「あの日のオルガン」
本土空襲が激しくなって来た1944年。東京・品川にある戸越保育所の主任保母・板倉楓(戸田恵梨香)は、幼い園児たちを空襲から守るため、集団疎開を模索していた。別の保育所・愛育隣保館の主任保母・柳井房代(夏川結衣)の助けもあり、最初は子どもを手放すことに反発していた親たちも、せめて子どもだけでも生き延びて欲しいという一心で保母たちに我が子を託すことを決意する。やがて保育所長・脇本(田中直樹)の奔走で、埼玉に受け入れ先の寺が見つかるが、そこはガラス戸もないボロボロの荒れ寺だった。幼い子どもたちとの生活は問題が山積み。それでも保母たちは園児たちと向き合い、励まし合いながらひたむきに奮闘して行く。しかし、そんな疎開先の村にも戦争の影が迫る…。
第二次大戦末期、東京のある保育所が、子供たち53人を集団で疎開させ、そのおかげで子供たちは東京大空襲の惨禍から逃れる事が出来た、という実話の映画化である。
終戦から今年で74年目になるが、こんな感動の実話があった事はまったく知らなかった。今回の映画化によって知る事が出来たが、まだまだこんな戦争の知られざる真実は埋もれているのかも知れない。
実はこの原作(久保つぎこ)は、37年も前の1982年に「君たちは忘れない
疎開保育園物語」のタイトルで出版されている(草土文化・刊)のだが、全く話題にならなかったようだ。
だがこの原作を読んだ鳥居明夫プロデューサーが映画化を何度か企画するも実現に至らず、やっと昨年になって、「パッチギ」「フラガール」等で知られる李鳳宇プロデューサー(この方については後述)が制作・配給を引き受け、映画化実現に至ったものである。また映画化に合わせ、原作も「あの日のオルガン 疎開保育園物語」と改題されて昨年7月、再刊されている。
監督は20年以上にわたって山田洋次監督作品の助監督を務め、また2000年の「十五才 学校IV」以降、現在に至るまでほとんどの山田作品で山田洋次と共同で脚本を書いて来た平松恵美子。言わば山田監督の秘蔵っ子とも言える存在である。今回は松竹を離れ、山田洋次のバックアップ(脚本協力等)も一切なしで、初の対外武者修行となる監督作である。期待半分、不安半分(これについても後述)で鑑賞した。
(以下ネタバレあり)
素晴らしい!これは見事な感動の傑作である。
ややもすれば暗く、また単調になりがちなエピソード(なにしろ、要約すれば保育園児たちを疎開させましたと一言で済むお話である)なのだが、脚本も単独で担当した平松監督は、保母たちのキャラクターを丁寧に描き分け、その奮闘ぶりや、時に笑えるシーンも交えて飽きさせず、そして観終わった後に、子供たちやその親たちをこんなに苦しめる戦争への怒り、そして同時に静かな感動が広がって来る、見事な力作に仕上げていた。今年上半期の、日本映画ベストとも言える秀作である。
1944年の秋頃と言えば、米軍による本土空襲が激しくなって来た時期だが、まだ東京の市民は防空壕に退避すれば大丈夫だろうとタカをくくっていたのでろう、疎開したのは一部の人たちだけだった。
だが、品川・戸越保育所の主任保母・板倉楓は、空襲があった時、預かっている53人の園児たち全員を無事退避させられるのか不安を抱いていた。そして、子供たちを守る為には園児全員を集団疎開させるべきだと考えるようになる。保育所長・脇本もそれに賛同する。
だが難問は山積みである。53人もの子供たちを一度に預かってくれる疎開先が見つかるかどうか、見つかったとして生活をどう維持するか、そして子の親たちをどう説得するか…。
ようやく、脇本所長の奔走で、埼玉県南部の平野村(現蓮田市)にある妙楽寺が受入先に決まる。次に親たちの説得だが、案の定多くの親たちは幼い子供たちを手放す不安から猛烈に反対する。それでも一部の親が疎開に賛成したり、またかなり激しい空襲がすぐ近くであった事も手伝って、反対した親たちも疎開に同意する。
いざ疎開先の寺に着くと、そこは無人の荒れ寺で、床も戸板もボロボロ、雨風をしのぐガラス戸さえもない。保母たちは掃除、住める環境への整備に追われる。
地元の軍人の中には、足手纏いとなる大勢の子供たちの受け入れにあからさまに難色を示す者がいたり、食料の確保にも苦労したり、24時間付きっ切りで子供たちの世話に追われたりと、保母たちの悪戦苦闘の日々が続く。
それでも、彼女たちに理解を示す村の世話役・作太郎(橋爪功)の陰ながらの助力もあったり、村の農婦たちとも仲良くなったり、保母たちは少しづつ疎開生活に慣れて行く。
保母たちのキャラクターも、一人一人きちんと描き分けられている。リーダーの楓は強い信念を持ち、いつも怒っているので“怒りの女”と仇名されている。
もう一人の主役とも言える面白いキャラクターが、大原櫻子演じる新米保母の野々宮光枝、愛称みっちゃんである。彼女はかなりドジで失敗ばかりする。だがオルガンが得意な事もあり、子供たちと一緒に歌ったり踊ったり鬼ごっこをしたりと、次第に子供たちに“みっちゃん先生”と慕われるようになる。
暗くなりがちな物語の中で、どこか抜けてるけれど天真爛漫な性格の彼女の存在が、映画全体を暗くならないよう牽引する役割を果たしている。
山田洋次監督作で長く脚本を共作して来た事もあって、山田作品にもしばしば登場するこうしたコメディ・リリーフ的キャラクターの描き方も手慣れたものである。うまい。
楓に言わせれば、「あなたが子供に慕われているのは、あなた自身が子供だからよ」(笑)という事なのだろうけれど。
また合間には、保母の一人、神田好子(佐久間由衣)と戦争で片目を失い戻って来た作太郎の息子、信次(萩原利久)との淡い恋模様も描かれる。
だが、戦況が悪化する時代はそんな人間的な心の触れ合いすらも許されない。村の風紀を乱したという理由で、好子は東京に返される事となる。
さらに戦況は悪化し、園児の父親や、脇本所長にも赤紙(召集令状)が届く。そしてあの3月10日の東京大空襲。東京は焼け野原となり、園児の健一郎の両親、妹も一度に亡くなってしまう。その事を、光枝が河原で健一郎に伝えるシーンでは涙を誘われた。
様子を見に、東京に戻っていた楓も、手に大火傷を負い、九死に一生を得て戻って来る。好子も、空襲で亡くなっていた。そしてこの埼玉の田舎にも空襲の炎が迫って来る。
保母たちはとにかく子供たちを防空壕に避難させようとするが、楓は「もう、どこへ逃げても同じだわ」と言い、強い怒りの表情を見せる。
その怒りは、小さな子供たちを苦しめる戦争というもの、あるいはそれを引き起こした国家そのものにも向けられているようだ。
やがて8月15日の終戦を迎え、やっと疎開の必要もなくなった。園児の親たちが、少しづつ疎開保育所を訪れ、子供たちを迎えに来る。
赤紙で戦地に行った父親が無事迎えに来た時には、目頭が熱くなり、泣けた。
学童疎開は1944年当時、国の主導で実際に行われたが、対象は国民学校初等科生徒で、未就学の保育園児は対象外だった。民間施設が自主的に保育園児の集団疎開を行ったのは戸越保育所が初めてだったようだ。もしこの疎開が行われていなかったら、53名の子供たちの多くは東京大空襲で亡くなっていたかも知れない。
保母たちは、53人の子供たちの命を救ったのである。
エンドロールで、現在も存命のかつての保母さん数名の写真が出て、保母たちと子供たちの交流はその後もずっと続いたと字幕が出る。
観終わった後も、ずっと涙が出っ放しであった。素晴らしい感動の戦争秘話の傑作だった。
単なる実話の映画化に留まらず、随所にほのぼのとした笑いを散りばめ、時に涙、時に戦争への怒りと、平松監督の演出・脚本は緩急自在で、大人は無論の事、小さな子供が見ても感動するだろう。オーディションで集めた子供たちの、伸び伸びとした演技、笑顔がとても素敵である。
よく考えれば、喜・怒・哀・楽、この4つの要素がすべて入っている。ウエルメイドな映画のお手本である。平松監督、新人ながらお見事。
是非、多くの人に観て欲しいのだが、小規模な公開で劇場数も少ないのが残念である。幸い、観た人の反応がとても良く、映画.comのレビュー採点が5点満点中4.3と凄く高い。口コミで話題が広がって行って、多くの観客が詰めかける事を期待したい。必見である。 (採点=★★★★☆)
(付記1)
この映画を製作・配給したマンシーズエンタティンメントは、プロデューサーの李鳳宇氏が代表を務める会社である。
李鳳宇氏と言えば、独立プロ・シネカノンを主宰し、1993年に最初に製作した「月はどっちに出ている」(崔洋一監督)がいきなりキネ旬ベストワンを獲得し、以後も「パッチギ」(2005)、「フラガール」(2006)といった秀作を連打し、いずれもキネ旬1位と、日本映画の台風の目的存在であった。
ただその後はヒット作に恵まれず、シネカノンは2010年、負債を抱え経営破綻の憂き目を見る。
それでも李氏はめげず、別会社を興し細々と映画作りを続けていた。近作に「リングサイド・ストーリー」(2017)がある。
本作は、李鳳宇氏が手掛けた作品としては、久々の良作であり話題作である。
しかも、若い女性たちが力を合わせて大きな仕事を成し遂げる、実話に基づく物語という点では、あの大ヒット作「フラガール」とも共通点があるのが興味深い。本作を梃子として、もう一度日本映画界に新風を巻き起こしてくれる事を期待したい。
(付記2)
平松監督は、山田洋次監督の下で長く助監督、共同脚本を続けて来た、山田監督の直弟子、秘蔵っ子とも言える存在である。
が、本作公開の前に、ちょっと気になっていたのが、これまで山田洋次の下で助監督、共同脚本家をやって来た人は数多くいたが、そのほとんどが監督に昇格してもさっぱり芽が出なかった、という事実があるからである。
名前を挙げると、秀作「家族」、「故郷」、「男はつらいよ」シリーズ6本でそれぞれ共同脚本を担当した宮崎晃。
1971年の「男はつらいよ・奮闘編」から山田作品に参加し、2004年の「隠し剣・鬼の爪」まで、「男はつらいよ」シリーズのほとんどを含め数多くの作品で共同脚本を担当し、その間「幸福の黄色いハンカチ」「息子」「たそがれ清兵衛」で3度もキネ旬ベストワンに輝く等、山田作品では多大な功績を残してきた朝間義隆。
こうした、脚本共作の分野では成果を上げて来た人たちが、監督になるとロクな作品を作っていないし、どんな作品を監督したのか、映画ファンの記憶にすら多分残っていない。
その他、「いいかげん馬鹿」の脚本を共作し、山田作品の多くで助監督を務めた大嶺俊順、同じく「いいかげん馬鹿」や「下町の太陽」の脚本に参加した熊谷勲、いずれも監督作はあるが平凡な出来だった。熊谷は「分校日記 イーハトーブの赤い屋根」(1978)がちょっとだけ注目されたが監督作はこれ1本だけに終わり、再び助監督に戻っている。
山田作品の助監督歴が長い花輪金一に至っては、せっかく「泣き虫チャチャ」(87)で監督に昇格したものの、さんざんな不評で再び助監督に降格、以後も「たそがれ清兵衛」から「東京家族」に至るまで、山田作品の助監督を務めている。
…といった具合で、山田洋次監督の助監督を務めたり、脚本共作等で弟子に当たる人は大成しない、というジンクスがほぼ成立していた感があったのである。
そういうわけだから、本作も観る前は不安で一杯だった。だから観終えて安心すると共に、やっとジンクスを破る弟子が登場したと、個人的には感無量であった。
山田監督もご高齢である。弟子の監督作の素晴らしい出来に、一番安堵したのは山田洋次自身であったかも知れない。
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