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2022年1月16日 (日)

「クライ・マッチョ」

Cry-macho 2021年・アメリカ    104分
製作:マルパソ・プロ=アルバート・S・ラディ・プロ
配給:ワーナー・ブラザース映画
原題:Cry Macho
監督:クリント・イーストウッド
原作:N・リチャード・ナッシュ
脚本:ニック・シェンク、N・リチャード・ナッシュ
撮影:ベン・デイビス
音楽:マーク・マンシーナ
製作:クリント・イーストウッド、アルバート・S・ラディ、ティム・ムーア、ジェシカ・マイヤー

落ちぶれた元ロデオスターの男が、親の愛を知らない少年と共にメキシコを旅する中で、それぞれの生き方を見直して行くヒューマンドラマ。監督はこれが日本公開40本目の監督作となる伝説の巨匠クリント・イーストウッドで、自ら主演も兼ねる。共演は「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」のドワイト・ヨーカム、「コラテラル・ダメージ」のメキシコ人女優ナタリア・トラヴェン、少年役にメキシコの新星エドゥアルド・ミネットなど。イーストウッド監督デビュー50周年目の記念作品。

(物語)かつてはロデオ界のスターだったマイク・マイロ(クリント・イーストウッド)は、落馬事故をきっかけに落ちぶれて行き、家族も離散。いまは競走馬の種付けで細々と一人暮らしていた。そんなある日、マイクは元の雇い主ハワード(ドワイト・ヨーカム)から、別れた妻に引き取られた十代の息子ラフォ(エドゥアルド・ミネット)をメキシコから連れ戻して欲しいとの依頼を受ける。ハワードに恩義があるマイクはその以来を引き受け、メキシコへ向かう。やがてマイクは、男遊びに夢中な母に愛想をつかし、闘鶏用のニワトリとともにストリートで生きていたラフォを見つけ、2人は連れ立ってアメリカ国境への旅を始める。そんな彼らの後をラフォの母が放った追手とメキシコ警察が追う。果たして二人は無事国境までたどり着けるのか…。

待ちに待った、クリント・イーストウッド監督の新作。しかも「運び屋」に続いての主演作だ。今年91歳!この歳で監督・主演を兼任するなんて、彼以外誰も出来ないだろう。それだけでも感動する。無論初日に劇場に駆け付けた。

(以下ネタバレあり)

本作は1975年にN・リチャード・ナッシュが発表した小説「クライ・マッチョ」が原作である。映画化の企画が持ち上がったのは1980年頃。「ゴッドファーザー」「キャノンボール」等のヒット作を手掛けた辣腕プロデューサー、アルバート・S・ラディがイーストウッドに出演依頼を持ちかけるが、イーストウッドは年齢的にまだ早いと断っている。当時のイーストウッドは50歳、確かに少し早いだろう。その後映画化は何度も頓挫しているが、原作に惚れ込んだラディはその後も映画化を念願していた。そして最初の企画から40年、ラディからの出演依頼がずっと頭にあっただろうイーストウッドが、もう演じられる年齢になったと考えてラディに声を掛け、映画化が実現した。無論本作のプロデュースもラディが担当している。

イーストウッド扮するマイクは元ロデオ界のスター。ロデオと言えばつい最近配信で観た、「ノマドランド」のクロエ・ジャオ監督の出世作「ザ・ライダー」でも扱われていたように、西部劇の香りがする。そして偶然だが、マイクもまた「ザ・ライダー」の主人公と同様、ロデオ中に落馬事故を起こして人生が暗転したという設定である。

Cry-macho4そしてマイクはいつもカウボーイハットを被っている。このスタイルもまた西部劇を思わせる。思えばイーストウッドのテレビでの出世作が「ローハイド」、世界的大ヒットでスターとしての人気を確立したのが「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」等のマカロニウエスタンと、イーストウッドと西部劇は切っても切れない関係にある。最後の西部劇スターとも言えるイーストウッドの西部劇出演は1992年の「許されざる者」が最後だった。あれから30年、カウボーイハットを被ったそのイーストウッドの姿を見るだけでもジーンとして来る。

マイクは年齢もあって、牧場の仕事も馘になる。家族もなく、一人暮らしで細々と生活している。そんなある日、マイクの元の雇い主、ハワード・ポークがマイクに、メキシコにいる別れた妻が引き取っている息子ラフォを連れ戻して欲しいとの依頼を持ちかける。息子が虐待されているらしいとの情報があったからだと言う。

最初は渋ったマイクだが、「この仕事はお前にしか頼めない」というハワードの言葉と、かつて苦しい時に助けてもらった元雇い主への義理に報いる為、依頼を引き受ける。

この“義理”という言葉も、我が国の股旅任侠映画ではお馴染みで(一宿一飯の義理だとか)、この点でも一匹狼の流れ者がしばしば登場する股旅ものと西部劇との共通性を連想してしまう。

メキシコに着いたマイクはハワードの元の妻リタ(フェルナンダ・ウレホラ)に会うが、ラフォは家を出てどこかの闘鶏場にいる事しか分からないとリタは言い、マイクに色目を使ったりもする。これだけで、このリタが男にダラしなく、その事もあって息子に嫌われている事が判る。
そのくせ、マイクがラフォを父の元に返すように言うと猛反対する。

マイクは闘鶏場でラフォを見つけ、父親が待っていると言うと、最初は疑り深い様子だったが、母の元を離れたいという思いからか、ラフォはマイクと一緒に父の元に行く事に同意する。

無論、リタの同意は得ていないから、法律上はこれは未成年者誘拐である。かくしてマイクとラフォは、リタが差し向けた追手と、メキシコ警察の両方から追われながら、アメリカとの国境への逃避行を続ける事となる。


普通の娯楽映画なら、銃撃戦や追いつ追われつのカーチェイスなども取り入れたアクション・サスペンス映画になるような題材である(同時期上映中の「マークスマン」はそんな感じらしい)。

ところが本作は、どことなくのんびりしたムードが漂っている。追って来る連中はマヌケでヘマばかりしてるし、警察は簡単に見逃してくれるし、逃避行の途中で車を盗まれて徒歩で旅したり、立ち寄った小さな食堂の女主人マルタ(ナタリア・トラヴェン)と親しくなり、何日もこの町に居座って、町の人たちからも頼りにされたり。

だから、アクション・サスペンスを期待する観客から見れば、あまり面白くないという辛口評価が出ても当然だろう。

だが、この飄々としたトボけた味わいが、イーストウッド映画ファンから見れば何とも魅力的なのである。91歳にもなったイーストウッドに、派手なアクションは似つかわしくない。ゆったりとしたペースで、後述するいくつもの考えさせるテーマをきっちりと描き切るイーストウッドの演出に、いつの間にか酔わされている自分を発見する事となる。

特に食堂の女主人マルタとの交流シーンが素敵だ。女手一つで食堂を切り盛りし、孫たちを育てて来たマルタはマイクたちに優しくし、彼らが素泊まりした教会に食事を届けてくれたり、やがて寝る部屋まで提供してくれたり。そしていつしか、マイクとマルタは心を通わせ、互いにキスするまでになる。

前主演監督作「運び屋」でもイーストウッド扮する90歳の主人公は、若い娘とモーテルで3Pプレイしたり、年齢に関係なく女にモテていた。

老人になろうと、年齢を重ねようと、いくつになっても女を愛し、人生を楽しむゆとりを失ってはならない。
原作ものでありながら(しかも40年前の)、いかにもイーストウッドらしい人生哲学に満ちた本作は、まぎれもなくイーストウッド映画なのである。


また、少年ラフォとの交流シーンにも手抜かりはない。

父とは離され、母からは虐待のような仕打ちを受け(服を脱ぐと背中にアザがある)、親の愛というものを知らない少年ラフォ。

当然、大人は信用していないし、“マッチョ”という名の鶏を育て、闘鶏で稼いだ金で自分一人で生きている。

だから最初はマイクに対しても心を閉ざしていた。ただ父の元に連れて行ってくれるから一緒に旅しているだけである。

それでも旅を続け、互いの身の上話を語り合ったりするうちに、二人の距離は次第に縮まって行く。特に自分の弱さも、生きる事の辛さも、隠さずに離すマイクに、ラフォは少しづつ心を開いて行く。

そしてやがて、本当の“マッチョ”(男らしさ、タフさ)とはどうあるべきかもラフォはマイクから教わって行くのだ。強いだけが男じゃない、弱さ、優しさも兼ね備えてこそ真の男なのだという事を。

チャンドラーの小説にある言葉“男はタフでなければ生きて行けない、優しくなければ生きている資格がない”が心に浮かぶ。

マルタの家の近くにある牧場で、元ロデオ・カウボーイのマイクが暴れ馬を調教するシーンもいい。さすがに暴れる馬に跨っているシーンはスタント・ダブルだろうが。

やがて大人しくなった馬に乗って悠々と歩を進めるマイク。これはイーストウッドが自分で乗っているのだが、このシーンにも感動した。イーストウッドが馬に跨る姿を映画で見るのは「許されざる者」以来実に30年ぶりだ。この年になって、まさかカウボーイハットを被り馬に跨っているイーストウッドの姿が見られるとは。それだけで胸が熱くなって、目が潤んで来る。

Cry-macho5

調教して大人しくなった馬はいい値で売れるので、馬主はマイクに感謝し、いくばくかの報酬もくれたりする。動物に優しいマイクの元に町の人々が次々と弱った動物たちを持ち込む辺りもほっこりとさせられる。「俺はドリトル先生か」とマイクがボヤくのも笑える。

しかしやがて警察の捜査がこの町にも及んでいる事を知ったマイクは、町を去る事を決める。別れを惜しむマルタたち。

この最後の旅で、ハワードが息子を連れ戻す理由には、ある打算があった事をマイクはラフォに告げる。黙っていればいいのだが、それでは後になってラフォがマイクも含めた大人たちへの不信感に傷ついてしまうだろうと考えての事だろう。案の定ラフォは大人の汚さに怒るが、“大人になるという事は、そういう汚さも知るという事なのだ”とマイクはラフォに教えたかったのだろう。
この後、警察のパトカーに追い詰められるシーンがあるが、誘拐容疑ではなく、麻薬所持を疑われただけだった。マイクの「俺は“運び屋”じゃないぞ」と言うセリフが自作のパロディになってて笑える。

ここでラフォが警官に、見逃しの賄賂としてこっそり金を渡すシーンがあるのが重要である。
大人は汚い、という潔癖な心を持っていたラフォだが、自分も賄賂という汚い行為をやってしまう。そうやって、潔癖だけでは生きて行けない、人生というものの難しさを、ラフォは体で感じる事となるのである。
このシーンが、ラスト、ラフォが待ち受けていた父の元に素直に向かうシーンの伏線にもなっている。
マイクとの数日間の、得難い体験を経て、ラフォは少しだけ大人へと成長したのである。

エンディングの、マイクとマルタが手を取って踊るシーンもジーンとさせられる。

Cry-macho3

観終わって、深く心に沁みた。

人生とは何か、老いをどう楽しむか、男の本当の強さとは何か、これからの時代を生きる若者に何を伝えるべきか…さまざまなテーマをこの映画から感じ取る事が出来る。

もう一つ見逃せないのは、随所に、過去のイーストウッド監督作品を思わせるシーンが登場している点である。

老人と少年の交流は「グラン・トリノ」だし、年齢は少し若いけれど、老境の男女が恋に落ちるのは「マディソン郡の橋」(本作のラストのようなダンス・シーンもあり)、先ほども書いたが、マイクたちを麻薬の運び屋と誤解し警察が付け狙うくだりは「運び屋」、そして何より、「荒野のストレンジャー」から「許されざる者」に至る、西部劇の味わいである。夕闇が迫る荒野にイーストウッドのシルエットが浮かび上がる「許されざる者」の冒頭と似た映像もあった。

イーストウッド監督、余裕でファンに対して楽しませてやろうというサービス精神の、これは現れなのかも知れない。

まさにこれは、90歳を超えて悠々と映画作りを楽しんでいる、イーストウッドでなければ作れない、素敵な映画である。

これまで何度も書いて来たが、イーストウッドが監督(+主演)する新作映画を観られる事が映画ファンにとって、この上ない幸せである。

いつまでも元気で、映画を作り続けて欲しい。そして役柄が合えばまた主演作も是非。 (採点=★★★★★

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コメント

淡々とした中にも情感があり、印象に残る映画でした。二回も車を盗んで大丈夫かとか、追手が間抜けだなとか思いつつ、後味の良いラストまで飽きさせません。

投稿: 自称歴史家 | 2022年1月22日 (土) 12:56

◆自称歴史家さん
>二回も車を盗んで大丈夫かとか…
まあ最初のは、動かなくなって放置されていた車を修理して使ったようにも見えます。新車じゃないですしね。細かく見れば粗のある脚本ですが、のんびりしたメルヘンチックな作品ですし、イーストウッドがやることはすべて許せる気分です(笑)。

投稿: Kei(管理人 ) | 2022年1月30日 (日) 17:24

イーストウッドと同い年のこの監督の映画「金の糸」もぜひ観てほしいです!

「ファーザー」が好きだとたまらないと思います。

ネタバレ一切無しでレビューしました。

https://note.com/tanipro/n/n2a3e6a5241bc

投稿: タニプロ | 2022年3月 5日 (土) 01:02

◆タニプロさん
「金の糸」見たいのですが、当地では3月18日から公開なのでまだ見れてません。見たらレビュー書きますね。

投稿: Kei(管理人 ) | 2022年3月 9日 (水) 11:54

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