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13年前に突然失踪したまま行方が判らなかった父(リリー・フランキー)の消息が判明した。しかしガンを患った父の余命は3ヶ月だった。借金を背負いさんざん迷惑をかけられた母(神野三鈴)と兄(斎藤工)は父に会おうとしなかったが、幼い頃にキャッチボールをしてくれた父の記憶が忘れられないコウジ(高橋一生)だけは病院を訪れ、再会を果たす。そして3か月後、家族との溝は埋まらないまま、父はこの世を去った。葬儀の日、参列者が語る家族の知らなかった父親のエピソードの数々によって、父と家族の13年間の空白が埋まって行く…。
俳優として進境著しい斎藤工だが、映画監督としても2012年に短編映画で監督デビューし、以後現在まで6本の短編映画を監督しており、いずれも高い評価を得ていて海外でも注目されているという。そして今回、満を持して長編映画第1回監督作として本作を発表するに至った。
俳優から監督になった人は海外、日本でも数多くいるが、短編映画で実績を積み重ねた俳優出身監督、というのは珍しい。
しかも長編デビュー作として選んだのが、特に大きな事件も起きない、一人の男の葬儀とその家族、所縁の人たちの思いを淡々と描いた、実に地味な作品。
著名な俳優の監督第1作が葬式にまつわる話、と言えば有名なのが伊丹十三の「お葬式」。これは葬式ノウハウをメインに多彩な人物が騒動を巻き起こす人間ドラマとしても面白く、興行的にもヒットした他、キネマ旬報ベストワンその他映画賞を総ナメし、大きな話題を呼んだ。
そんな映画を期待したらちょっとはぐらかされる。葬式のプロセスもほとんどカット、前半はだらしない父の為に苦労させられる家族のエピソードを回想形式で綴り、後半は、一通り法要が終わった後、故人と親しかった人たちの思い出話が語られるだけ。
しかも上映時間は70分と短い。前半の回想が終わった所で、やっとメインタイトルが出る。ここまで37分。丁度半分だ。このスタイルも異色。
そんなわけで、多分(特に若い人など)退屈に感じる観客も多いだろう。
しかしこれは私にはとても面白かった。見終わって、心の琴線に触れるものがあった。ちょっとジンとなった。まあここ数年で父と母を続けておくった私の個人的思いと重なる部分もあったせいもあるが。
(以下ネタバレあり)
回想で語られる父の生き方は本当にダラシなくて情けない。麻雀屋に入り浸り、ヤミ金で金を借りてヤクザの借金取りに脅かされ、家の中で息を潜める毎日。その状態のまま、ある日父はフイと姿を消してしまい、以後13年間音信不通となる(題名はその空白の13年間を指す)。
残された家族は借金返済の為、幼い子供たちは新聞配達、母も朝は新聞配達、夜は水商売と必死で働く。母は新聞配達中、車と衝突事故を起こしても、休むと収入が減るので、顔に打撲傷を負ったままの姿で仕事に出かける。
そんなわけだから、13年ぶりに父の消息が判っても、母も兄も、父を絶対許さない。余命3ヶ月と知らされても、見舞いにも行かない。
だが、次男のコウジだけは、父とキャッチボールをしたり、小学校の作文を褒められた思い出があるので、こっそりと病院に行って父を見舞う。
その時、病院の屋上で二人が会話をするシーンがいい。父とはいい思い出もあるが、嫌な思い出もいっぱいある。そんなコウジは、父とかなりの間を置いている(下)。
この距離感が、わだかまりの深さを物語っている。
その後、会話の途中で、まだ借金を抱えているらしい相手からの電話があって、それを聞いていたコウジは、やはり許せない思いを強くする。
このコウジの、愛憎半ばする感情を微妙に表現する高橋一生の演技がいい。
こうして、父の人物像と、いくつかのエピソードで現在に至るまでの経緯と家族それぞれの思いを丁寧に描いた前半が終了し、タイトルが入って後半の葬儀場のシーンへと繋がって行く。
葬儀場と言っても、小さな公民館の一室である。実に簡素で参列者もごく少なく、こんな父にちゃんとした葬儀場なぞもったいない、という家族の意思の表れなのかも知れない。
おまけに、すぐ近くのお寺では、同じ苗字(松田家)の故人のかなり盛大な葬儀が営まれている。冒頭では数人の参列者が間違えてこっちの受付にやって来て混乱するコミカルなシーンがある。
この、盛大な隣の葬儀との対比は、終盤にも生きて来るのだがそれは後述する。
よく見ると参列者の中には、兄弟の会社関係者など、形式ばった人たちは一切おらず、本当に親しかった友人、知人しかいない。
兄は大手広告代理店勤務、コウジは警備保障会社に勤務と一応きちんとした会社に勤めている。だから普通なら会社関係のシキビとか花輪があったり、会社の同僚が手伝いに来たり参列したりするものだが、そんな物や姿は一切見えない。
これはおそらく、父の存在を恥じている兄弟が意識的に会社に連絡を入れなかったからだろう。参列されて、父の借金やら不行跡が暴露され会社に知れたら、会社でのマイナス評価に繋がりかねないだろうから。
さて、葬儀が一段落した後、坊さんが参列者に、故人について、思い出、エピソードなど何でも語ってくださいと勧め、それぞれ順に語り始める。
このシーンは、実は台本には簡単に各参列者と故人との関係を書いていただけで、セリフはほとんど出演者のアドリブだそうだ。
従って、演技ではなく、むしろ葬儀のドキュメンタリーを見ているかのようなリアルな雰囲気が醸し出されていた。
場を取り仕切るのが、マージャン仲間の佐藤二朗。トボけたコミカルな言動が場の雰囲気を和ませる。
その他、故人の思い出を語る参列者には神戸浩、織本順吉(「やすらぎの郷」の好演が忘れ難い)、村上淳となかなかシブい脇の名優が揃っている。
そして、彼らが語る父のエピソードは意表を突かれる。
怪しい宗教に入らされ、50万円の数珠を買わされた知人の為に金を用立てたり、住む所がなくなったオカマを自分の部屋に同居させたり、といった具合に、困っている人がいたら放っておけない、人情味の厚い人だった事が判る。
また、子供を喜ばせる為、手品を教わったり、コウジが小学校の頃書いた作文を今も大事に持っていたり…。
父は金にルーズで、家族を泣かせるダメな人間だったかも知れない。
だけど、人間って、みんな大なり小なり、欠点やダメな部分を持っている。それでも、どこかにいい面も持っている。それが人間なのである。
ダメな人間であろうとも、それでもみんな血の繋がった家族であり、その絆は断ち難い。であるなら、いい面も悪い面も含めて受容し、足らない所を補い合い、助け合って生きて行く…それが家族である。
父の、見えていなかった優しい一面を初めて知って、コウジたちは、いや観客もまた、人間というものを表からだけ見てはいけない事を思い知らされる。人間とは、そんな複雑な生き物なのである。
そうした参列者の語りが終わった後、兄が家族を代表して挨拶するのだが、この時の兄・ヨシユキに扮した斎藤工の演技がいい。
最初は父に対する嫌悪感がどうしても抑えられなかった。だが話しているうちに、参列者から聞かされた父の優しい一面を知って、自分は父とちゃんと向き合っていただろうか、余命少ない父の見舞いにも行かなかったのは、間違っていたかも知れない…そうした心の揺れと葛藤がせめぎ合って、その場にいる事さえいたたまれなくなって、ヨシユキは葬儀場を飛び出してしまう。
外に出て、ぼんやり佇むヨシユキの傍を、隣の豪勢な葬儀場から出て来た一団が喋りながら通り過ぎる。実は彼らは泣く演技をしていた泣き屋=サクラだった。
あちらの葬儀には多くの参列者が集まり、盛大だったかも知れないが、中味はヤラセで心がこもらない、空疎なものだった。
それに対してコウジたちの父の葬儀は、ごく少人数でこじんまりとはしていたが、温かい人情の機微に満ちた、心がホッコリする素敵なものだった。この対比が面白い。
エンドロールに流れる、笹川美和が歌う曲「家族の風景」がまたいい。どこにでもある、家族の日常を歌ったシンプルだが心に響く曲であり、この映画にピッタリだった。
上映時間が70分と短い為、少し物足りなく思う人もいるだろう。
だが齊藤監督によれば、最初はもう少し“味付けの濃い”脚本だったそうだ。それが高橋一生とのディスカッションの中で、余分なものをどんどん削ぎ落して行った結果、こういう仕上がりに落ち着いたのだそうだ。この潔さ、大胆さも、並みの新人監督とは違うものを感じる。
なお既に本作は、上海国際映画祭・アジア新人賞部門の最優秀監督賞、ウラジオストック国際映画祭最優秀男優賞を高橋一生、斎藤工、リリー・フランキーの3人がトリプル受賞、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭・ゆうばりファンタランド大賞、他多くの映画賞を受賞している。これも凄い事である。
今後が楽しみな、新人監督の誕生である。次はどんな作品を作るのか、大いに期待したい。 (採点=★★★★☆)
(付記1)
本作を観終わって思い出したのは、過去の日本映画の名作のいくつかである。
例えば、数多くの名作を生み出した、名匠・成瀬己喜男作品である。成瀬監督の映画にはいつも、ダラシなくて情けない男たちが登場する。「浮雲」しかり、「めし」しかり、「女が階段を上る時」しかりである。そんなダメな男たちを成瀬監督は、いつも愛情のこもった目でみつめている。
庶民的な家族の生活ぶりを丁寧に描く手法も、成瀬作品ではお馴染みである。
黒澤明監督の名作「生きる」は、前半は主人公に関するエピソード、後半は主人公の通夜の葬儀に集まった人たちの語り合いだけで構成されている。この作り方が本作とそっくりである。主人公がガンで余命いくばくもないという設定も共通する。
また最近の山田洋次監督作「家族はつらいよ2」も、自分勝手な父に家族が猛反発するが、知人の葬儀を出してあげる父の人情味の厚さを知って、家族の絆が回復して行く、というお話だった。
葬儀に集まった人たちの、ちょっとトボけた行動に笑わされる(特に本作の佐藤二朗の軽妙な喋りや、村上淳のペンチ騒動)展開も山田喜劇との共通性を感じる。
そう言えば、神戸浩は山田監督作品の常連俳優だった。
齊藤工は十代の頃から無類の映画好きで、近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、なんと店内のすべてのビデオを見たという逸話があるそうだ。
それくらいの映画好きだから、当然成瀬作品や黒澤作品もみんな見てる事だろう。故に、それら名監督たちの作品から影響を受けている事も充分考えられる。
だとしたら、とても頼もしい。古くはスピルバーグからクエンティン・タランティーノ(彼もレンタル・ビデオ店に勤めてビデオを見まくった経験がある)を経て、最近の「ラ・ラ・ランド」のデイミアン・チャゼル監督、「ベイビー・ドライバー」のエドガー・ライト監督に至るまで、欧米には過去の名作を無数に観て、それを血肉として作品に生かしている監督が多い。そんな監督が我が国には少なかっただけに、齊藤工監督には今後も、そうした映画ファンを歓喜させる作品を是非作って欲しいと要望しておこう。
(付記2)
どうでもいい事なので書かないでおこうと思ったが、どうも細かい事が気になる杉下右京みたいな(笑)性格なので、やっぱり書いておく。
劇中、2度ほど、母親が吸うタバコ、ハイライトのパッケージがアップになるシーンがあるのだが、そのパッケージには「日本専売公社」の文字があった。
日本専売公社は現在タバコを販売しているJT(日本たばこ産業)の前身で、一種の国営企業だったが、1985年に民営化されJTになった。
従って「日本専売公社」が発売するタバコもその年でなくなったはずである。
となると、本作の回想で登場する13年前とは、1984~5年頃という事なのだろうか。それだと父の葬儀が行われている今は1997~8年頃という事になる(父が携帯を持っている事からしてそれより古い時代ではない)。
あえて2回も専売公社ロゴをアップにしたという事は、そこに意味がある気がする(美術スタッフにとっては余分な手間がかかるし)。
考えれば、1984~5年からの13年間は、昭和から平成に年号が変わり、ベルリンの壁が壊され東西ドイツが統合し、ソ連は解体し、日本ではバブルがはじけ、阪神大震災、地下鉄サリン事件と大事件、大災害が起きた、まさに激動の時代だった。大手証券会社、山一證券が破綻・廃業したのは1997年だった。
家族にとっては空白だった13年間でも、世界はその間に大きく動いている。その対比も面白い。
タバコは、この家族の間を取り持つ重要なキーアイテムである。貧乏生活を絵に描いたようなコウジたち家族や、なんとものどかで穏やかな父の友人たちは、どこか昭和の時代に取り残されたような雰囲気がある。
そんな家族が吸っているタバコのパッケージには、JTなんて記号化された空疎なロゴはふさわしくない、彼らだったら絶対、「日本専売公社」のタバコだ!と齊藤監督はこだわったのかも知れない。
誰か齊藤監督に、この事聞いてもらえませんかね。
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コメント
妻と息子二人が喫煙するシーンがちゃんとある。次男はともかく、長男なんて大手代理店だから喫煙その物がマイナスになりかねないのに。煙草で継承される物を表わしたんでしょうなあ。
あと、前半と後半がキッカリ別れる構成は予告編も又そうであり、A面B面、表裏を持つアナログレコードやカセットテープみたいだな、と感じました。煩わしさと同じ量の愛しさが裏にある。
投稿: ふじき78 | 2018年3月10日 (土) 00:30