2020年を振り返る/追悼特集
今年も押しつまりましたね。いかがお過ごしでしょうか。
さて今年も、毎年恒例の、この1年間に亡くなられた映画人の方々の追悼特集を行います。
ではまず、海外の映画俳優の方々から。
1月8日 エド・バーンズ氏 享年86歳 よほどの年配の方しかご存じないかも知れませんが、アメリカで1958年から足掛け7年にわたってテレビ放映され、日本でも'60年代に放映されて大人気だった私立探偵ドラマ「サンセット77」でレギュラーのクーキー役をを演じた俳優です。最初の頃は探偵事務所の隣にあるレストランの駐車場係でしたが、次第に人気が出て、やがて自らも探偵事務所入りしました。オープニング・タイトルで、バーンズが櫛で髪をキザにすくシーンがよく懐かし番組でも登場していましたから、ああ、あれと思い出す人も多いかも知れません。

ただ、番組終了後はパッとせず、映画にも何本か出ましたがほとんど人気が出ず、1966年以降はイタリアに渡り、「荒野のお尋ね者」「黄金の三悪人」他の数本のマカロニ・ウエスタンに出演しましたがやはりサッパリ売れず、帰米しても低予算のB級映画からしか声がかからず、いつの間にか忘れられてしまいました。Q・タランティーノ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」でタランティーノが言っていた「50年前にテレビスターから映画俳優への移行がうまくいかず、“スティーブ・マックィーンになれなかった男”」の一人と言えるでしょう。残念ですね。
1月21日 テリー・ジョーンズ氏 享年77歳
イギリスのコメディアンで、映画監督、脚本家、歴史学者と多彩な顔を持つ才人です。1969年にテリー・ギリアム、グレアム・チャップマン、エリック・アイドル、マイケル・ペイリンら6人と“モンティ・パイソン”を結成、同年よりグループ名を冠したバラエティ番組をテレビで放映し、6年続く人気番組になりました。これは日本でも1976年から東京12チャンネル(現テレビ東京)で「空飛ぶモンティ・パイソン」のタイトルで放映され、そのシュールなギャグが話題を呼びました。ジョーンズは脚本・構成・出演で活躍します。
テレビ終了後は映画にも進出、「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」(1975・テリー・ギリアムと共同監督)、「ライフ・オブ・ブライアン」(1979)、「モンティ・パイソン 人生狂騒曲」(1983)等のモンティ・パイソン・シリーズでいずれも監督・脚本・出演を務めます。また1986年には、デヴィッド・ボウイ主演の「ラビリンス/魔王の迷宮」(ジム・ヘンソン監督)の脚本を執筆しています。その後も歴史学者として活動したり、子供向け絵本、小説の執筆等、多彩な活動を続けます。最近では、2015年に監督作「ミラクル・ニール!」を発表、サイモン・ペッグ主演の楽しいナンセンスSFコメディの快作でした。この映画には存命のモンティ・パイソンのメンバー全員が声の出演を行っています。
モンティ・パイソンは私も楽しく見ていました。またこのメンバーから、テリー・ギリアムという異能の映画作家が誕生した事も記憶に留めておくべきでしょう。天才同士がコラボする事で互いに才能を開花した点でも、パイソンが“コメディ界のビートルズ”と呼ばれるのも納得です。その功績は、もっと評価されてもいいと思います。
2月5日 カーク・ダグラス氏 享年103歳
ハリウッドの黄金期を代表する名優ですね。まだご存命だったとは。
両親はロシア移民で、本名はイサー・デムスキー。但し生まれはニューヨーク州です。家計は貧乏で、いろんな職業を転々としつつ学費を稼いでセント・ローレンス大学を卒業したという苦労人です。卒業後、舞台俳優を志し、アメリカ演劇アカデミーに学んだ後舞台俳優に。その舞台を見たプロデューサーのハル・B・ウォリスに認められて映画界入り(演劇アカデミーの同窓生ローレン・バコールに薦められたという説もあり)、1946年の「呪いの血」(日本未公開)で映画デビューを果たします。当初はパッとしませんでしたが、1949年のボクシング映画「チャンピオン」が出世作となりアカデミー主演男優賞にもノミネート、さらにウィリアム・ワイラー監督の「探偵物語」(51)の名演でトップスターの地位を固めます。私が最初に観たダグラス出演作品はディズニー・プロのSF映画「海底二万哩」(54・リチャード・フライシャー監督)でした。あと好きな作品は、ジョン・スタージェス監督の2本の西部劇「OK牧場の決闘」(57)、「ガンヒルの決闘」(58)、スタンリー・キューブリック監督「突撃」(57)、そして忘れられないのが、そのキューブリックを監督に起用し、自身のプロダクションで作った大作「スパルタカス」(59)ですね。ダグラスが偉いのは、それまで赤狩りでブラックリストに載せられた為に、世間からは隠れて匿名や名義借りで脚本を書いていたダルトン・トランボをこの映画の脚本家として起用し、赤狩り後初めてクレジットに実名でトランボの名前を出した事です。これがきっかけとなってトランボは完全にハリウッドに復帰するわけで、気骨のある人だなと改めてダグラスを見直しました。
その後も多くの映画に出演、映画史に名を刻みました。息子・マイケル・ダグラスも父に倣って俳優、プロデューサーとしても活躍していますね。103歳は大往生と言えるでしょう。
ちなみに、1966年に大映で作られた特撮時代劇「大魔神」の顔、特に割れたアゴは、カーク・ダグラスがモデルと言われています。
3月8日 マックス・フォン・シドー氏 享年90歳
この方も名優ですね。スウェーデンの俳優で、演劇学校を卒業後、巨匠イングマール・ベルイマン監督に見出され、「第七の封印」(56)、「野いちご」(57)、「処女の泉」(60)、「鏡の中にある如く」(61)とベルイマン監督の代表的傑作に立て続けに出演、ベルイマン作品に欠かせぬ俳優となります。65年にはハリウッドにも進出、「偉大な生涯の物語」を皮切りに多くのアメリカ映画に出演しています。中でも、オカルト映画の大ヒット作「エクソシスト」(73)のメリン神父役は話題になりましたね。その後もSFから戦争映画、ファンタジーまで数多くの映画に出演。そんな中、久々に出演したスエーデン映画(デンマークと合作)「ペレ」(87・ビレ・アウグスト監督)での渋い名演は光ります。2002年にはフランス国籍を取得。2011年にはその功績を称えてレジオン・ドヌール勲章を受章します。晩年まで多くの映画に出演。なんと「スター・ウォーズ フォースの覚醒」(2015)にも出演してます。多分これが遺作だと思われます。
3月16日 スチュアート・ホイットマン氏 享年92歳 アメリカの俳優で、ゲジゲジ眉毛が特徴でした。1951年のSF映画「地球最後の日」で映画デビュー。同じ年にこれもSF映画の名作「地球の静止する日」(ロバート・ワイズ監督)にも出演とSFづいてます。その後は西部劇、戦争映画など多くの映画に出演。主演作で印象に残っているのは、「素晴らしきヒコーキ野郎」(64・ケン・アナキン監督)ですね。世界各国のスターといろんなヒコーキが豪華共演した楽しい映画です。なんと石原裕次郎も日本代表として出演してます。ホイットマンは最後まで優勝を争って活躍します。他の主演作では、ホイットマンがダーティハリーばりにマグナム拳銃をぶっ放す刑事アクション「ビッグ・マグナム77」(76)も印象に残ってます。
4月5日 オナー・ブラックマンさん 享年94歳
懐かしい!007シリーズ3作目「007/ゴールドフィンガー」(1964)のボンドガール、プシー・ガロア役を演じた方です。敵役ゴールドフィンガーの部下でしたが、ボンドのセックス・アピール攻撃に負けてボンドの味方に寝返る役でした(笑)。この作品が強烈だったので、他の作品が思い浮かびません。まあフィルモグラフィー見てもB級映画が多いのですが。ただ調べてて分かったのですが、レイ・ハリーハウゼンの特撮で知られる「アルゴ探検隊の大冒険」(63)で女神ヘラ役を演じてたのですね。これは気がつきませんでした。テレビでは、イギリスで1961年から8年に渡って放映され大人気となった「おしゃれ㊙探偵」にキャシー・ゲイル役でレギュラー出演。また、「刑事コロンボ」の1本「ロンドンの傘」にもゲスト出演してます。晩年には「ブリジット・ジョーンズの日記」(2001)でも健在ぶりを見せました。また「ゴールドフィンガー」を観て彼女を偲びましょう。
4月15日 ブライアン・デネヒー氏 享年81歳
アイルランド系アメリカ人で、最初は舞台に出てて、1977年からテレビにも出演、同年、「ミスター・グッドバーを探して」の外科医役で映画デビューを果たします。当初はあまり目立ちませんでしたが、1982年、シルヴェスター・スタローン主演「ランボー」でランボーを追う保安官役で強烈な印象を残しました。以後も多くの映画で貴重なバイプレイヤーとして活躍します。1987年にはピーター・グリーナウェイ監督の「建築家の腹」(カンヌ映画祭パルムドール受賞)に主演、これでシカゴ映画祭最優秀主演男優賞を受賞します。映画出演は2015年のテレンス・マリック監督「聖杯たちの騎士」が最後のようですが、テレビではつい最近まで活躍していたようです。

4月22日 シャーリー・ナイトさん 享年83歳
1959年に映画デビューしていますが、翌年の「階段の上の暗闇」(60・デルバート・マン監督)と、ポール・ニューマンと共演した「渇いた太陽」(62・リチャード・ブルックス監督)で2度アカデミー助演女優賞にノミネートされたほどの実力派。1967年には「Dutchman」(日本未公開)でヴェネチア国際映画祭女優賞を受賞しています。69年のフランシス・フォード・コッポラ監督の秀作「雨のなかの女」では主演の結婚生活に疲れ家出する主婦役を巧演。彼女の代表作と言えるでしょう。その後は助演作が多くなり、またテレビドラマに軸足を置くようになって映画出演はしばらくご無沙汰となります。その後還暦を越えた1996年頃から映画に復帰。1997年のジャック・ニコルソン主演「恋愛小説家」(ジェームズ・L・ブルックス監督)ではヘレン・ハントの母親役を演じています。演技派女優なのですが、地味な印象で損していますね。「雨のなかの女」は彼女主演という事と、フランシス・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」以前の代表作として再評価されてもいいと思います。
5月12日 ミシェル・ピコリ氏 享年94歳
この方も懐かしいですね。フランスを代表する名優です。ジャン・ピエール・メルヴィル監督「いぬ」、ジャン・L・ゴダール監督「軽蔑」やロジェ・ヴァディム監督「獲物の分け前」など、フランスの一流監督の作品で印象的な好演を見せていますが、中でもルイス・ブニュエル監督の後期の作品、「小間使の日記」、「昼顔」、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」、「自由の幻想」などに連続して出演、ブニュエル作品には欠かせない俳優となります。その後もヨーロッパ、アメリカを股にかけて数多くの映画に出演しています。中でも91年の「美しき諍い女」での名演は忘れられませんね。90年代からは監督にも進出しましたが、その後も俳優業を続けます。2011年には「 ローマ法王の休日」でローマ法王を演じました。
6月19日 イアン・ホルム氏 享年88歳
イギリス出身で、王立演劇学校で学び、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに14年間所属した後、67年にはブロードウェイに進出、翌年ジョン・フランケンハイマー監督「フィクサー」で映画デビューを果たします。そしてリドリー・スコット監督の「エイリアン」(79)におけるアッシュ役で強烈な印象を残し、映画ファンにも知られるようになりました。81年には「炎のランナー」で英国アカデミーとカンヌ国際映画祭の助演賞を獲得しています。その他の代表作はテリー・ギリアム監督「バンデットQ」(81)、「未来世紀ブラジル」(85)、リュック・ベッソン監督「フィフス・エレメント」など。2001年にはピーター・ジャクソン監督「ロード・オブ・ザ・リング」でフロドの養父ビルボ・バギンズ役を演じ、以後同シリーズ3作目「王の帰還」、2012年からの同シリーズ前日譚「ホビット」2作でもビルボ・バギンズを演じました。98年にはサーの称号も授与されています。まさに名優と言えるでしょうね。
6月26日 タリン・パワーさん 享年66歳
「血と砂」、「愛情物語」等の名優、タイロン・パワーの娘さんで、本人も女優を志しますが、1977年、レイ・ハリーハウゼン特撮もの「シンドバッド虎の目大冒険」に出演したもののあまり話題にならず、その後も数本の映画に出演しますがほとんど我が国未公開。いつの間にか忘れられてしまいました。「虎の目大冒険」でちょっと注目したのですがね。惜しいです。
7月25日 ジョン・サクソン氏 享年83歳
1954年に映画デビューし、2作目の「狙われた女」(56)で主役に抜擢され、以降、二枚目から悪役まで何でもこなす演技派として活躍します。しかし段々助演作が多くなり、「シェラマドレの決闘」(66)、イーストウッド主演「シノーラ」(72)等にも出演していますが、あまり印象には残っていませんね。ところが73年の「燃えよドラゴン」でブルース・リーと共演、これで一躍名を知られるようになりました。しかしそれ以降は誰に会ってもブルース・リーのことばかり訊かれるため、ノイローゼになったそうです(笑)。以後も多くの映画に出演しますが、アクション映画の脇役ばかりで、そのうち「エルム街の悪夢」シリーズ等のホラー映画にも出演するようになります。後年の出演作に、タランティーノ原案・主演の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」がありますが、どこに出てたのか全く覚えてません。「燃えよドラゴン」出演、果たしてサクソンにとって良かったのかどうか、何とも言えませんね。
7月26日 オリヴィア・デ・ハヴィランドさん 享年104歳
なんと、まだご存命だったとは。あの映画史上に残る名作「風と共に去りぬ」(1939)で演じたメラニー役は有名ですね。この作品でアカデミー助演女優賞にノミネートされますが受賞は逃しました。その後「遥かなる我が子」(1946)と「女相続人」(1949)で2度アカデミー主演女優賞を受賞しています。妹のジョーン・フォンテインも女優で、「ジェーン・エア」等で活躍しました。「風と共に去りぬ」公開から81年!主要なキャストの中で最後の存命者でした。
8月1日 レニ・サントーニ氏 享年81歳
アメリカ人ですが、スペイン系の血を引いています。映画デビューは1964年のシドニー・ルメット監督「質屋」。そして有名になったのが1971年のクリント・イーストウッド主演「ダーティ ハリー」でのハリーの相棒チコ・ゴンザレス刑事役。その後はシルベスター・スタローン主演の刑事ドラマ「コブラ」でも相棒のトニー・ゴンザレス役を演じてます。その後もテレビ、映画を通じて数多くの作品に出演しました。また声優としても活躍しました。なお資料によって誕生日が異なり、82歳没という説もあります。
8月28日 チャドウィック・ボーズマン氏 享年43歳
なんとまあ、ブラックパンサーが死んじゃった。
映画初出演は2008年。そして2013年の「42 ~世界を変えた男~」で主役のジャッキー・ロビンソンを演じ注目されました。2014年の「ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男」でもジェームス・ブラウンに扮する等、実在の人物役が続きました。そして2018年、マーベル・スタジオ作品「ブラックパンサー」(2018)で主役のブラックパンサーを演じた事で一躍有名になりました。その後もマーベルの「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」(2018)、「アベンジャーズ/エンドゲーム」(2019)でブラックパンサー役を演じています。が、これからという時に大腸ガンで43歳の若さで亡くなりました。演技力は確かなだけに、まだまだ活躍が期待されていたのに。惜しいですね。
9月10日 ダイアナ・リグさん 享年82歳
なんと、オナー・ブラックマンさんに続いてボンドガールの死去です。2代目ボンド役、ジョージ・レーゼンビー主演の6作目「女王陛下の007」でボンドの相手役、と言うより、007シリーズで唯一ボンドと結婚した事でも記憶に残る方でした。彼女が最後にブロフェルドに殺され、ボンドが悲嘆に暮れるのが結末で、シリーズ唯一、アンハッピーエンド的幕切れ、という点でもシリーズ中異色の作品と言えるでしょう。
9月16日 エンリケ・イラソキ氏 享年77歳
スペインの俳優。エンリケ・イラゾクイと表記される事も。ピエール・パオロ・パゾリーニ監督の秀作「奇跡の丘」(1964)で主役のキリスト役を演じました。パゾリーニはこの映画の出演者全員を素人で固め、無論イラソキも映画初出演です。それによって、まるでドキュメンタリーを見ているかのような異様な迫力が出ています。イラソキはその後も数本の映画に出ていますが全て日本未公開。その為日本では余程の映画ファン以外知らないと思われます。しかし「奇跡の丘」でイラソキが演じたキリストは、私は今も印象に残っていて忘れられませんね。

9月21日 マイケル・ロンズデールさん 享年89歳
これまた007シリーズの出演者の死去で、こちらは悪役を演じた方です。シリーズ11作目「007/ムーンレイカー」(1979)で敵役、ヒューゴ・ドラックスを演じました。
イギリス系フランス人で、フランスを拠点に多くの映画に出演しています(フランス語読みではミシェル・ロンズデール)。代表作を挙げると、ルネ・クレマン監督の大作「パリは燃えているか」(1966)、フランソワ・トリュフォー監督の「黒衣の花嫁」(68)、同「夜霧の恋人たち」(68)、ルイ・マル監督「好奇心」(71)、ルイス・ブニュエル監督「自由の幻想」(74)など、フランスを代表する名匠、巨匠の作品が多いですね。またアメリカ映画にも数本出演しており、代表的なものにフレッド・ジンネマン監督のドゴール大統領暗殺を狙う殺し屋を描いたサスペンス「ジャッカルの日」(73)における警視役、ジョン・フランケンハイマー監督のクライム・アクション「RONIN」(98)等があります。60年の役者人生で、200本以上の映画に出演した他、舞台演出家としても活躍されました。
10月14日 ロンダ・フレミングさん 享年97歳
今年DVDで見て、当ブログでも紹介したサスペンス・スリラーの名作「らせん階段」(1946・ロバート・シオドマク監督)での名演技が印象的でした。この作品の他「過去を逃れて」(47)、「口紅殺人事件」(56)等、フィルム・ノワールの名作が多いですね。映画デビュー作はヒッチコック監督の「白い恐怖」(45)。ジョン・スタージェス監督の西部劇「OK牧場の決斗」(57)など西部劇にも多く出演しています。川本三郎さんによると、赤毛のグラマー女優で、炎のような鉄火女を演じる事が多かったので名前をもじってロンダ・フレイミングと言われたそうです。また赤い髪と白い肌がカラー映画に映える事から「テクニカラーの女王」とも呼ばれていたという事です。
10月30~31日 ショーン・コネリー氏 享年90歳 007出演俳優が多く亡くなっていると上に書きましたが、なんと!その007映画で初代ジェームズ・ボンドを演じたショーン・コネリーまで亡くなられたとは。ファンとして大ショックです。
ジェームズ・ボンド役はコネリー以外にも、ロジャー・ムーア、ピアース・ブロスナン、最近のダニエル・クレイグなど多くの役者が演じてますが、個人的にはコネリーが最適役、最もボンド役が似合った役者だと断言します。その理由は多くの方が言ってますが、イギリス紳士としての“お洒落さ”、“粋さ”、“ダンディズム”にあると言えるでしょう。加えてウィットに富んだ会話もいいですね(「ロシアより愛をこめて」における「女の口は怖い」など)。しかし私は何と言っても、コネリーの最大の魅力はフェロモン芬々のセックス・アピールにあると思います。彼に抱かれたら、どんな女もメロメロ、特に第3作「ゴールドフィンガー」では、敵の一味であるプシー・ガロア(オナー・ブラックマン)に猛アタックし、とうとう篭絡して味方に引き入れてしまうのです(私は拙ブログの007に関する記事で、「ボンドの下半身も立派な秘密兵器だ」と書きました(笑))。2作目「ロシアより愛をこめて」でも、やはり敵のスペクターNo2の命令で、ボンドを辱めて殺す為の罠としてボンドに近づいたタチアナ(ダニエラ・ビアンキ)も、最後はボンドにコロリ参ってボンドの味方になって、ラストはヴェニスの運河でラブシーンと相成るわけです。コネリー以外の誰が演じても、コネリーの粋さ、ダンディズム、色男ぶりには太刀打ち出来ないでしょう。007映画のベストを挙げるとしたら、私はコネリー主演の1、2、3作目がベスト3だと思いますが、多分最初から見ているファンなら異論はないでしょう。
ボンド役を降りた後は、今度は優れた名優として地位を不動のものにします。「風とライオン」、「ロビンとマリアン」、「アンタッチャブル」、「薔薇の名前」、後年の「小説家を見つけたら」etc...グッと渋みを増して、歳をとってもやはり素敵なダンディぶりを発揮しています。本当に素晴らしい役者でした。
11月28日 デヴィッド・プラウズ氏 享年85歳
イギリスの俳優で、ボディービルダーから俳優に転じました。そしてあの「スター・ウォーズ」シリーズ・エピソード4~6でダース・ベイダーを演じた事で一躍名を知られました。ただ、声はジェームズ・R・ジョーンズが演じ、「エピソードⅥ ジェダイの復讐」で最後に見せた顔も別人で、結局俳優としての顔はほとんど知られないままだったのは気の毒でしたね。
さて、日本の俳優に移ります。
1月12日 青山京子さん 享年84歳
1952年、東宝のオーディションを受け、丸山誠治監督「思春期」で映画デビュー。以後も東宝専属俳優として多くの東宝映画に出演。代表作は久保明と共演した三島由紀夫原作「潮騒」でしょうね。黒澤明監督「生きものの記録」(55)では三船敏郎扮する主人公の次女を演じています。1958年にフリーとなり、大映・市川雷蔵主演「弁天小僧」、松竹「江戸遊民伝」、そして東映に移って加藤泰監督「大江戸の侠児」、その他数多くの時代劇に出演してます。映画出演は1963年が最後で、その後テレビに軸足を移します。そして67年、日活の小林旭と結婚、芸能界から引退します。
それにしても、日活映画には全く出ていないのに、日活の大スターと結婚したというのも面白いですね。
1月18日 宍戸 錠氏 享年86歳 その小林旭と日活無国籍アクションなどで無数の共演歴がある宍戸錠さんも亡くなられました。
1954年、日活ニューフェイス(第1期生)として入社。55年、「警察日記」(久松静児監督)で若い巡査役で映画デビューを果たします。この時はまだ頬っぺたも膨らんでなく、ハンサムな好青年でした。しかしその後は端役が続き、これではいけないと思ったか、宍戸は56年、豊頬手術を受けてふてぶてしい悪人顔に変貌、以後悪役や憎たらしい敵役を演じて次第に注目されて行きます。そして1960年代から始まった、小林旭主演「渡り鳥」シリーズ、「流れ者」シリーズ、赤木圭一郎主演「拳銃無頼帖」シリーズ等で、ヒーローのライバル役として大活躍、キザなセリフを言ったり、物語の最後にはヒーローを立ててカッコよく退場したり、まさにヒーローに引けを取らない存在感を見せつけます。“エースのジョー”の愛称も定着します。
61年には、石原裕次郎がスキー事故で重傷を負い、さらに赤木圭一郎も不慮の事故で死去し、主演俳優が不足した為に、宍戸錠に主役が回って来ます。主演第1作「ろくでなし稼業」は二谷英明との掛け合いが楽しいコメディ・アクションの快作でした。以後も主演作が相次ぎ、拳銃を抜いてから発射までのスピードが世界第3位とのふれ込みの「早射ち野郎」、「紅の銃帯(ガンベルト)」等の和製西部劇に主演、人気はうなぎ登りとなります。
63年には鈴木清順監督の「探偵事務所23 くたばれ悪党ども」や「野獣の青春」等に主演。特に後者はそれまでの明るいコメディとは一転、暗い情念を漂わせたハードボイルドの傑作で、現在では鈴木監督の最初の傑作として高く評価されています。67年には「拳銃は俺のパスポート」、「みな殺しの拳銃」、「殺しの烙印」と殺し屋映画の傑作に立て続けに主演、評価は増々高まります。68年の「縄張はもらった」、71年の「流血の抗争」の2本の長谷部安春監督作品も、日活ニューアクションと呼ばれたジャンルの傑作です。この辺りまでが錠さんの絶頂期だと言えるでしょう。
日活がロマンポルノに転じた後は、東映などでも活躍しますが、助演ばかりで錠さんの魅力を生かした作品には巡り合えないまま、やがてテレビのコント番組等に出演するようになります。もったいない事です。
それを惜しんだ林海象監督が、94年から3年にわたって作った「私立探偵濱マイク」シリーズに、元刑事でマイクの師匠格の探偵として宍戸錠を出演させます。役名はそのまま“宍戸”でした。
2005年からはやはり林海象監督企画によるネット配信ドラマ「探偵事務所5」シリーズに、会長500役で宍戸錠を起用。この番組のタイトルは前掲の宍戸錠主演作「探偵事務所23」のもじり(2+3=5(笑))で、これから見ても林監督の宍戸錠リスペクト愛が溢れています。2008年の同シリーズからスピンオフした劇場映画「THE CODE/暗号」(林海象監督)では、嬉しい事に錠さんがガンベルトを腰に巻き、拳銃をクルクルと回してストンと収める仕草をします。ファンとしては泣けます。
個人的には、もっと映画に出て欲しかったと思います。出来ればもう一度、小林旭、浅丘ルリ子、渡哲也と共演した日活アクション・オマージュ映画を見たいとずっと思っていましたが、叶いませんでした。残念です。
1月19日 原 知佐子さん 享年84歳
大学2年の時、新東宝第4期スター募集に合格し、大学を中退して新東宝に入社します。数本の新東宝作品に出演しますが、59年には東宝に移籍します。この時代の代表作は、松本清張原作「黒い画集 あるサラリーマンの証言」(60・堀川弘通監督)での小林桂樹の愛人役ですね。好きな男が出来て小林をすげなく捨ててしまう現代的な女性を好演し、その後も小悪魔的な役柄を持ち味とします。62年の鈴木英夫監督の秀作「その場所に女ありて」でも、副業で金貸しをやってる女性を演じています。62年には東宝を退社、松竹の篠田正浩監督「乾いた花」、大映の増村保造監督「華岡青洲の妻」などの鬼才監督の話題作に出演して存在感を示しました。テレビドラマにも多く出演、特に大映テレビ室作品(「赤い」シリーズ等)では憎まれ役を好演しました。64年に当時テレビディレクターだった実相寺昭雄と結婚、以後も実相寺監督作品には多く出演しています。幅広い役を演じられる、いい女優でしたね。
1月29日(遺体発見日) 梓みちよさん 享年76歳
「こんにちは赤ちゃん」のヒット曲で知られる歌手ですが、映画にも数本出演しています。自身のヒット曲の映画化「こんにちは赤ちゃん」(64)、東映で北大路欣也と共演した「虹をつかむ恋人たち」(65)などの主演作があります。その他数本のコメディ作品に助演。まあやはり「二人でお酒を」、「メランコリー」等の大人の歌がいいですね。
3月21日 宮城まり子さん 享年93歳
元は歌手で、1955年に「ガード下の靴みがき」が大ヒットしました。その後映画やテレビに出演するようになります。映画出演作としては、東宝の「てんてん娘」シリーズ(56)、アニメ「白蛇伝」(58)の声の出演、川島雄三監督「グラマ島の誘惑」(59)、市川崑監督「黒い十人の女」(61)といった巨匠の異色作もあります。映画出演は64年くらいまで、以後は舞台に活動の場を移します。
この方が有名なのは1968年、私財を投じて肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を設立、園長となって体に障害のある子供たちの教育に尽力された事です。本来は国がやるべき事を、私財を投じただけでなく、自らも施設の園長先生として子供たちと肌で接し教育に携わるなど、その献身的な姿には頭が下がります。またその子供たちとの日々を記録したドキュメンタリー映画「ねむの木の詩」(74)の製作・監督も手掛けました。これも目的は障害のある子供たちの実態を広く知ってもらう為です。このねむの木学園の事を紹介した新聞記事を読んだ時には、感動でボロボロ泣いてしまいました。日本のマリー・テレザと言ってもいいでしょう。本当に素晴らしい方でした。
3月29日 志村けん氏 享年70歳
元ザ・ドリフターズのメンバーで、お笑いタレントとしてテレビで活躍した事は誰もが知ってますのでここでは書きません。
映画出演は74年以降のドリフターズ総出演「全員集合」シリーズくらいでしたが、1999年、高倉健の熱烈な依頼で「鉄道員(ぽっぽや)」に出演、なかなかの熱演を見せました。そして本年、山田洋次監督の要望に応えて「キネマの神様」に主演する事になっていましたが、コロナ感染で降板する事となり、映画は沢田研二が主演を引き継ぎました。テレビでも「エール」で山田耕筰をモデルにした作曲家役で出演、これから渋い役者としての活躍が期待されていたのに、とても残念です。
4月3日 志賀 勝氏 享年78歳
東映の脇役俳優集団「ピラニア軍団」の一員として知られていましたね。父親はやはり東映で悪役も多かった加賀邦男さんです。
1960年に東映入社。京都撮影所に所属し、最初の頃は大部屋俳優として、主に時代劇の斬られ役やチンピラ役を演じました。この辺りは同じピラニア軍団の川谷拓三と同じような経緯を辿っていますね。
私がちょっと注目したのは、加藤泰監督「沓掛時次郎 遊侠一匹」(66)での、序盤の賭場シーンにおける中盆役ですね。いかにも怖そうなヤクザ役を好演しておりました。その後も無数の東映任侠映画で助演しております。やがて若山富三郎に気に入られ、「極道」シリーズ他の若山主演作にほとんど出演するようになります。
1960年代半ばから、川谷や室田日出男、片桐竜次らとピラニア軍団を結成、そして深作欣二監督「仁義なき戦い」で深作はピラニアたちを重要な役で起用、これで川谷、志賀らは一躍有名になります。志賀はその後、「大奥浮世風呂」(77)では遂に主演を果たす事となります。その後も数多くの映画、テレビ、OVで、ヤクザ、裏社会で生きるアウトロー役等で幅広く活躍しますが、後年はソフトな役柄も増えて、例えば阪本順治監督「ぼくんち」(2003)では、くず鉄拾いで物知りの鉄じい役を好演しています。晩年はほとんどがOV(オリジナルビデオ)出演ばかりですが、映画本編でももっと活躍する所を見たかったですね。
4月23日 久米 明氏 享年96歳
大学在学中から芝居の魅力にとりつかれ、1947年、木下順二、山本安英らと劇団「ぶどうの会」を結成、以降も中心俳優として活躍していた大ベテランです。映画初出演は63年の今村昌平監督「にっぽん昆虫記」。その後67年あたりから積極的に映画に出るようになります。眼鏡をかけると元総理大臣の池田勇人によく似ているので、山本薩夫監督「金環蝕」(75)、「不毛地帯」(76)などで池田勇人がモデルの政治家役を演じました。またNHKテレビのセミドキュメンタリー・ドラマ「日本の戦後」でも池田勇人役を演じています。声優の仕事も多く、特にハンフリー・ボガートの吹替はほぼ専属でした。後年はNHK「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーターを昨年まで25年間も務めました。95歳まで現役だったわけですから大したものですね。映画出演は(声優は除く)99年の井筒和幸監督「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」が多分最後だと思います。
7月18日 三浦春馬氏 享年30歳
4歳の頃から子役として活躍し、映画初出演も9歳の時の「金融腐蝕列島・呪縛」です。12歳の時には早くも主演映画(「森の学校」)を撮っています。天才子役と言われていたとも。私が注目したのは2008年の「奈緒子」ですね。フレッシュな若者を溌溂と演じていました。これで毎日映画コンクール、日本アカデミー賞で新人賞を受賞しています。代表作は「永遠の0」(2013)、「進撃の巨人」(2015)、「アイネクライネナハトムジーク」(2019)、それに今年公開の「天外者」あたりでしょうか。まだまだこれからだったのに。本当に残念ですね。
7月(日付不明) 河原崎次郎氏 享年79歳
父は戦前からの名優、河原崎長十郎、母も名女優河原崎しづ江、兄も俳優河原崎長一郎、弟も同・河原崎健三と俳優一家です。映画デビューは10歳の時の今井正監督「どっこい生きてる」(1951)。大学卒業後、俳優座に入り、舞台、映画で活躍します。代表作は新藤兼人監督の「お琴と佐助」を題材にした「讃歌」での佐助役ですね。その後も東陽一監督「日本妖怪伝 サトリ」(73)、山口清一郎監督「-北村透谷- わが冬の歌」(77)等の異色作に出演、村野鐵太郎監督「月山」(79)でも主役を演じました。いい役者だったのですが、映画出演は少なく、また父や兄・長一郎ほどには人気が出ず、やがてテレビの時代劇「水戸黄門」「必殺シリーズ」などで、もっぱら凄みのある悪役として活躍しました。でも、もう少し映画で活躍して欲しかったですね。
8月10日 渡 哲也氏 享年78歳 大ショックです。大好きな俳優でした。一般的にはテレビの刑事アクションドラマ「大都会」シリーズ、「西部警察」等で知られていますが、私にとっては映画、それも日活時代の数多くの名作が強烈に印象に残っています。
1965年、日活に入社、デビュー当時は石原裕次郎主演作品のリメイクが多く、日活も裕次郎二世として売り出したかったようです。最初に印象に残ったのが鈴木清順監督の傑作「東京流れ者」(66)でした。ポップでキッチュな演出が見どころですが、渡演じる“不死鳥の哲”もなかなか魅力的なヒーローでした。特にラストに、恋人だった松原智恵子に対し「流れ者に女はいらねえ」「女と一緒じゃ歩けないんだ!」と投げつけるセリフは実にカッコいい。シビレました。 そして、渡主演の最高傑作が67年の舛田利雄監督の「紅の流れ星」です。これは裕次郎主演の「赤い波止場」のリメイクですが、それに重ねて、ジャン・P・ベルモンド主演のJ・L・ゴダール作品「勝手にしやがれ」からも頂いてて、渡扮する殺し屋・五郎が東京からやって来た浅丘ルリ子扮する女に夢中になって、しょっちゅうベルモンドばりに「寝ようよ」とアタックするのが最高におかしい。帽子を目深にしてジェンカを踊るシーンも楽しい。とにかく後の渡作品からは想像も出来ない程、この作品の渡哲也は軽くて饒舌で、キザで、女たらしでユーモラスです。そして自分の弟分(杉良太郎)が殺された事で、ようやくベッドインできる寸前でルリ子を置き去りにした為、ラストではルリ子に警察に密告され、刑事(藤竜也)に撃たれ、自分で帽子を被せて息絶えるラストまで「勝手にしやがれ」丸パクリで、カッコいい。そして、渡を殺しに来た殺し屋役で、やはり今年亡くなった宍戸錠が共演、と見どころ一杯です。
そして翌年の「無頼より 大幹部」(舛田利雄監督)に始まる「無頼」シリーズも初期の代表作です(脚本は「紅の流れ星」も書いている池上金男)。実在のヤクザ(藤田五郎)が書いた原作の映画化ですが、ヤクザから足を洗おうと思いながらも、許せぬ悪に立ち向かい結局ドスを抜く五郎の悲しみと、愛する女への思慕とが絶妙にブレンドされた秀作です。特に3作目「無頼・人斬り五郎」は、2作目以降演出を引き継いだ新進・小沢啓一監督のダイナミックな演出と、伊部晴美の音楽が絶妙にマッチした、シリーズ中の最高作です。また日活時代の最後の作品「関東破門状」(小沢啓一監督)も傑作です。あと、日活ニューアクションの代表作として、長谷部安春監督「野獣を消せ」、沢田幸弘監督のデビュー作にして傑作「斬り込み」、藤田敏八監督の原田芳雄との共演作「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」なども忘れられませんね。
日活退社後は、松竹でこれまた「赤い波止場」の再リメイク「さらば掟」(71・舛田利雄監督)、やはり松竹で加藤泰監督「人生劇場 青春・愛欲・残侠編」(72)、「花と竜」(73)等を経て、75年東映入社、その第1作となった「仁義の墓場」は深作欣二監督の最高作であり、渡としても病み上がりで、凄みを増した熱演に圧倒されました。なお原作が「無頼」と同じ藤田五郎、というのも不思議な縁を感じさせます。
個人的には、私にとっての渡哲也はここまでで、以後のテレビドラマや、中年になってからの「時雨の記」、「長崎ぶらぶら節」なんかはどうでもいい、と言ったら語弊がありますが、とにかくデビューから「仁義の墓場」までの約10年間の渡哲也は、まさに孤独なアウトローとしての輝きとオーラを放つ、鮮烈な青春映画スターだったと断言して憚りません。それにしても、71年に日活が経営不振でアクション映画から撤退しなかったら、あるいは病気がなかったら、もっといろんな映画で活躍出来たのにと思うと、返す返すも残念でなりません。
8月25日 梅野泰靖(やすきよ)氏 享年87歳
劇団民芸に所属し、舞台のかたわら1957年頃から映画にも出演、ほぼ日活専属みたいな形で、多くの映画で貴重なバイプレイヤーとして活躍されました。特に川島雄三監督「幕末太陽傳」(57)では手の付けられない放蕩息子・徳三郎役を好演、その他の主な作品は「上を向いて歩こう」(62)、裕次郎主演「鉄火場の風」(60)、同「太陽への脱出」(63)等多数。70年以降は山田洋次監督「家族」(70)、それに熊井啓監督作品には、「サンダカン八番娼館 望郷」(74)、「お吟さま」(78)、「日本の黒い夏 冤罪」(2000)と多く出演しています。また、三谷幸喜さんにも気に入られたようで、映画で「ラヂオの時間」(97)、「みんなのいえ」(2001)、「ザ・マジックアワー」(2008)に出演した他、テレビでも「今夜、宇宙の片隅で」(98)、「古畑任三郎」第28回「若旦那の犯罪」(99)、「わが家の歴史」(2010)と数多く出演しています。中でも「今夜、宇宙の片隅で」における、ニューヨークの日本食材店「楠」の店長役はまさにいぶし銀の名演でしたね。

9月14日 芦名 星さん 享年36歳
テレビの「相棒」で、写真週刊誌記者・風間楓子役で準レギュラー出演していたので、ちょっと注目していました。映画は主な作品では、海外合作映画「シルク」(2007)、「たとえ世界が終わっても」(2007・初主演)、「カムイ外伝」(2009)、「源氏物語 千年の謎」(2011)、「不能犯」(2017)、「検察側の罪人」(2018)、それに今年の「AI崩壊」等と数は少ないですがいろんな作品に出演していました。まだ若くて、これからだったのに、残念ですね。
9月19日 守屋 浩氏 享年81歳
これはまた懐かしい。1968年頃より日本で爆発的ヒットとなった、いわゆるロカビリー・ブームの中で、平尾昌晃やミッキー・カーチスと並んで大人気となりました。その後60年頃からは歌謡曲に転身、「僕は泣いちっち」、「有難や節」、「大学かぞえうた」などを大ヒットさせました。同じころから映画にも多く出演、日活で主に和田浩治主演の「六三制愚連隊」、「素っ飛び小僧」、「俺は銀座の騎兵隊」、「俺の故郷は大西部」、それに自身のヒット曲の映画化「僕は泣いちっち」(いずれも60年)、「有難や節 あゝ有難や有難や」(61)と立て続けに出演。もっとも多くは歌手役で歌うだけというのもありますが。俳優としては59年の東宝作品「檻の中の野郎たち」にミッキー・カーチスと共演、61年の東宝作品「守屋浩の三度笠シリーズ 泣きとうござんす」、「同・有難や三度笠」では主演を務めました。映画出演は68年の斎藤耕一監督「思い出の指輪」が最後となり、以後はホリプロのスカウト部長として若手歌手の発掘を手がけ、後にはホリプロの宣伝部長として活躍されました。ロカビリー・ブームの牽引をはじめ、日本の音楽界に多大な貢献をされた方として記憶に留めたいと思います。
9月19日 斎藤洋介氏 享年69歳
一度見たら忘れられない、モアイ像とも仇名される長いお顔が特徴でしたね。三宅裕司と劇団SETを設立、やがてテレビドラマに出演するようになります。注目されたのは鶴田浩二主演「男たちの旅路」(79)での車椅子の青年役ですね。以後もテレビ、映画を股にかけて活躍されます。映画は大森一樹監督「ヒポクラテスたち」(80)、「セーラー服と機関銃」(81)、「帝都大戦」(89)、「眠らない街 新宿鮫」(93)、「ぐるりのこと」(2008)等多数。特に大森一樹監督作には前記の他「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」(96)、「悲しき天使」(2006)、「ベトナムの風に吹かれて」(2015)など多く出演しています。今年公開の「狂武蔵」が遺作となったようです。個性的ないい役者でしたね。
9月20日 藤木 孝氏 享年80歳
この方も懐かしい。59年、ロカビリー歌手としてデビュー。やがて60年代のツイスト・ブームに乗って、「ツイストNo.1」、「踊れツイスト」、「24000のキッス」等が大ヒット、ミスター・ツイストと呼ばれてツイスト・ブームをけん引しました。その後、歌手は引退、61年頃から映画に出演、個性的な役者として活躍しました。主な出演作は、無軌道な若者映画「狂熱の果て」(61)、風刺コメディ「豚と金魚」(62)、篠田正浩監督の「涙を、獅子のたて髪に」(62)、同「乾いた花」(64)、加山雄三主演「狙撃」(68)など多数。71年頃からは東映の鈴木則文監督「現代ポルノ伝 先天性淫婦」(71)、「女番長(スケバン)ブルース 牝蜂の挑戦」(72)、伊藤俊也監督「女囚さそり けもの部屋」(73)などの異色作にも出演。また舞台、テレビでも大活躍されます。映画はその後しばらく途絶えていましたが、2016年、東宝「シン・ゴジラ」に東京都副知事役で久しぶりに出演されました。最近では「仮面ライダーアマゾンズ」シリーズに天条隆顕役でレギュラー出演。まだまだ元気なお姿が見られると思っていたのに。惜しいですね。
9月27日 竹内結子さん 享年40歳
映画は98年のホラー映画「リング」がデビュー作。2003年の「星に願いを」では主演を果たします。印象に残っているのは、同年の塩田明彦監督の秀作「黄泉がえり」ですね。翌年の「いま、会いにゆきます」もこれと似た感じのファンタジーの秀作。偶然ですが、幽霊や亡くなった人という役が続きましたね。2007年の「サイドカーに犬」の演技も見事でした。最近では中野量太監督「長いお別れ」(2019)における認知症の父の娘役が印象的でしたね。いい女優でした。残念です。
11月12日 四代目・坂田藤十郎氏 享年88歳 映画ファンとしては、1950年代の中村扇雀(二代目)名義での映画出演作が記憶に残っています。大映で活躍した二代目中村鴈治郎の長男で、妹は中村玉緒と芸能一家ですね。
1953年頃から、中村扇雀の名で多くの映画に出演。デビュー作は53年の高田浩吉主演「お役者小僧」。同年の五味康祐原作「魔剣」では水も滴る美剣士を演じています(右)。55年の「森蘭丸」では主役の森蘭丸役。同年の「美男お 小姓 人斬り彦斎」でも主役と、まさに美男が売りでした。56年の「遠山金さん捕物控 影に居た男」でも主役の遠山金四郎を演じます。57年の「柳生武芸帳」ではなんと女装して敵地に送り込まれる柳生又十郎役を巧演します。そして同年の「女殺し油地獄」(堀川弘通監督)では主役の河内屋与兵衛を、歌舞伎譲りの鬼気迫る演技で熱演、高く評価されました。しかし映画出演は58年の「柳生武芸帳 双竜秘剣」以降はしばらく途絶え、66年の松竹作品「横堀川」を最後として、以後は歌舞伎に専念する事となります。父親の中村鴈治郎は長年にわたって映画で活躍されただけに、もっと映画に出て欲しかったですね。
12月7日 小松政夫氏 享年78歳
1960年代のテレビの大ヒット・バラエティ番組「シャボン玉ホリデー」で、妙におカマっぽい役柄で出演していたのを覚えています。植木等の付き人兼運転手になり、植木の後押しもあって「シャボン玉ホリデー」に出演する事となり、以後コメディアンとして頭角を現して行きます。植木を生涯師匠として尊敬していた事は有名ですね。植木との師弟関係については、小松原案で「植木等とのぼせもん」(2017)のタイトルでテレビドラマ化されました。
映画はまず67年の日活作品「喜劇・大風呂敷」でデビュー、以後も数多くの映画に出演しています。81年には高倉健主演「駅 STATION」に助演、そして同じ健さん主演「居酒屋兆治」(83)では、妻を死なせてしまったタクシー運転手役を好演、この演技は忘れられませんね。その後もテレビで活躍する傍ら、映画にも数多く出演しています。最近では黒沢清監督「岸辺の旅」(2015)、そして「オケ老人!」(2016)の老人オーケストラ・メンバー役、2019年の「麻雀放浪記2020」での出目徳役も印象的でした。遺作は多分、来年公開の北朝鮮拉致の横田めぐみさんを題材にした劇映画「めぐみへの誓い」と思われます。
さて、ここからは映画監督の部です。まず外国勢から。
2月4日 - ホセ・ルイス・クエルダ氏 享年72歳
スペインの映画監督で、我が国では99年のスペイン映画「蝶の舌」の監督として有名です。スペイン内戦時を舞台に、やさしく思いやりのあるグレゴリオ先生を敬愛する少年の心を繊細に描いた秀作です。その他ではプロデューサーとして、アレハンドロ・アメナーバル監督の2本のサスペンス・ホラーの秀作「オープン・ユア・アイズ」(97)、「アザース」(2001)の製作を手掛けました。監督作としてはもう1本、「にぎやかな森」(87)があり、これはゴヤ賞の脚本賞を受賞しています。
3月24日 スチュアート・ゴードン氏 享年72歳
1985年、低予算ホラー映画「ZOMBIO/死霊のしたたり」で我が国デビュー。以後も「フロム・ビヨンド」(86)、「ロボ・ジョックス」(86)、「ペンデュラム/悪魔のふりこ」(91)とB級ホラーを連発します。まあ、ホラー映画ファン以外にはあまり知られてませんね。ただ脚本家としては、89年の人間がミクロ化するコメディでスマッシュヒットとなった「ミクロキッズ」の原案や、93年の「ボディ・スナッチャーズ」の脚本を担当する等、いい仕事をしています。
6月21日 ジョエル・シュマッカー氏 享年80歳
ジョエル・シューマカーとか、ジョエル・シュマッチャーとも表記される事があるのでややこしいですね。脚本家として出発、やがて監督業に進出、1980年に、リリー・トムリン主演のコメディ映画「縮みゆく女」で監督デビューを果たします。注目されたのは85年の「セント・エルモス・ファイアー」ですね。青春群像劇として高く評価されました。エミリオ・エステヴェスをはじめ、ロブ・ロウ、デミ・ムーアなど後にブレイクする若手俳優が出演していた事でも話題になりました。90年の医学心理スリラー「フラットライナーズ」もよく出来た作品です。私が好きなのは、マイケル・ダグラス主演の「フォーリング・ダウン」(93)ですね。いくつもの苛立ちが積み重なり、遂に主人公がキレてしまうまでを描いた一種の不条理サスペンスです。94年のジョン・グリシャム原作「依頼人」でも手堅い演出を見せ、95年にはティム・バートンを引き継いだ「バットマン・フォーエバー」がヒット、96年には再びジョン・グリシャム原作「評決のとき」と、監督としての評価は高まって行きます。もっとも、97年の「バットマン&ロビン/Mr.フリーズの逆襲」はラジー賞9部門ノミネートと酷評されて、その後しばらくは低迷しますが、2002年、電話ボックスだけを舞台にした異色のサスペンス「フォーン・ブース」が評価されて持ち直し、2004年のミュージカル「オペラ座の怪人」の大ヒットへと至ります。大作から地味だけど捨てがたい味のサスペンスまで、幅の広い監督でしたね。
6月29日 カール・ライナー氏 享年98歳
テレビジョン黎明期から活躍している多彩なクリエイターで、映画監督、俳優、プロデューサー、脚本家、声優といくつもの顔を持っています。俳優としては59年のデヴィド・ニーヴン主演「Happy
Anniversary」がデビュー作です。以後もいくつかの映画に出演。63年のテレビ界を風刺したコメディ「スリルのすべて」では原作と脚本を担当、そして67年には監督業にも進出します。日本初お目見えは77年の「オー!ゴッド」。老人の姿をした神様が現代のロスに現れるトボけたコメディです。私が好きなライナー監督作は、82年の「スティーヴ・マーティンの四つ数えろ」ですね。フィルム・ノワールを中心としたいろんな映画のフッテージを巧みにコラージュして、探偵を演じるスティーヴ・マーティンをそこにはめ込んで1本の映画に仕立て上げた、そのアイデアが絶品です。使われた作品は「拳銃貸します」「私は殺される」「殺人者」「ガラスの鍵」「深夜の告白」といった、以前当ブログで取り上げた作品もあるフィルム・ノワールの名作や、ボガート主演「三つ数えろ」(邦題はこれのもじり)、ヒッチコックの「断崖」「汚名」、キャグニー主演の「白熱」など多数。これらの映画を観ている人ほど、ああここはアレだな、と楽しめる作品になっています。映画ファンなら必見です。以後も「2つの頭脳を持つ男」(83)とか、「オール・オブ・ミー/突然半身が女に!」(84)など、題名を聞いただけでも奇想天外な、いずれもスティーヴ・マーティン主演の快作コメディを連発します。俳優としてもスティーヴン・ソダーバーグ監督の「オーシャンズ11」に始まる「オーシャンズ」シリーズに、元詐欺師のソール役で連続出演しています。日本で未公開の監督作品も多いので(「太陽がいっぱい」や「氷の微笑」のパロディもあるとか)、これらも機会があれば観たいですね。なお「スタンド・バイ・ミー」などのロブ・ライナー監督はこの方の息子です。
7月31日 アラン・パーカー氏 享年76歳
イギリス・ロンドン生まれ。71年、マーク・レスター主演の「小さな恋のメロディ」の原作・脚本を担当、そして76年、「ダウンタウン物語」で監督デビューします。以後「ミッドナイト・エクスプレス」(78)、「フェーム」(80)、「ミシシッピー・バーニング」(88)、「愛と哀しみの旅路」(90)、「エビータ」(96)と問題作、話題作を次々発表、押しも押されもせぬ名監督の地位を確保します。2002年にはナイトの爵位も受け、サーの称号が授与されました。個人的には、バンドに賭けた若者たちの青春群像を描いた「ザ・コミットメンツ」が好きな作品ですね。無論「小さな恋のメロディ」も大好きです。
8月23日 ベニー・チャン氏 享年58歳
1981年、香港のテレビ局に入り、カンフーもののテレビドラマを多く手掛け、90年には「アンディ・ラウの逃避行」で劇場映画監督デビューを果たします。98年にはジャッキー・チェンと共同監督で「WHO AM I?」を監督、2004年、やはりジャッキー主演の「香港国際警察/NEW POLICE STORY」を手掛けて日本でも名前が知られます。その後もジャッキー主演「プロジェクトBB」(2006)、ポリス・アクション「インビジブル・ターゲット」(2007)、ハリウッド映画「セルラー」の香港版リメイク「コネクテッド」(2008)とコンスタントにアクション映画、サスペンス映画を連打します。2010年には歴史アクションドラマ「新少林寺/SHAOLIN」も発表します。それにしても58歳での逝去は若過ぎますね。
12月11日 キム・ギドク氏 享年59歳
なんと、韓国映画の鬼才、キム・ギドクが亡くなったとは。しかも旅先のラトビアで新型コロナウイルスに感染した為だそうです。
1996年、低予算映画「鰐〜ワニ〜」で映画監督としてデビュー、以後「魚と寝る女」(2000)、「悪い男」(2001)と1作ごとに評価は高まり、次々と映画賞も受賞、2003年の「春夏秋冬そして春」(2003)は韓国映画界最高の栄誉である大鐘賞と青龍賞の作品賞を受賞、全米では韓国映画史上最大のヒット作となります。さらに2004年には「サマリア」が第54回ベルリン国際映画祭で銀熊賞、「うつせみ」が第61回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)と2大映画祭ダブル受賞を果たし、韓国映画界の巨匠としてその名を不動のものにします。2012年には「嘆きのピエタ」が第69回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞します。
まあ素晴らしい経歴で、ここまでは飛ぶ鳥を落とす勢いだと言えるでしょう。ただその後2017年に出演女優への性的暴行疑惑が発生し、折からの#MeToo運動もあって韓国では映画が撮れない状況になり、その後はカザフスタン等で映画を撮っています。ラトビアに行ったのもそうした流れなのでしょうが、それで命を落としたとは残念で悔やみきれませんね。
さて、日本の監督に移ります。
3月31日 佐々部清氏 享年62歳
この監督の作品、好きだったのに、残念ですね。
大学卒業後、横浜放送映画専門学院で学び、84年から崔洋一監督、降旗康男監督、和泉聖治監督らの映画で助監督を務め、2002年に「陽はまた昇る」で監督デビューを果たします。これが早速日本アカデミー賞優秀作品賞に選ばれます。2003年の「チルソクの夏」(公開は2004年)は自身の体験(主人公のモデルは監督の妹さんだそうです)を元に、韓国の少年と下関の女子高校生とが親善陸上競技大会で知り合い、文通し、やがて恋を育むまでを描いた、ピュアなラブストーリーの秀作です。これは私もとても好きな作品です。そして2004年の「半落ち」が日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞して名が知られるようになります。以後も「四日間の奇蹟」(2005)、「カーテンコール」(2005)、「出口のない海」(2006)、「夕凪の街 桜の国」(2007)、「日輪の遺産」(2011)、「東京難民」(2014)、「八重子のハミング」(2016)と、コンスタントに佳作、秀作を作って来ました。繊細で丁寧な演出は観てて心が和みます。地元山口県が舞台の作品も多く、中でも「チルソクの夏」や「八重子のハミング」は、どうしても作りたいという熱意が多くの人の応援に繋がり、映画化実現に漕ぎつけた点ではとても素敵な事だと思います。最新作「大綱引の恋」は今年鹿児島県で先行公開、2021年5月に全国公開という矢先での急死でした。62歳は早すぎます。悲しいですね。
4月10日 大林宣彦氏 享年82歳
追悼記事掲載済。
7月16日 - 森﨑 東氏 享年92歳 この方も、私の大好きな監督の一人でした。監督デビュー作「喜劇 女は度胸」(1969)以来、ほとんどの作品を映画館で観ております。
ただこの方のお名前は、それ以前に山田洋次監督のいくつかの秀作の共同脚本で見る事が多く、早くから注目しておりました。
まず山田監督の、「馬鹿」シリーズから続くハナ肇主演作としては最高傑作だと思っている「なつかしい風来坊」(1966)。これが山田監督との最初のコラボでした。ガサツでガラは悪いけれど気のいい季節労働者の風来坊と、中年サラリーマンとの奇妙な交流を描いた作品ですが、既にこの時から、後の森﨑作品に通じる、社会の底辺で生きる人間の怒りと悲しみが強く感じられました。この作品は高く評価され、山田監督はブルーリボン監督賞を受賞しました。森﨑さんが脚本に加わった山田洋次作品は以後「愛の讃歌」(67)を経て、68年のこれまた社会からはみ出した者同士のチンピラと少女の、なんとも荒々しくも悲しい物語が展開する秀作「吹けば飛ぶよな男だが」に至ります。この作品は山田監督が初めてキネマ旬報のベストテンに入選した点でも記念碑的な作品でした。私はこれを観て、映画館でボロボロ泣いてしまいました。「男はつらいよ」以前の山田洋次監督作としては最高作だと思います。
そして翌69年のコンビ4作目の、ハナ肇扮するガサツで傍若無人の男が大暴れするドタバタ調コメディ「喜劇 一発大必勝」を経て、同年8月公開のコンビ5作目「男はつらいよ」第1作を置き土産として、山田+森﨑のコンビ活動は終了するわけですが、こうやって見て来ると、山田洋次作品に与えた森﨑東の影響と功績はとても大きかったと言えると思います。森﨑さんはテレビ版でも脚本協力しており、「男はつらいよ」誕生の陰の功労者でもあると言えるでしょう。
そして同じく69年10月、「喜劇 女は度胸」で監督デビューしてからの森﨑さんの活躍ぶりは言う迄もないでしょう。「喜劇 女は男のふるさとヨ」に始まる新宿芸能社シリーズ(中でも「女生きてます」は傑作)、原田芳雄もいいが倍賞美津子が最高の演技を見せる「生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言」(85)、痛烈な社会風刺と庶民のエネルギッシュな活力に満ちた「ニワトリはハダシだ」(2004)と、森﨑監督は、社会からはみ出した人々の逞しい生きざまを一貫して描き続けた作家だと言えるでしょう。自ら自作を“喜劇ではなく、怒劇”と称するのも分かる気がします。
そして遺作となった「ペコロスの母に会いに行く」(2013)は、それまでの“怒劇”的作風とは異なって肩の力が抜け、認知症問題を明るくポジティヴに捉え、優しさとペーソスでふんわり包み込んだような傑作でした。これで森﨑監督は初めてのキネマ旬報ベストワンを獲得しました。ご本人もこの頃から認知症を患いましたが、その闘病の記録をNHKでドキュメンタリーとして放映したのも驚きました。まさに「ペコロス」と同様、認知症になってもポジティヴに明るく生きた、素晴らしい方でした。
さて、ここからはその他の方々です。
1月2日 上原正三氏 (脚本家) 享年82歳
沖縄出身で、大学時代からアマチュアで脚本を執筆し、内容的には沖縄戦や米軍基地をテーマにした物が多かったそうです。その後同郷だったやはり脚本家の金城哲夫と出会い、先に円谷プロダクションに入社していた金城の誘いで上京して円谷英二や円谷一と会い、これが縁で後に円谷プロダクションに入社する事となります。64年、地元沖縄のローカル番組のドラマで脚本家デビューした後、66年に始まるテレビ特撮ドラマ「ウルトラQ]の第21話「宇宙指令M774」でメジャーデビューする事となります。以後、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」、「帰ってきたウルトラマン」と円谷プロのウルトラ・シリーズを書き続けます。その後も異色のホラー「怪奇大作戦」で健筆を振るいます。69年に円谷プロを退社してフリーとなり、以後も円谷プロ作品の傍ら、「スーパー戦隊」シリーズ、「宇宙刑事」シリーズなどを手掛け、書いた脚本は1,000本を超えるそうです。
戦争体験があり、かつ沖縄人のアイデンティティから、上原さんの書いた脚本には被差別者の悲しみや、虐げられた沖縄の人間の視点が込められたものがあったりで、局側から難色を示される事もあったそうです。そうしたテーマに本格的に取り組んだ大人のドラマも書いていたなら、もっと評価されたかも知れないのに、惜しい気がしますね。
1月8日 バック・ヘンリー氏 (脚本家、俳優) 享年89歳
ニューヨーク生まれ。母親はサイレント映画女優のルース・テイラーです。1960年代から脚本家、俳優として徐々に頭角を現し始め、やがて65年、日本でも放映されたテレビドラマ「それ行けスマート」の原案と脚本をメル・ブルックスと共に担当、これが大ヒットして名が知られるようになります。これは以後も映画「0086笑いの番号」(80)、そして2008年には「ゲット スマート」と、何度も映画化される人気ドラマとなります。
そして67年、ダスティン・ホフマン主演、マイク・ニコルズ監督「卒業」の脚本を担当、これまた大ヒットで脚本家としての人気も増々高まります。以後書いた脚本は「キャンディ」(68)、「フクロウと子猫ちゃん」(70)、「キャッチ22」(70)、「おかしなおかしな大追跡」(72)、「イルカの日」(73)など多数。85年にはテレビ「ヒッチコック劇場」の脚本も書いています。俳優としても「卒業」、「キャッチ22」、「パパ/ずれてるゥ!」(71)、「地球に落ちて来た男」(76)など数多く出演、また78年の「天国から来たチャンピオン」ではウォーレン・ビーティと共同監督、出演もしています。あと脚本の仕事としては95年のニコール・キッドマン主演「誘う女」があります。実に多才な方でしたね。
3月1日 仙元誠三氏 (撮影監督) 享年81歳
1958年に松竹に入社。松竹京都撮影所で撮影助手を務めます。1967年にフリーとなり、69年の大島渚監督「新宿泥棒日記」で撮影監督としてデビューします。以後も寺山修司監督「書を捨てよ町へ出よう」(71)、龍村仁監督「キャロル」(74)などの撮影を担当します。転機が訪れたのは77年放映の渡哲也主演のテレビドラマ「大都会 パートⅡ」での撮影参加で、ここで知り合った村川透監督から、東映セントラルフィルム第1回作品となる松田優作主演「最も危険な遊戯」(78)に呼ばれて撮影を担当する事となります。低予算の為、照明をほとんど使わないビル内での優作のアクションを、手持ちカメラで長回しで追った撮影は見事な成果を上げ、村川監督と仙元カメラマンの評価は一気に高まります。またこの作品における青みがかった色調は、後に「仙元ブルー」と呼ばれるほど有名になりました。以後も松田優作主演の「遊戯」シリーズ、角川映画での「蘇える金狼」(79)、「白昼の死角」(79)、「野獣死すべし」(80)と村川監督とのコンビは続き、その他でも工藤栄一監督「ヨコハマBJブルース」(81・優作主演)、「野獣刑事」(82)、相米慎二監督「セーラー服と機関銃」(81)、澤井信一郎監督「Wの悲劇」(84)、「早春物語」(85)などの個性的な監督の作品で撮影を担当します。その多くは角川映画で、角川春樹が監督を手掛けた「汚れた英雄」(82)、「愛情物語」(84)、「キャバレー」(86)などでも手腕を発揮します。村川監督とはずっと後年に至るまでコンビが続き、村川監督の今の所最後の作品「さらば あぶない刑事」(2016)の撮影も担当しました。これが仙元カメラマンにとっても最後の仕事になったようです。あの独特の仙元ブルーの映像がもう見られないと思うと、とても寂しいですね。
3月2日 ジェームズ・リプトン氏 (作家、インタビュアー) 享年93歳
アメリカの俳優、作家、脚本家、演出家でTV番組司会者と多彩な顔を持っています。この方が有名なのは、94年からの、アクターズ・スタジオの授業の一環として、リプトンがインタビュアーを務め、同スタジオの卒業生をはじめとする著名な俳優を招いた講義の録画を始め、やがてこれがテレビでも放映されるようになりました。「アクターズ・スタジオ・インタビュー」と題するこの番組は、俳優の名前の後に「自らを語る」と題したタイトルで日本でも放映されましたのでご存じの方も多いでしょう。私もその多くを録画して保存しています。役者から、実にうまく言葉を引き出す名インタビュアーでした。2005年より、アクターズ・スタジオの名誉副所長を務めました。
3月17日 松田政男氏 (映画評論家) 享年87歳
新左翼系の政治活動家で、映画評論家としても有名な方です。1970年には映画評論雑誌「映画批評」を創刊して先鋭的な映画批評を行い、キネマ旬報をはじめ多くの映画雑誌に映画評を書いています。映画製作者としても、75年の有名な連続射殺魔・永山則夫の足跡を追ったドキュメンタリー「略称・連続射殺魔」を製作しています。また俳優としても、太和屋竺監督「毛の生えた拳銃」(68)、大島渚監督「絞死刑」(68)、大森一樹監督「ヒポクラテスたち」(80)など多くの映画に出演しました。82年にはアマチュア映画作家、三上康雄が監督した16mm作品「蠢動」にも出演しています。映画評論をまとめた書籍も「テロルの回路」、「薔薇と無名者 松田政男映画論集」等多数あります。
個人的にも、私も関わっていた「映画ファンのための映画まつり」に快く出席していただいて、壇上で挨拶や映画界総括等をやっていただき、感謝しています。鋭い映画評はいつも楽しく読ませていただきました。
3月27日 渡辺 泰氏 (アニメ研究者) 享年86歳
日本のアニメーションの研究家の第一人者です。大阪市生まれ、高校1年生のときにディズニーの「白雪姫」を見てアニメの魅力にとりつかれます。高校卒業後、毎日新聞社に入社、大阪本社で36年間新聞の制作に携わる傍ら、コツコツとアニメの資料を集め、やがて78年、「日本アニメーション映画史」(有文社刊・山口 且訓と共作)という労作を発刊するに至ります。アニメのバイブルとも言えましょう。他にもいくつかアニメに関する書籍があります。
4月2日 伊地智 啓氏 (プロデューサー) 享年84歳
プロデューサーとして、大きな仕事をされた方でした。何より、相米慎二監督を育てた方として忘れてはならない方です。
1960年、日活撮影所助監督部に入社、以後日活の無国籍アクション、石原裕次郎主演作など数多くの日活映画で助監督を務めます。中でも舛田利雄監督には一番多く付いています。やがてチーフ助監督に昇格、中でも澤田幸弘監督「関東幹部会」ではチーフ兼任で脚本も書いています。主な助監督作品は、澤田幸弘監督「斬り込み」、「反逆のメロディー」、藤田敏八監督「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」、「八月の濡れた砂」と日活ニューアクションの傑作群が並びます。そしてチーフ助監督を担当した「反逆のメロディー」の完成後に監督昇格という話があったのですが、この作品が内容やキャスティング(佐藤蛾次郎出演)でプロデューサーの逆鱗に触れ、監督昇格の話は消えてしまいます。不運と言えば不運ですね。その後日活は製作縮小、ロマンポルノに転進という事になって、黒澤満製作本部長の方針で数人の助監督にプロデューサー転向の指示が出ます。そしていずれも助監督だった岡田裕、伊藤亮爾らと並んで伊地智さんもプロデューサーに転向する事となります。伊地智さんは精力的にプロデューサーをこなし、71年から78年まで数多くのロマンポルノを手掛けます。面白いのは担当した作品の中に、当時今村プロからやって来た長谷川和彦が脚本を書いたものがいくつかあった事です(「性盗ねずみ小僧」「濡れた荒野を走れ」等)。これはたまたま食堂で会った長谷川和彦に「ゴジ、ホンを書いてみるか」と伊地智さんが勧めたとも言われています。これがのちの長谷川監督作プロデュースに繋がります。
次の転機は、77年の黒澤満氏の日活退社です。黒澤さんを信奉していた伊地智さんもその2ヶ月後に日活を退社しますが、やがて黒澤さんから東映セントラル・フィルムに来てくれと誘いの連絡が入り、記念すべき松田優作主演「最も危険な遊戯」のプロデューサーを担当する事となります。またその翌年には、設立されたばかりのキティ・フィルムに呼ばれ、ここで長谷川和彦監督「太陽を盗んだ男」のプロデューサーを手掛けます。興行的には赤字になりましたが、映画ファンからは激賞される傑作となりました。その「太陽を-」のチーフ助監督に付いていたのが相米慎二。相米の才能を認めた伊地智さんは、その監督デビュー作「翔んだカップル」をプロデュース、これは薬師丸ひろ子主演の瑞々しい青春映画の傑作でした。私もこれを観て、凄い新人監督が出て来たと喜びました。これが契機となって次の伊地智さんプロデュース・相米監督のキティ=角川提携の「セーラー服と機関銃」に繋がり、これが大ヒット、相米監督も薬師丸も一躍有名になります。以後も伊地智さんは相米監督の作品を次々とプロデュースします(「ションベン・ライダー」「光る女」「お引っ越し」「夏の庭」等々)。相米慎二が監督として一流になったのは、伊地智さんと言う名プロデューサーの存在があったからこそでしょう。その後も黒澤さんのセントラル・アーツとキティがタッグを組んだ「あぶない刑事」シリーズ、榎戸耕史監督のデビュー作「ふたりぼっち」(88)、渡邊孝好監督の秀作「居酒屋ゆうれい」(94)、李相日監督の出世作「69 sixty nine」(2004)と多くの話題作、秀作、新人監督の力作をプロデュースします。
2015年に発刊された「映画の荒野を走れ」(インスクリプト社刊)には、伊地智さんへの詳細なインタビュー、フィルモグラフィーが網羅されていて読みごたえがあります。お奨めです。
映画史に素晴らしい足跡を残された伊地智さん、本当に長い間、お疲れさまでした。
5月25日 高瀬将嗣氏 (スタントマン、殺陣師) 享年63歳
父親は日活のアクション映画で活躍された技斗師・高瀬将敏氏。79年に大学を卒業して就職しようとした矢先に、父の体調悪化で、跡を継いで殺陣師になります。いろんなテレビ、映画において、アクションの殺陣を担当。作品は刑事ものやアクションもの、時代劇に留まらず、薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」、「ねらわれた学園」、きうちかずひろ原作の高校生もの「ビー・バップ・ハイスクール」まで多岐にわたります。アクションがない作品でも、ちょっとしたスタント・シーンにタッチしています。こういう裏方の方がいてこそ、映画の楽しさが一層増すと言えるでしょう。オリジナル・ビデオが中心ですが、監督作もかなりあります。雑誌「映画秘宝」に長期連載されていた「技斗番長・活劇与太郎行進曲」も楽しい読み物でした。
5月28日 レニー・ニーハウス氏 (作曲家) 享年90歳
クリント・イーストウッド作品では、1984年の「タイトロープ」(監督はリチャード・タッグル)以降、2002年の「ブラッド・ワーク」に至るまでのほとんどの作品で音楽を担当しました。イーストウッドとは陸軍で知り合って以来の友人だそうです。「許されざる者」(92)の音楽は特に良かったですね。ジャズサクソフォーン奏者としても知られています。
6月29日 ジョニー・マンデル氏 (作曲家) 享年94歳
この方も懐かしいですね。1955年頃から映画音楽を担当。映画「いそしぎ」(65)の主題歌「シャドウ・オブ・ユア・スマイル」は大ヒットしましたね。これでアカデミー賞とグラミー賞を獲得しました。その他では「M★A★S★H マッシュ」(70)、「さらば冬のかもめ」(73)、「アガサ/愛の失踪事件」(79)、「チャンス」(79)、「評決」(82)等多数。でもやはり「いそしぎ」が代表作ですね。
7月6日 エンニオ・モリコーネ氏 (作曲家) 享年91歳
映画音楽の作曲家の死去が相次ぎますね。しかもいずれも90歳以上。
イタリアの作曲家で、1960年頃から映画音楽を担当します。64年~66年のセルジオ・レオーネ監督のクリント・イーストウッド主演三部作「荒野の用心棒」、「夕陽のガンマン」、「続・夕陽のガンマン・地獄の決闘」、他のマカロニウエスタンで有名になり、以後も「アンタッチャブル」(87)、「ニュー・シネマ・パラダイス」(89)等で知られていますが、以下あまり知られていない個人的体験について。
1963年、日本でカトリーヌ・スパーク主演の「太陽の下の18歳」というイタリア映画が公開され、特に主題歌の「サンライト・ツイスト」(「ゴーカート・ツイスト」とも)が大ヒット、ラジオの音楽チャート番組でも連日この曲が流れていました。軽快でアップテンポのツイストのリズムに乗ってみんな踊り歌いました。オリジナルはジャンニ・モランディが歌ってますが、日本でも青山ミチや木の実ナナがカバーしてこれらもヒット。私もよく聴きました。で、ずっと後になって、これを作曲したのがあのエンニオ・モリコーネだったと知った時は驚きました。つい15年くらい前です。モリコーネと言えば荘厳なオーケストラによる演奏ばかり耳に馴染んでいたので、あの作曲家がこんな軽い、しかもツイスト曲を作っていたとは信じられませんでした。幅の広い方ですね。
そして1965年頃、ラジオで「さすらいの口笛」という曲が静かにヒットし、やがてヒットパレードを賑わすようになりました。演奏はエンニオ・モリコーネ楽団とジャケットにありましたが、当時はこれが映画音楽だったとは誰も知りませんでした、と言うのは、これを主題曲としたあの「荒野の用心棒」が輸入されたものの、すぐにこれが黒澤明監督の「用心棒」の無断パクリだと判って公開は延期。東宝と揉めている間に主題曲だけが先に発売されたという訳です。当時は口笛を使ったメロディが新鮮で、ラジオで一般視聴者に、この口笛を自分で吹き込んで送って欲しいと依頼した所、またたく間に録音したテープがラジオ局に沢山届き、一部はラジオで放送されました。当時はまだカセット・テープも普及しておらず、オープン・リール・テープで送ったのでしょうね。私も聴きましたがなかなか皆さん上手でしたよ。これでまた「さすらいの口笛」のレコードがよく売れました。映画が公開されたのはこの曲がヒットチャートで下火になりかけた頃。映画公開でまた人気がぶり返しました。…以上モリコーネに関する懐かしい思い出でした。
8月13日 桂 千穂氏 (脚本家) 享年90歳
この方についても、いくつか思い出があります。
初めてこの方の名前を知ったのは、東宝の西村潔監督のスタイリッシュなアクションもの「薔薇の標的」(72・白坂依志夫と共作)。そして同年の「白鳥の歌なんか聞こえない」(渡辺邦彦監督)で単独脚本家デビューを果たします。庄司薫原作、岡田裕介主演の瑞々しい青春映画で、私は名前からしててっきり女性作家とばかり思っていました。後になって男性と知り、しかも武骨なお顔を見てびっくりしました(笑)。なお本名は島内三秀です。
次に名前が登場するのは同じ年のキネマ旬報の読者投稿欄だったか他の記事だったか。当時日活ロマンポルノが話題になっていて、それについて巨匠の小林正樹監督がどこかで、「あんなものは映画じゃない」と言ったとかが記事になりました。それに大激怒したのが桂さん。怒って「私は小林正樹を絶対許さない!」と強い調子で投稿しました。それを読んだ読者が投稿欄に、「桂さん、あなたもロマンポルノを書くべきです」と書き込みました。それを読んだのかどうか、桂さんは73年の「熟れすぎた乳房 人妻」を第1作としてロマンポルノ作品の脚本を精力的に書くようになります。白坂依志夫の弟子として、青春映画の佳作で認められかけていた桂さんが、あえて世間一般から低く見られていたロマンポルノに飛び込んだわけですから、まさに反骨の人と言えるでしょう。その中から、長谷部安春監督の「暴行切り裂きジャック」(76)という傑作が誕生する事となります。長谷部監督とのタッグは以後「レイプ25時 暴姦」(77)、「㊙ハネムーン 暴行列車」(77)と続きます。
一方で77年、大林宣彦監督との共同作業も始まります。まず壇一雄原作「花筐」を共同で書き上げ映画化を模索しますが、興行的に難しいとなって頓挫(40年後に「花筐/HANAGATAMI」として映画化実現)。もう一つの案「HOUSE ハウス」の脚本を書いて映画化され、大きな話題となったのはご承知の通り。以後も「廃市」(84)、「少年ケニヤ」(84)、「ふたり」(91)、「あした」(95)、「麗猫伝説 劇場版」(98)、そして40年越しの映画化作品「花筐/HANAGATAMI」(2017)と多くの大林監督作品の脚本を書きました。大林映画の陰の功労者とも言えるでしょう。その他では東映出身の監督内藤誠との共作でいくつもの脚本を書いています。代表的なものに筒井康隆原作の「俗物図鑑」(82)、「スタア」(86・共に内藤誠監督)、「冒険者カミカゼ」(81)、アニメ「幻魔大戦」(83)等があります。
大林宣彦監督と、同じ年に亡くなられたのも何かの縁でしょうか。今ごろは天国で大林さんと再会しているでしょうかね。
9月11日 成田尚哉(なりた・なおや)氏 (映画プロデューサー) 享年69歳
この方も日活ロマンポルノのプロデュサーとして活躍された方です。ただし長く助監督をされた岡田裕、伊地智啓とは異なり、ロマンポルノが製作されていた1975年に、日活の美術助手募集に応募、しかし企画部員として採用され、曲折を経て日活ロマンポルノのプロデューサーになります。そして数本のロマンポルノを企画しますが、何かポルノでない面白い映画は作れないかと模索した末、76年、週刊漫画誌に連載中の「嗚呼!花の応援団」(監督・曽根中生)を企画し、一般映画として上映されます。これが興収10億円を超える大ヒットとなってややジリ貧だった日活の収益に貢献する事となります。これが日活入社わずか2年目だったのも凄い事です。78年には橋本治原作の「桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール」を企画してこれも成功。以後も「天使のはらわた」シリーズをはじめ、ロマンポルノの中でも異色の作品を次々企画します。79年には新宿ゴールデン街で知り合った東映の鈴木則文と意気投合し、鈴木監督唯一のロマンポルノ「堕靡泥(ダビデ)の星 美少女狩り」を企画します。この作品には鈴木監督の「トラック野郎」の縁で菅原文太が特別出演、文太がロマンポルノに出演した唯一の作品(笑)という事になります。83年には巨匠・浦山桐郎監督で「暗室」、85年には相米慎二監督で「ラブホテル」と、異色の監督にロマンポルノを監督させます。ただし相米監督起用には、当時の撮影所長が反対していたのを無視したという事で会社から睨まれ、日活を退社する事となります。その後、ロマンポルノのプロデューサーだった岡田裕が立ち上げたNCP(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ)に参加、ここでも意欲的な作品をプロデュースする事となります。88年には日活で旧知の金子修介監督で「1999年の夏休み」を企画、そして90年に企画した中原俊監督「櫻の園」がキネマ旬報ベストワンを獲得する等、高く評価されます。91年にはこれも中原俊監督で三谷幸喜脚本の「12人の優しい日本人」を企画、と言った具合に、常にユニークな企画で映画界に新しい風を巻き起こして来ました。近年では荒井晴彦脚本の「海を感じる時」、「さよなら歌舞伎町」(共に2014)をプロデュースと、その意欲的な企画力は衰えを見せません。まだまだこれから、という時に肝臓ガンで亡くなられました。伊地智啓さんに続いて、ロマンポルノから出発して日本映画界に多大な貢献をされた名プロデューサーお二人が相次いで亡くなられた訳です。本当に残念です。
9月20日 - マイケル・チャップマン氏 (撮影監督) 享年84歳
アメリカ・ニューヨーク生まれ。73年、ハル・アシュビー監督の「さらば冬のかもめ」で撮影監督デビュー。以後マーティン・スコセッシ監督「タクシードライバー」(76)、「ラスト・ワルツ」(78)、「レイジング・ブル」(80)、ポール・シュレイダー監督「ハードコアの夜」(79)、前掲のカール・ライナー監督「スティーブ・マーティンの 四つ数えろ」、「2つの頭脳を持つ男」など多くの映画で撮影監督を担当しました。また83年には「トム・クルーズ/栄光の彼方に」で監督業にも進出、95年には「ヴァイキングサーガ」(日本未公開)で原作・原案と監督も兼任しました。2007年の「テラビシアにかける橋」の撮影を最後に現役を引退しました。
11月18日 岡田裕介氏 (映画プロデューサー) 享年71歳 父は東映の名物プロデューサーで、後に東映社長となった岡田茂氏。慶應大学2年の時スカウトされて、東宝映画「赤頭巾ちゃん気をつけて」(70・森谷司郎監督)で主演の薫君役で俳優デビューを果たします。以後も森谷監督の青春映画「初めての旅」(71)、「初めての愛」(72)、「赤頭巾-」と同じ庄司薫原作「白鳥の歌なんか聞えない」(72)と主演作が相次ぎ、東宝青春映画のスターとして活躍しました。ちなみに「初めての旅」、「初めての愛」は共に小椋佳の歌を全編にフィーチャーしており、小椋佳のアルバムにも、本人の顔が出せない(笑)為に岡田裕介をイメージ・キャラクターとして使い、知らない方はこの裕介氏が小椋佳だと勘違いしていたという逸話があります(笑)。
その後も多くの映画に出演しましたが、1974年の岡本喜八監督「吶喊」では主演とプロデューサーを兼務し、これ以降は映画に出演しながらも、プロデューサーとしての仕事も多くなって行きます。1980年には東映の高倉健主演「動乱」(森谷司郎監督)、84年「天国の駅」、85年「夢千代日記」(浦山桐郎監督)と、プロデューサーの実績を積み重ね、1988年に東映に正式入社します。90年には東京撮影所長、以後も取締役、常務取締役と着実に出世し、2002年には東映社長に就任します。2014年、社長退任後も東映グループ会長を勤める等、実業家としてはまさにトントン拍子、父親の威光があったとは言え、映画俳優出身者でこれだけ出世した方も少ないでしょう。また日本アカデミー賞協会会長も永年勤められました。
ただプロデューサーとしての才覚は、父の茂氏には残念ながら及ばなかった気がします(これについては以前に当ブログで書きましたので、そちらを参照ください)。
個人的には、上に挙げた1970年代の東宝青春映画の主演時代が、この人の一番輝いていた時期ではないかと思います。
その他にも惜しい方が亡くなられていますが、本稿では映画関係に絞って取り上げましたので割愛させていただきました。以下お名前だけ挙げさせていただきます。(敬称略)
1月30日 藤田宜永 (小説家) 享年69歳
2月11日 野村克也 (プロ野球監督、野球解説者) 享年84歳
2月18日 古井由吉 (小説家) 享年82歳
2月24日 クライブ・カッスラー (アメリカの冒険小説家) 享年88歳
3月 3日 勝目梓 (小説家) 享年87歳
3月 3日 別役実 (劇作家) 享年82歳
3月28日 堀川とんこう (テレビディレクター) 享年82歳
4月 3日 C・W・ニコル (作家) 79歳
4月 9日 関根潤三 (プロ野球監督、野球解説者) 享年93歳
4月20日(遺体発見日) ジャッキー吉川 (ブルー・コメッツ、リーダー) 享年81歳
4月23日 岡江久美子 (俳優、テレビタレント) 享年63歳
5月 1日 マット・キーオ (元阪神タイガース投手) 享年64歳
5月 9日 リトル・リチャード (アメリカ歌手、ロックンロールの創始者の一人) 享年87歳
5月12日 ジョージ秋山 (漫画家) 享年77歳
6月11日 服部克久 (作曲家、編曲家) 享年83歳
6月28日 ウイリー沖山 (歌手、ヨーデルの名手) 享年87歳
7月 2日 桑田二郎 (漫画家、「月光仮面」他) 享年85歳
7月21日 弘田三枝子 (歌手、「ヴァケイション」他) 享年73歳
7月21日 山本寛斎 (ファッションデザイナー) 享年76歳
8月 5日 ピート・ハミル (アメリカのジャーナリスト、作家) 享年85歳
8月11日 トリニ・ロペス (アメリカの歌手、ギタリスト) 享年83歳
8月22日 内海桂子 (漫才師) 享年97歳
8月28日 岸部四郎 (元ザ・タイガース歌手、俳優) 享年71歳
9月23日 ジュリエット・グレコ (フランスのシャンソン歌手) 享年93歳
9月24日 藤田敏雄 (作詞家、「希望」他、ミュージカル演出家) 享年92歳
10月 7日 筒美京平 (作曲家) 享年80歳
11月20日 矢口高雄 (漫画家) 享年81歳
11月27日 一峰大二 (漫画家、「七色仮面」他) 享年84歳
12月12日 ジョン・ル・カレ(イギリスの小説家) 享年89歳
12月13日 浅香光代 (女剣劇役者) 享年92歳
12月17日 林家こん平 (落語家) 享年77歳
12月20日 中村泰士 (作詞・作曲家) 享年81歳
12月23日 なかにし礼 (作詞家、作家) 享年82歳
12月29日 ピエール・カルダン (フランスのファッションデザイナー) 享年98歳
今年も、長年に亘り映画界に大きな足跡を残された方々が多く亡くなられています。尊敬し、大好きだった方も数人おられます。慎んで哀悼の意を表したいと思います。
今年1年、おつき合いいただき、ありがとうございました。来年もよろしく、良いお年をお迎えください。
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コメント
毎年恒例の追悼記事楽しみにしていました。
しかし色々な人が亡くなりましたね。
やはり竹内結子が一番ショックだったかも。
今年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いします。
投稿: きさ | 2020年12月31日 (木) 10:19
◆きささん
今年は、コロナで亡くなった方、若くして自死された方が多かったり、個人的にも自分の青春時代に夢中になって追いかけた映画スターの方々が亡くなられたりと、ショックだらけの一年でした。高齢の方は仕方ないけれど、若い方が亡くなられるのはやりきれませんね。
きささんも今年いろいろとコメントありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。よいお年を。
投稿: Kei(管理人 ) | 2020年12月31日 (木) 21:43
明けましておめでとう御座います。本年も、何卒宜しく御願い致します。
新型コロナウイルスに始まり、新型コロナウイルスに終わった感の在る昨年。例年以上に閉塞感を覚える1年でしたが、様々な自由が制限された事も在りますけれど、悲しい死が少なく無かった事も大きく影響している様に感じます。
新型コロナウイルス感染症が爆発的な流行をしなければ、失われずに済んだ命が多かった。大好きな志村けん氏もそうですが、「閉塞感溢れる世相が影響を及ぼしたのではないか?」という意味では、自ら命を絶たれた三浦春馬氏の氏は、とても遣り切れなかった。あんなにも見目美しく、演技力も高かった彼が・・・本当に残念でなりません。
投稿: giants-55 | 2021年1月 2日 (土) 02:00
何故か三浦春馬が無いですね。池袋の名画座新文芸坐では二回も彼の追悼上映やってます。
キム・ギドクに関しては何を言って良いかわかりません。Twitterでは割れてて、面倒だから口を挟まないようにしてます。
投稿: タニプロ | 2021年1月 2日 (土) 03:49
◆giants-55さん
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
上にも書きましたが、いいお仕事をされてて、まだまだ活躍出来る方が亡くなるのは本当に残念です。
今年はなんとしてでもコロナに打ち勝ち、そんな悲しい別れが少しでも無くなる事を望みたいですね。
投稿: Kei(管理人 ) | 2021年1月 3日 (日) 17:44
◆タニプロさん
三浦春馬さんは俳優部門の亡くなられた日(7月18日)の所に掲載してあります。まあちょっと短かかったので、それで見逃されたのならすみませんね。
キム・ギドクは私もも一つ波長が合わず苦手な監督です。
投稿: Kei(管理人 ) | 2021年1月 3日 (日) 17:51
遅ればせながら明けましておめでとうございます。アラン・パーカー、亡くなったんですね、知らなかった。「小さな恋のメロディ」は、どの趣味も長続きしなかった少年時代の私を、一生ものの映画好き、サントラ好き(これ大事!)にしてくれた忘れ得ぬ作品です。そして「ミッドナイト・エクスプレス」は、私の生涯ベスト3を未だ外れることはありません。大作話題作しか見ていなかった私に、渋い辛い映画も大丈夫なんだ、と教えてくれた作品です。おかげで60才近くまでそれなりの人生を送れています。アラン・パーカーありがとう。
投稿: オサムシ | 2021年1月 6日 (水) 21:01
◆オサムシさん
今年もよろしくお願いいたします。
アラン・パーカーについては、追悼記事がほとんどなかったような気がします。知らない人も多くなったのでしょうかね。私も「小さな恋のメロディ」は大好きです。
投稿: Kei(管理人 ) | 2021年1月 7日 (木) 21:25