「人生をしまう時間(とき)」
埼玉県新座市の堀ノ内病院に勤める80歳の小堀鷗一郎医師が取り組んでいるのは、在宅による終末期医療。小堀医師や看護師、ケアマネージャーたちは、患者や家族たち一人一人と寄り添いながら、さまざまな難問に向き合い、奔走する。自宅で老いや病気と向き合う人たちそれぞれの人生の終わりに、医療が出来る事とは何なのか。カメラは小堀医師をはじめとする在宅医療に携わる人々に200日にわたり密着し、在宅死の現実をつぶさに記録して行く。
市川準監督作に「病院で死ぬということ」(1993)という作品がある。題名通り、終末医療を扱った作品である。カメラはずっとフィックスで、セミドキュメンタリー・タッチで、病院で末期を迎える患者たちの日常を、彼らと接する家族や医師らの姿を交えながら淡々と描いた秀作だった(キネ旬ベストテン3位)。
この映画でも出て来るが、多くの患者が最期は自宅で死にたいと望みながら、現実には日本では患者の8割が病院で死を迎えている。これは現在の日本の医療システムにも問題があるが、核家族化の進展も影響している。実際、2~3世帯同居が当たり前だった1950年代では、自宅で亡くなるケースが8割以上あった。
そんな現状の中で、本作が取り上げる堀ノ内病院では在宅専門の医療チームを作り、医師4人、看護師2人で、140人あまりの在宅患者を診ている。
その中心にいる小堀鷗一郎医師は、東大病院在籍時には名外科医として名高かった方だが、定年退職後、67歳の時に堀ノ内病院に赴任し、在宅診療に携わるようになった。普通なら引退して悠々自適の年齢なのに、それから80歳になる現在まで、ひたすら“在宅医療”に関わり続けて来た。なんと今も自分で車を運転し、患者の自宅を回って診療を続けている。それだけでも頭が下がる。
実はこの小堀医師、なんと明治の文豪・森鷗外の孫だそうである(お名前にも鷗の一字がある)。
映画は、この小堀医師を中心に、もう一人の医師・堀越洋一医師も加えた在宅医療チームの活動に密着し、死が近い多くの在宅患者やその家族と、医師たちとの交流、在宅患者の死まで付き添う医療チームの奮闘ぶりを丹念に追って行く。カメラは小堀医師と一緒に患者の自宅に上がり込み、小堀医師の診察と患者への対応ぶりをつぶさに捕える(撮影も監督の下村幸子が兼任)。
この小堀医師の診察ぶりが面白い。常に笑顔で明るく話しかけ、時には冗談を言って患者の心を和ませる。「医者と芸者は似たようなもんで、どっちもお座敷がかかったらすぐに出かけなきゃならん」には笑った。だから患者やその家族からも慕われている。ただ、気軽なおしゃべりをしているように見えて、患者の体調だけでなく自宅の暮らしや介護環境についてもさりげなく聞き出し、今後の医療に役立てているらしい。
いくつか、印象的ないいシーンがある。末期の肺がんを患う千加三さんの家の庭には、家を建てた時に植えたという百目柿の木がある。最初にカメラが訪れた時にはあまり実は生っていなかった。小堀医師が千加三さんに、「柿もらっていいかな」と聞くと千加三さんは「まだ早いよ。熟したらいい匂いがするからそれまで待ちな」と答える。ここでも小堀医師と患者とのやり取りが微笑ましい。
そして臨終の日。立ち会った小堀医師が庭の百目柿の木を見上げると、柿の実がたわわに生っている。カメラもそんなに長期間千加三さんの姿を見つめていた事がよく分かる。
91歳の浅海冨子さんは常に夫と二人で撮った写真を握っている。やがて死の時。家族に見守られる中で小堀医師は静かに酸素マスクを外し「おばあちゃん、お疲れ様でした」と囁きかける。このシーンでは涙が出た。
他にも、認知症で2年間2階の部屋から出ない妻を、自らも80歳を超えながら一人で世話をする夫とか、103歳の母親の介護に心身とも疲れ果てる高齢の息子とか、さまざまな問題を抱えながら暮らす人たちの姿もある。そんな人たちに小堀医師は辛抱強く接して行く。
映画を観ているうちに、人の最期とは何なのか、終末医療はどうあるべきかを考えさせられた。
人間はいつかは死を迎える。それは避けられない。
その時、医師にとって大事なのは、医療措置を施す事よりも、患者と心を通わせ、優しく接して、心置きなくあの世に旅立つ、その最後の世話をする事なのだろう。
家族もまた、小堀医師に教えられ、亡くなる直前の家族との心の繋がりをもっと大事にしようと思うようになるのだろう。登場する家族たちも、辛さを抱えながらも決して暗い表情は見せない。
小堀医師や、家族たちの優しく深い愛情に支えられて臨終の日を迎える患者たちの表情も、とても幸せそうに見える。何度も泣けた。
そしてクライマックスと言うか、最後に登場するのは、末期の肺がんを患い寝たきりの84歳の父親と、47歳の全盲の娘・広美さんという二人きりの家族。
全盲と言うハンデを抱えながら、明るく父の世話をする広美さんの日常をカメラは丹念に追って行く。
そして最期の日がやって来る。小堀医師は広美さんに「喉仏を触っててごらん。上下に動いている時はまだ息があるから」と言う。
見えない広美さんにとって、父の生死を見極められるのは、身体に触っている時だけだという事を小堀医師は感じているからだろう。
じっと父に寄り沿い、喉仏に触り続ける広美さん。やがて喉仏の動きは止まる。それが父の臨終の時間である。
その二人の姿を見つめる小堀医師。そして下村監督のカメラもまた、人間の、おごそかな死の時をじっと優しく見つめている。このシーンも泣けた。
自宅で死を迎えるという事は、患者の最期の時を家族として、心と体でしっかりと受け止め、感じ取るという事なのである。それはとても大切な事だと、改めて感じた。
鑑賞している間も、何度も涙が溢れた。素晴らしい作品である。
通常のドキュメンタリーでは当り前のナレーションもなく、最小限の字幕のみで状況を説明する。そのシンプルな構成ゆえ、より医師や患者、その家族の気持ちがこちらに伝わって来る。
テレビで放映された時も大きな反響を呼んだらしいが、NHK- BS1での放送ゆえ観た人はそう多くないだろう。劇場公開して、多くの人の目に触れる事はとても意義がある。下村監督の粘り強い取材姿勢、200日に及ぶ膨大な映像を2時間に纏めた構成力にも敬意を表したい。
私自身もこの十数年で父と母の死に立ち会ったが、いずれも病院や特養での臨終で、在宅死ではなかった。この作品を観ると、家で死なせてあげるべきだったかなと思い悔やむ。
この映画は是非多くの人に観て欲しい。そして人生の最期の時はどうあるべきかを考えるきっかけにして欲しい。また小堀医師、堀越医師のような素晴らしい医師がもっと出て来て欲しいし、堀ノ内病院のような在宅診療を行う医療機関が、もっと日本中に増える事を希望する(厚生労働省調査によると、2014年の統計で在宅診療を行う診療所は全体の5%程度だそうだ)。小堀医師のますますのご活躍とご健康もお祈りしたい。
タイトルに「人生-」とあるが、同じくタイトルに「人生」が付き、一昨年公開され大きな反響を呼んだ、「人生フルーツ」を思い出す。これもまた別の意味で、高齢者の生き方に密着したドキュメンタリーであり、またテレビ局が製作し、放映後評判を呼んで劇場公開される等、共通点は多い。
上映劇場が少ないのが残念だが、「人生フルーツ」と同様に、こちらも観た人の口コミで評判が高まり、劇場数が増えロングランになる事を切に望みたい。(採点=★★★★☆)
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コメント
この映画には関係ないのですが、和田誠さんが亡くなりました。
このブログも「お楽しみはこれからだ」からですよね。
映画の楽しさを教えてくれました。残念です。
投稿: きさ | 2019年10月14日 (月) 13:02
◆きささん
和田誠さん、大ファンでした。仰る通り、このブログのタイトル「お楽しみはココからだ」は和田さんのキネ旬連載のコラム「お楽しみはこれからだ」のもじりです。
それ以前、紙ベースのミニコミ誌、現在のHPにも同コラムのパロディ「お楽しみはこれっきりだ」を連載しておりました。
著作もほとんど読み、購入した本もたくさんあります。アニメ(「Murders」等)、映画、全部追いかけるほどのファンでした。それだけに訃報は大ショックでした。
今はちょっと気持ちの整理がついていません。落ち着いたら、追悼記事を書くつもりです。
本当に、悲しいです。合掌。
投稿: Kei(管理人) | 2019年10月15日 (火) 21:40