「団地」
三代続いた漢方薬の店を半年前に売り払い、大阪近郊にある古ぼけた団地へ越してきた山下清治(岸部一徳)とヒナ子(藤山直美)夫妻。清治は毎日一人で森を散歩し、ヒナ子はパートに出かける日々を送っていた。ところが、ある日を境に清治の姿が見えなくなり、暇を持て余す団地の奥さま連中は好き勝手に噂し妄想を膨らませるが、やがて一人が「殺されているのでは」と口にしてしまった事から大騒動、遂にはマスコミや警察までをも巻き込む事態へと発展するのだが…。
私事になるが、私も若い頃約10年ほど、大阪の古い団地に住んでいた事がある。なので懐かしい気分で本作を鑑賞した。
今どきのマンションなどと違って、団地はどこか昭和レトロの香りがする。この映画に出て来る団地もまさしく、オバちゃん連中が井戸端会議よろしく他愛ないお喋りに興じてるし、自治会長はいろんな世話を焼くなど、庶民的な人の繋がり、コミュニケーションがまだ生きている。反面、新しく移り住んで来た新参者には、コミュニケーションの輪に入る事をやんわり拒絶する排他的な雰囲気がある。閉鎖的空間と言ってもいいだろう。
そんな中で、自治会長・行徳(石橋蓮司)の妻君子(大楠道代)は山下夫妻と気心が通じ合い、清治に次期自治会長選挙への立候補を促し、清治もその気になるのだが、選挙の開票結果は行徳の圧勝で再選。やはり新参者には冷たいのである。
その結果にヘソを曲げた清治は、すねて「俺は死んだことにしてくれ」と床下の収蔵庫に隠れてしまう。清治の姿が見えなくなった事を怪しむ団地の住人たちは、あれやこれやとその理由を推測し、やがてはもう殺されて部屋のどこかに死体を隠しているだの、こまぎれにしてゴミに出してるだのと噂はエスカレートするばかり。遂には住民の通報でテレビ局が取材に来たり、警官までやって来たりと、てんやわんやの大騒ぎとなる。
(以下重要なネタバレあり)
地域の住民たちが巻き起こす大騒動…と聞けば、同じ阪本監督による「大鹿村騒動記」(2011)を思い出す。おかしくも哀しいコメディの秀作だった。思えば、あの作品にも岸部一徳、大楠道代、石橋蓮司が出演していた。
というわけで、最初は「大鹿村-」のようなコメディを想像していた。
ところが、どうも最初から様子がおかしい。清治の作る漢方薬を求めてやって来る、斉藤工扮する真城さんは、日本語がどこかおかしい。「ごぶさたです」を「ごぶ刈りです」といい間違えたり、「802号の8とは8階の事だとは知りませんでした」と一般常識にも疎い。その都度訂正してツッ込むヒナ子とのやりとりが漫才風で笑える。
最初は、“阪本監督にしては似合わぬドロ臭いギャグだなあ、まあ松竹新喜劇の藤山直美が参加してるから、新喜劇的な笑いを盛り込もうとしたのかな”と思ったのだが、それを斉藤工にやらすか、と疑問符がつきまとう。
まさかこれがラストの仰天シーン(本当に天を仰いでる(笑))の伏線になっていたとは。
実際、ラストに至るまでは、「大鹿村-」にも似たコメディ的な展開である。そこに、ちょっとした噂話が一人歩きし、蔓延して行く、ネット社会にも繋がる現代の悪意の怖さを鋭く突く、風刺コメディの要素も加えているようにも思えた。
それだけでも十分面白いコメディの秀作になり得ているのだが、阪本監督、それだけでは終わらせない、まったく意表をつくサプライズをラストに用意していた。
もう一つ、清治夫婦が漢方薬の店を畳む原因となったのが、夫婦の最愛の息子を不慮の事故で亡くした為である、というのも重要なポイントである。その悲しみを胸に秘めながらも、明るく振舞う夫婦の姿にも涙を誘われる。
もう一度息子に会いたい、という夫婦の願い、無責任な噂を広める団地住民に対する憤り、そして謎の人物・真城さんのおかしな言動…
これらの要素が、ラストへのサプライズに収束して行く脚本がなかなか巧みである。トンデモ的と思われるラストも、こうして見てくれば決して唐突でもないのである。
(以下完全ネタバレ。読みたい方はドラッグして反転させてください)
ラストに至って、突然SFとなる。UFOが団地上空に現れるのである。
おかしな日本語を喋っていた真城さんは、宇宙人だった。そしていつも荷物を届ける度にトイレを借りる宅配便の兄ちゃんも、宇宙人で真城の弟だった。
真城さんはさらに、「亡くなった息子さんのヘソの緒があれば、息子さんを生き返らせる事も出来ます」と言う。
まあ、高度に科学技術が発達した宇宙人なら、ヘソの緒のDNAからクローンとして息子を再生させる事も可能だろう。
こうした突然のSF展開に、唖然となり、阪本監督、どうしちゃったんだろう、と疑問を抱く観客も多いだろう。
だが、阪本監督の第2作「鉄拳」(1990)も、ボクサーが再起を目指す、熱血スポーツ映画でありながら、後半に至って主人公は傷めた手に、鉄の義手を嵌め込む、というトンデモ展開となっていた。文字通り、“鉄の拳”である。
単に義手を装着するのではなく、ボルト留めで手と一体化する、という無茶な方法で、一種のサイボーグ化であり、これもある意味SFである。
だがこの映画、本当にSFなのだろうか。じっくり見れば、別の側面も見えて来る。この点を、私なりに解明してみたい。
清治夫婦はUFOに乗って遥か地球から離れた星へと向かう…のだが、UFOが宇宙空間を航行する描写はない。
そして明らかに変な描写がある。真城と清治夫婦は、水辺の草原に立ったまま、地球の行徳、君子たちと会話している。このシーンの意味する所は何なのか。
私の解釈を述べると、この水辺は実はあの世に向かう、三途の川のようなもの、あるいはそのメタファーではないだろうか。
真城は、宇宙人ではあるが、息子に会いたいと望む清治たちを、あの世から迎えに来た天人のような存在でもあるようにも見える。
市川崑監督「竹取物語」でも、ラストにUFOが登場するが、かぐや姫を迎えに来た天人が乗っている乗り物がUFOというのも奇想天外な発想で、逆に言えば本作に登場するUFOも、おとぎ話的ファンタジー・ワールドである「竹取物語」に登場する天人の乗り物と同じようなもの、と考えれば納得出来るのではないか。
市川崑監督といえば、二歳の赤ちゃんがナレーションを務めるという、これも奇抜な発想の市川作品「私は二歳」の舞台も団地であった。
UFOといえば、鈴木則文監督の青春コメディ「パンツの穴」にも、シッチャカメッチャカの大乱闘をする若者たちの頭上に突然、UFOが現れるシーンがある。無論この作品もSFではない。
UFOとはある意味、下界の人間たちのバカげた狂騒を見下ろし、皮肉な目線で天啓を与える神のような存在、と考えてもいいのではないか。
そう考えると、これはなかなかに奥の深い作品であると言えるかも知れない。
ラスト、清治夫婦の住む団地の部屋に、息子が帰宅するシーンも、なんかホッとさせられる。
ヘソの緒からのDNA再生がうまく行って、息子が生き返ったと考えるのが自然だが、団地の外観が妙に歪んで見える事から推察すれば、夫婦と息子の3人は、異次元世界(あの世?)で暮らしている、と見る事も出来る。
考えてみれば、清治が「俺は死んだことにしてくれ」と床下にもぐり込むくだりも、仏教で地下に埋まったまま、仏となる“即身仏”の修行を連想してしまう。これも、“あの世へ行く”事のメタファーであるのかも知れない。
とにかくこの作品は、一種のファンタジー、と考えて、おかしな人たちの狂騒を、UFO的な天界からの視点で眺めて見ている、と思えば楽しめるかも知れない。
出演者では、藤山直美がやはりいい。特に、スーパーの店長から叱られた後の、一人バーコード芝居は出色。笑わせつつ、泣かせる名シーンである。
あまり予備知識を持たずに観て欲しい。そして観た人同士で、あれやこれやと議論してみるのもいいだろう。私的には、本年一番頭脳を刺激された作品である。 (採点=★★★★☆)
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