「妻よ薔薇のように 家族はつらいよIII」
三世代が同居する平田家。主婦の史枝(夏川結衣)は、育ち盛りの息子二人と夫・幸之助(西村まさ彦)、その両親・周造(橋爪功)、富子(吉行和子)と暮らしている。ある日、家事の合間にうとうとしていた昼下がり、家に泥棒が入り、冷蔵庫に隠しておいたへそくりを盗まれてしまう。出張から帰った幸之助はそれを知ってつい史枝に心ない言葉を浴びせてしまい、それを聞いて、それまで溜まっていた不満が爆発した史枝は家を飛び出してしまう。一家の主婦が不在となった平田家は大混乱。周造らが友人の助けも借りて掃除や洗濯、食事の準備と慣れない家事に挑戦するがうまく行かず、ついにはボヤ騒ぎまで起こす始末。史枝の存在のありがたみをつくづく実感する周造たちは、家族会議で打開策を話し合うが…。
今年で86歳になる山田洋次監督だが、演出力はいささかの衰えも見せず、本シリーズも3作目になって登場人物のキャラも確立してきたせいか、ますます快調、1作ごとにどんどん安定感を増し、面白くなって来ている。凄い事である。
毎回、“家族”にまつわるテーマを題材にして来た本シリーズ、1作目で熟年離婚、2作目では高齢者運転問題に無縁社会と、いずれも老人問題がテーマとなっていたが、本作では、“家庭における主婦の重要さ”という、年代を問わず普遍的なテーマを持ち出して来た。従って主人公は前2作の周造夫婦から、その息子の幸之助・史枝夫婦にバトンタッチされた格好である。
(以下ネタバレあり)
事の発端は、史枝がうたた寝していた隙に泥棒に入られ、へそくりを盗まれた事で、夫の幸之助が「俺の稼いだ金でへそくりをしていたのか」と史枝をなじった事に始まる。
妻にしてみれば、まさかの時の為にと思ってコツコツ貯めていただけで、そのくらいは誰でもやっている事だと反論する。そして口論の果て、堪忍袋の緒が切れた史枝は家を出て行ってしまう。
夫にしてみれば、自分が働いて稼いだ金がこっそりピンハネされてたのが許せないだろうし、「俺が外で神経すり減らして働いてるのに妻は家でのんびり昼寝か」との思いもあるだろう。この気持ち、世の亭主たちには同意したくなる人も多いかも知れない。
一方、妻にしてみれば、子育て、食事の用意、掃除、洗濯、さらには舅夫婦の世話までと、一日気が休まる暇がない。その苦労も知らないで自分の勝手ばかり言ってる夫のこの言い方は許せないだろう。
それにへそくりと言ったって悪い事ではない。山内一豊の妻の例もあるし、家計をうまくやりくりして余ったお金を万一に備えて予備費としてプールするのは妻の裁量だろうという気持ちも、世の妻たちは激しく同意するに違いない。実際、へそくりしていない方が少ないだろうし。
つまりは、どこの家庭でも起こりうる、ごく普遍的なテーマなのである。そしてどっちの言い分も同姓の立場に立てば正しいとも言える(もっとも、今の時代では男はかなり分が悪いが)。
こういうテーマを巧みに拾い上げ、笑える、しかし身につまされるお話に仕上げる山田洋次監督は本当にうまい。「男はつらいよ」シリーズでもそんなお話はしばしば登場していた(例えば「寅次郎相合い傘」におけるメロン騒動等)。
脚本が特に秀逸だと思ったのは、冒頭の家族の会話の中で、主婦の大変さが話題になったり(憲子が「史枝さんは一時もゆっくりせずに家事をテキパキこなしている」と言う)、史枝が朝、生活費が足りないからと夫に家計に入れる金を増やして欲しいと要望したり、亭主と子供たちを送り出した後、一人遅いご飯を食べたり、手乗り文鳥を愛でて孤独を癒すシーンがあったり、買い物帰り、学生時代夢中になったフラメンコの教室の看板を見て、(おそらくは)自分にも自由な時間が欲しい、とふと思ったり。
こうした、何気ない日常生活描写の中に、後の伏線を巧みに織り込む脚本作りのうまさは、是非若いシナリオ・ライターはお手本にして欲しい。
さて、史枝がいなくなって、平田家は大騒ぎ。運悪くもう一人の女手・富子も持病の腰痛が起きて家事が出来ず、周造の友人で医者の角田(毎回違った役で登場する小林稔侍)に応援を求めるも追いつかず、家族会議でも一人悪者にされかけた幸之助が逆ギレしたり、笑わされながらも、他人ごとではないなあと観客はわが胸に手を当てて考えさせられてしまうのである。
ここで印象的なのは、怒って家を飛び出した幸之助を、妹の成子が「お兄ちゃん!」と言って追いかけるシーン。
いつもは「兄さん」と呼んでるのに、ここだけ「お兄ちゃん」と言ってしまうのは、いつもは兄に批判的でも、やはり血を分けた兄妹だからだろう。
もっとも山田映画ファンはこれに、「男はつらいよ」における、妹さくら(倍賞千恵子)が、やはり喧嘩してプイと飛び出した寅を追いかける時のセリフを思い出してニヤリとしてしまうのだが。
寅さんつながりで言えば、富子の認知症の祖母が徘徊して行方不明になるシーンで、見つかった場所が柴又帝釈天の題経寺である。寅さんファンなら感動するだろう。私など、庭掃除をしてるのは源公じゃないだろうなとつい探してしまった(笑)。
このシーンに登場する認知症老人問題のみならず、この映画には憲子が病院で老人を介護するシーンが細かく描かれたり、富子が「私は平田家の墓には入りたくない。友人たちと別のお墓に入る」と言って、これも最近切実な墓問題が出てきたり、田舎の空家になった実家をどうするかという話も出てきたり、と、急速に少子高齢化が加速する現代日本が抱える諸問題も炙り出して行く。
喜劇でありながら、また社会派的テーマにも鋭く切り込み、考えさせられる。これが山田洋次映画なのである。
そして最後は、予定調和ではあるが、幸之助が田舎の史枝の元に迎えに行き、謝る事で一見落着となる。
芸が細かいと思ったのは、幸之助が田舎の家に入るシーンで、雨が降ってる為、幸之助はレインコートを着ている。
このベージュのレインコートが、冒頭の史枝が目撃した泥棒が着ていた物とそっくりなので、それを見た史枝が、また泥棒かと驚いてしまうのにも笑った。
またこの雨が、最後の周造がつぶやく「雨降って地固まるか」のセリフにも繋がる事となる。本当にうまい。
最後を、憲子の「明日病院に行かなくちゃ」のセリフに、庄太がとても嬉しそうな笑顔を見せるシーンで締めくくるのもいい。これはシリーズ4弾目への布石かも。
本当に、実によく出来た秀作である。名人の落語を聴いた後にも似た、爽やかな満足感で劇場を後にした。
落語と言えば、レギュラーの林家正蔵、笑福亭鶴瓶(特別出演)にプラス、ゲスト出演で立川志らくと、落語家が3人も出演している。
山田監督は柳家小さん師匠の為に落語の台本を書くくらいの落語ファン。実は本作にも落語「厩火事」(大切な茶碗を割った時、夫が「ケガしなかったか」と言えば妻を愛している証拠、「なんで割った」と責めるなら別れた方がいいという話)のネタを入れたとインタビューで監督自身が語っている。
さて、本作のサブタイトル「妻よ薔薇のように」。これ、古い日本映画ファンならすぐに気づくだろうが、名匠・成瀬己喜男監督が戦前に発表した名作「妻よ薔薇のやうに」(1935) のいただきである。
成瀬監督も、家族や夫婦に関する映画をいくつも作って来ており、山田作品にも繋がるテーマを持った作品が多い。
ただ「妻よ薔薇のやうに」の物語は、本作とは関係ない(東京に妻と娘が居るのに、夫が愛人と一緒に長野の農村に住んで、愛人と二人の子供と4人で暮らしているというやや暗い話)。
むしろ参考というかインスパイアされているのは同じ成瀬監督の秀作「めし」(1951)だろう。
これは、倦怠期にある夫婦(原節子と上原謙)が主人公で、妻がある日家庭の空気の重苦しさに堪えられず、家を出て行ってしまい、一人で暮らし始めるが、やがて夫が迎えに来て元の鞘に収まり、二人は夫婦生活を続けて行く、というお話である。
本作のサブタイトルに成瀬己喜男作品を流用したのは、もう1本の成瀬監督の代表作である「めし」からプロットを引用してますよというサインなのだろう。
ご丁寧に冒頭辺りで、富子が小説勉強会に参加しているシーンで、その林芙美子原作の「めし」が朗読されているのも、その事を裏付けている。山田監督、余裕で遊んでるね(笑)。
本作は他にも、日本映画の名作を引用しているシーンがある。
次男の庄太(妻夫木聡)が、幸之助とホテルの喫茶店で会い、「史枝さんを迎えに行けよ」と説得するシーン。
ここで階段を積み重ねたようなこのフロアの後ろでは、結婚式を終えたばかりらしい新婚夫婦と友人たちが歓談している。
そして庄太に反発しながらも、その熱意に圧されて階段を降りて行く幸之助と、その背後では、新婚夫婦たちの華やかな声が沸き起こっていると言う対比的シーンへと続く。
これも、映画ファンなら、黒澤明監督の名作「生きる」(1952)の有名なシーン(主人公が公園を作ろうと思い立ち喫茶店の階段を降りる背後で誕生日祝いが行われている)を思い起こすだろう。
山田監督は過去にも「おとうと」(2009)では市川崑、「東京家族」(2012)で小津安二郎と、日本映画の名匠の代表作へのオマージュ作品を作っているが、本作では一気に成瀬己喜男と黒澤明と2人の日本映画の巨匠へのオマージュをやってのけたようだ。
こうなると後は、同じ松竹の大先輩、木下恵介が残っている。どんな形でやってくれるか、これも楽しみである。
実を言うと、このシリーズ、1作目は私にとっては物足らず、厳しい批評を書いたが、2作目で初期の寅さんもの位のレベルに持ち直し、そして本作ではここ数年でも最上の出来になっていた。どうやら作る度に、昔の「男はつらいよ」の感触とペースを取り戻して行ったのではないだろうか。改めて凄い監督だと敬服せざるを得ない。
クリント・イーストウッドと並んで、米寿にもなろうとする日米の巨匠が、今もなおコンスタントに作品(しかも年齢を感じさせない力作揃い)を作っている。それだけでも映画ファンとしてとても嬉しい。いつまでもお元気で映画を作り、我々を楽しませて欲しいと心から願っている。 (採点=★★★★☆)
シリーズ作品評
「家族はつらいよ」
「家族はつらいよ2」
(さらに、お楽しみはココにもある)
本作と同じテーマを持った作品を、山田洋次は以前にも発表している。
渥美清主演のテレビドラマ「泣いてたまるか」の1編「子はかすがい」(1966)である。山田洋次は脚本のみで、監督は飯島敏宏。
人は良いのだが、喧嘩っぱやい大工の主人公源吉(渥美清)が、ある日酔っぱらって他人を連れ込んで帰宅し、大暴れ。そして奥さん(市原悦子)と喧嘩となり、「出て行け!」と言ったものだから、とうとう愛想をつかした奥さんは赤ん坊を連れて出て行ってしまう。
しばらくはもう一人の息子と二人で暮らしていたが、洗濯もロクに出来ないから源吉も息子も職場や学校で「臭い」と言われてしまう。
ところが、小学校の先生(栗原小巻)が家庭訪問で持参した、息子の作文に、父の行状がありのままに書かれていて、美人の先生にも諭され、反省した源吉は妻を迎えに行き、二人は元の鞘に収まって、いつもの生活が戻って来る、という物語。
まあ「めし」とも似たお話なのだが、元は落語の「子別れ」(別題「子は鎹(かすがい)」)に出て来る話で、これを山田洋次がドラマに翻案したものだそうだ。
つまりは本作、「子別れ」と前述の「厩火事」の2本の落語がベースになっているのである。
道理で落語家が大勢出演してるわけだ(笑)。
なお前掲の「泣いてたまるか・子はかすがい」の主人公・源吉のキャラクターは、喧嘩っぱやいは威勢のいい啖呵は切るは、美人の先生にはデレッとなってしまうはと、後の渥美演じる「男はつらいよ」の寅次郎とそっくりで、寅さんの原型がここいらでも形成されて行ったと思われる。
ちなみに、栗原小巻演じる学校の先生は、ほぼ同じキャラクターが「男はつらいよ」シリーズ第4作「新・男はつらいよ」(監督:小林俊一)に登場する。こちらは幼稚園の先生に栗原小巻が扮している。
も一つおマケに、その「新・男はつらいよ」にはこれまた本作と同じく、泥棒に入られるエピソードが出て来る(泥棒を演じているのは財津一郎)。
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コメント
こんにちは。
現代っ子といいますか、山田監督自身が、若い感性を持っている人だと思いました。小津の家族観よりも、父権的な夫が幸之助だと思うのですが、そこは、隠さず、父親はこうあるべきだと、前作の無縁社会然り、毎回起こる問題を解決する、いざという時に頼りになる父親だからこそ、説得力のある物語になるのではないでしょうかね。
笑いも欠かさず盛り込んで、質の良い映画でしたね。
投稿: 隆 | 2018年6月 3日 (日) 18:48
◆隆さん こんばんは。
幸之助は表向き、やや父権的な態度を取ってますが、出張から帰って来た時、史枝にも土産のスカーフを買ってたように、内面では優しさも持ってるのに、それが表に出せない性格なのでしょうね。さっさと田舎に行って史枝に謝って帰ってもらえばいいのに、プライドが邪魔してなかなか踏み切れない。弟の庄太に懇願されて渋々謝る気になったけど、いざ田舎に行ったら、やっと隠れていた内面の優しさを表に出した、という所でしょうね。
そう言えば前作でも、口では他人の為に葬式出す事に反対してたのに、ちゃんと仕事やりくりして葬式に参加してましたね。これも表向きとは逆の内面の優しさの現われなのでしょうね。そういう意味で、シリーズ一貫して、登場人物のキャラがブレてないのにも感心します。山田洋次監督、本当にキャラクター設定と脚本作りがうまいですね。
投稿: Kei(管理人) | 2018年6月10日 (日) 01:32