「斬、」
開国か否か大きく揺れる江戸末期。貧窮して藩から離れ、浪人となった都築杢之進(池松壮亮)は、江戸近郊の農村で農家を手伝いながら、隣りの農家の息子・市助(前田隆成)に木刀で剣の稽古をつける日々を送っている。市助の姉・ゆう(蒼井優)はそんな杢之進に密かに思いを募らせていた。ある日三人は神社の境内で果し合いをする浪人を目にする。一見柔和だが眼光鋭いその浪人・澤村次郎左衛門(塚本晋也)は杢之進と市助に、一緒に京都の動乱に参戦しないかと誘いをかけ、二人はその申し出を受ける事にする。だがその出発の直前、体調を崩した杢之進は寝込んでしまい、その間、村に流れ着いた源田瀬左衛門(中村達也)を頭とした無頼の浪人集団と市助が衝突し、事態は思わぬ方向にに傾いて行く…。
デビュー以来、現代、あるいは近未来を舞台としたアクションやシリアス・ドラマを作って来た塚本晋也監督だったが、2015年の「野火」で約70年前の太平洋戦争末期に時代が遡行し、そして今回はそこからさらに80年遡る江戸時代末期を舞台とした、初の時代劇に挑戦した。
これはどういう心境の変化か、と思ったが、考えれば若手のホープだった塚本監督も、はや58歳。いつまでもハジけた現代劇ばかり撮っているわけには行かず、この辺で日本の近世史を俯瞰する事で、さらに奥深いテーマを見つけてみようという気になったのかも知れない。
しかしさすが塚本監督、やはり根底を貫くのは塚本作品でお馴染みの“バイオレンス”である。「野火」で戦争の暴力、残酷さをストレートに訴え、本作では“刀”がもたらす果てしなき暴力の連鎖を痛切に描いている。
そういう意味でも、時代を遡行しようが、塚本監督の描くテーマは一貫しているのである。
(以下ネタバレあり)
杢之進は市助との木刀による稽古を見る限り、剣の腕は確かなようである。だが相手は剣術の基本も知らない百姓の倅だから、無茶苦茶強いわけではなさそうだ。それに江戸時代は250年も大きないくさもなく天下泰平、実際に剣で人を斬った事もないだろう。
そして浪人・澤村から京都で動乱に参加しないかと誘われた時、一旦は受けるのだが、出立の日になって突然倒れ、寝込んでしまう。それまで予兆もなかったのに、この急な体調の変化は、あるいは実際に人を斬る=自分の手で人を殺す=事が現実になると知って、改めて恐怖を覚えたのかも知れない。
自分は本当に人を斬れる(=殺せる)のだろうか、その精神的圧迫が身体を動けなくさせてしまったのだろう。根本的には、杢之進は暴力が嫌いな、優しい心を持った男なのだろう。実際杢之進はその前、村に現れた浪人たちと一時、和気あいあいと接しているし。
澤村は出立を延ばす事とするが、市助は不満で苛立ちを隠さない。そんな時、市助は浪人集団と鉢合わせし、からかわれた事から諍いを起こし、ボコボコにされてしまう。
それを知った澤村は、浪人集団の元に出向き、帰って来ると、「もうこれで奴らはやって来ない」と言う。おそらくほとんどの浪人を斬ったのだろう。
だが、かろうじて逃げた浪人の頭目が、多くの仲間を連れて戻って来て、市助とその両親を皆殺しにしてしまう。
暴力で押えつけたはずが、かえって更なる暴力を生み、悲劇を呼び込んでしまったのだ。
一家を殺されたゆうは泣き叫び、澤村と杢之進に仇を討ってくれと懇願する。
これを見て思い出すのは、クリント・イーストウッド監督の傑作「グラン・トリノ」である。同作の主人公コワルスキーは、隣家のモン族の少年がギャングに苛められている事を知ると、ギャングたちをこっぴどく痛めつける。だがそれがかえって更なる暴力を生み、悲惨な結果をもたらしてしまう。
復讐は、際限のない報復の連鎖をもたらすだけ、という同作のテーマは、本作と共通する。
その事を認識している杢之進は、浪人たちと対峙しても刀を使わず、落ちていた木の棒で戦うのだが、刀を振り回す無頼どもにそれで勝てる訳がない。組み伏され、ついて来たゆうは浪人たちに強姦されてしまう。
その様子を、澤村は遠くから見ているだけで加勢しようとはしなかった。それはおそらく、杢之進が遂に刀を抜き、人を殺す気になるまで待っていたのだろう。京で戦いに参加してもらう為には、それまでのような弱腰の非暴力主義であっては困るからである。
それでも立ち上がらない杢之進にしびれを切らし、澤村は浪人たちをすさまじい勢いで斬り倒して行く。刀と一体化し暴力装置となった澤村は、鉄と一体化した“鉄男”を思わせる。さすが塚本晋也。
澤村は杢之進に、「もし逃げるなら、おまえを斬る」と宣言する。それでも杢之進は、果てしのない暴力に空しさを感じ、森に逃げ込んで行く。
“暴力の否定”は、暴力のみを“正義”として生きて来た澤村にとっては許せない事だからだろう。
うっそうと繁る深い森は、「野火」の緑のジャングルを連想させる。それも狙いだろう。
ラスト、遂に追いつかれ、澤村に斬りつけられ、血をしたたらせた杢之進は、そこで初めて刀を抜き、澤村と凄絶な死闘を繰り広げた後にやっと澤村を倒す。
だが杢之進の心は晴れず、さらに苦悩する。自分が守って来た非暴力主義はどこへ行ってしまったのか。人間は結局、暴力からは離れられないのだろうか。
深く、暗い森の奥からは、呻き声のようなものがずっと聞こえている。あれは死んで行った人間の恨みか、それとも苦悩し続ける杢之進自身の魂の叫びだろうか。
観終わっても、深く心に残り、さまざまな事を考えさせられる、見事な秀作だった。
これは、世界各地でテロ等の報復の連鎖が続き、そこに強大な軍事力で相手を押さえ込もうとする指導者が次々と現れ、きな臭くなって来た世界、そして着々、軍備を増強し戦える国になって行こうとする今の日本等に対する、塚本監督の痛烈な批判であり切実な訴えでもあるのだろう。
多くの人に観て欲しい、塚本監督渾身の力作である。 (採点=★★★★☆)
(で、お楽しみはココからだ)
実は本作、よく見てみると、随所に黒澤明監督作品「七人の侍」からインスパイアされたと思しきシーンがいくつかある。多分それも狙いだろう。
まずメイン・タイトル。黒地のバックに白文字というシンプルなデザイン。そこに和太鼓の音楽が付けられているが、これからして「七人の侍」の冒頭のタイトルを思わせる。
そして塚本晋也が扮する澤村次郎左衛門の短く刈った坊主頭の風貌は、「七人-」の志村喬扮する島田勘兵衛とそっくりである。
一戦交える為に、腕の立つ侍を集めているという点も共通する。
ご丁寧に、「まだ侍の数が足らないがもう時間がない。やむを得ん、明日出立する」といった感じの、「七人-」で勘兵衛が言ったのとよく似たセリフまで登場する。
百姓なのに、侍のメンバーに加えられる市助は、三船敏郎扮する菊千代に似たキャラクターである。
道の真ん中で腕の立つ侍二人が果たし合いをするシーンもやはり「七人-」に出て来る。ここで果たし合いに勝つ凄腕の侍・久蔵を演じたのは宮口精二。
村の住人をおびやかす無頼の浪人集団は、「七人-」の野伏りを思わせるし、澤村たち侍が村人たちを守ろうとする点も共通する。
ついでながら杢之進たちが京に行く(戦いに行く)前夜、密かに杢之進に思いを寄せるゆうが、板壁の隙間から指を入れ、杢之進と指をからめ合うシーンは、「七人-」で戦いの前夜、愛し合った勝四郎(木村功)と村の娘・志乃(津島恵子)の切ないラブシーンを思い出す。どちらも死地に向かう侍と、村の百姓の娘の恋である。
そう言えば「七人の侍」は、当時(1954年)自衛隊が発足したばかりで、それに引っ掛け、“これは日本の再軍備を容認する作品だ”という批判が起きたのを思い出す。
“軍備を放棄したはずなのに、また戦争が出来る国にするのか”、という声も当時あったようで、今の時代にもまたそんな声が起きている。もしかたら塚本監督、それも考えて「七人の侍」オマージュを入れたのかも知れない。
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