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2018年6月10日 (日)

「海を駆ける」

Manfromthesea2018年・日本=フランス=インドネシア合作
企画制作:日活
配給:日活=東京テアトル
英題:The Man from the Sea
監督:深田晃司
脚本:深田晃司
製作:新井重人
プロデューサー:小室直子、紀嘉久
撮影:芦澤明子

海から現れた謎の男が巻き起こす奇跡を描いたファンタジー。インドネシア、スマトラ島のバンダ・アチェでのオールロケによる映像も見どころ。監督は「淵に立つ」で第69回カンヌ国際映画祭ある視点部門で審査員賞を受賞した俊英・深田晃司。出演は「結婚」のディーン・フジオカ、「南瓜とマヨネーズ」の太賀、「孤狼の血」の阿部純子、「ほとりの朔子」の鶴田真由など。

インドネシア、スマトラ島北端に位置するバンダ・アチェの海岸で正体不明の男(ディーン・フジオカ)が倒れていたのが発見された。片言の日本語を話すその男は記憶を喪失しているようで、海で発見された事からインドネシア語で「海」を意味する「ラウ」と名づけられる。日本からアチェに移住し、NPO法人で地震災害復興支援の仕事をしている貴子(鶴田真由)は、日本人かも知れないという事でそのラウをしばらく預かり、身元捜しを手伝うこととなる。ちょうどその頃、貴子の親戚のサチコ(阿部純子)が、亡き父の形見の写真に写っている場所に父の遺灰を撒くべくこの地にやって来る。貴子の息子タカシ(太賀)はサチコと仲良くなり、タカシの同級生クリス(アディパティ・ドルケン)や、その幼馴染でジャーナリスト志望のイルマ(セカール・サリ)らと共に、ラウの身元捜しを手伝う。いつもただ静かに微笑んでいるだけのラウだが、やがて彼の周りで不思議な現象や奇跡が起こり始めて…。

深田晃司監督は、自主映画からスタートし、いくつかのインディーズ作品を発表の後、2011年の「歓待」で注目され、2013年の二階堂ふみ主演「ほとりの朔子」が第35回ナント三大陸映画祭グランプリ(金の気球賞)と若い審査員賞を受賞、2015年の「さようなら」ではマドリッド国際映画祭 にてディアス・デ・シネ最優秀作品賞受賞、2016年の「淵に立つ」が第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞…と、1作ごとに、特に海外で高い評価を受けて来た異才監督である。
そんな事もあって、本作は深田監督の作家性に惚れ込んだフランスが資金を出し、深田監督が以前から温めていた企画を自身のオリジナル・シナリオで実現させた作品である。

ある意味、自分のやりたかった事を好きなようにやったという事で、なんともマカ不思議な作品が出来上がった。多分ディーン・フジオカ目当てにやって来た観客はあっけに取られるに違いない(実際、ディーン扮するラウが不思議な行動を起こすごとに、「えっ、なんで??」などのつぶやきが劇場内あちこちで発せられていた)。

ラウの正体は最後まで分からず、いくつもの謎を残したまま、映画は唐突に終了する。その為レビューも賛否両論である。鑑賞する方は、そのつもりで画面に向き合った方がいい。難解だが、とても刺激的な、ハマる人にはハマる作品でもある。

(以下ネタバレあり)

映画は冒頭、舞台となるインドネシア、バンダ・アチェの海岸に打ち寄せる荒々しい波を映し出す。
いかにもインド洋らしい、日本の太平洋の波とも異なる、荘厳さも感じさせられる。それ自体が、神秘的でもある。

その海から、一人の全裸の男が現れ、やがて波打ち際で倒れ込む。それを、うんと高い所から見下ろすカメラの視点も印象的だ。

男は保護されるが、何も語らず、名前も、どこから来たのかも不明である。片言の日本語やインドネシア語は喋れるようだがその内容も意味不明。

やがて、この男が日本人らしいという事で、現地で地震復興支援活動を行っている貴子が男を引き取り、男の身元捜しを息子のタカシと共に行う事となる。
男は、とりあえずインドネシア語で“海”を意味するラウという名前を付けられるのだが、この名前は後で重要な意味を持って来る。

また一方、物語は父の遺言に従い、アチェ沖の海に父の遺灰を散骨すべく日本からやって来た貴子の遠縁のサチコの、父が残した写真から、散骨場所を探す旅が並行して描かれる。
その旅に、タカシ、タカシの同級生クリス、クリスが恋心を抱くジャーナリスト志望のイルマが加わり、いつしかラウも加わって、5人のロードムービーとなって行く。

映画はやがて、サチコとクリス、タカシとイルマの、それぞれの恋模様も描かれ、若者たちの青春映画的ムードも帯びて来る。
4人の若者たちは、日本語、英語、インドネシア語といった言語を介して、国籍や宗教、言葉の壁も超えて、自由に、くったくなく交流し親密度を深めて行く。この行程が爽やかで、「ほとりの朔子」という青春ムービーの佳作を発表した深田監督らしい味が出ていていい。

その彼らに随行するラウが、最初のうちはいるのかいないのか分からないような、空気のような存在だったのが、やがて熱中症で倒れていた現地の少女の為に、空中で水の塊りを作り出したり、高熱を出したサチコに夢の中で目的地を暗示させ、熱を冷まさせたり、次々と不思議な奇跡を起こして、次第に物語の中心的存在へと変貌して行く。

やや長い髪にヒゲ、ポンチョのような衣をまとったラウの姿は、どことなくキリストを想起させるが、起こす奇跡もまるでキリストそのものである。透明感とイノセントさを感じさせるディーン・フジオカがまさに適役。

Manfromthesea2
やがてサチコは遂に写真の島を見つけ、散骨の目的を果たす。が一方、ラウは現地の4人の子供を川に引きずり込んで殺した男だと疑われる。それは事実なのか、何故そんな事をしたのかも映画では語られない。

そして最後に、ラウは「帰る」とつぶやき、なんと海の上を駆けて去って行く。題名は象徴的な意味だと思ってたが、本当に海の上を駆けている(笑)。この行動もキリスト的だ。
もっと驚くのは、サチコやクリスたち4人の若者も、つられるようにその後を追い、海の上を駆けて行くのだ。

ラウはやがて水中に没する。同時にサチコたちも海に沈む。最後は浮上し、陸に向かって泳ぐ4人を、冒頭と同じく高い所から見下ろす映像でエンド。

 
こんな具合で、ラウの行動は謎だらけ。一体彼は何者なのか、どこから来てどこに行ったのか、何故奇跡を起こせるのか…映画は何も語らない。
他にも、サチコたちを運ぶ車の運転手が、海辺で親子らしい姿を目撃するが、車を降りたら姿が消えていたり、ラウが瞬間空間移動をしたり、ラウが貴子にそっと触れると貴子が倒れてしまったり、その後貴子がどうなったかも描かれなかったり、不思議かつ不可解な事ばかり。観客の頭にはいくつも?マークが浮かんだ事だろう。

しかしこれが深田監督の狙いなのだろう。チラシの惹句にも「人生は不条理、だから愛おしい…」とあるように、これは一種の不条理劇である。謎をいくつも提示して、映画自体は答を出さないが、その答は観客自身で考えて欲しい、という事なのだろう。

監督自身、コメントで、「ご覧いただいた皆さんで、是非意見を交わしていただきたい」と言っている。
観た人みんなで、あれやこれや、謎の意味するものを語り合い、考えればいいのである。そういう参加型の映画もあっていいと私は思っている。

そこで、私なりの解釈を以下に述べる。これはあくまで私の独断、それぞれ観た人自身でも考えていただきたい。

 
まず、舞台となるスマトラ島北端、バンダ・アチェという舞台。ここは2004年のスマトラ島沖地震の大津波で甚大な被害を受けた所。映画の中でも、イルマが取材するカメラの前で、現地の人たち(おそらく実際に被害を受けた人)が大津波の様子を生々しく語っている。
これは、7年前の東北大震災で、津波の被害を受けた我々日本人にとっても、記憶を呼び覚まされる出来事である。
深田監督の2015年作品「さようなら」では、原子力発電所の爆発による深刻な放射能汚染がテーマとして描かれていたように、東北大震災への無念の思いは深田監督の心の内に深く刻まれているのだろう。

そこで気が付くのは、謎の男に付けられた名前、ラウ()である。つまりはこの男は、“海そのものを象徴している存在”なのである。

海は自然の宝庫であり、生命の源。海があるからこそ生命が生まれ、魚や海産物が獲れて食卓を潤し、また水蒸気となって雨を呼び、水を与えてくれる。
また一方、海が荒れると、津波や台風で多くの命が奪われる。東北でも、バンダ・アチェでも津波によって数多くの命が失われた。

海は、我々人間にとって、命の糧、恵みの元であると同時に、命を奪う無慈悲な、残酷な存在でもある。そして海の深い所には、まだまだ多くの神秘が隠されている。

まさに、善も悪も兼ね備えた、不条理そのものとでも言うべき大自然の摂理…、それが海である。

だから、そんな海そのものであるラウは、人の命を救う事もあれば、逆に命を奪う事だってある。
4人の子供たちの命を奪ったというのも、事実なのかも知れない。
ただ私の想像では、ラウは殺したわけではなく、ラストのサチコたちと同様に、子供たちは海か川の上を駆けていたラウについて行って、一緒に水の上を走っただけかも知れない。
ただサチコたちと違って、子供たちは陸に泳いで戻るだけの体力がなかっただけなのだろう。どちらも4人だったというのも暗示的である。

海を甘く見たら、ひどい目に会う。その恐ろしさを、津波を体験した我々は教訓として思い知るべきである。ラウはその事を教えているのかも知れない。

ラウが触れた為に倒れた貴子にしても、死んだとは描かれていない。単に眠らせて、サチコの時と同様、夢の中で誰かと再会させていたのかも知れない。
その直前、蝶々がラウの前を飛んでいたが、あの蝶はもしかしたら誰かの化身であったのかも知れない。貴子の亡き親か夫か。それに気が付いたラウが、貴子の意識の中に入り込ませたのだろう。

ラストの、遥か高い位置から、海を泳ぐサチコたちを見下ろす映像も印象的だ。それはまるで神の視線のようでもある。

そういう意味で、この映画を観るという事は、まさに神秘的な体験であるとも言える。荘厳な気持ちにさえさせられた。

思い返せば、深田作品においては、「歓待」では平凡な家庭にある日、不思議な男(古舘寛治)が訪れた事によって日常が崩れて行く様が描かれたり、「淵に立つ」でもやはり謎の男(浅野忠信)が現れた事によって家庭が崩れて行く姿が描かれていた。

“異分子が平穏な世界の中に紛れ込む事によって巻き起こる不条理劇”というのが深田作品の一つのパターンであると考えれば、本作もまたそのパターンに沿った作品だとも言える。
ただ本作では、現れた異分子が人知を超越した、神のような存在である事によって、前2作よりもさらに哲学的とも言える風格が加わった気がする。

 
海とは、人間にとって何なのか。我々人間は、まだまだ海というものの存在を理解し得ていないのではないか。人間は、どこから来てどこへ行こうとしているのか…。
そんな事まで考えさせられた、これはとても刺激的で心にズシンと響く問題作である。

見方を変えれば、こんな不思議かつ魅力的な映画を作る深田監督自身が、ラウのような存在であるとも言えよう(笑)。この先、深田監督がどこに行こうとしているのか、今後も注目して行きたい。    (採点=★★★★☆

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コメント

トークショー付き回で観賞しました。
監督が言ってました。
鶴田真由さん演じる女性は「死んだ」という意味で描いたそうです。

投稿: タニプロ | 2018年6月19日 (火) 21:16

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