「ノー・エスケープ 自由への国境」
2015年・メキシコ=フランス合作
配給:アスミック・エース
原題:Desierto
監督:ホナス・キュアロン
脚本:ホナス・キュアロン、マテオ・ガルシア
製作:ホナス・キュアロン、アルフォンソ・キュアロン、カルロス・キュアロン、アレックス・ガルシア、シャルル・ジリベール
アメリカに不法入国したメキシコ移民たちが謎の襲撃者に狙われる姿を描いたサスペンス・アクション。脚本・監督は「ゼロ・グラビティ」で父アルフォンソ・キュアロンと共同脚本を手掛けた息子のホナス・キュアロン。父アルフォンソは製作も務めている。主演は「バベル」のガエル・アルシア・ベルナル。共演はテレビドラマ「ウォーキング・デッド」のジェフリー・ディーン・モーガン。
メキシコとアメリカの間に広がる砂漠の国境。モイセス(ガエル・アルシア・ベルナル)以下15人の不法移民たちはそこを越え、“自由の国”アメリカに入った。が突如、どこからともなく銃弾が撃ち込まれ、仲間は次々と犠牲になって行く。襲撃者の正体は不明。摂氏50度という過酷な状況の中、水分も武器も通信手段も持たない彼らは、生き残りをかけて必死の逃走劇を繰り広げる…。
メキシコ出身のアルフォンソ・キュアロン監督による傑作「ゼロ・グラビティ」。実はその原点ともなったのが、アルフォンソの息子のホナスが8年前に書いた本作の脚本である。なかなか映画化が進まないうちに、砂漠を宇宙に置き換えてみたら、という所から「ゼロ・グラビティ」の構想が生まれ、父と共同で脚本を書き上げたこの作品がアカデミー賞その他を獲得し、それが追い風となって本作の映画化が実現したのだそうだ。確かに、極限状況に置かれた人間が、そこからどう脱出するかというプロットは両作とも共通している。
それにしても、メキシコから不法移民が国境を越えてアメリカに入って来て、それをアメリカ人ハンターが嬉々として殺しまくる…というストーリーは、トランプが「メキシコとの国境に巨大な壁を作る。不法移民はメキシコに強制送還する」等の過激な公約を謳って大統領になった事を思えばあまりにもタイムリーである。8年前は無論の事、映画が公開された2015年当時でもトランプが大統領になるとは誰も予想してなかっただろうに。ホナスの着眼点の素晴らしさにまず敬意を表したい。
(以下ネタバレあり)
映画を観れば分かるが、ホナス・キュアロンは特に社会派的テーマを掲げてこの脚本を書いたわけではない。国境と不法移民は単なる取っ掛かりで、物語は、狩りをするハンター対、狙われ必死に逃げ回る獲物側の人間とのサバイバル・ゲーム、という昔からよくあるパターンのサスペンスである。
このパターンの原典というか古典とも言えるのが、リチャード・コネルの短編小説「最も危険なゲーム」(1924)(注1)で、狂的な狩猟家の伯爵と、その獲物となってしまった男との対決を描いた、いわゆる“人間狩り(マン・ハント)”ものの奔りで、その後いろんな映画、小説に無数の亜流を生んでいる。
1964年にはギャビン・ライアルが、原題("The Most Dangerous Game")が同じの「もっとも危険なゲーム」を発表し、これは冒険小説の傑作として今ではこっちのほうが有名になっている。
高性能ライフルを手にした狙撃のプロに生命を狙われる主人公が、広大な原野を逃げ回るというお話で、舞台となるのがフィンランドとソ連の国境地帯、という点も本作との類似性がある。
タイトルにあるように、狙う側の男は、まさにゲームをしている感覚で、この点も本作にうまく生かされている。
本作の、スコープ付ライフルで、遠く離れた高所から移民たちを次々と射殺して行く男(サム)の行動自体、まるでゲームセンターでシューティング・ゲームをやっているかのようである。人を殺しているという感覚ではない。最後の一人を倒せば、ゲームオーバーである。
このサムという男の正体が一切謎のままであるのも面白い。思い浮かぶのは、自家用車を運転する一人の男が、だだっ広いハイウェイで巨大なタンクローリーに追い掛け回される、S・スピルバーグの出世作「激突!」である。
この作品でも、正体不明のタンクローリー運転手が、まるでウサギを狩るハンターのように主人公をネチネチと追い詰め、いたぶる。
圧倒的に有利な武器を持った男が、まるでゲームをしているかのように、か弱い獲物を追い回し、ジリジリ追い詰めて行くが、最後に主人公が大逆転勝利を収める、という物語展開が本作と共通している。最後まで敵の正体が不明なままである点も同じである。
そういう意味では「激突!」もまた「もっとも危険なゲーム」の巧みなバリエーションであった事に気付く。
そういえば「激突!」にもガラガラヘビが登場してたっけ。
本作はこうした、過去の「もっとも危険なゲーム」的サスペンス映画のエッセンスをうまく吸収していると言える。面白いのは当然である。
小道具の使い方も秀逸である。モイセスがアメリカに残して来た子供の土産にと持っている、喋るテディベアのぬいぐるみ人形のせいで敵に居場所を察知されたり、逆にそのぬいぐぬみを使って敵を騙したりと、うまく使われている。
モイセスが男の車にあった救急箱を、一緒に逃げる若い娘アデラ(アロンドラ・イダルゴ)の治療用に持ち出すが、その中には拳銃型照明弾も収められており、これを、自分が囮になる手段として利用したり、襲って来る猟犬を倒す武器にしたりと、これまたうまく使われている。
最後、夕暮れの荒野を歩くモイセスとアデラは、砂漠(これが原題)の彼方に明かりを見つけ、近づくのだが、果たして彼らは“自由の国”アメリカに不法に移り住んで、幸福な人生を歩めるだろうか。本当にアメリカは自由の国だろうか。
本来はスリリングなエンタティンメントとして作られたはずの本作なのに、トランプ大統領の誕生で、前述のように期せずして政治的な側面も帯びてしまった事自体、この映画が単なるエンタメに留まらず、鋭い先見性を持った、今観るべき秀作である事を示している。
それともう1点、サムの射撃の腕前が百発百中、遥か遠くの獲物も確実に仕留める凄腕であるのだが、ひょっとしたらこの男、一昨年に公開されたクリント・イーストウッド監督の秀作「アメリカン・スナイパー」の主人公と同じく、元は軍人のスナイパーではなかったかと思えて来る。
素人にしては、獲物までの距離があまりに遠いのに確実に命中している。その腕前といい、人を殺すのにまったく躊躇しないどころか楽しそうにすら見える点といい、元軍人であったならすべて頷ける。
おそらくはイラク戦争でスナイパーとして何人ものイラク兵を射殺して来たのだろう。退役して本国に戻ったが、ライフルで人を殺す快楽を覚えたサムは、アメリカ国内でその願望を果たせる機会を探していたのかも知れない。だから標的は、実は誰でも良かったのかも知れない。たまたま不法移民という標的を見つけただけに過ぎないのだろう。
有名な“テキサスタワー乱射事件”(1966年)とか、“コロンバイン高校銃乱射事件”(1999年)とか、アメリカでは無差別銃乱射殺人事件が過去に何度も繰り返されている。
そういったライフル銃で無差別に人間を射殺するような人間がどこにでも潜んでいる、アメリカという国の病理をも、この映画は告発しているのかも知れない。
観ている間はスリルとサスペンスに満ちたエンタティメントとして十分楽しめるが、観終わった後でもこうして、時代情勢、政治状況等についても考えさせてくれる、いろんな楽しみ方、考え方が出来る、中身の濃い映画であると言えるだろう。
ホナス・キュアロン監督、今後が楽しみな逸材である。次回作もこうしたスリリングなエンタメ路線で行くのか、あるいは社会派路線に進むのか、目が離せない。 (採点=★★★★☆)
(注1)
リチャード・コネルの小説「最も危険なゲーム」は、1932年にアーネスト・B・シェードザック、アーヴィング・ピシェルの共同監督で映画化されている。日本での公開題名は「猟奇島」。DVDも出ている。
わずか63分の中篇だが、原作の雰囲気は出ている。
面白いのは、製作会社がRKO、監督アーネスト・B・シェードザック、製作メリアン・C・クーパー、出演はフェイ・レイ、ロバート・アームストロング、音楽マックス・スタイナー…
と、翌年公開の傑作怪獣映画「キング・コング」とスタッフ、出演者の多くがカブっている点である。セットの一部も「キング・コング」のセットを使い回している。
巨大な怪物に追われ、逃げ惑う人間、という展開自体、孤島で狂的な狩猟家に「人間狩り」の対象として追われる人間、という構図の「最も危険なゲーム」に近いものがある気がする。伯爵も、一種の怪物である。
(さらに、お楽しみはココからだ)
「もっとも危険なゲーム」に代表される、いわゆる「人間狩り」テーマの佳作があるので紹介しておく。
1974年に、ピーター・フォンダ主演で作られた「ダーティハンター」(ピーター・コリンソン監督)で、狩猟に出かけた三人のベトナム帰還兵が面白半分に人間狩りを始めるのだが、やがて逆に謎のハンターによって次々殺されて行く、という物語。
イラク戦争ならぬ、ベトナム戦争からの帰還兵が人間狩りを行う、という点で、本作とややカブるテーマの異色作である。
ピーター・コリンソン監督は「ミニミニ大作戦」など、ちょっと風変わりだが面白い作品を発表していて私のお気に入り監督である。
なぜかこの作品、ソフト化されていない。面白いので、是非DVD化を希望したい。
小説「もっとも危険なゲーム」(ギャビン・ライアル著)
DVD「猟奇島」
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