川島雄三監督特集(その2:東宝編)
メインタイトルからして、いきなり丸山明宏(現・美輪明宏)が登場して、「女、それは育ちすぎた子羊、エレガントな豚、帽子の好きなキツネ」といった歌詞のシャンソン風の主題歌を歌って驚かせる(作詞:谷川俊太郎、作曲:黛敏郎)。ただし丸山は本編には登場しない(後に劇場のシーンで歌だけがステージから遠く聞こえている)。
出演している女優が、原節子、香川京子と小津安二郎監督「東京物語」のあの2女優が参加しているのも興味深い。もう一人メインとなるのが久我美子。川島作品に原節子が出演するのはこれ1本のみ。
物語は、弁護士の佐山貞次(森雅之)、市子(原節子)夫妻が、貞次が担当弁護している、死刑判決を受けて拘置所に拘留されている男の娘妙子(香川京子)を自宅に引取って面倒を見ている所に、大阪から市子の学生時代の親友の娘であるさかえ(久我美子)が家出して来て、無理やり佐山家に同居した事で、同じ屋根の下に住むこの3人の女性の間に波紋が広がって行くというお話である。
妙子が、父が死刑囚という事もあって、内向的で物静かであるのに対し、さかえは自由奔放であけすけ、やがてさかえは貞次を慕うようになり、半ば強引に貞次の法律事務所で働く事になる。
一方、妙子はアルバイト学生の有田(石浜朗)と恋愛関係にあり、市子はさかえと一緒に出掛けた劇場で、かつての恋人・清野(三橋達也)と偶然再会し、昔の恋が甦りかけて夫婦の間にも微妙な波風が立つ事となる。
…といった具合に、3人の女性がそれぞれに、恋と人間関係で悩む姿が描かれるが、川島演出は相変わらずテンポよく物語を進めて行く。特に久我美子扮するさかえが、早口の大阪弁でまくし立て、軽快に動き回っているのが面白い。これまでの出演歴から見ても、清楚で静かなイメージのあった久我美子から、こんな意表を突く演技を引き出した辺りがさすが川島監督である。
いろいろとひと悶着あった末に、清野はカナダに旅立ち、妙子は少年医療院で働く事が決まり、そしてさかえは自分の我が儘を反省し、佐山家から去って行く所で物語は終わる。
ドロドロした愛憎が絡む内容だけに、ヘタな監督にかかったら湿っぽい陰気な作品になる所を、三階建ての建物の構造を生かしたリズミカルな編集やテンポいい会話で、カラッとしたイメージの作品に仕上げた川島監督の技巧が光る。ただ、長い原作を100分という時間に押し込めたせいか、終盤はやや駆け足になった(貞次が交通事故にあって全快するまでがあっという間)のが惜しまれる。 (採点=★★★★)
1959年・宝塚映画
配給:東宝
監督:川島雄三
原作:井伏鱒二
脚色:川島雄三、藤本義一
製作:滝村和男
これは昔一度観ているのだが、記憶があいまいなので改めてじっくり観る事にした。ラストで桂小金治が放尿するシーンだけは覚えているが。
川島監督の弟子に当る藤本義一がシナリオに参加した唯一の作品。
大阪の通天閣を遠くに見る高台にある古風なアパート屋敷を舞台に、そこに住むおかしな住人達の騒動を描いたコメディである。ロケ地は天王寺区夕陽ケ丘。
役者陣が豪華。常連フランキー堺、桂小金治、小沢昭一を中心に、淡島千景、乙羽信子、浪花千栄子、清川虹子、市原悦子の女優陣、加藤武、益田喜頓、山茶花究、渡辺篤、沢村いき雄といった芸達者な面々。これらの多彩な人物が入り乱れ、演技合戦を繰り広げる様は壮観である。
主人公のフランキー扮する与田五郎は何でも屋。四カ国語に通じ、翻訳や代作引受け業に、住人の洋さん(桂小金治)がやっているコンニャク製造、キャベツ巻の手伝いまでやっている。この洋さん、貸間札を吊るすのが趣味で部屋を貸したがらない。
その他の住人も、怪しげな精力剤を作って住人に売りつける熊田(山茶花究)、精力絶倫の女房に参っている骨董屋の宝珍堂(渡辺篤)、エロ本や猥褻写真を売ってるハラ作(藤木悠)、五郎に恋心を抱く陶芸一筋の勝気なユミ子(淡島千景)、洋酒を密売してるヤスヨ(清川虹子)、恋人との結婚費用を稼ぐため旦那三人を交替でたらい廻ししているお千代さん(乙羽信子)とか、ヘンな人たちばかり。
小沢昭一が何度も受験に失敗し、五郎に代理受験を頼んで九州まで強引に連れて行ったり、それが約束の模擬試験と違い本試験である事を知って帰ろうとすると五郎を投げ飛ばしたりと、かなり無茶な男を怪演している。
全体にドタバタ劇だが、お話にとりとめもなく、理由もなくヘンな行動をする人物が多かったりで、特に山場もなく終わってしまう。その為当時の批評としては酷評が多かったようだ。原作者(井伏鱒二)からもこれは違うと叱られたらしい。
しかし川島作品をずっと観て来ると、「幕末太陽傳」や「洲崎パラダイス 赤信号」に見るように、底辺で生きる庶民の猥雑さとふてぶてしさ、生きて行く事の辛さ、汚れてしまった哀しみ(お千代さんのエピソードにそれを感じる)のようなものがこの作品にも通低音として流れているような気がする。笑わせているけれど、実は悲しい物語なのかも知れない。
それと聞き逃していけないのは、お千代さんの送別会で、洋さんが送別の言葉として「花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ」と述べるくだり。この言葉はもう1回出て来る。
川島監督の墓石にも刻まれている、有名なこの言葉が登場するだけでも、この映画は川島ファンなら必見だ。
ある意味、これぞ最も川島監督らしい、愛すべき怪作と言えるかも知れない。ちなみに小沢昭一はこの作品を「川島雄三の精神的自叙伝」と言っているそうな。 (採点=★★★★)
1960年・東京映画
配給:東宝
監督:川島雄三
原作:梅崎春生
脚色:川島雄三
企画:奥田喜久丸
製作:佐藤一郎
これは川島監督作品としては、割と軽めの他愛ないコメディ。題名はカルタの「犬も歩けば」の犬を人に変えたもの。
主人公砂川桂馬(フランキー堺)は、名前通り将棋が得意で、その縁で将棋マニヤの義平(沢村いき雄)が経営する銀座裏の質屋の婿になるが、気の弱い性格が祟って姑の成金キン(沢村貞子)や嫁の富子(横山道代)に苛められてばかり。唯一富子の従妹・清子(小林千登勢)が味方になってくれるのが救い。ある日富子たちの無理難題に堪忍袋の緒が切れた桂馬は成金家を飛び出し、ドヤ街の簡易ハウスで寝泊まりする事となる。ところが桂馬が実はアメリカにいる叔父が残した遺産9千万円の相続人である事が分かり、それを知ったキンたちは行方不明の桂馬を期限までに探そうとてんやわんやの追っかけっこが繰り広げられる事となる。
質屋一家の家族の名前が成金キン、成金富子とか、依頼されて桂馬を探す私立探偵(藤木悠)の名前が金田一小五郎だったり(笑)とネーミングが面白い。
うさんくさい八卦占い師(森川信)や、桂馬の後釜の質屋主人になろうとする木下藤兵衛(桂小金治)とか、クセのある脇役も物語に絡んで、いかにも川島監督らしいスピーディな展開で飽きさせない。
途中で桂馬を追い回すヘンな三人組が当時“脱線トリオ”として有名だった由利徹、南利明、八波むと志で、通称名がそれぞれラドンの松、アンギラスの熊、ゴジラの八というのが笑える。
この3人と桂馬の追っかけっこが空き地の土管をもぐったりのドタバタで、これをチャップリンらのサイレント・コメディ風にコマ落し撮影でチョコマカ動き回るのがなんとも可笑しい。こういうコマ落しギャグは川島作品にちょくちょく登場している。
途中、加東大介扮する簡易ハウスの経営者が「オリンピックだなんて言ってるけど住宅の方が大事だ」と怒るシーンがある。庶民が感じる政治への不信感が時たま登場するのも川島作品らしいところ。
で、ラストが、ネタバレになるが夢オチだった、というのは賛否別れる所だろう。一種の反則技である。特に桂馬が登場しないシーンなんか、普通夢の中では出てこないはずだし。しかも映画のほぼ頭から全部が夢だったというのはいくらなんでもねぇ。
まあそういう引っかかる所もあるけれど、ファンとしては、フランキーのナレーションで一気に状況を説明する冒頭から、早いテンポ、コマ落し、ワイプなどのテクニックを駆使してあれよあれよと物語が展開する独特の川島流コメディ演出の冴えを堪能できる作品ではある。 (採点=★★★☆)
1960年・東宝
監督:川島雄三
原作:石原慎太郎
脚色:松山善三
製作:藤本真澄
これも楽しいコメディ。原作が石原慎太郎で、本人も冒頭とラストに登場する。脚本が松山善三という取り合わせも珍しい。
主人公はライト級チャンピオンのプロボクサー・高田明(宝田明)。女にモテモテで、女性たちから逃げるべくタクシーを猛スピードで走らせていると、出会い頭に乗用車と衝突、乗っていた聖立高女の生徒・由紀美恵子(団令子)が気絶していたので明が口移しで水を飲ませている所をパパラッチされ、週刊誌の表紙になってしまう。これを目撃していた作家の石原慎太郎(本人)が「接吻泥棒とはいかすね」と言った言葉がタイトルの由来。
物語は、こうして知り合う事となった明と美恵子が、最初は明が美恵子を子供扱いしたり、美恵子が反発したりしながらも次第に互いの心が近づき合い、明は3人の愛人たちとそれぞれ手を切って、最後は美恵子と明の恋が成立するまでを描く。
まあこれも他愛ないラブ・コメディだが、川島監督らしいのは登場人物がすごい早口で喋りまくる、まさにマシンガントークのスピード感で、これまでも川島作品では早口トークがしばしば登場していたが、本作は特に早口だ。またナイトクラブでの女たちの喧嘩シーンではパイやパスタの投げ合いもあって楽しい。このパイ投げもサイレント・スラップスティック・コメディではお馴染みのギャグである。前作といい、川島監督、チャップリンやローレル&ハーディ等のスラップスティック・コメディが好きなのだろう。
終盤では明のボクシング・タイトルマッチ戦があり、美恵子が来ないので明がやきもきするが、最終ラウンド近くになって美恵子が現れると元気になった明がノックアウト勝ちする、という加山雄三主演の「若大将」シリーズを思わせるシーンもある。が、「若大将」シリーズの1作目が公開されたのは本作の翌年1961年。こちらの方が早い。むしろ本作が「若大将」シリーズのヒントになった可能性もある。そう言えば「若大将」シリーズのヒロイン、星由里子も美恵子の同級生役で本作に出演していた。
ラストに登場した石原慎太郎が二人に声を掛け、文句を付けられた慎太郎が「俺には女は書けない」とつぶやいて色紙にタイトルと「終」の文字を書いて、それがそのままエンドマークとなる幕切れも洒落ている。
東宝製の2本立てプログラム・ピクチャーの1本として、映画史にも残らない軽い作品だが、随所に見え隠れする川島タッチはファンなら押さえておきたい。ソフト化もされていないようなので、ここで観る事が出来て良かった。 (採点=★★★★)
1961年・東京映画
配給:東宝
監督:川島雄三
原作:八住利雄
脚色:柳沢類寿
製作:佐藤一郎、金原文雄
いわゆるヤクザ映画のパロディ的作品。
ヤクザ抗争のもつれで人を殺したと思ってブラジルに逃げていた主人公守野圭助(森繁久彌)が、15年ぶりに日本に戻って来た所から物語が始まる。
この守野、森の石松が金比羅代参の帰路大阪に遺した落胤の末裔という事になっている。考えれば森繁はマキノ正博監督の名作「次郎長三国志」シリーズで森の石松を演じていた俳優である。これは意識しての設定なのだろう。「次郎長三国志」シリーズを観ている映画ファンならニンマリさせられる。
守野はかつて所属していたおおとり組に顔を出すが、組は寂れ、新興ヤクザの風月組に縄張を荒らされている始末。物語はおおとり組を再興しようと奮闘する守野たちと、そうはさせじとあの手この手で妨害する風月組との対立をコメディ・タッチで描いて行く。
おおとり組に顔を出した守野と、死んだ大親分の女房で料亭を経営しながら組を守って来たおしま(淡島千景)とが互いに「おひかえなすって」と仁義を切りあうシーンがあったり、中盤では風月組からの果し状を受けて、守野が着流し姿に懐に短刀(ドス)を忍ばせて決闘の場に赴いたり、と東映任侠映画ではお馴染みのシーンがいくつも登場する。古いタイプの善玉の組が、悪玉新興ヤクザに圧され窮地に陥っている所に、数年ぶりに善玉側のヒーローが帰って来るという出だしも、高倉健主演の「昭和残侠伝」シリーズの何本かとそっくりである。だが、実は東映任侠映画の本格的第1作「人生劇場 飛車角」が登場するのは本作から2年後の1963年。この頃は股旅ものが細々と作られてはいたが、近現代を舞台とするいわゆる任侠映画はほとんど作られていなかった時代。そんな時代にコメディとはいえ、後に一つの時代を築く任侠映画の典型パターン作品がいち早く作られていた事に驚く。
お馴染みフランキー堺が、寺の住職でありながらおおとり組の幹部で花札の名手という面白い役柄。またその組長の息子が跡目を継がずに道路公団技師として働いているのも現代的と言うかドライである。
その道路公団がオリンピックに向け高速道路工事を拡張し、おおとり組の守り本尊であるお狸様の社の立ち退きに絡む汚職に広がったりと、「人も歩けば」と同じくオリンピックに向けた建設ラッシュをやんわり皮肉っているのが川島作品らしい。
当初は伴淳三郎がおおとり組幹部として出演予定だったが、都合で出演出来なくなった為、元の八住利雄脚本が使えず川島作品でお馴染みの柳沢類寿が全面的に書き直したそうだ。その為か、いま一つお話にメリハリがなくやや不完全燃焼的作品になっている。
しかし森繁、伴淳、フランキー、淡島共演と来ると、東京映画の人気シリーズ「駅前」シリーズと同じ出演者だし、八住利雄も「駅前」シリーズの脚本を何本か書いているし、もし伴淳が出演していたら、題名を例えば「駅前ヤクザ」(笑)と改題して「駅前」シリーズの1本として公開しても何ら不自然ではない。まあそんな程度の軽い作品である。
ラストは、組の賭場開帳が警察に摘発された責任を取って守野が再び南米に逃亡し、エンディングでは守野の息子と称する3人のハーフの子供がサングラス姿で現れるというオチとなる。
川島作品としてはあまり出来のいい方ではないが、東映任侠映画に馴染んだ映画ファンなら、任侠映画パロディ・コメディのつもりで鑑賞したなら楽しめるだろう。 (採点=★★★☆)
1961年・東京映画
配給:東宝
監督:川島雄三
原作:大岡昇平
脚色:菊島隆三
企画:金原文雄
製作:佐藤一郎、椎野英之
軽いコメディが続いた所で、一転してもう一つの川島作品ジャンルである、女性メロドラマ路線の作品。ただしこのジャンルの作品は「接吻泥棒」の後、「夜の流れ」(60)、「赤坂の姉妹より 夜の肌」(60)、本作の直前、大映で撮った「女は二度生まれる」(61)と結構作っている。
物語は、銀座のバー「トンボ」で働く足立葉子(池内淳子)が大学講師の松崎(池辺良)、弁護士の畑(有島一郎)、テレビ演出家の清水(高島忠夫)、15年ぶりに再会した会社社長の野方(三橋達也)と次々と男たちと愛人関係を結んでは別れたり、またヨリを戻したりといった男性遍歴を繰り返した末に、生きる意欲を失い最後に自殺するまでを描く。
冒頭いきなり、葉子が自宅で自殺の準備をする所が描かれ、そこから回想で過去2年間の葉子の生きざまを描く展開となるのが意表を突く。
上記4人の男たちとは別に、終始葉子の父親的存在として彼女に寄り添う美術評論家・高島(佐野周二)が印象的である。葉子はずっと高島を信頼し、相談相手でもあったが、終盤で実は落ちぶれて贋作の骨とう品を野方の得意先に売りつけたりするような男である事が判り、その事も葉子が死ぬ決意をする遠因にもなったようだ。
川島演出は相変わらず手堅いが、内面心理を文章で説明出来る小説と違って、映画では葉子の心の内面までは描き切れず、自殺を決意するまでの心の動きがもう一つ感じ取れないのが弱い。
池内淳子は新東宝で長く活躍して来たが、その新東宝が倒産した事で東宝に移籍、これは移籍第1作作品でもある。池内は撮影時28歳だったが、女の色香が匂うような気品と美しさで、そこも見どころである。 (採点=★★★☆)
1962年・東京映画
配給:東宝
監督:川島雄三
原作:山本周五郎
脚色:新藤兼人
製作:佐藤一郎、椎野英之
千葉県の浦安(映画では浦粕)の小さな町を舞台に、その町にフラリとやって来た作家先生(森繁久弥)が出会う、おかしな人たちとの交遊を描いた作品。原作は山本周五郎で、山本が若い時浦安で暮らした体験に基づいた、随想的な小説だそうである。
特にストーリー展開があるわけではなく、町に住む人たちの短いエピソードを断片的に並べる描き方は、同じ山本周五郎原作で、黒澤明監督が「どですかでん」の題名で映画化した「季節のない街」と雰囲気がよく似ている。個人的には黒澤作品と比べて、こちらの方がずっとコミカルで楽しめた。
登場人物で面白いのは東野英治郎扮する芳爺さんで、「ガハハハ」と大声で笑い、青べかと呼ばれるボロ船を先生に売りつけたり、先生のタバコを缶ごと失敬したり、ビールを飲んで先生に払わせたり、なんとも厚かましい老人だがどこか憎めない。その他フランキー堺、桂小金治、加藤武ら川島組の常連俳優たちがそれぞれ達者な演技を見せている。
もう一人、印象的な登場人物が、左卜全扮する沼の廃船に住む老船長で、定年になっても船を降りる事を拒否し、退職金代りに船を譲り受け、ずっとここに住んでいる。この老船長が語る過去が悲しい。この人物が映画の中でも一番印象深い。
人のいい先生が、時には町の人たちに親近感を抱いたり、また振り回されて迷惑を被ったり、いろんな経験をした末に、またフラリと浦粕の町を去って行く所で映画は終わる。
ラストで先生が橋を渡って町を出る時、何台ものダンプカーとすれ違うシーンがあるが、思えば「洲崎パラダイス 赤信号」にも同じように橋の上で数台のダンプカーとすれ違うシーンがあった。どちらの作品も、橋を渡るシーンで始まり、橋を渡って町を出るシーンで終わると言う共通点がある。
本作ラストのダンプカーは、「縞の背広の親分衆」でも描かれた、オリンピックに伴う高速道路や建物等の建築ラッシュ、そして浦安のようなひなびた町もやがて高度成長の波に揉まれ、人間らしさを失って行く時代の流れ(冒頭の空撮で海岸の埋め立てが進んでいる光景が見られる)への、川島監督なりの抵抗感を示しているのかも知れない。
そういう意味ではこれは、喜劇の形を借りて、高度成長によってやがて日本の古き良き時代の人情が失われて行くであろう時代の変遷を予感し問題提起する作品ではなかったかと、今にして思えるのである。
川島監督はこの翌年、オリンピックも高度経済成長時代の日本を見ることもなく急死してしまう。 (採点=★★★★)
1962年・東宝
監督:川島雄三
原作:獅子文六
脚色:井手俊郎、川島雄三
製作:藤本真澄、角田健一郎
最後はこの作品。これはなかなか面白かった。晩年期の傑作ではないかと思う。
物語は、箱根を舞台に、2つの鉄道会社の箱根山戦争とも言われる勢力争いに始まり、箱根の2軒の老舗旅館・玉屋と若松屋の150年にも及ぶ対立、両家の意地の張り合いが続く中で、玉屋の跡継ぎと期待されている19歳のハーフの若者・勝又乙夫(加山雄三)と、若松屋の一人娘・森川明日子(星由里子)とが愛を育み、やがて二人は十年後に両家を和解させるという夢を抱き、その為の修行を続ける姿を描く。
加山雄三と星由里子と言えば、この前年に始まった「若大将」シリーズのコンビである。しかし本作では二人ともとても初々しく、星は三つ編みの女学生姿がなんとも可愛い。
川島監督作品らしい、いつもながらのテンポいい展開も小気味良いし、それぞれの登場人物もみんなハイテンションで良く動き回る。
特に玉屋の89歳になる女主人・森川里を演じる東山千栄子が、小津監督「東京物語」の老妻からは想像も出来ないほどに軽快に動き回っている。玉屋の番頭を演じる藤原釜足も如才ない番頭ぶりを快演。観光会社社長を演じる東野英治郎が全作に引き続きアクの強い怪演。冒頭から立小便しながらの登場には笑った。
本作が素敵なのは、大人たちがつまらない事で何年もの間いがみ合う中で、若い二人はそんな状況を打破し、玉屋と若松屋を一緒にして、地元の発展に尽くすという壮大な夢を持っており、その夢の為に乙夫は東京の観光会社で10年間修業し、戻って来るまで待っていて欲しいと明日子と誓い合う、その純粋な心意気に感動させられるからである。
ここには、国家間、民族、宗教等、さまざまな理由で不毛の争いが何年にもわたって続いている、そんな世界の状況への痛烈な批判が込められている。
特に、世界中で移民排斥や国家間対立、分断がますます進んでいる現代の混迷を見るにつけ、本作が訴えるテーマは今の時代に観ると、より強く心に迫って来る。
笑ったのが、旅館が火事になって意気消沈し、「もう死ぬ」とか言って寝込んでいた玉屋の里さんが、「温泉が噴き出した」と聞いた途端、急に元気になってルンルンと動き回るシーン。こんなコミカルな動きを見せる東山千栄子は初めて見た。川島監督は大人しいイメージだった女優を陽気に溌溂と動かすのが本当にうまい。
それを知った若松屋のおかみ、きよ子が「うちも温泉掘ろう」と言いだしたり、どこまでも大人の欲と打算が強調されるのも皮肉である。
ラストは、丘の上で、乙夫からの手紙を読む明日子の姿を俯瞰で捉え、10年と言う時間を、日数、時、分に換算した数字が延々と読み上げられる所で映画は終わる。
大人の醜さと比較する形で、若い二人の前向きな行動と純愛がより際立って、爽やかな感動を呼ぶ。これは川島監督作品の中でも珍しい青春映画の、見事な秀作である。
(採点=★★★★☆)
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さて、こうして川島雄三監督の作品をまとめて観ると、コメディにしろ女性映画にしろ、一貫して流れているのは人間そのものの存在を温かく、時に厳しく見つめる観察者としての視点である。そこに、時代への風刺、皮肉、諧謔精神も随所に盛り込まれ、鋭い批判と先見性も読み取れる。オリンピックを梃に高度成長に向かう日本の状況にみんなが浮かれているそんな時代に、既にその先の不安な時代を見越し、鋭く批判していた事に驚く。
それにしても、川島監督が1955年に「愛のお荷物」で頭角を表わしてから、1963年に亡くなるまで、わずか8年!である。この短い期間に、傑作、名作、珍作、怪作を時には年4本というハイペースで作り続け、時代を駆け抜け、その短い生涯を終えた。まさに藤本義一の著作のタイトルにもあるように、“生き急いだ人生”であったと言えるだろう。
こういう力のこもった特集上映を組んでくれたシネ・ヌーヴォにも感謝したい。欲を言えば、大映で撮った若尾文子主演3部作(「女は二度生まれる」「雁の寺」「しとやかな獣」)が今回のラインナップから漏れたのが残念だった。これらも川島監督の代表作だろうから。
今後も機会があれば、川島監督作品を追いかけてみたいと思う。まだまだ埋もれた秀作があるかも知れない。
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