「眠る村」
2018年・日本/東海テレビ放送
配給:東海テレビ放送 (配給協力:東風)
監督:齊藤潤一、鎌田麗香
プロデューサー:阿武野勝彦
音楽:本多俊之
ナレーション:仲代達矢
「ヤクザと憲法」、「人生フルーツ」など数々の社会派ドキュメンタリーを送り出してきた東海テレビ製作によるドキュメンタリー劇場版の第11弾で、三重と奈良にまたがる山村で起きた“名張毒ぶどう酒事件”の謎に迫る問題作。監督は「平成ジレンマ」など多くの東海テレビ・ドキュメンタリーを手掛け、本作と同じ題材をドラマ化した「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」も監督した齊藤潤一と、「ふたりの死刑囚」の鎌田麗香。ナレーションを「約束」で奥西勝を演じた仲代達矢が担当している。
三重県と奈良県にまたがる集落・葛尾。昭和36年、この村の懇親会で、ぶどう酒に混入された毒物によって女性5人が死亡する事件が発生。事件から6日後、逮捕された当時35歳の奥西勝が犯行を認め、“妻と愛人との三角関係を清算するためだった”と自白。だが、迎えた初公判で奥西は一転、無罪を主張。自白は“強要されたもの”と訴える。一審判決は無罪。しかし二審では死刑判決、最高裁でも上告が棄却され奥西は確定死刑囚となった。独房から何度も再審を訴え続けた奥西は平成27年10月、無念の死を遂げる。映画は事件の原点である葛尾村を取材し直し、多くの関係者にインタビューを重ね、事件の謎に迫って行く。
東海テレビ製作のドキュメンタリーの劇場公開版は本作で11作目。最近では「ヤクザと憲法」、「人生フルーツ」などがちょっとした話題となって注目されているシリーズの1本である。
「人生フルーツ」評でも書いたが、このシリーズは他テレビ局なら尻込みしてしまうような過激なテーマ(「人生フルーツ」は数少ない例外だが)を進んで取り上げており、私も注目して近年の作品を出来るだけ追いかけて観るようにしている。どれも着眼点がユニークで、かつ感動させられる内容も多い。
本作は、東海テレビのディレクター・門脇康郎が1978年に取材を開始して以来、数度にわたってテレビで放映して来た題材で、その後本作の監督である齊藤潤一、鎌田麗香の2人に引き継がれながら、粘り強く作られ続けて来ている。
特に2代目ディレクター・齊藤潤一は、2006年放送の「重い扉~名張毒ぶどう酒事件の45年~」以来、これまで「黒と白~自白・名張毒ぶどう酒事件の闇~」(2008)、「毒とひまわり~名張毒ぶどう酒事件の半世紀~」(2010)、セミドキュメンタリー・タッチの「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」(2012。翌年劇場公開)と、ほぼ2年おきにこの事件を扱っており、3代目ディレクター・鎌田麗香も、奥西勝と、5年前やっと再審請求が認められた袴田事件の袴田巌の2人に焦点を当てた「ふたりの死刑囚~再審、いまだ開かれず~」(2015。翌年「ふたりの死刑囚」の題名で劇場公開)を演出しており、言わば東海テレビ局のライフワーク的題材だと言えよう。その粘りには敬服する。
本作は、これまでの膨大な記録映像を再編集し、それに加えて事件の舞台である葛尾村を取材し直し、存命の関係者たちにインタビューしたり、奥西が死去後、再審請求を引き継いだ奥西の妹・岡美代子さんの悲痛な声を映像に収めたり、またテレビ局独自の検証でこの事件の闇、裁判制度の矛盾を鋭く追及している。
言わば本作は、これまで東海テレビが取材・放送して来た“名張毒ぶどう酒事件”の、集大成的作品であると言えるだろう。
それにしても驚くのは、死刑判決の根拠が奥西の“自白”だけであり、証拠とされているものがその後最新の科学的分析により次々矛盾点が出て来て、これはどう見ても冤罪だろうとしか思えないのに、裁判所は頑なに、「自白は信用出来る」として再審請求を認めない、不条理な実態である。
例えば“ぶどう酒の王冠に残った奥西のものと一致したとされる歯形”は、実は後の科学鑑定で一致しない事が判明しているし、奥西の自白では混入させた農薬はニッカリンTだったとされているが、科学分析ではニッカリンTの成分が検出されなかった。ぶどう酒が公民館に届いた時間の村人の証言がなぜか後で変わっているのも変である。
そして最近の冤罪事例を見ても分かるように、自白なんて警察や検察が誘導して都合のいいように捏造され、被疑者を精神的に追い込んで認めさせてしまうものであるという事は、もはや隠しようのない事実である。“自白偏重”はもう時代遅れなのである。にも関わらず、一番最近の再審請求でも裁判所は「自白」を唯一の根拠として請求を却下している。
そもそも最初の地裁では、無罪判決が出ている。それが高裁で一転死刑判決、最高裁もそれを支持した。一審の無罪判決から二審で逆転死刑判決が下されたのは、本件が戦後唯一だという。それだけ極めて異様な裁判なのである。
いったい裁判所は、何を守ろうとしているのか。冤罪を認めたら司法制度の信頼が揺らいでしまうとでも思っているのだろうか。
だがこれは逆である。少しでも有罪の根拠が疑われたなら、正直にそれまでの審理の不備を認め、冤罪で苦しむ人を早く助けてあげる事こそが司法の信頼につながると認識すべきである。
映画は、請求を却下した裁判長の姿をアップでとらえ、その名前もテロップで出している。こんな理不尽な判決を出した裁判官を覚えておけとでも言うような、製作者の痛烈な抗議のようでもある。
もう米寿を過ぎた妹の岡美代子さんは、半ば笑いながら「裁判所は私が死ぬのを待っている。私が死んだら他に引き継ぐ人はいないので再審請求が出来なくなるから」と言う。
裁判所はこの言葉をどう聞くのだろうか。
題名の「眠る村」とは、真実から目を閉ざし、事件を早く忘れたいと願う村人たちを指しているのだろうが、裁判所を中心としたこの国の司法制度も眠っている村だ、という作者の怒りも込められているようだ。
この映画を観て思い出すのは、おそらくは日本最初の、冤罪事件を正面から扱った今井正監督の「真昼の暗黒」(1956)である。
証言の矛盾点を徹底追及して、裁判が進行中であるにも関わらず、堂々とこれは冤罪だ、と鋭く訴えた名作で、この映画の影響も多少あってか、その後無罪が確定した。
実は企画当初は、「真実ははっきりしないがおそらくは無罪」の線で作るつもりだったようだ。ところが裁判資料を徹底的に読み込んだ脚本の橋本忍が「絶対に無罪で行く」と山田典吾プロデューサーと今井監督に宣言し、今井監督も「もし有罪だったら監督業を辞める」との覚悟で取り組んだという。凄いプロ魂である。
この時、最高裁判所は、今井監督や山田プロデューサーに直接製作の中止を求め、配給会社や映倫にまで圧力をかけたという。なんともはやである。
それでもプロデューサーは毅然と圧力を撥ね退け、大手映画会社から配給を断られるが自主配給を行い、映画は大ヒット、その年のキネマ旬報ベストワンに選ばれる等、高い評価を得た。
この作品のラストで主人公は去って行く母親に「お母さん、まだ最高裁があるんだ!」と絶叫する。一審が間違っても、最高裁ではきっと真実にたどりつくだろうという期待と信頼がまだあったからである。
だが、本作を観れば、“最高裁もまったく信用出来ない”と思えて来る。「真昼の暗黒」から63年も経っても、この国の暗黒はいまだ続いている。その事をつくづく感じさせられた本作である。
是非多くの人に観て欲しい。そして一日も早く、再審が認められ、岡美代子さんに安堵の日が訪れる事を心から願う。
なおこの間、東海テレビの一連のドキュメンタリー劇場に対して「第66回菊池寛賞」が授賞されたそうだ。地道な努力が実ったわけで、とても喜ばしい。これからも東海テレビのドキュメンタリー・スタッフには、どんな横やりが入ろうとも真実追及の為、頑張って欲しいとエールを送っておこう。 (採点=★★★★☆)
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