「止められるか、俺たちを」
1969年春。21歳の吉積めぐみ(門脇麦)は、新宿のフーテン仲間のオバケこと秋山道男(タモト清嵐)に誘われ、“若松プロダクション”の扉を叩く。当時、ピンク映画を量産していた若松孝二(井浦新)率いる若松プロダクションは、足立正生(山本浩司)、大和屋竺(大西信満)、ガイラこと小水一男(毎熊克哉)、カメラマン志望の高間賢治(伊島空)、脚本家志望の荒井晴彦(藤原季節)ら新進気鋭の若き異才たちの巣窟であり、彼らが参加して作り上げた作品はピンク映画を超えた異様なエネルギーに溢れ、若者たちを熱狂させていた。めぐみはやがて若松プロの数本の作品で監督助手を務め、映画作りに魅了されて行く。だが、多くの才能ある仲間たちに比して、自分は何を作りたいのか、その目的を見つけられず、彼女は焦りと不安に苛まれて行く…。
冒頭に、“若松プロダクション”のタイトルとロゴマークが映し出される。若松プロの総帥だった若松孝二が6年前に事故で亡くなって、若松プロはもう解散したとばかり思っていた。ところがどっこい、“若松プロ”は今も健在で、しかも若松プロで助監督修行を重ね、一本立ちしてからは日本映画に新風を巻き起こして来た白石和彌監督が、師匠の若き日の活躍ぶりを描く伝記映画を、“若松プロダクション”作品として完成させた。その事にまずジーンとなった。
若松プロは、1960年代初頭にスタートして以来、現在までの半世紀以上に亙ってコンスタントに映画を作り続けて来た。監督の主宰する独立プロダクションで、こんなに長く生き延びて来たプロダクションは他に例を見ない(しかも当初は超低予算のピンク映画のプロダクション)。
その上凄いのは、上記に挙げた以外にも、大和屋竺と同じく日活の助監督だった曽根中生、山口清一郎、後に詩人・評論家として活躍する福間健二、後にTV[日本昔ばなし」の脚本家となる沖島勲らも参加し、後には高橋伴明、山本晋也もここで監督修行をし、いずれもその後日本映画を始め、さまざまなジャンルで活躍する事となる異才、鬼才たちばかりである。荒井晴彦は、後にキネ旬はじめ多くの映画賞で脚本賞を多数受賞し、今では日本を代表する名脚本家となった。
まさに、梁山泊と言ってもいいだろう。一つの弱小独立プロダクションから、こんなにも多くの才能が誕生した事は、まず他に例がない。奇跡的と言ってもいい。
若松孝二こそは、“日本のロジャー・コーマン”と呼んでもいいのではないだろうか。
さてそれはさておき、観る前は、若松孝二が主人公だと思っていたのだが、実際の主人公は、若松プロにおけるただ一人の女性助監督だった吉積めぐみである。しかも描かれる年代は、その彼女が若松プロに在籍した1969年から、1971年に亡くなるまでの2年ほどの短い期間である。
この発想が面白い。これによって本作は、単なる鬼才監督と、彼が興したプロダクションに集まった人たちの物語に留まらず、若さを何かにぶつけたいと望みながらも、壁に突き当たり、悩み、迷い続けた一人の女性と、彼女を取り巻く若者たちの交流を描いた、見事な青春映画になっている。
(以下ネタバレあり)
1969年当時の若松プロには、前記のように、映画に情熱を傾ける多くの若者たちが集まっていたが、これは時代の空気とも無縁ではない。その前年辺りから全国的に学園闘争が巻き起こり、多くの学生たちがヘルメット、角材(ゲバ棒と呼んだ)で武装して大学をバリケード封鎖したり反戦活動を行ったり、この年には有名な東大安田講堂事件も起きたりと、若者たちが権威や権力に反抗した時代であった。文化面でも、寺山修司や唐十郎を中心としたアングラ演劇活動が盛り上がり、映画界では大島渚や篠田正浩といった松竹ヌーベルヴァーグ出身の監督たちが、ATG(アートシアターギルド)で低予算ながら革新的な映画作りを行っていた(注1)。
そんな中、新宿でフーテン暮らしをしていた吉積めぐみが、仲間だった秋山道男に誘われ、若松プロに入社する所から物語は始まる。
おそらくは、それまで宙ぶらりんの生き方をしていためぐみが、多くの若者たちが政治闘争に、映画作りに熱い思いをぶつけていた時代の空気の中で、自分も何かをしたい、生き方を変えたいという思いが高まった事が、若松プロに入る動機になったのではないだろうか。
井浦新演じる若松孝二は、かなりエキセントリックな性格にぶっきらぼうな言動で、しかし入って来る者は誰でも受け入れる包容力があり、足立、大和屋らに次々脚本を書かせ、監督にも起用したり、人を上手に動かし才能を導き出す能力に長けていたようだ。そんな状況を知って、さらに若い才能が集まって来るという好循環が、若松プロの隆盛をもたらしたと思われる。井浦新は体型は全然似ていないが、カリスマ的な若松の人物像をうまく表現している。赤塚不二夫とも意気投合し、スナックの2階から赤塚と並んで盛大に放尿するシーンには笑った。
めぐみもすぐに監督助手に起用され(注2)、慣れないカチンコ叩き等を担当したり、打ち上げパーティに参加したりと、少しづつ若松プロの一員となって行く。
だが、足立正生らの参加で若松プロ作品に政治性、観念性が導入されて行くと、当然ながらそんな難しい作品に観客は集まらない。ピンク映画館に来た観客は、理屈よりセックス・シーンを観たいだけなのだ。興行的に不振が続くと、仕方なく普通のピンク映画も作るが、そうなると今度は先鋭化したスタッフが黙っていない。
映画の中で、ミキサー助手の男(満島真之介)が試写を見て、「こんなヤワな映画、若松プロの映画じゃない!」と抗議の声を上げるシーンがある。気持ちは分かるが、食う為、プロダクションを維持し続ける為にはこれもやむを得ない。
硬と軟、両者のバランスをうまく取りながら、若松孝二は巧みに映画を作り続けて行く。若松プロが現在まで生き延びて来た理由が分かる気がする。
だが、若松プロの疾走は留まる所を知らない。若松と足立はレバノンに渡航して日本赤軍の重信房子らに合流し、日本赤軍とパレスチナ・ゲリラ、PFLPの活動をカメラに収めたドキュメンタリー「赤軍-PFLP 世界戦争宣言」を完成させ、真っ赤に塗ったバスで全国上映キャラバンを敢行しようとする。
まさにタイトル通り、「止められるか、俺たちを」の気分だろう。いやはや凄い人たちである。
こうして、若松プロがどんどん時代の先端へと進んで行く中で、めぐみは次第に自分の居場所をなくして行く。女性と言うハンデもある。仲間たちが全員連れションしようとする時、めぐみも「私もやる」と叫ぶが止められる。自分が作りたいものもなかなか見つけられず、その上若松プロに自分を誘ってくれた秋山道男も若松プロを去って行った。めぐみは孤立感を深めて行く。
やがて監督昇進を認められ、短編映画「うらしま太郎」(71)を初監督するがまったく評価されなかった。さらに妊娠している事も分かり、心身共に疲弊しためぐみは睡眠薬にも頼るようになる。そして事故か自殺か分からない、彼女の突然の死をもって映画は終わる。
観終わって、涙が溢れて来た。まだ女性の働き方が確立していなかった50年前の時代、一人で若松プロに飛び込み、男ばかりの世界で下積みの助監督修行を重ね、彼らと映画作りを共にして、もがき、苦しみながら時代を駆け抜け、短い生涯を終えた吉積めぐみという女性にスポットを当てた、これは鮮烈な青春映画であり、かつ映画作りに情熱を燃やし続ける人たちへの応援歌でもある。
なお、若松プロには今も吉積めぐみの写真が飾られているという。
吉積めぐみが主人公である為、若松孝二の人物像には迫りきれていないうらみも残るが、それでもあの時代の若松プロダクションの空気感は存分に感じ取る事が出来た。映画を愛する人ならきっと感動する事だろう。とりわけ、あの時代の若松プロ作品を観ていた方は必見である。
それにしても白石和彌監督、「サニー/32」、「孤狼の血」と続いて、今年はこれで3本目。しかも「孤狼の血」と共にこれもベストテン級の傑作。ここ数年の活躍は半端ない。まさに白石監督自身、「止められるか、俺を」といった気分だろう。 (採点=★★★★☆)
(注1)
本作の中でも、大島渚が登場し、若松プロの面々と歓談するシーンがあるが、大島渚監督の「絞死刑」(68)や「新宿泥棒日記」(69)には、足立正生が脚本家として参加しているし、若松監督作「狂走情死考」(69)には大島一派の戸浦六宏が出演する等、相互に協力しあっていたのである。
(注2)
若松孝二関連書籍を読んでフルモグラフィを調べてみると、若松監督作「ゆけゆけ二度目の処女」、「裸の銃弾」、「性輪廻 死にたい女」、「秘花」、「性家族」といった、1969~71年製作の若松プロ作品に、監督助手:吉積め組の名前があった。
なお「現代好色伝 テロルの季節」(69)では、吉積めぐみ、「新宿マッド」、「性賊-セックスジャック」(共に70)では吉積恵と、いろんな名前を使い分けている。2年の間に、監督助手としてクレジットされた作品は10数本あるようだ。
(付記)
なお、本作の重要人物であり、後にプロデューサー、クリエィティブディレクター、装丁家、俳優、作詞家、作曲家とマルチな活躍をする事となる秋山道男氏は、先月9月19日、亡くなられた。享年69歳。ご冥福を祈りたい。
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