「幼な子われらに生まれ」
中年サラリーマン、田中信(浅野忠信)は奈苗(田中麗奈)とバツイチ同士で再婚。奈苗の2人の連れ子と共に一見平穏な結婚生活を送っていたが、ある日奈苗が妊娠したことをきっかけに、長女薫(南沙良)が「本当のパパに会いたい」と言いはじめ、信一家の中に微妙なさざ波が立ち始める。そんな時、信の別れた妻・友佳(寺島しのぶ)から、再婚相手の夫が末期ガンで余命わずかだと知らされ…。
重松清の原作が発表されたのは1996年。荒井晴彦はこれを呼んで感銘し、是非これを映画にしたいと思って、その2年後に脚本を仕上げて映画化の道を模索したがうまく行かず、約20年の時が経過した。
その脚本がようやく現在に至って、「しあわせのパン」や「繕い裁つ人」などを監督して来た三島有紀子によって映画化される事となった。
三島監督作品はこれまであまり観ておらず、前作「少女」も私にはつまらなかったので、本作も期待はしていなかったのだが、観て驚いた。なんと、見違えるような感動の秀作に仕上がっていた。これは、本年の日本映画を代表する傑作である。
(以下ネタバレあり)
テーマは、夫婦の離婚、バツイチ再婚、ステップファミリー、DV(家庭内暴力)、そして家族の再生と、20年前に書かれたとは思えない程、今の時代にピッタリマッチしている。それだけ重松清の原作が時代を先取りしていたという事なのだろうか。20年間寝かせた事は結果的に大成功と言えるかも知れない。
映画は、主人公・信が、離婚した前妻・友佳の子、沙織(鎌田らい樹)と遊園地で楽しそうに遊ぶシーンから始まる。
沙織とは、友佳との約束で、3ヶ月に1度だけ会う事が許されている。これもいかにも現代的だ。
沙織は、今も父になついており、父と別れる時はさびしそうな表情を浮かべる。
家族では無くなっても、血の繋がりはやはり強いものであると実感させられる。これは本作の重要なテーマの一つでもある。
信は、離婚後、こちらは夫・沢田(宮藤官九郎)のDVが原因で離婚した2人の子持ちの奈苗と再婚する。
部屋には、笑顔の4人が写っている写真が飾られ、一見家族は仲むつまじく幸せそうに見える。特に次女・恵理子(新井美羽)はまだ小さい時に両親が離婚した事もあって前の父をほとんど知らず、信と、本当の父のように接している。
だが、12歳の長女・薫は年長だけに、まだ前の父の記憶が残っているのだろう。信にはなんとなく馴染めない様子。
そんな夫婦に、新しい命が授かる。恵理子は、弟、妹の絵を描いて子供が生まれる事を楽しみにしている。
ところが薫は、母の妊娠をきっかけに、次第に信とは距離を置くようになる。そして信に、「あんたは本当のお父さんじゃない。本当のお父さんに会わせて」と懇願する。
信と薫との溝はどんどん深まって行き、信を嫌悪し、ついには部屋に鍵をつけてとまで言う。信と奈苗はそれが元で言い争い、キレた信は鍵の取り付けを始め、止めようとした奈苗を突き飛ばしてしまう。
もはや修復出来ないほどにバラバラになった信一家。信はとうとう、「俺たち離婚しよう」とまで言い出す。
果たして、信たち家族は、元通り修復出来るのか。そんな不安とサスペンスを孕んで物語は終盤に突入して行く。
薫が、母に子供が出来た事をきっかけに、急に信を嫌悪するようになったのは、ちゃんとした理由は語られていないが、もしかしたら、赤ん坊は信と奈苗がセックスした結果だという事を薄々知っていたからかも知れない。
信と薫とは、血が繋がっていない。そんな家族に、父と母の(子供にとっては)不潔な行為で血の繋がった家族が出来る。その事に薫は嫌悪感を抱いたのかも知れない。
「本当の父に会いたい」という薫の願いも、単に無理難題を言って信を困らせようとした結果であって、本心では会いたいとは思っていないのかも知れない。なにしろ薫は小さい頃、沢田の暴力で前歯を折られるというDVを経験しているのだから。
それがはっきりするのが、終盤、信が沢田に懇願して薫と沢田が会う事をセッティングした後のプロセスである。
沢田が、着慣れない背広を着て、デパートの屋上で待っているのに、信が様子を見に行くと、薫は現れなかった。
内心のどこかに、実の娘と会いたい気持ちを持っていたであろう沢田は落胆する。
ここの、信と沢田がデパートの屋上で話し合い、互いの心情を吐露するシーンがいい。一見クズ亭主に見えていた沢田も、悪い人間ではなかった。本当はやはり子供が愛しい(可愛いぬいぐるみを持参していたし)のである。
家族とは何なのか。血が繋がっているとはどういう事なのか。信は改めて、もう一度やり直そうと考え始める。
その後、家に帰って、信と薫はじっくりと話し合い、信は沢田と会ったと言う薫の嘘を咎めだてせず、優しく許す。やがて泣き始めた薫の肩に信がそっと手を差し延べるシーンでは私も泣いてしまった。本作中の白眉である。
物語中盤、信が別れた前妻の友佳が久しぶりに出会うシーンで、信は友佳に「あなたは理由だけしか訊かない。私の気持ちを考えたことはあるの」と詰られる。
二人が別れた理由も実はそこにあった。友佳が子供を堕した時も、信は理由しか聞かなかった。相手の気持ちを推し量ろうとはしなかった。
これが伏線となって、信はこの時、“理由を聞くのではなく”、薫の気持ちに寄り添おうとする。その気持ちが、薫にもようやく伝わったのだろう。
ここが本作の中心テーマである。相手の気持ちを考え、心を分かろうと努力する…。その事が、家族が一つ屋根の下で生きて行き、暮らして行く上でとても大切な事なのである。
ラスト、いよいよ奈苗の出産の日、信と恵理子は産院に駆けつけるが、薫の姿は見えない。ここもハラハラする。
そして生まれる直前、やっと薫が到着する。生まれた赤ん坊を見つめる二人の娘、そして信の姿を捉えてストップ・モーション。
言葉はないけれど、信たち家族が元通り、今度は本当の家族になった事を示す、このエンディングにも涙が溢れた。
「子はかすがい」と昔の言葉にあるが、それまでは血の繋がらなかった家族であったが、生まれて来たこの子が文字通り、バラバラになりかけた家族を繋ぎ留めるかすがいの役を果たしたという事なのである。
タイトルの「幼な子われらに生まれ」の意味もこのラストで明らかになる。
荒井晴彦の脚本が素晴らしい。完璧な出来であるが、三島監督は現代的な要素も取り入れ、荒井と話し合いながら修正して行ったらしい。それも成功の一因だろう。
荒井晴彦は脚本を弄らせないと聞いていたが、今回は要請を受け入れ修正に応じたようだ。例えば原作にも脚本にも、主人公の信は気を紛らわせる為に風俗(それも赤ちゃんプレイ(笑))に通う場面があるが、三島はこれをカットし、カラオケで発散するシーンに変更したそうだ。結果的にそれで正解である。風俗に行ったと知ったら薫はまた信を嫌悪するだろう。
印象的なシーンもいくつかある。信たち家族が暮らすのは、山の斜面に建てられた巨大なニュータウンで、エレベーターはなんと斜めに進んで行く。そのエレベーターもなかなか来ず、果てしなく続くような階段(上のチラシの階段がそう)を信や薫が歩くシーンもある。住民たちのコミュニケーションも希薄なようだ。
人との繋がりが薄れ、無機質な空間が広がる現代を象徴するようである。よくこんなロケ地を探して来たものである(注1)。
信がリストラに遭い、配転された先がAmazonかアスクルを思わせる巨大物流配送センター。コンピュータの指示通りに黙々と商品をピックアップするシーンが続くが、これも前記同様の現代性の象徴であろう。
そんな時代にあっても、いやだからこそ、人との繋がり、人同士のコミュニケーション、相手を思いやる心を大切にしなければならないという、本作にこめられたテーマがより鮮明に浮かび上がって来るのである。
演じる俳優たちがまた素晴らしい。信役の浅野忠信が、不器用だけど真面目に生きている家族思いの中年サラリーマンを入魂の演技で魅せ、受ける奈苗役の田中麗奈もこれまでで一番いい。そして子供たちを演じた南沙良、新井美羽、 鎌田らい樹がそれぞれ演技とは思えない程、実に自然に作品の中にに溶け込んでいる。さらにDV亭主を演じた宮藤官九郎、これまた巧演。これほど全演技者のアンサンブルが見事な映画も珍しい。
撮影は、最近主流のデジタルカメラでなく、フィルムで撮影されたそうだ。フィルムの、やや粗いけれど温かみのあるアナログ感も、作品のタッチに合っている。これも正解だったようだ。
三島有紀子監督の前作「少女」は、それまでの「しあわせのパン」「ぶどうのなみだ」と続くハートウォーミング路線とは異質で、肌に合わなかった気がする。
重松清の原作と、荒井晴彦の名脚本を得て、それまでの作品歴から脱皮し、一皮剥けたようだ。
これは、「酒井家のしあわせ」、「オカンの嫁入り」などの家族もの小品を撮って来た呉美保監督が、佐藤泰志原作、高田亮のこれも名脚本を得て「そこのみにて光輝く」で一気にブレイクした事を思い起こさせる。三島監督も、呉監督の後に続いて一流監督の道を着実に歩む事を期待したい。
今年の日本映画の一押し作品の登場である。今の所私の本年度邦画ベストワンである。是非多くの人に観ていただきたいと願う。 (採点=★★★★★)
(注1)
この映画の舞台となった、斜行エレベーターがある集合住宅は、西宮市名塩にある、UR都市機構が開発した「西宮名塩ニュータウン」である(下が斜行エレベーター)。
“西宮 名塩ニュータウン 斜行エレベーター”で検索すると、いくつかエレベーターの動画が出てくる。
しかしこれ、エレベーターと言うより、山に登るケーブルカーみたいだ(笑)。
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