していないのだから、警察に訴え出る方法もあったはず。声だけでは逮捕は無理だと思い、自分の手で復讐したいのなら、回りくどい事せずに、後を付けて道路とか線路上で背中ドンと押して突き落とせば済む話。で、狂言誘拐でも結局決定的な決め手は見つけられず、はっきりとは描かれていないが犯人逮捕に至らなかった様子。
三上も、せっかく荒っぽい強硬手段取っても、ここでも犯人を追及できず殴りつけるだけというのは頭悪すぎ。で結局、雨宮も協力者の幸田も警察のやっかいになり、三上は暴行容疑で警察をクビになる始末。…つまりはみんな不幸な結果になった、というのではあまりに救いがない。
三上があそこまで次女誘拐まがいの事までやるなら、例えばボイスレコーダーを用意して、「相棒」の杉下右京か刑事コロンボのように、巧みに誘導して犯人からポロッと本音を引き出し、動かぬ証言を録音すれば刑事訴追に持って行けた可能性もある。もっと頭を使いなさい。
(注2)昨年同じく長大な原作を映画化した、宮部みゆき原作「ソロモンの偽証」も、小説はあれほど面白いのに、映画になってみると思ったほど面白くならなかった。やはりこれも、文章の勢いで読ませる作品だったと思うし、人物像や内面心理を細密に描写しているから読み応えがあったのだと思う。
同作品評にも書いたが、映像化において原作の感動をそのまま伝えようとするなら、テレビで2時間×5回連続程度のミニシリーズで原作に忠実に描いた方が良かったと思う。
ちなみに「64 ロクヨン」は昨年、NHKテレビで1時間枠で5回に分けて放映され、かなり評判が良かった。
(注3)前にもどこかで書いたと思うが、野村芳太郎監督による、映画史に残る名作「砂の器」について。
松本清張の原作はとても長いうえに、後半では巧妙なトリックを使った第二、第三の殺人が起きる。このトリックも非現実的でどうかとも思うが、それはともかくも、これを原作の通り映画化すれば、今だったら前・後編2部作になるだろうし(笑)、トリックを使った完全犯罪ミステリーどまりで、けっして映画史に残るような秀作にはならなかっただろう。
ところがこれを脚本化した橋本忍と山田洋次は、原作を大胆に刈り込んで第二、第三の殺人部分やテーマに関係ないと思われる部分は全面カットし、親子二人の“宿命の旅”にテーマを絞り込んで、これが結果的に大成功、映画は傑作として後世に伝えられる事となる。
長編の原作を、2時間強の映画に仕上げるお手本のような名シナリオである。こういったやり方を、若いシナリオ・ライターの方々にはもっと勉強していただきたいと思う。
(付記)
映画を観終えて、「あれ?この話、どこかで観たような?」と思った。
で、思い出した。これ、一昨年秋に日本でも公開された韓国映画「悪魔は誰だ」とストーリーがほとんどそっくりなのである。
詳しくは私の批評を見ていただきたいが、ストーリーのあらましは
「15年前に少女誘拐事件が起き、誘拐された少女は殺されてしまう。ところが時効を迎えた直後、15年前とそっくりな誘拐事件が発生する。そして事件の真相は、第二の事件で誘拐された娘の祖父が実は15年前の事件の犯人で、その被害者の母親が執念で犯人を突き止め、しかし時効で犯人を罪に問う事は出来ないので、15年前の犯行を犯人自身に再現させたのである」
という具合に基本プロットがほとんど同じ。横山英夫の原作は2004年から2006年にかけて雑誌(別册文藝春秋)に連載され、2012年10月に単行本が刊行されている。「悪魔は誰だ」の韓国公開は2013年だから、横山原作の方が先である。
偶然にしてはあまりにも似過ぎている。これはパクリ(盗作)と言われても仕方がない。
韓国ではこれまでも日本の小説を映画化したものがいくつかある。「火車」、「さまよえる刃」、「容疑者Xの献身」、「凍える牙」などで、いずれも原作料を払い、クレジットにも原作を明記してある。そのくらい、日本のミステリーはあちらでも評判がいいのだろう。
小説「64 ロクヨン」は私も以前読んだが、ほとんど忘れていた。覚えてたら「悪魔は誰だ」を観た時に類似性に気付いただろうけど。
原作を知らない人が映画「64 ロクヨン」を観たら、「これ、『悪魔は誰だ』のパクリじゃないか」と勘違いするかも知れない(笑)。
ただ、「悪魔は誰だ」と映画「64 ロクヨン」とを見比べると、余計な夾雑物がなくシンプルに誘拐事件だけに絞ってサスペンスフルに描いた「悪魔は誰だ」の方が映画としての出来がいいのだから困ってしまう。
果たして酷似しているのは偶然なのか盗作なのか、真相を知りたい所である。
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(6/25付記)
録音失敗の件について。
原作を読み直したら、犯人からの最後の電話(身代金受け渡し方法の連絡)は、録音機材が設置された自宅でなく、雨宮が経営する漬物工場に架かって来て、雨宮宛の伝言の形で伝えられていた。これなら犯人の声が録音不可能だった理由も納得出来る。映画にそんな描写があったかなぁ。
犯人からの電話はそれ以前に3回あって、2回目は録音班が待機する直前に架かって来た為録音出来なかった。そして録音に失敗したのが3回目。これを無かった事にして隠蔽したという事である。
一度も犯人の声を録音出来なかったのも、一応説明がつくように書かれている。“原作の致命的な欠陥”と上に書いた事は訂正させていただく。
実際問題として、誘拐犯人からの電話を一度も録音出来なかった事に、マスコミは納得したのだろうかという点も気になるが。
それにしても犯人、さすがに3回目に架けた時は録音されてる事を覚悟してただろうに。その内容もどうでもいい事だったし(たまたま3回目を録音失敗した、というのは犯人にとってラッキーこの上ない)。それだったら4回目(最後)の電話もやはり自宅に架けて来ると思うのだが。 4回目の時だけ録音を警戒した、というのがちょっと引っかかってしまう。
DVD[悪魔は誰だ」
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原作「64 ロクヨン」上 |
原作「64 ロクヨン」下 |
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コメント
原作と映像の関係は、本当に難しいですね。原作通りに映像化した場合、原作を愛する人達からは高い評価を受けるだろうけれど、「全く同じなら、撮り手として存在意義が在るのだろうか?」というジレンマが監督に在るだろうし。映像化する際、原作と変える事で、原作よりも良くなる事も在る。だから、「原作から少しも変えては駄目。」とは思わないのですが、少なくとも今回の作品で言えば、失敗でしたね。仰る通り、2部作にする意味が無かった。
前後編で此れ程迄に評価が変わってしまう作品っていうのも、非常に珍しいかも。
投稿: giants-55 | 2016年6月26日 (日) 15:46
同感です。
面白かったです。
原作を読んでいるので展開は知っているのですが、それでも前篇も後篇も引き込まれました。
ただ、後篇の最後の方の映画オリジナルの展開はかなり微妙ですね。
佐藤浩市の行動に納得いかないです。
ただ、原作で描かれないその後部分が描かれるのはなかなか良かったです。
そういう意味では仕方なかったのかな。
力のある映画でしたが、後篇のラストが惜しい。傑作になりそこねてしまったという感じです。
投稿: きさ | 2016年7月 9日 (土) 08:53
上映されたなかったので、最初に後編を見て、その後に前編を見ましたが、問題はやはり前後編の2本に無理やりしたことだと思う。
それに、登場人物の誰にも感情移入できないことが最大の問題だと思います。
余計ですが、『砂の器』の原作は良くないと思います。
投稿: さすらい日乗 | 2016年7月11日 (月) 14:15
◆giants-55さん
原作を変えて面白くなる場合もありますが、本作は原作を変えて付け足した部分が、かえって原作全体の流れ、と融合していない為失敗してしまった気がします。
かと言って、原作通りだと、終盤は映画としてはあまり盛り上がらず、面白くならないままに終わってしまう気もします。
ホント、小説の映画化てのは難しいですね。本作は頑張った方だとは思いますが。
◆きささん
>佐藤浩市の行動に納得いかないです。
その通りだと思います。原作のキャラクターだと、後先考えずあんな無茶な事をするような人間には見えません。
上にも書きましたが、映画的見せ場を作ろうとしていろいろ考えたんでしょうが、失敗でしたね。
どうも最近、脚本家の質が低下してるように思います。橋本忍、菊島隆三、らと比べても詮無い事ですが…もうあんな超一流脚本家は出て来ないでしょうね。
◆さすらい日乗さん
>登場人物の誰にも感情移入できないことが最大の問題だと思います。
おっしゃる通りです。もっと繊細に、登場人物の心の内面まで丁寧に描いて欲しかったですね。
>余計ですが、『砂の器』の原作は良くないと思います。
同感です。映画で感動して、それから原作を読んだら、なんじゃこりゃ、とガッカリ、映画の感動も台無しになりました(笑)。
投稿: Kei(管理人) | 2016年7月13日 (水) 23:45