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2019年1月21日 (月)

2018年を振り返る/追悼特集

大変遅くなりました。毎年恒例の映画人の方々の追悼特集・2018年度版が出来上がりましたのでお読みください。

 

本来は昨年末にアップする予定でしたが、私が年末に急遽入院した事でブログも当面休載、やっと体調が回復したのは1月半ばでした。

入院までに8割がた仕上げていた追悼特集ですが、今年もはや1月下旬。今ごろアップするのも遅いし、今回はもうやめようかなとは思いました。

が、どうしても追悼文を書きたい物故者がおられ、悩んだ末に、やはり出すべきだと考え、3日がかりで残りを仕上げました。出し遅れの証文となりましたが、御笑覧ください。

 

ではまず、海外の映画俳優の方々から。

2月9日 ジョン・ギャヴィン氏 享年87歳
アメリカの俳優で、1956年に映画デビュー。デビュー当時は第二のロック・ハドソンと言われた二枚目でしたが、あまり評判にはなりませんでした。そして1960年、ヒッチコック監督の傑作「サイコ」でジャネット・リーの愛人役を演じ、これで一躍有名になりました。最後にノーマン・ベイツを捕まえるおいしい役どころでした。
同じ1960年にはスタンリー・キューブリック監督の大作「スパルタカス」でジュリアス・シーザー役、66年にはジュリー・アンドリュース主演「モダン・ミリー」にも出演しましたが、以後パッとしません。
そんなギャビンに転機が訪れたのは1971年。007シリーズ第7作「ダイヤモンドは永遠に」で三代目ジェームズ・ボンド役のオファーが回って来ました。契約も交わし、さあ撮影開始という時に、ショーン・コネリーがボンド役に復帰し、あえなく降板の憂き目を見ます。不運な方ですね。それ以後はこれといった作品もないまま、1981年に駐在メキシコ大使に任命され、映画界からは引退します。
タラレバになりますが、もしジェームズ・ボンド役が実現していたら、その後の人生も大きく変わったかも知れませんね。惜しい事です。

5月13日 マーゴット・キダーさん 享年69歳
映画ファンとして印象に残っているのは、何といっても1978年に始まるアメコミの大ヒット作「スーパーマン」におけるクラーク・ケントの恋人、ロイス・レイン役ですね。以後「スーパーマン4/最強の敵」 (1987)まで4本のシリーズでロイス役を演じました。後年にはテレビドラマ「ヤング・スーパーマン:シーズン4」(2004)にもゲスト出演してます。
カナダ出身で、映画デビュー作はノーマン・ジュイソン監督「シカゴ・シカゴ」(1969)。73年のブライアン・デ・パルマ監督「悪魔のシスター」の主演で注目されますが、以後もオリビア・ハッセー主演「暗闇にベルが鳴る」、AIP作品「悪魔の棲む家」と、もっぱらホラー映画専門のような感じ。1975年にはなんと『PLAYBOY』誌のグラビアでヌードになった事もあったそうです。そして「スーパーマン」出演で一躍有名に。しかしそれ以外の作品ではやっぱりパッとせず、いつの間にか名前を聞かなくなりました。フィルモグラフィでは一応コンスタントに映画やテレビに出演してるようなのですが、聞いた事のない題名ばかり(おそらくB、C級で日本未公開)。最後の映画出演作も「ハロウィンⅡ」(2009)とこれもホラー映画。
死因は、アルコール及び薬物の過剰摂取による自殺だそうです。なんともやりきれないですね。

5月21日 クリント・ウォーカー氏 享年90歳
1955年に始まるテレビの西部劇「シャイアン」の主演で日本にもなじみ深い役者です。映画でも「死の砦」 (1958)、「イエローストン砦」(1959)、「セブンセントの決闘」(1960)と多くのB級西部劇に出演。1965年には自ら原作を手がけた西部劇「ビッグ・ジム」に主演。しかしその後はいろんな映画に出演したものの話題にならず、'70年以降は再びテレビに戻って、いくつかの西部劇、サスペンス・ドラマに主演しているようです。
まあ、年配の方には、テレビ「シャイアン」で楽しませてもらった人、という所でしょうね。
ただちょっと興味深いのは、1972年のTVムービー「さすらいのガンマン」で、前記のマーゴット・キダーと共演してるのですね。わずか8日違いの死去です。これも何かの縁でしょうか。この作品、見てみたい気がしますね。                              

7月 8日 タブ・ハンター氏 享年86歳
Tabhunter_2経歴が変わってますね。競馬の騎手になりたくて厩舎で働いているところを、ジェームズ・ディーンの代理人にスカウトされ、映画界に入りました。1952年頃より映画に出演していますが、注目されたのはジョン・ウェインと共演した「男の魂」からですね。その後も多くの西部劇、戦争映画、アクション映画に出演。また1957年には歌手として「ヤング・ラヴ」のレコードを吹き込み、これがなんと全米1位を獲得するヒット曲となります。その縁でしょうか、翌58年にはミュージカル「くたばれ!ヤンキース」にも主演。この辺りが彼のピークと言えるでしょう。しかしその後は出演映画もパッとせず、次第に精彩を欠いて行き、脇に回る事が多くなって行きます。'72年のポール・ニューマン主演の西部劇「ロイ・ビーン」では役柄がなんと“ケチな悪党”で、ビーンにあっさりやられてしまいます。そしていつの間にか忘れられてしまいました。残念ですね。

8月16日 アレサ・フランクリンさん 亨年76歳
黒人ソウル・シンガーとして大活躍。ゴスペル風の歌唱力は抜群でしたね。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位に選ばれたほどの偉大なミュージシャンです。で、ここで取り上げたのは、ジョン・ランディス監督の傑作音楽コメディ「ブルース・ブラザース」(1980)でベルーシたちを圧倒する迫力ある歌を披露し、強烈な印象を残したからです。このシーンは今でもYoutubeで見る事ができます。続編「ブルース・ブラザース2000」にも出演してます。あの歌声がもう聴けないと思うと寂しいですね。

8月21日 バーバラ・ハリスさん 享年83歳
印象に残っているのは、ロバート・アルトマン監督「ナッシュビル」(75)に登場する、カントリー歌手を夢見る女性役。ラストで発砲事件が起き、コンサート会場が大混乱になった時、舞台に上がって歌い出したのがバーバラ・ハリスでした。そして何と言っても、ヒッチコック監督の遺作「ファミリー・プロット」(76)における、インチキ霊媒師・ブランチ役ですね。最後に霊感かどうか、見事ダイヤを見つけて、観客にウィンクするエンディングが楽しいですね。他にもいくつかの作品に出ていますが、個人的にはこの2本がお気に入りです。なお'81年には、こちらもヒッチコック映画の常連、ケーリー・グラントと結婚してます。年齢差はなんと47歳でした。

9月6日 バート・レイノルズ氏 亨年82歳
なんとまあ懐かしい。最初にこの人の名前を知ったのは、なんとマカロニ・ウエスタン「さすらいのガンマン」(1966)でした。主人公のナバホ・ジョーを演じてます。監督は「続・荒野の用心棒」他マカロニの大御所セルジオ・コルブッチ。日本でやや知名度が上がったのは、アメリカ製西部劇「100挺のライフル」(69)辺りから。その後72年の87分署もの「複数犯罪」、ジョン・ブアマン監督「脱出」で徐々に人気が高まり、74年のロバート・アルドリッチ監督「ロンゲスト・ヤード」で人気を不動のものにします。以後もハル・ニーダム監督と組んだカー・アクションもの「トランザム7000」(77)、「グレート・スタントマン」(78)、「キャノンボール」(81)とヒット作を連発。マネーメイキング・スターに上り詰めるまでになります。76年の「ゲイター」から監督業にも挑戦。82年に監督した「シャーキーズ・マシーン」では切れのいい演出で監督としても高く評価されました。84年の「シティ・ヒート」ではクリント・イーストウッドとの共演も果たします。
まあここまでは良かったのですが、以後は年齢もあってかこれといった作品はなく、低迷期に入ります。93年の「コップ・アンド・ハーフ」ではとうとうゴールデンラズベリー賞最低主演男優賞(笑)を受賞 してしまいます。それでも、97年のポール・トーマス・アンダーソン監督「ブギーナイツ」でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、演技派としても認められました。
以後も俳優活動は続けますが、テレビドラマや日本未公開作品も多く、いつの間にか忘れられてしまいました。アクション派か演技派か、監督業か、どれかに徹する事が出来なかった点がイーストウッドなどとの違いなのでしょうかね。

10月1日 シャルル・アズナヴール氏 亨年94歳
フランスの代表的なシャンソン歌手で、私も大好きでした。「ラ・ボエーム」「イザベル」などいくつもの名曲があります。しかし一方、映画俳優としても数多くの作品に出演、出演本数は60本にも及ぶそうです。中でも、フランソワ・トリュフォー監督の初期の作品「ピアニストを撃て」は代表作と言えるでしょう。66年の「脱走部隊0013匹」「帰ってきたギャング」などでは、俳優としても渋い演技を披露します。フォルカー・シュレンドルフ監督の傑作「ブリキの太鼓」(79)でもユダヤ人の玩具店オーナーとして名演技を見せています。ただシャンソン歌手として本人役で出演した作品も多く、63年の「アイドルを探せ」は宝石をめぐるドタバタ・コメディですが、シルヴィー・バルタン歌う主題歌をアズナブールが作詞・作曲、その縁でゲスト的に出演しています。役者としても、歌手・作曲家としても、フランスを代表する才人と言えるでしょう。

11月3日 ソンドラ・ロックさん 享年74歳
1968年の「愛すれど心さびしく」で、2,000人の候補者の中からオーディションに合格、孤独な少女役に抜擢されます。これが映画初出演にもかかわらず透明感ある演技が絶賛され、いきなりアカデミー助演女優賞にノミネートされました。その後は役に恵まれず「濡れた欲望」「ウイラード」なんかのB級的作品にも出演しましたが、76年、クリント・イーストウッド監督・主演「アウトロー」でイーストウッドと共演、以後「ガントレット」「ダーティファイター」シリーズ2作、「ブロンコ・ビリー」「ダーティハリー4」と連続共演、私生活でも12年間一緒に暮らしました。86年からは監督業にも進出。ただこれといった代表作はありません。74歳での死去はまだ若いですね。「ブロンコ・ビリー」での名演は忘れられません。

11月11日 ダグラス・レイン氏 亨年90歳
カナダ人俳優。1957年から多くの映画に出演していますが、舞台での活動が主である事もあって、ほとんどが我が国未公開。ために顔もほとんど知られていません。しかし一躍有名になったのが、スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」でコンピュータ・HALの声を担当した事。いかにもコンピュータらしく無機質で不気味な声が忘れられません。続編「2010年」でも続いてHALの声を演じてます。顔も知られておらず、演技も見た事がないのにこんなに有名な俳優、というのも珍しいでしょうね。

          

さて、日本の俳優に移ります。

1月14日 夏木陽介氏 享年81歳
Natsukiyousukeこの人の経歴が面白い、大学の同級生だったホキ徳田の祖母の家に画家の中原淳一が寄宿しており、徳田に誘われ中原が編集者を務めていたひまわり社を見学した際、中原が発行する雑誌「ジュニアそれいゆ」のモデルに抜擢されます。そこから東宝にスカウトされ1958年に東宝入社、「夏木陽介」の芸名も中原さんが命名者だそうです。最初の頃はマイナーな作品が多かったのですが、岡本喜八監督の「暗黒街の顔役」(59)で岡本監督に気に入られたのか、以後岡本監督の「暗黒街」シリーズ、「独立愚連隊」、そこから派生した「-作戦」シリーズに連続出演、青春もの、アクションもの、戦争映画と役柄を広げて行きます。私が印象に残っているのは、黒澤明監督の「用心棒」(61)の冒頭、親の猛反対を押し切ってヤクザの組に入り、ラストでは三十郎がヤクザたちを、夏木一人だけ残して殲滅したあと、三十郎に「おっかあの所へ帰んな!」と一喝され、泣きながら親の元へ走って帰って行くシーンですね。
そして65年、テレビドラマ「青春とはなんだ」で主役の熱血教師を演じ、これが大ヒットして、以降はテレビだけでなく映画でも似たような役柄が多くなって行きました。当たり役に出会うのはいいけれど、役柄が限定されてしまったのが残念ですね。最近までお元気で、先ごろも三船敏郎のドキュメンタリー「MIFUNE:THE LAST SAMURAI」(2016)に出演し、三船さんとの思い出を語っておりました。
フィルモグラフィを辿れば、映画出演作のほとんどが東宝ですし、まさに東宝のカラーにピッタリ合った映画スターだったと言えるでしょう。

1月24日 上月左知子さん 享年87歳
宝塚歌劇出身で、当時の芸名は上月あきら。同期に有馬稲子がいました。1957年に宝塚を退団、以後テレビ、舞台、映画と活躍の幅を広げます。大蔵映画の大作「太平洋戦争と姫ゆり部隊」(62)で共演した南原宏治と結婚しています(後離婚)。映画は数は少ないですが、渋い演技で存在感を示しました。最近も「ふしぎな岬の物語」(2014)、「八重子のハミング」(2016)などで元気な姿を見せていました。

2月10日 川地民夫氏 享年79歳
1960年代の日活映画で、どこか翳りを帯びて鬱屈した怒りをぶつける若者像を演じさせたらこの人の右に出る者はおりません。特に蔵原惟繕監督「狂熱の季節」「黒い太陽」の演技は我々映画ファンを唸らせました。鈴木清順監督「野獣の青春」(63)における、母親の悪口を言われると相手の顔を剃刀でスダレにしてしまう男など、変わった役柄をちゃんと自分の物にしてましたね。他にも「すべてが狂ってる」「ハイティーンやくざ」「花と怒涛」「河内カルメン」「東京流れ者」など、清順映画ではいつも独特の存在感を示しておりました。こうして見れば、主役、準主役級俳優としては清順映画最多出演者ではないでしょうか。日活のポルノ転向で東映に移った後、菅原文太と共演した「まむしの兄弟」シリーズではコミカルなキャラクターを好演、芸域を広げました。

2月21日 大杉 漣氏 享年66歳
Ohsugiren_2言わずと知れた、日本映画、テレビに欠かせない名バイプレイヤーですね。特に1993年「ソナチネ」以降のほとんどの北野武監督作品で常連となり、中でも「HANA-BI」(97)での名演技は絶賛されました。
ただ、一般的にはあまり書かれていませんが、出身はいわゆるピンク映画です。1980年以降、夥しい数のピンク映画に出演、以後87年くらいまでピンク映画一筋。そんな中、異色のピンク映画に主演する事となります。それが「変態家族 兄貴の嫁さん」(1984)。監督は今や日本映画のエース、周防正行。なんと全編小津安二郎映画のオマージュです。冒頭からして松竹マークにそっくりの富士山の絵。そして出て来る出て来る、「晩春」「麦秋」「秋日和」とそっくりなエピソード、カメラアングルも小津的ローアングルと凝りまくってます。さらに主演の大杉さんの役名が間宮周吉(笑)。喋り方まで笠智衆そっくりと、ここまでやってくれたら小津ファンにはたまらないですね。個人的にこれは大杉さんの隠れた代表作だと思っています。
そんなこんなで次第に注目され、東映Vシネマを経由して、「ファンシイ・ダンス」以降の一般映画の周防正行作品の常連となり、北野武作品出演へと繋がって行きます。昨年は「教誨師」でプロデューサー、主演も務め、映画も素敵な出来で、今後さらにどう飛躍するか楽しみだったのに…。あまりの早い死に言葉もありません。本当に惜しい俳優を失いましたね。

2月24日 左とん平氏 亨年80歳
映画に、テレビに幅広く活躍したコメディアン俳優でした。映画ではクレージーキャッツ主演もの、ドリフターズもの、東映の艶笑コメディなどあらゆるジャンルのコメディに出演、貴重なバイプレイヤーでしたね。後年は市川崑監督「吾輩は猫である」(75)における多々良三平役とか、高倉健主演「居酒屋兆治」(83)の神谷役とか、軽妙ながらも重要な役を演じるようにもなります。そして何より圧巻は、今村昌平監督「楢山節考」(83)の利助役ですね。おりん(坂本スミ子)の次男で女運のない利助が、おりんの手助けでおかね(清川虹子)と寝る事が出来て至福感に満たされるシーンは、この作品のもう一つのハイライトですね。これは左さんの代表作ではないかと思います。晩年には「オケ老人!」(2016)でオケ老人の一人を演じ、これも好演でした。多分映画出演としてはこれが遺作ではないかと思います。

4月27日 朝丘雪路さん 亨年82歳
父上は画家の伊東深水氏。今ではテレビタレントの方で有名ですが、1950年代後半から70年代前半にかけて松竹、大映、東映等で多くのプログラム・ピクチャーに出演しています。この時代、印象に残っているのは、石井輝男監督の犯罪サスペンス時代劇「御金蔵破り」(64)において、泥棒の大川橋蔵に濃厚なキスをされてハートを掴まれ、橋蔵の言いなりに行動する事となる大奥中臈役ですね。その他大映では勝新太郎との共演が多く、なんとも言えない色気をふりまいておりました。後年はテレビ出演が多く、映画出演がぐっと減ってしまったのは残念でした。晩年には夫・津川雅彦がマキノ雅彦名義で監督した「次郎長三国志」(2008)出演しており、俳優としての映画出演はこれが最後だったようです。       

5月16日 星由里子さん 亨年74歳
この方も東宝のカラーに合った青春スターでしたね。代表作というか当り役は何と言っても、デビュー2年目の1961年に始まる加山雄三主演の「若大将」シリーズにおける恋のお相手・澄子さん役ですね。出演は68年の「リオの若大将」まで7年間11本に及びました。ジャンルとしては青春もの、女性映画、アクション、戦争もの、時代劇、そして「モスラ対ゴジラ」(64)、「三大怪獣 地球最大の決戦」といった怪獣もの、特撮ものでは世界の終末を描いた「世界大戦争」(61)に至るまで、実に多岐に亘っています。その中で秀作と呼べるのは、豊田四郎監督「千曲川絶唱」くらいでしょうか。これも「絶唱」シリーズとしていくつか姉妹編が作られますが、1作ごとにレベルが低下して行きます。華のあるいい女優さんなのに、便利屋的に使われてしまった為、最期まで映画賞に無縁だったのが残念でしたね。74歳はお若いです。      

5月16日 西城秀樹氏 亨年63歳
言うまでもなく、「ヤングマン」他のヒットで知られる歌手ですが、映画にも結構出演しています。印象に残ったのは、山根成之監督「愛と誠」(74)における主人公太賀誠役ですね。同じく山根監督作「おれの行く道」(75)も良かったです。共演が映画史に残る名女優・田中絹代というのも今から見ればスゴい事です。86年には刑事アクション「傷だらけの勲章」(斎藤光正監督)において主役の刑事役、91年にはVシネマ「ザ・ヒットマン/血はバラの匂い」(石井輝男監督)でハードボイルド・アクションヒーローをそれぞれ好演しました。こうした映画俳優としての活躍が、訃報でほとんど語られなかったのは残念ですね。それにしても63歳の逝去は若過ぎましたね。

6月18日 加藤剛氏 亨年80歳
代表作はたくさんありますね。映画で注目したのは、三船敏郎主演「上意討ち  -拝領妻始末-」(1967)における、三船の息子役ですね。次にいいなと思ったのは松本清張原作「影の車」(70)で、岩下志麻との不純の愛に溺れて行くサラリーマン役です。岩下の息子の目に殺意を感じ恐怖におののく演技は真に迫っておりました。また、72年の熊井啓監督の傑作「忍ぶ川」での栗原小巻とのラブシーンは映画史に残る名演でした。そして74年の「砂の器」における和賀英良役へと至るわけです。
ただし、70年に始まるテレビ「大岡越前」が当たった事で、以降は大岡越前をライフワークとして、70年から30年もの間越前を演じ続け、映画出演はぐっと少なくなります。まあ元々テレビドラマ「人間の條件」(1962」が出世作だし、「三匹の侍」にも丹波哲郎の後を継いで出演してますし。
それでも、80年代は「父よ母よ!」「この子を残して」「新・喜びも悲しみも幾歳月」の木下恵介作品3本、2001年には「伊能忠敬 子午線の夢」で主演と、少ないながらいい映画に出演され、近年では2013年の「舟を編む」における辞書編纂人役で、渋くて円熟味ある演技を見せてくれました。

6月26日 名和宏氏 亨年85歳
1954年の映画デビュー以来、数多くの映画に出演、名脇役として活躍されました。そんな中、1956年の「地底の歌」(野口博志監督)では珍しく主役を演じてます。これは後に鈴木清順監督「関東無宿」としてリメイクされました。名和さんの演じた鶴田役をここでは小林旭が演じてます。'60年代以降は大映、東映、日活と各社を股にかけて活躍。中でも、68年の東映任侠映画の傑作「博奕打ち 総長賭博」における石戸役は印象に残ります。あとケッサクなのが鈴木則文監督の艶笑コメディ時代劇「徳川セックス禁止令 色情大名」(72)。女嫌いの大名(名和宏)がフランス娘サンドラ・ジュリアンのセックス・テクニックにメロメロ、「こんなイイ事を庶民が同じようにするのはケシカラン」とセックス禁止令を発令するというお話が笑えます。この2本が名和さんの代表作と言えるでしょう。コメディからシリアス、アクションまで、本当に幅の広い、いい役者でしたね。

7月14日 三上真一郎氏 亨年77歳
前述の「博奕打ち 総長賭博」で、若山富三郎の忠実な手下を演じていたのが三上さん。雨の墓場で鶴田浩二の前で泣き崩れるシーンが印象的でした。同作で好演したお二人が相次いで亡くなられたわけですね。その三上さんのもう一つの代表作が小津安二郎監督の遺作「秋刀魚の味」(62)。岩下志麻の弟役を伸び伸びと好演。小津監督の前作「秋日和」にも出演してます。後に三上さんは小津監督との交流をまとめたエッセイ「巨匠とチンピラ―小津安二郎との日々」を刊行しました。小津監督がもう少し長生きしておれば、小津映画の常連俳優として活躍されたかも知れませんね。惜しいです。

7月15日 生田悦子さん 亨年71歳
1966年、松竹映画「命果てる日まで」で映画デビュー。いくつかの松竹女性映画に出演しました。ただその後、松竹が「男はつらいよ」の大ヒットもあって喜劇路線に転換、次第に出演作が少なくなります。生田さん自身も野村芳太郎監督の「コント55号」シリーズ等のコメディに出演するハメに。72年以降は松竹を退社、東映作品にも出演したりします。以後はテレビ出演が多くなり、映画はご無沙汰。しばらく姿を見ないなと思っていたら、2009年、なんと井口昇監督の脱力ハチャメチャSFコメディ「ロボゲイシャ」で、悪の組織に娘たちを拉致された家族会のリーダーの老女役を演じていました。これが映画としての遺作となりました。

7月18日 常田富士男氏 亨年81歳
1958年頃よりテレビドラマに出演、61年頃からは映画と、それぞれ数多くの作品で脇役を演じ続けました。テレビで印象に残っているのはNHKドラマ「文五捕物絵図」(67)の矢七役、映画では黒澤明監督「赤ひげ」での地回りヤクザ役が記憶に残ります。あと高林陽一監督「本陣殺人事件」(75)での事件のカギを握る三本指の男役も忘れ難いですね。面白いのは市川崑監督に気に入られ、「股旅」、金田一耕助シリーズ「悪魔の手毬唄」「女王蜂」「病院坂の首縊りの家」、山口百恵主演「古都」(80)、「幸福」(81)、「細雪」(83)、「おはん」(84)と後年の市川監督作品の多くに出演しました。テレビ「まんが日本昔ばなし」の声優・ナレーションも良かったです。飄々とした持ち味の、いい役者でしたね。

8月4日 津川雅彦氏 亨年78歳
祖父は日本映画創世記の偉人・牧野省三、父は澤村国太郎、兄は長門裕之、そして妻は4月に亡くなられた朝丘雪路とまさに錚々たる芸能一家。映画初出演はなんと7歳の時のバンツマ主演「狐の呉れた赤ん坊」(1945)。当時の芸名は澤村マサヒコ。ついでながら兄の長門裕之も同じバンツマ主演の「無法松の一生」に子役で出演してるのも奇遇ですね。以後も多くの映画で子役として活躍。印象に残っているのは溝口健二監督の秀作「山椒太夫」(54)での厨子王役ですね。
一躍脚光を浴びたのが、56年の石原裕次郎主演「狂った果実」(中平康監督)の裕次郎の弟役。以後の活躍はご存知の通り。個人的に印象深いのが加藤泰監督の傑作「明治侠客伝 三代目襲名」(65)の二代目のボンボン息子役ですね。後年はマキノ雅彦名義で映画監督にも進出。そのデビュー作「寝ずの番」(2006)は当ブログ開設後、最初に取り上げた作品でして、特に印象深いです。最愛の妻、朝丘雪路さんの後を追うように亡くなられたのが悲しいですね。お疲れさまでした。

8月10日 菅井きんさん 亨年92歳
お名前もお顔も、まさに名もなき一般庶民を代表するような名優でしたね。最初はお役所勤めでしたが、演劇への夢断ち難く、俳優座に入団しました。後に父親に「本格的に女優になりたい」と相談した所、「女優とは美しい女性がなるものだ」と反対されたそうです(気持ちは分かりますが)。でもその時の悔しい気持ちが女優としての向上心に繋がったのかも知れません。映画デビューは1951年ですが、さっそくその翌年、黒澤明監督の名作「生きる」で、ドブ川改修の陳情に市役所を訪れる主婦の一人に抜擢されます。以後も黒澤作品にはたびたび出演しています。そしてこの方を意識した最初の作品が、1954年のSF映画の金字塔「ゴジラ」における、国会で声高に発言する代議士役ですね。結構目立っておりました。以後も数多くの映画で助演、徐々に存在感を高めて行きます。黒澤作品では、「天国と地獄」の麻薬患者、「赤ひげ」では長坊の母親などが印象に残りますね。心に響いたのが伊丹十三の監督デビュー作「お葬式」(84)の故人の妻役で、ラストで訥々と謝辞を述べるシーンはジーンと来ましたね。73年以降、テレビの「必殺仕置人」における、中村主水(藤田まこと)を「ムコ殿!」とネチネチいびる姑・せん役が当たり役となって、以後ずっと必殺シリーズで同じ役を演じる事になったのが、良かったのかどうか。
2008年に公開された「ぼくのおばあちゃん」で、82歳にして映画で初めて主役を務め、これは当時世界最高齢映画主演女優としてギネスに認定されています。 本当に、日本映画を縁の下で支えた、素晴らしい女優だったと思います。

9月15日 樹木希林さん 亨年75歳
何も言う事はありません。晩年、全身ガンに冒されながらも、数多くの映画に出演、存在感を示した事は敬服に値します。当初は「悠木千帆」名義で、1966年頃から映画にも数多く出演。印象に残っているのは、森崎東監督「男はつらいよ フーテンの寅」(70)の 旅館の女中役ですね。77年からは樹木希林に改名。貴重な脇役として活躍されてますが、転機となったのが2007年の「東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜」。この作品で樹木さんはオカン役で名演技を見せ、以後は存在感ある演技派女優として多くの名作、秀作に出演する事となります。私が大好きなのは、河瀬直美監督の秀作「あん」(2015)における主人公・徳江役です。これこそ樹木さんの主演にして最高作と断言いたします。後年は是枝裕和監督作品の常連となり、「万引き家族」がその集大成と言えるのではないでしょうか。本当に素晴らしい女優だったと思います

9月19日 秋山道男氏 亨年69歳
昨年公開の「止められるか、俺たちを」で、吉積めぐみを若松プロに誘った男として登場していたので、これで名前を知った方も多いでしょうね。
若松プロに入社後、若松孝二監督の多くのピンク映画にほぼ常連として出演。当時は秋山未知汚、または秋山ミチヲ名義でクレジットされています。役者以外に、脚本、音楽、ポスター制作、助監督としても活躍、初期の若松プロを支えました。秋山さんが作曲した「ここは静かな最前線」(作詞:足立正生)は若松監督「天使の恍惚」の主題歌になりました。その後若松プロを離れ、テレビ、雑誌等で放送作家、作詞、作曲、本の装丁、雑誌編集、無印良品のプロデューサーと実に多彩なマルチ・クリエイターぶりを発揮。後年にはシネマ・プラセットを立ち上げた荒戸源次郎の片腕として多くの作品のプロデューサーを務め、役者としても出演しました。若松プロダクションを語る上で、忘れてはならない方でした。「止められるか、俺たちを」公開と同じ年に亡くなられたのも何かの縁でしょうか。             

10月19日 穂積隆信氏 亨年87歳
「積木くずし」騒動など、映画出演とは関係ない所で騒がれましたが、演技者としてもいいお仕事されてます。俳優座養成所卒業後、1953年の今井正監督「ひめゆりの塔」で映画デビュー。以後松竹、日活を中心に多くの映画で味のある脇役を演じ続けました。ちょっと意地の悪い役や悪役もこなしました。私が印象深いのは、山田洋次監督「いいかげん馬鹿」で、主人公ハナ肇が島に連れて来るうさん臭い作家に随行する釣り人役ですね。山田監督作品には、監督デビュー作「二階の他人」以来、「馬鹿が戦車でやって来る」「霧の旗」「なつかしい風来坊」と連続出演、「男はつらいよ」にも2本出ています。監督に気に入られていたようですね。2013年の「ペコロスの母に会いに行く」(森﨑東監督)が遺作のようです。

10月27日 江波杏子さん 亨年76歳
1959年に大映入社。しばらくはあまり目立たない助演が続きます。1966年4月には怪獣映画「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」にニューギニアの現地娘役で出演したりもします。ところが同年11月、若尾文子主演で企画された「女の賭場」の撮影直前、若尾が自宅で怪我して出演不能となり、急遽江波さんが代役で主演する事になります。初の主演です。クールな江波さんの雰囲気が作品にマッチした事もあってか映画は成功を収め、以後「女賭博師」は江波さんの当たり役となって全17作も作られるヒット・シリーズとなります。またこのシリーズに刺激されて、68年には東映で藤純子主演の女博徒もの「緋牡丹博徒」が企画され、こちらも大ヒット・シリーズとなりました。江波さんの活躍は、任侠映画の歴史をも大きく動かしたと言えます。
大映倒産後はフリーとなり、73年に主演した「津軽じょんがら節」(齋藤耕一監督)が映画賞を総ナメ、江波さんもキネマ旬報主演女優賞を受賞、演技派として高く評価されました。それにしても、もし若尾文子が怪我しなかったら、と思うと、運命の不思議さを感じてしまいますね。遺作は昨年公開の「娼年」でした。

11月29日 赤木春恵さん 亨年94歳
映画デビューは1940年というから長い俳優歴ですね。戦後は大映、東映などで数多くの作品に出演しています。一つだけ特筆しておきます。2013年、89歳にして映画「ペコロスの母に会いに行く」に初主演。これがキネマ旬報ベストワンに選ばれ、赤木さんも毎日映画コンクールの女優主演賞を獲得します。さらに世界最高齢の映画主演女優として、前述の菅井きんさんの記録を塗り替えるギネス認定記録を達成しました。その菅井さんと同じ年に亡くなられたというのも、不思議な縁を感じますね。

12月19日 石橋雅史氏 享年85歳
Ishibashimasashi忘れられないのは、ブルース・リー登場で日本でもカンフー・ブームが起きた時、目ざとい東映が早速千葉真一や志穂美悦子主演でいくつかのカラテ映画を作り、それらの多くに凄みのある敵役の拳法の達人として出演していた事ですね。千葉チャン主演の「激突!殺人拳」(74)、「殺人拳2」(74)、「けんか空手 極真拳」(75)シリーズ、悦ちゃん主演の「女必殺拳」(74)シリーズ、「華麗なる追跡」(75)など、カラテ映画の悪役、と言えば真っ先に石橋さんの顔が浮かびます。カンフー・ブームが下火になると東映の子供向け“戦隊”シリーズでも悪役として活躍しました。後年はVシネマ出演が多くなって行きますが、日本映画で石橋さんの個性を生かすようなコテコテのB級アクション映画が作られなくなってしまったのが残念ですね。               

 

さて、ここからは映画監督の部です。まず外国勢から。

2月23日 ルイス・ギルバート氏 亨年97歳
イギリス出身で、初期の頃は戦争映画、あるいは終戦直後を舞台にした作品が多いですね。その中で、64年の「第七の暁」は丹波哲郎がウィリアム・ホールデンと共演した異色作です。注目されたのが、マイケル・ケイン主演の「アルフィー」(66)で、これでカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞しました。その翌年には007シリーズ第5作で日本を舞台とした「007は二度死ぬ」を監督。忍者も登場する珍品でしたが、その10年後に再び007シリーズ、「007/私を愛したスパイ」を監督し、これは過去の作品を巧みにアレンジ(と言うかパロディ化)した集大成的作品となって大ヒット、余勢を買って続く「007/ムーンレイカー」も監督しました。それら以外では70年の「フレンズ/ポールとミシェル」も高い評価を受けました。それにしても、「アルフィー」や「フレンズ」のような地味な秀作から007のような荒唐無稽アクションまで、その守備範囲の広さには驚かされます。

4月13日 ミロス・フォアマン氏 亨年85歳
チェコスロヴァキア出身で、チェコの映画界で活躍していましたが、1968年の、いわゆる“プラハの春”事件をを機にアメリカに渡ります。75年の「カッコーの巣の上で」でアカデミー賞とゴールデングローヴ賞の監督賞を受賞、一躍一流監督の仲間入り。以後「ヘアー」(79)、「アマデウス」(84、アカデミー賞8部門受賞)等の傑作を連発、押しも押されもせぬハリウッドの巨匠となりました。ただその後はあんまり印象に残る作品はないのですね。99年の「マン・オン・ザ・ムーン」はなかなかの力作でしたが、フォアマンより、主演のジム・キャリーの名前で有名というのが残念です。「アマデウス」がピークだったという事でしょうかね。

4月15日  ヴィットリオ・タヴィアーニ氏 亨年88歳
弟のパオロとのコンビで、タヴィアーニ兄弟として多くの映画を共同で脚本・監督しました。代表作は「父/パードレ・パドローネ」(77)、「サン★ロレンツォの夜」(82)、「グッドモーニング・バビロン!」(87、キネマ旬報ベストワン)など。どれも見応えある秀作でした。近年も2012年に本物の囚人を使って刑務所の中でシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」を演じさせた異色作「塀の中のジュリアス・シーザー」を作り上げ、存在感を示しました。

4月25日 マイケル・アンダーソン氏 亨年98歳
イギリス出身で、オールスター総出演の大作「八十日間世界一周」(1956)を監督した事で有名です。ただ、それ以外の作品と言うと、日本でロケした日米合作「あしやからの飛行」(64)、スパイ・サスペンス「さらばベルリンの灯」(66)、無敵のスーパー・ヒーロー・アクションもの「ドク・サベージの大冒険」(75)、未来社会が舞台のSF「2300年未来への旅」(76)、タイムパラドックスを扱った異色のSF「ミレニアム/1000年紀」(89)と、幅広いジャンルの作品を手掛けています(悪く言えば取り留めがない)。そんなアンダーソン監督の、隠れた代表作が「生きていた男」(58)。最後にあっと驚くオチがあり、ミステリー・マニアの間で人気が高い秀作です。

4月26日 ジャンフランコ・パロリーニ氏 93歳
別名フランク・クレイマー。イタリアの映画監督。史劇アクション、スパイ・アクションなどいろんな作品を監督しています。マカロニ・ウエスタンが全盛となった頃、戦争映画なのにウエスタン臭ふんぷんの珍作「戦場のガンマン」(68)をフランク・クレイマー名義で監督、そしてイーストウッド主演「夕陽のガンマン」シリーズで有名になったリー・ヴァン・クリーフを主演にした“サバタ”シリーズ、「西部悪人伝」(70)、「大西部無頼列伝」(71・これのみユル・ブリナー主演)「西部決闘史」(72)を連打、娯楽色満載で大ヒット・シリーズとなります。脚本家出身でほとんどの監督作の脚本も書いており、後年には「カリギュラ III」(84)の脚本も書きました。やや翳りの見えたマカロニ・ウエスタンを70年代以降盛り上げた功労者と言えるでしょうね。

5月7日 エルマンノ・オルミ氏 亨年87歳
イタリアの映画監督。代表作は何と言っても「木靴の樹」(78)ですね。3時間を超える大作ですが、イタリアン・ネオリアリズムの伝統を引き継ぐ見事な秀作でした。ルトガー・ハウアー主演の「聖なる酔っぱらいの伝説」(88、ヴェネチア映画祭金獅子賞受賞)も良かったですね。

11月26日 ベルナルド・ベルトルッチ氏 享年77歳
言わずと知れた、「ラストタンゴ・イン・パリ」「ラストエンペラー」などで有名なイタリア映画の巨匠です。経歴が面白い。15歳で既に詩や小説を書いて、いくつかの文学賞を受賞するという早熟ぶり。 ローマ大学在学中の1961年に、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「アッカトーネ」の助監督を務め、62年にはパゾリーニの原案を元に長編映画「殺し」で監督デビュー。この時21歳!というから驚きです。70年には29歳で「暗殺の森」を監督、全米映画批評家協会賞監督賞を受賞します。72年、「ラストタンゴ・イン・パリ」の際どい性描写で物議を醸しますが、これでアカデミー監督賞にノミネート。76年には上映時間5時間16分という「1900年」を監督、そして87年、「ラストエンペラー」がアカデミー作品賞、監督賞などノミネートされた9部門すべてを受賞する快挙を成し遂げます。ちなみにこれはアメリカ資本以外の作品としては最多受賞記録。―と常に映画界にセンセーションを巻き起こして来た鬼才・天才監督だったと言えるでしょう。
以降も「シェルタリング・スカイ」(90年)、「リトル・ブッダ」(93年)、「シャンドライの恋」(98)と力作を発表し続けます。後年はややパワーが落ちて来た気もしますが、映画史に残る名監督だったと言えるでしょう。          

12月17日 ペニー・マーシャルさん 享年75歳
女優出身で、兄は「プリティ・ウーマン」等のゲイリー・マーシャル。主演したテレビドラマの監督を務めた事がきっかけで、86年監督デビュー。少年が突然大人になってしまうトム・ハンクス主演のファンタジー「ビッグ」(88)で注目され、90年のロバート・デ・ニーロ、ロビン・ウィリアムズ主演「レナードの朝」が絶賛され、一流監督の仲間入りを果たします。私のお気に入りは、世界初の女性プロ野球選手を主人公にした実話もの「プリティ・リーグ」(92)ですね。

 

さて、日本の監督に移ります。                                              

1月27日 沢島忠氏 亨年91歳
Sawajimatadashi大好きな監督です。1950年、東映の前身、東横映画に入社、57年監督に昇進してからは、中村錦之助、美空ひばりらを主演に据えた、明朗でスピーディかつコミカル、時にはミュージカル・タッチの奇想天外な時代劇を多く監督し、映画ファンを喜ばせました。特にひばり主演作は、時代劇なのに現代風俗を取り入れたり、その中でもひばりと江利チエミが共演した「ひばり・チエミの弥次喜多道中」(62)はカラフルかつ現代的なセットをバックに二人が歌い踊る、まるでMGMミュージカルのような作品になっておりました。時代劇でも、ここまでやっていいんだという一つの革命をもたらしたと言えるでしょう。
Tonosamayajikitatorimonoまた錦之助と中村賀津雄兄弟共演の「殿様弥次喜多」シリーズもコミカルな要素が強く、中でも「殿様弥次喜多・捕物道中」ではラスト、帆船の上で大立回りを繰り広げるうち船がどんどん破壊され、最後にはイカダみたいな板一枚で二人が漂流するという、まるでマルクス兄弟作品のようなナンセンスぶりに大笑いしました。時代劇が興行的に低迷し出した63年には本格任侠映画の第1弾と言われる「人生劇場・飛車角」を監督、これが大ヒットして以後東映は任侠路線を突っ走ります。ただ個人的にはこれは会社に頼まれ撮っただけの作品だと思っています。それでもきちんとまとまった水準作になっているのはさすがですが。
その沢島さんらしい、最後の傑作はなんといっても65年の「股旅/三人やくざ」ですね。オムニバス形式で3つのエピソードが描かれますが、第1章(仲代達矢主演)がクールなハードボイルド・タッチ、第2章は松方弘樹、志村喬主演の人情ドラマ、第3章は中村錦之助主演の風刺の効いたコメディ…とそれぞれまったくジャンルが違うのがユニークです。中でも第3章は、腕はからきしだけど気のいい旅鴉(錦之助)が行き掛かりで村人から悪代官退治を頼まれ、相手が強そうなので夜逃げしようとしたら罠にかかった狸と鉢合わせして派手な音を出してしまい、仕方なく「タヌキが取れたよぉ~」と情けない声を出すシーンが抱腹絶倒でした。ラストシーン(村の娘が追って来るのをやり過ごした錦之助がポンと笠を放り投げる)は錦之助の秀作「関の彌太っぺ」のパロディ?。これは沢島監督の最高傑作と言っていいでしょう。本当に我々を腹の底から楽しませてくれた、名匠だったと思います。

4月5日 高畑勲氏 亨年82歳
追悼記事掲載済。

10月4日 古川卓己氏 亨年101歳
この方の功績は何と言っても、石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」(56)を監督し、大ヒットさせたばかりかチョイ役で石原裕次郎を俳優デビューさせた事ですね。このヒットのおかげで日活は赤字から脱却、それまでの文芸路線から大転換、裕次郎を中心にしたアクション路線に舵を切らせた点でも映画史に残る作品だったと言えるでしょう。以後も太陽族映画「逆光線」(56)、裕次郎主演の戦争映画「人間魚雷出撃す」(56)、その他アクション、サスペンスものなど、コンスタントに監督作を発表しますが、監督としての個性はあまり発揮出来なかったように思います。そんな中、64年に監督した宍戸錠主演「拳銃残酷物語」は、大藪春彦原作と言う事もあってか、ハードボイルド、フィルムノワール・タッチのなかなか面白い作品になってました。競馬場の売上金を狙う犯罪サスペンスで、ちょっとキューブリック監督の佳作「現金に体を張れ」を思わせます。67年からは香港に招かれ、2本の香港映画を監督しています。なおallcinemaのプロフィルで生年月日が1971年となっているのは1917年の誤り。

                      

さて、ここからはその他の方々です。   

1月7日 貝山知弘氏 (映画製作者) 亨年84歳
東宝のプロデューサーとして、64年から77年にかけて多くの作品を手掛けました。個人的に評価しているのは、68年の加山雄三主演「狙撃」以来、「弾痕」(69)、「薔薇の標的」(72)と続くハードボイルド三部作、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(70)、「白鳥の歌なんか聞こえない」(72) などのナイーブな青春映画を製作し、いわゆる東宝ニューシネマ路線を牽引した事ですね。どれも好きな作品ばかりです。後にはオーディオ評論家になったというのがまたユニークですね。

4月1日 スティーヴン・ボチコー氏 (脚本家、製作者) 亨年74歳
テレビ畑の人ですが、特筆しておきたいのは、1971年に始まったピーター・フォーク主演のTVドラマ「刑事コロンボ」シリーズの初期の傑作シナリオを手掛けている点ですね。スティーヴン・スピルバーグが監督した実質第1作「構想の死角」を皮切りに、「もうひとつの鍵」「パイルD-3の壁」(フォークが監督も兼任)、「二つの顔」「黒のエチュード」「愛情の計算」と傑作揃いです。「刑事コロンボ」を人気シリーズに育てた功労者と言えるでしょう。また映画ではSFXの第一人者、ダグラス・トランブルの初監督作「サイレント・ランニング」(72)の脚本も書いています。

4月30日 木下忠司氏 (作曲家) 亨年102歳
名匠木下恵介監督の弟で、お兄さんの監督作品のほぼ全てで音楽を担当しています。戦後の「わが恋せし乙女」に始まり、「破戒」「お嬢さん乾杯」「破れ太鼓」「カルメン故郷に帰る」「女の園」「二十四の瞳」「野菊のごとき君なりき」「喜びも悲しみも幾歳月」「笛吹川」、後年の「衝動殺人 息子よ」「この子を残して」、そして兄の遺作「父」(88)に至るまで、木下恵介監督の映画史に残る傑作に参加し、木下監督を陰から支え続けました。「破れ太鼓」ではバンツマの次男役で映画出演もしています。また忠司さんが作詞・作曲した「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌(歌:若山彰)は今なお私のカラオケの定番です(笑)。
木下作品以外でも、監督の弟子、小林正樹監督作(「壁あつき部屋」「あなた買います」「人間の條件」6部作、他)、山田洋次監督「なつかしい風来坊」(66)、そして、東映の股旅映画の秀作「瞼の母」(62・加藤泰監督)、「関の彌太ッぺ」(63・山下耕作監督)、任侠映画「日本侠客伝 花と龍」(69)、「日本女侠伝 侠客芸者」(69)、秀作「博奕打ち いのち札」(71)、等々、実に多彩な活動ぶりです。テレビでも「木下恵介劇場」シリーズ、渥美清主演「泣いてたまるか」、そして長寿番組「水戸黄門」と、こちらも大活躍。本当に永年、お疲れさまでしたと言いたいですね。

5月2日 井上堯之氏 (作曲家) 亨年77歳
元スパイダースのギタリストで、解散後は多くの映画で音楽を担当しています。主なものを挙げると、ショーケン主演「青春の蹉跌」(74)、「アフリカの光」(75)、沢田研二主演「炎の肖像」(74)、「太陽を盗んだ男」(79)、テレビでも「傷だらけの天使」「悪魔のようなあいつ」「前略おふくろ様」など、元GS仲間の主演作が目立ちます。その他でもいろんな映画で音楽を担当、「遠雷」(81)、「居酒屋兆治」(83)、「火宅の人」 (1986)などがあります。
意外な所では、役者としても活躍。特に2004年の佐々部清監督の佳作「カーテンコール」での、下関の映画館で昔幕間芸人をしていた男の、晩年の老人役は渋い名演でした。2006年には中国映画「呉清源 極みの棋譜」(ティエン・チュアンチュアン監督)で本因坊秀哉役を演じています。

5月23日 たむらまさき氏 (カメラマン) 亨年79歳
本名は田村正毅。最近まではこの名前でクレジットされていました。小川伸介率いる小川プロで、小川監督のドキュメンタリー作品の撮影を一手に引き受けていました。「日本解放戦線 三里塚の夏」(68)に始まる「三里塚」シリーズ、飛んで82年の「ニッポン国 古屋敷村」など、小川プロ作品を支えた功績は大です。73年の小川プロ出身の東陽一監督作「日本妖怪伝 サトリ」からは商業映画にも進出、東宝作品「修羅雪姫」(73)、黒木和雄監督のATG作品「竜馬暗殺」(74)を経て、柳町光男監督「さらば愛しき大地」(82)と、力作、秀作が多くあります。メジャー会社の作品もありますが、基本的には独立プロ製作を中心としたマイナーな作品で活躍されました。近年の代表作は、「EUREKA ユリイカ」 (2000)「サッド ヴァケイション」(2007)等の青山真治監督作、黒木和雄監督「美しい夏キリシマ」(2002)などがあります。また2014年の「ドライブイン蒲生」では監督業にも進出しました。

7月19日 橋本忍氏 (脚本家) 亨年100歳
追悼記事掲載済。         

8月26日 ニール・サイモン氏 (劇作家・脚本家) 亨年91歳
ブロードウェイで永く活躍した劇作家です。また並行して映画の脚本も手掛け、代表作に舞台劇の映画化「裸足で散歩」、映画も大ヒットした「おかしな二人」があります。映画オリジナルの脚本も多く手掛け、「名探偵登場」(76)、「グッバイ・ガール」(77)、「第2章」(79)などは楽しませていただきました。日本でもニール・サイモン作品は多く舞台劇化されています。ブロードウェイの劇作家としては、日本でも一番親しまれた方ではないでしょうか。

9月11日 小藤田千栄子さん (映画・演劇評論家) 亨年79歳
キネマ旬報で長く編集者として活躍、フリーになってからも映画、舞台の評論を多く書き、著書も多数。特に川本三郎さんとは「女優グラフィティ」など、いくつかの共著があります。ブロードウェイの舞台劇にも詳しく、キネマ旬報等にもそれらに関する連載記事が掲載されたり、「ミュージカル・コレクション」「舞台裏のスターたち―舞台創りのクリエーター20人」などの著書があります。映画批評もよく読ませていただきました。

9月23日 ゲイリー・カーツ氏 (映画製作者) 亨年78歳
「スター・ウォーズ」ファンならよくご存じ、シリーズ第1、2作「スター・ウォーズ・エピソードⅣ/新たなる希望」「同・エピソードⅤ/帝国の逆襲」のプロデューサーとして有名ですね。
映画人を多く輩出した南カリフォルニア大学卒業後、B級映画の帝王、ロジャー・コーマンの元で数十本の映画の製作に参加し、録音、カメラ、編集、特殊効果と様々な仕事を学びます。一時徴兵されてベトナム戦争に従軍しますが、除隊後、映画プロデューサーを志望して、コーマン門下生のモンテ・ヘルマン監督の「断絶」(71)の製作にかかわっている時に、やはりコーマン門下生のフランシス・フォード・コッポラに技術面での助言を求めに行った際、ジョージ・ルーカスを紹介され、意気投合。ルーカスとともにルーカスフィルムを創設し、「アメリカン・グラフィティ」をコッポラと共同で製作、「スター・ウォーズ」に至るわけです。この方も、ロジャー・コーマン門下生という訳ですね。ただし、「帝国の逆襲」の製作予算がオーバーした為ルーカスと衝突、ルーカスの元を離れて独立し、フランク・オズ監督の「ダーククリスタル」等を手掛けますが、興行的に大赤字を出して破産の憂き目に会ってしまったのは気の毒ですね。まあ「スター・ウォーズ」のプロデューサーとして映画史に名を遺しただけでも良しとすべきでしょうね。
   
9月27日 小野竜之助氏 (脚本家) 亨年84歳
東映でずっと活躍された名シナリオ・ライターです。代表作は1963年の加藤泰監督のカルト的傑作「真田風雲録」、そして75年の佐藤純彌監督のパニック映画の傑作「新幹線大爆破」でしょう。これら以外は梅宮辰夫主演の「夜の帝王」シリーズなど、東映のプログラム・ピクチャーを数多く書いていますが、この2本を残された事で、私にとっては忘れられない脚本家の一人になっております。    

10月18日 長部日出雄氏 (小説家・評論家) 亨年84歳
直木賞を受賞した「津軽じょんから節」、芸術選奨文部大臣賞を受賞「鬼が来た-棟方志功伝」などで知られていますので、小説家、エッセイストと思っている方もいるでしょうが、元々は「週刊読売」記者出身の映画評論家です。「週刊読売」、「映画評論」誌、「キネマ旬報」誌などに多くの映画評を書き、その鋭く、的確な批評にはいつも感心しておりました。中でも大島渚監督については早くから評価、大島渚を中心とする松竹の若手監督たちの作品群を“松竹ヌーベルバーグ”と命名したのも長部さんでした。また雑誌「オール読物」誌に長期連載された映画に関する批評、エッセイ「紙ヒコーキ通信」は2014年まで続きました。89年には自身の小説「夢の祭り」を、自分で脚本化し、なんと監督までやってしまいます。近年では木下恵介に関する膨大な評論、「天才監督・木下恵介」を上梓、これは読み応えがありました。映画評論家出身で、これほどマルチな活躍をされた方も珍しいでしょうね。

10月28日 吉田貞次氏 (撮影監督) 亨年100歳
東映生え抜きの名カメラマンです。昭和30年代初頭の「霧の小次郎」「紅孔雀」「怪傑黒頭巾」等の少年向け時代劇から、内田吐夢監督「血槍富士」、同監督・中村錦之助主演「宮本武蔵」まで、あらゆるジャンルの東映時代劇の撮影を担当しました。任侠映画時代になると、高倉健主演「日本侠客伝」シリーズ(3本)、鶴田浩二主演「博奕打ち いのち札」等の任侠映画の名作まで、まさに東映京都撮影所の歴史と共に歩んで来た職人と言えるでしょう。そして極め付きが、あの深作欣二監督の代表作「仁義なき戦い」全5部作へと至るわけです。手持ちカメラ、増感現像によるザラついたドキュメンタルな映像と、深作監督の意図を理解した吉田さんの撮影技術は作品の成功に大いに貢献しました。監督・深作、脚本・笠原和夫と並んで「仁義なき戦い」を語る上で忘れてはならない方だと思います。

11月2日 レイモンド・チョウ氏 (映画製作者) 亨年91歳
香港映画を代表する名プロデューサーです。最初は新聞記者でしたが、1950年、香港最大の映画会社ショウ・ブラザーズに入社、宣伝部を経て製作本部長を務めますが、70年にショウ・ブラザーズのスターだったジミー・ウォングらと共に同社を退社しゴールデン・ハーベスト社を設立します。そしてジミー・ウォング主演の「片腕ドラゴン」を大ヒットさせ、カンフー映画ブームの下地を築きます。次にはハリウッドでくさっていたブルース・リーを香港に呼び戻し、リー主演の「ドラゴン危機一発」を製作、これが香港映画興行記録を塗り替える大ヒットとなり、勢いを駆ってブルース・リー主演作を連発し、ハリウッドと共同製作したあの「燃えよドラゴン」誕生となるわけです。しかしブルース・リーが急逝すると、今度はジャッキー・チェンをスカウト、これまた「プロジェクトA」「ポリス・ストーリー/香港国際警察」シリーズと次々大ヒット作を製作、GH社は香港最大の映画会社に成長しました。凄い敏腕ぶりですね。後に“香港映画の父”と呼ばれたというのも納得です。

11月7日 フランシス・レイ氏 (作曲家) 亨年86歳
この人も知らない方はいないでしょう。1966年、クロード・ルルーシュ監督「男と女」の音楽を担当、これが世界的に大ヒット、レイの作曲したスキャット入りのテーマ曲も一世を風靡しましたね。以後もルルーシュ作品で音楽を担当、ルルーシュ監督のグルノーブル冬季オリンピックの記録映画「白い恋人たち/グルノーブルの13日」のテーマ曲もヒットしました。ルルーシュ作品以外でも名曲を連発、ルノー・ベルレー主演「個人教授」、ルネ・クレマン監督「雨の訪問者」など多数。70年にはハリウッド映画「ある愛の詩」の音楽を担当、またまた主題歌が世界的ベストセラーとなりました。後年もルルーシュとコンビを組み、「男と女」シリーズを経て、レイの遺作(多分)となったルルーシュ監督作「アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)」(2015) までタッグが続く事となります。本当に素敵なメロディ・メーカーでしたね。               

11月12日 スタン・リー氏 (アメコミ原作者) 亨年95歳
言うまでもなく、マーベル・コミックの原作者として、「スパイダーマン」、「X-メン」「アイアンマン」「ハルク」「ドクター・ストレンジ」「ブラック・パンサー」、そしてこれらヒーローが一堂に会した「アベンジャーズ」など、数多くの作品の原作を手掛けました。80年代以降はこれらの映画化作品で製作総指揮も務めます。後年はそれらの作品のほとんどにワンカット・カメオ出演し、ファンとしてはどこに出て来るか、見つけるのも楽しみの一つだったりします。亡くなられた事で、その楽しみがなくなってしまったのが残念ですね。ともあれ、アメコミ・ブームの牽引者であるのは誰もが認める所でしょうね。長い間お疲れさまでした。   

11月15日 ウィリアム・ゴールドマン氏 (脚本家) 享年87歳
この方は何と言っても、ジョージ・ロイ・ヒル監督のニューシネマ・ウエスタンの傑作「明日に向って撃て!」(69)の脚本ですね。脚本作りに8年もかけたそうです。これと76年の「大統領の陰謀」で2度アカデミー脚本賞を受賞しています。他にも「華麗なるヒコーキ野郎」「マラソンマン」「遠すぎた橋」「ミザリー」など秀作多数。アメリカを代表する名脚本家と言っていいでしょう。                

11月23日 ニコラス・ローグ氏 (カメラマン・監督) 享年90歳
イギリスの撮影監督として、デヴィッド・リーン監督の名作「アラビアのロレンス」の第二班撮影、フランソワ・トリュフォー監督の異色SF「華氏451」(66)やジョン・シュレジンジャー監督「遥か群衆を離れて」(67)、リチャード・レスター監督「ローマで起った奇妙な出来事」(66)、同監督「華やかな情事」(68)などの撮影を手掛けます。その後監督に進出、「美しき冒険旅行」(71)、「赤い影」(73)、「地球に落ちて来た男」(78)、「ジェラシー」(79)などは高く評価されました。カメラマン出身らしく、赤を活用した色彩効果も見事でした。カメラマン出身の映画監督で、一番成功した方ではないかと思います。

11月25日 宮崎晃氏 (脚本家・監督) 享年84歳
1961年、松竹の助監督試験に合格して入社。この方の功績はなんと言っても山田洋次監督作品への脚本協力でしょうね。67年の山田作品「九ちゃんのでっかい夢」(クレジットなし)以降、多くの山田監督作品で山田洋次と共同で脚本を書きました。ハナ肇主演「喜劇  一発勝負」(67)、「ハナ肇の一発大冒険」(68)、「続・男はつらいよ」から「純情編」までの「男はつらいよ」シリーズ5本、そして山田監督が初めてキネマ旬報ベストワンを獲得した「家族」(70)、姉妹編「故郷」(72)、「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(73)まで、山田監督の多くの秀作群の脚本を書き続けました。その功績は高く評価していいと思います。71年にはかつて山田洋次がテレビの為に書いた「泣いてたまるか」の脚本を映画用に膨らませた劇場版「泣いてたまるか」で監督に進出します(ちなみにテレビ放映時のタイトルは「男はつらい」)。ただその後は75年の監督作「友情」(渥美清主演)がまずまずの出来だった以外は、これといった作品はなかったように思います。77年以降はテレビの名作劇場アニメ「あらいぐまラスカル」「南の虹のルーシー」「愛の若草物語」など数多くの作品を手掛け、アニメ脚本家として活躍されました。

11月25日 グロリア・カッツさん (脚本家) 享年76歳
夫のウィラード・ハイクとコンビで脚本を書いています。注目されたのは、ジョージ・ルーカスの出世作「アメリカン・グラフィティ」(73)ですね。続いてライザ・ミネリ主演、バート・レイノルズ、ジーン・ハックマン共演の楽しい海洋アドベンチャー「ラッキー・レディ」(75・スタンリー・ドーネン監督)もヒット、そしてルーカス製作、スピルバーグ監督の映画ファンが歓喜した痛快娯楽作品「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」(84)も大ヒットと、ここまでは順風満帆でした。が、これまたルーカス製作総指揮で、ウィラード・ハイクが監督も手掛けた「ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀」(86)がとんでもないチョンボ作。ゴールデン・ラズベリー賞で7部門にノミネートされ、最低作品賞と、カッツ/ハイクのお二人も最低脚本賞を受賞するという惨憺たる結果となりました。さらにダメ押し、翌年のラジー賞では過去10年のワースト作品賞まで受賞してしまいます。同じルーカス絡みなのに、こんな出来損ないになったのは、多分ハイクの監督手腕の問題なのでしょうが、プロデューサー、ルーカスの責任も重大でしょうね。以後、ほとんど名前を見なくなりました。もったいない話ですね。

11月30日 黒沢満氏 (映画製作者) 享年85歳
Kurosawamituru_2この方が亡くなられた事はショックでした。尊敬する名プロデューサーでした。
1955年、大学卒業後に日活に入社。製作畑を歩みたかったのですが、梅田日活等の映画館の支配人に任命され、そこでの実績を認められ、宣伝部を経て70年、映画本部室俳優部次長となって製作に関わる事となります。しかし日活はその頃から業績が悪化、71年にロマンポルノ路線に転向すると黒沢さんは次々企画を立ち上げ、ロマンポルノを軌道に乗せます。凄いと思ったのは、助監督だった岡田裕、伊地智啓らをプロデューサーに転向させた事です。ここで企画製作のノウハウを学んだ岡田、伊地智の二人がやがてニューセンチュリー、キティフィルムの中枢となって、日本を代表するプロデューサーとなったのはご承知の通り。お二人のプロデューサー能力を見抜いた黒沢さんの眼力には敬服するばかりです。
77年、黒沢さんは日活を退社しますが、すぐに東映の岡田茂社長が黒沢さんをスカウト、子会社として設立したばかりの東映セントラル・フィルム(後にセントラル・アーツ)の製作部門トップに抜擢します。が、岡田社長の狙いは、ロマンポルノのような低予算成人映画を製作する事でした。実際、後にセントラル製作第2弾となるのが山本晋也監督のポルノもの「生贄の女たち」でした。しかし黒沢さんは思い切ってロマンポルノ「白い指の戯れ」で注目された村川透監督、テレビ「大都会  PARTⅡ」で頭角を現しつつあった松田優作を呼び寄せ、日活で「斬り込み」他ニューアクションの傑作を書いた脚本家・永原秀一に脚本を書かせたアクション映画を企画します。これが東映セントラル第1弾「最も危険な遊戯」でした。映画はヒットし、コアな映画ファンも絶賛し、松田優作の人気も急上昇、以後も松田主演のアクションものを連発します。やがて出版界の風雲児・角川春樹が立ち上げた角川映画作品にも企画協力として参加、黒沢さんプロデュースによる村川・松田コンビの「蘇える金狼」「野獣死すべし」、根岸吉太郎監督、薬師丸ひろ子・松田優作共演の「探偵物語」とヒット作・異色作を送り出します。85年には松田優作と森田芳光監督が組んだ「それから」を製作、キネマ旬報ベストワンに輝きます。新進・澤井信一郎、崔洋一、日活出身の那須博之ら若手監督を積極的に起用し、澤井監督の秀作「Wの悲劇」、崔洋一監督の佳作「友よ静かに瞑れ」、那須監督のヒット・シリーズ「ビーバップ・ハイスクール」などを製作します。テレビでも松田優作主演の「探偵物語」(79)、館ひろし、柴田恭兵コンビの「あぶない刑事」(86~)を製作し、いずれも人気シリーズとなり、多くのファンを獲得しました。「探偵物語」からは脚本家・丸山昇一をデビューさせ、以後丸山は優作とのコンビでいくつもの秀作を生み出す事となります。
黒沢さんの素晴らしい点は、常に若手、新進監督の腕をきちんと見抜き、的確な起用で作品を成功させ、また助監督や若い作家の中から才能のある人材を一本立ちさせた事で、その育成能力には目を瞠るものがあります。2001年には、これまた新進・行定勲を起用した「GO」がキネマ旬報ベストワンを獲得、主演の窪塚洋介をブレイクさせました。
まさに黒沢さんこそ、日本映画界に新風を巻き起こし、日本映画の明日を見据え続けた、名プロデューサーと言えるでしょう。本当にお疲れ様でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。

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昨年も、本当に惜しい方々がお亡くなりになられました。

特に、最後に書きました黒沢満氏につきましては、どうしても追悼記事を書きたくて、それがこの追悼特集を仕上げる原動力になった気がいたします。書き上げて、ホッといたしました。

という所で、今年もよろしくお願いいたします。

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コメント

楽しみに待っていました。
まあ入院されていたので今年はないかもと思っていただけにありがたかったです。
それにしても昨年も色々な人が亡くなってますね。
黒沢満さんは私も大ショック!

投稿: きさ | 2019年1月22日 (火) 21:46

◆きささん
いろいろご心配をおかけしました。
きささんのように、楽しみに待ってくれている方がいると、励みになってやる気が出ますね。体力的にちょっとシンドくなって来ましたが、体の続く限り頑張ろうと思ってます。
今年もよろしくお願いいたします。

投稿: Kei(管理人) | 2019年2月10日 (日) 21:16

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