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2021年11月 2日 (火)

「草の響き」

Kusanohibiki 2021年・日本    116分
製作:函館シネマアイリス
配給:コピアポア・フィルム、函館シネマアイリス
監督:斎藤久志
原作:佐藤泰志
脚本:加瀬仁美
企画・製作:菅原和博
プロデュース:菅原和博
プロデューサ:ー鈴木ゆたか
撮影:石井勲

「そこのみにて光輝く」「きみの鳥はうたえる」などで知られる夭逝の作家・佐藤泰志の原作を企画・映画化して来た函館の映画館シネマアイリスによる、佐藤作品映画化第5弾。監督は「空の瞳とカタツムリ」の斎藤久志。主演は「寝ても覚めても」の東出昌大。共演は「マイ・ダディ」の奈緒、「明日の食卓」の大東駿介、スケーターとしても活躍するKayaなど。

(物語)東京で出版社に勤めていた工藤和雄(東出昌大)は、次第に心のバランスを崩し、妻の工藤純子(奈緒)と共に故郷の函館に戻り、昔からの友人で今は高校の英語教師として働く佐久間研二(大東駿介)に連れられ、病院の精神科を受診する。自律神経失調症と診断された和雄は医師の宇野(室井滋)の勧めで、治療の為に毎日ランニングをする事になる。雨の日も真夏の日もひたすら走り続けるうちに、和雄は徐々に心の平穏を取り戻して行く。やがて彼は、ランニング・コースにある緑の島の広場で遊ぶ高校生、小泉彰(Kaya)や高田弘斗(林裕太)らと親しくなり…。

函館の映画館シネマアイリスが製作する佐藤泰志原作の映画化作品は、これまで「海炭市叙景」(2010・熊切和嘉監督)、「そこのみにて光輝く」(2014・ 呉美保監督)、「オーバー・フェンス」(2016・ 山下敦弘監督)、「きみの鳥はうたえる」(2018・三宅唱監督)の4本があり、いずれも秀作だった(当ブログにおける私の採点はいずれも4.5以上)。

凄いのは、どれもキネマ旬報のベストテンに入選しており、うち「そこのみにて-」はベストワン、「きみの鳥は-」は3位と高い評価を得、すでにベストテン常連だった山下監督を除き、当時新進だったどの監督も、その後一流監督の道を歩んでいる。人材発掘面でも、これらを企画・製作した函館シネマアイリス代表の菅原和博氏の眼力には敬服するばかりである。

そして第5弾となる本作は、佐藤泰志の「きみの鳥はうたえる」所収の同名短編小説で、佐藤の没後30周年に当たる昨年に映画製作が発表され、全編函館ロケで撮影が行われた。

監督は1998年、「フレンチドレッシング」で監督デビューし、2019年の「空の瞳とカタツムリ」まで7本の監督作がある斎藤久志。

もう中堅とも言えるキャリアだが、も一つこれといった代表作がない。私もいくつか観ているが、心に響く作品はない。その点がちょっと不安だった。

(以下ネタバレあり)

主人公は東出昌大扮する、東京の出版社で編集者として勤めていた工藤和雄。自律神経失調症を患い、妻の純子と共に故郷の函館に戻って来た、という所から物語は始まる。

…のはずなのだが、冒頭シーンは何故か一人の若者がスケボーで街の中を走る所から始まる。かなり長いスケボー走行シーンを横移動ワンカットで追っており、途中ボードを一回転させたりのハイテクニックを見せたりもする。

このシーンが延々と続く上に、演じている俳優(Kaya)がちょっと東出昌大と雰囲気が似てるので、私はこの若者が和雄の若かりし時の姿なのかと錯覚してしまった。

実はこの若者は小泉彰という高校生で、後に医師の勧めで運動療法として毎日ランニングを続ける和雄と知り合う事となる。

疑問なのは、なんでこの長いスケボー・シーンを冒頭に持って来たのかという点。主人公は和雄なのだから、こんな出だしでは観客が混乱してしまう。彰が、もう一人の主人公として密接に和雄と絡んで来て、和雄の人生に大きな影を落とす存在となるか、あるいは和雄の分身的な存在なのか、とも思ったが、実際はたいして絡まないし、印象が薄い。

彰は同級生から、海岸の大きな岩から海に飛び込んでみろと囃され、泳ぎが得意でない彰はプールで練習するうち、水泳の上手な弘斗と知り合い、互いに得意な技能(スケボーと水泳)を教え合う約束をして仲良くなって行く。やがて二人は学校へも行かず、公園でスケボーの練習を重ねる。そこに弘斗の姉・恵美(三根有葵)も加わって…。

というサブのエピソードが、和雄のランニング・シーンと並行して描かれるのだが、とにかくこの彰たち3人の若者の描写がダラダラしてて深みがなく、心を打つものがない。

なにしろ、彰は海に飛び込む練習なんかほったらかしで公園で弘斗と遊んでばかりだし、そのうちスケボーすらやらなくなってしまう。

これだったら、スケボーなんか冒頭に出して来る意味がないだろう。

スクーターを乗り回す恵美も、何故彰たちと一緒にいるのか要領を得ない。彰に気があるのかとも思ったが、そうでもなさそう。

彰はやがて、毎日ランニングを続ける和雄を見て、一緒に走り出すのだが、これも何故一緒に走る気になったのかが解らない。スケボーから泳ぎ、弘斗との交流、ランニングと、次々興味の対象を変えて結局どれも長続きしていない。こんな行き当たりばったりの彰に観客は感情移入しようがない。もう少し、彰の心の内面を丁寧に描くべきだろう。

和雄と彰の交流も、さして深く関わり合うわけでもない。和雄が彰に、自分の少年時代の暗い影を見たのかとも思ったが、そうでもなさそう。せめて何かそれぞれの過去を回想で描くなり工夫をすべきではないか。

結局、彰は岩から飛び込んで死ぬし、和雄は精神薬を大量に摂取し自殺を図る。この和雄の行動もよく解らない。さして親しい訳でもない彰の死なのか、子供が生まれて来る事への不安なのか。いずれにせよ自殺に至るような原因には思えない。最後は妻・純子も東京の実家へ帰ってしまうという救いのない結末。


これまでの佐藤泰志映画化作品は、「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」も、いずれも、社会の底辺で暮らす名もなき庶民の必死で生きる姿、生活の哀歓、男と女の心の交流等を丁寧に描いて共感を呼んだし、「きみの鳥はうたえる」では男2人と一人の女の、友情と恋の狭間でゆれ動く人間ドラマが繊細に描かれていた。こちらも生活が苦しいほどではないが、社会の片隅に生きる人々の人間模様を描いている点では前3作とも共通する。これが佐藤泰志の作品世界と言っていいだろう。

それらに比べて本作は、実際に自律神経失調症を患った佐藤自身の実体験に基づく私小説であり、明らかに作品世界は前4作とは異なる。

しかも、本作の和雄は出版社に勤める一応エリートであり、和雄夫妻が暮らす函館のマンションも調度品が揃った立派な住まいであり、おまけに妻は犬を飼って毎日散歩している。優雅なものだ。この点でも、社会の底辺で暮らす庶民を描いて来た前4作とは明らかに異なる。

Kusanohibiki2

他にも気になるのは、和雄の病で収入が途絶えた上に、病気の治療費もいるだろうから生活は困窮していると思えるのに、そんな様子はまるで窺えない。あの年齢では退職金だって大した事ないだろう。その辺がおざなりなのも問題である。
(純子や少し病状の良くなった和雄がそれぞれアルバイトする描写もあるが、それだって微々たる金額だろうし)
脚本がどうも弱い。なお脚本の加瀬仁美は斎藤監督の奥様だそうである。

この原作を映画化するなら、せっかく原作にない和雄の妻を登場させた事だし、大して本筋に影響がない若者3人のエピソードはばっさりカットして、和雄と純子、それに和雄の親友・佐久間研二の3人の関係をもっと掘り下げて、心が壊れて行く和雄の様子に生活の不安を感じ始める純子、そこに、何かと親切を焼く研二が入って来る事により、夫婦の間に微妙なさざ波が生じて来る辺りをじっくりと描けば、これはもっと秀作になったのではないかと思う。

夫との生活に将来への不安を感じ始めた純子が、親切にしてくれる研二に心がなびいて、二人が相思相愛の仲になっても不自然ではないし、和雄の突然の自殺未遂も、妻と研二の不義を和雄が知った事がきっかけだとする方が説得力がある。
二人の男と一人の女が織りなす三角関係という点では「きみの鳥はうたえる」ともテーマは重なるし、その点で過去の佐藤泰志映画化作品とも作品世界は繋がっているとも言える。

厳しい言い方だが、社会の片隅に生きる名もない人たちに寄り添った過去4作で、すっかり佐藤作品のファンになったからこそ、その作品世界を継承する素晴らしい映画を作って欲しかった。それがとても残念だ。


映画館を経営しながら、困難な製作条件の中で佐藤泰志原作作品の映画化を企画し、いずれも秀作となったばかりか、若手の気鋭作家にもチャンスを与えて来た函館シネマアイリスの菅原和博氏の尽力には敬意を表したいし、これからも頑張って欲しいと心から願う。厳しい採点は、その期待ゆえと受け取っていただきたい。  (採点=★★★☆

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