「花筐 HANAGATAMI」
1941年の春。佐賀県唐津市に暮らす叔母(常盤貴子)の元に身を寄せる17歳の榊山俊彦(窪塚俊介)は、逞しい美少年の鵜飼(満島真之介)、虚無僧のような吉良(長塚圭史)、お調子者の阿蘇(柄本時生)ら学友を得て“勇気を試す冒険”に興じる日々を送っていた。俊彦はまた、肺病を患う従妹の美那(矢作穂香)に思いを寄せる一方で、女友達のあきね(山崎紘菜)や千歳(門脇麦)とも交流を深めていた。だがやがて恩師・山内教授(村田雄浩)も徴兵され、彼らの周りにも戦争への足音が近づいていた…。
既に毎日映画コンクールで映画大賞、キネ旬ベスト2位に選出され、高い評価を得ている本作。早く観たいと待ち焦がれていたが、ようやく当地でも1月27日に公開され、早速観に行った(本当は余分な情報なしの状態で観たかったのだが)。
やはり素晴らしい。2時間49分もある長尺だが、ほとんど時間の経過を感じさせない程に見応えある傑作だった。
檀一雄の原作を基にしているが、実質大林監督のオリジナルと言っていい。“生と死”という近年の大林作品にしばしば登場するモチーフが特に強調されているし、全編特殊加工された映像美の炸裂ぶりは、商業映画デビュー作「HOUSE ハウス」を髣髴とさせる。原点回帰とも、集大成とも言える作品であろう。
時代は日中戦争さなかの1941年、同年末には太平洋戦争へと突入して行く、不穏な空気が漂う時代である。
若者たちは、いずれ戦地に招集されるだろう事を予感しているし、また結核が不治の病であったこの頃は、女性であっても本作の美那のように肺を患えば、死が身近にあった。
そんな、誰もが死と隣り合わせの時代の中で、俊彦たち若者は青春を目いっぱい謳歌し、明るく元気に、生きる事の喜びを感じている。美那やその友人たちと語らったり、俊彦は“アポロ神のように逞しい”と表される鵜飼と裸で馬に跨り野を疾駆する。
まさに“生の輝き”に溢れているシーンである。
死が身近だからこそ、その短いかけがえのない時間の中で精一杯、彼らは生きている事の素晴らしさを感じ取るのである。
挿入される、唐津くんちのダイナミックな祭りのシーンもまた、人間の生命力の迸りを表現している。
これはまた、余命3ヶ月を宣告されながらも、本作の映画化に執念を燃やした大林監督の生き様とも重なる。
まさに、死と隣り合わせの、残された短い時間の中で、命の限り精一杯生きている証しをフィルムに刻み続ける大林監督の闘いぶりに、私は観ている間中、心が震え、涙を禁じえなかった。
そして監督は、そんな中でも遊び心というか心のゆとりを失ってはいない。
冒頭、井戸の傍で喀血する美那を、叔母の圭子が支え、唇の血を吸うシーンは、ロジェ・ヴァディム監督の耽美的秀作「血とバラ」を思わせるし、また同作にインスパイアされた大林監督のアマチュア時代の傑作「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」をも思わせるのが楽しい。
その後も何度か登場する、落下した赤い花びらが血のしたたりとオーバーラップするシーンも「血とバラ」のイメージに近い。
兵隊を模した案山子がやがて動き出し、顔を白塗りした大勢の兵隊が行進するシーンは、黒澤明監督「夢」の1エピソード、トンネルの中から現れた蒼白な顔をした兵士が行進して来るシーンを想起させる。
ちなみに大林監督は、その「夢」のメイキング「
夢-映画の肖像」を監督しているので、これは意識しての引用だろう。
同じ黒澤監督作には昭和初期、学生たちがキャンプにピクニックにと青春を謳歌するも、戦雲高まる中、恩師の教授もその座を奪われて行く、という本作と似た物語の、「わが青春に悔なし」という秀作もある。
黒澤監督を敬愛する大林監督は、こうした過去の黒澤作品にもオマージュを捧げている気がする。
前述したように、本作には初期の「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」や「HOUSE ハウス」を思い起こさせるシーンも登場し、こうした自作さえもパロディにする遊び心も満載で、大林映画を観続けて来たファンなら嬉しくなってしまう。
しかし全体を通しては、戦争に突入して行ったあの時代への痛烈な批判が全編にみなぎった、骨太の反戦映画になっている。「青春が戦争の消耗品だなんて、まっぴらだ!」と言う俊彦の怒りは、戦中派世代の大林監督の怒りそのものだろう。
実は「HOUSE ハウス」も、単なるホラー映画と思いきや、中盤でこの家の主である叔母さま(南田洋子)は、戦時中戦闘機乗りだった最愛の恋人を戦争で失っており、その悲しみを心に秘めて生きて来た事が明かされる(ちなみにその恋人を演じていたのがカメオ出演の三浦友和)。
既にデビュー作にして、戦争に対する怒りの思いがさりげなく込められていた事にも驚く。そのデビュー作以前に、本作「花筐」の映画化を熱望していたという大林監督であれば、そうした思いを「HOUSE ハウス」の中に挟みこんでいたのも当然と言えるかも知れない(注1)。
戦争を体験した世代である大林監督故に、そうした戦争への怒りは「花筐」の企画と共に、ずっと心の中に小さな種火として潜在して来たのだろう。
そうした今、あの戦前の時代に、空気が似てきた、という思いもあって、今こそ「花筐」を映画化しなければ…という執念が、余命宣告も80歳という年齢ハンディもすべて跳ね飛ばし、本作を完成させたのである。
そのバイタリティ、エネルギッシュな演出ぶりには、ただただ頭が下がる。凄い人である。今の若い監督でも、ここまで情念と思いのたけが全編にみなぎった作品が作れるだろうか。ただ敬服するばかりである。
なお映画を撮り終えたら、ガン細胞はどこかに消えてしまったそうだ。もしかしたら映画の神様が、大林監督の生きる勇気、思いが詰まった作品を造りあげるまでは死ねないという執念に敬意を表して、ご褒美をあげたのかも知れない。
ストーリーを追うよりも、全編に漂う、どんな時代であろうとも、自分の意思で生きよ、時代に流されるな、という大林監督の痛切な思いを感じ取るべきである。1度観て理解出来なくても、2度、3度と観る度に新たな発見があり、より理解が深まるだろう。これはそんな映画なのである。 (採点=★★★★★)
(注1)
そう言えば本作に登場する、常盤貴子扮する、皆の憧れの叔母さまは、「HOUSE ハウス」のその叔母さまと妖艶な所も含めて雰囲気がよく似ている。多分「花筐」の叔母さまのイメージを取り込んだのだろう。
いろんな意味で、本作と「HOUSE ハウス」は繋がっていると言えるだろう。
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コメント
私の、昨年のぶっちぎりベスト一位です。キネマ旬報が高評価したことは、大変素晴らしいことです。その影響か、その後東京では上映劇場が増えました。
ちなみに、亡くなった私の祖父が、東京の下町で小さな本屋を営んでました。
歴史資料や学術研究書しか置かない本屋で、来るのは学者さんとか研究者、文学者ばかりでした。
私は幼かったので、大林宣彦を知りませんでした。祖父が亡くなった後に漏れ聞いたのですが、大林宣彦はよく来ていたそうです。
実は、大林宣彦はかなり博学な人なんではないかと思っています。
なお、うちは東京新聞を読んでるんですが、これは東京新聞の連載104回目に大林宣彦が書いたものです。連載100回目が、山田洋次でした。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/himitsuhogo/iwaneba/list/CK2017121902000176.html
投稿: タニプロ | 2018年2月 6日 (火) 03:24
分からんかった。
長いので、すぐ2回目を見る気にもなれず。
きっと何回かリピートすると気持ち良くなってくるんだろうけど。処女の後の女体かよ(あ、下品な事を書いてしまった)。
膨大なテキストやイメージから大林宣彦らしい自由さは感じ取ったんだが、それにしても自由だよなあ。
投稿: ふじき78 | 2018年2月12日 (月) 10:15
◆タニプロさん
大林監督のエピソード、ありがとうございました。
40年前に壇一雄のあまり知られていない短編「花筐」を読んで、映画化を熱望したというくらいですから、読書家なのでしょうね。映画でも古今東西あらゆる映画を見まくってるそうですし、とにかくあらゆる情報、文化を収集して肥やしにして、そこからあんな膨大な情報が詰まってるかのような「この空の花」「野のなななのか」、そして本作を作り上げる事が出来たのでしょうね。
もう既に次回作の準備にかかってるそうですし、大林映画を見られる幸福が、もうしばらく続きそうです。
◆ふじき78さん
大林監督のここ最近の作品は、「この空の花」を例に挙げれば分かり易いですが、1本の映画の中に、長岡花火の物語、第二次大戦中の長岡大空襲の記憶、幕末から現在に至る長岡の歴史、2004年の新潟県中越地震の記憶、東日本大震災への鎮魂…と、映画3本分くらいの物語がぎっしり詰まってて、それらがパズルのように組み合わされて出来てるわけですから、上映時間が毎回3時間近くなるのも、入り組んでて1回見ただけでは分からない、と思うのも当然なわけです。是非体調のいい時にもう1回は見てください。見る度に理解が深まると思いますよ。
確か「この空の花」公開時に監督が「最低8回は見てください」と言ってたように記憶してます。(とは言え、さすがに私も8回は時間も金も足りない(笑)。DVD買うか)。
投稿: Kei(管理人) | 2018年2月12日 (月) 22:35