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2022年4月16日 (土)

「親愛なる同志たちへ」

Dear-comrades 2020年・ロシア    121分
製作:Andrei Konchalovsky Studios
配給:アルバトロス・フィルム
原題:Dorogie Tovarischi (英題:Dear Comrades!)
監督:アンドレイ・コンチャロフスキー
脚本:アンドレイ・コンチャロフスキー、エレナ・キセリョワ
製作:アンドレイ・コンチャロフスキー
撮影:アンドレイ・ナイジョーノフ

冷戦下のソ連で30年間も隠蔽された市民の虐殺事件を題材にした歴史サスペンス。監督は「暴走機関車」などのロシアの巨匠アンドレイ・コンチャロフスキー。主演はコンチャロフスキー監督作「パラダイス」でも主演を務めたユリア・ヴィソツカヤ。第77回ベネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。

(物語)1962年のソ連南部、ノボチェルカッスク。共産党市政委員会のメンバーとして働くリューダ(ユリア・ヴィソツカヤ)は、国中が貧しくとも贅沢品を手に入れるなど、党の特権を使いながら父と18歳の娘スヴェッカの3人で穏やかな生活を送っていた。そんな中の6月1日、ノボチェルカッスクの機関車工場で大規模なストライキが発生。生活の困窮にあえぐ労働者たちが、物価の高騰や給与カットに抗議の意思を表したのだ。この問題を重大視したフルシチョフ政権は、スト鎮静化と情報遮断のために高官を現地に派遣する。そして翌2日、街の中心部に集まった約5,000人のデモ隊や市民を狙った無差別銃撃事件が発生した。リューダは、消息不明となった愛娘スヴェッカの身を案じ、凄まじい群衆パニックが巻き起こった広場を駆けずり回る…。

グッド・タイミングと言うかバッド・タイミングというべきか、こんな時にロシア製映画の公開である。しかもテーマは、旧ソ連時代の市民無差別殺害事実隠蔽事件の真実暴露と、現在のロシアがやっている事を連想してしまうような内容である。

但し、製作されたのは2年前で現在のウクライナ侵攻が起きるずっと以前。公開がこのタイミングになったのは偶然である。

監督はロシアの巨匠アンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー。ソ連時代に、「貴族の巣」「ワーニャ伯父さん」等の力作を発表し、80年代にはアメリカに渡り、ナスターシャ・キンスキー主演「マリアの恋人」(84)、黒澤明原案の「暴走機関車」(85)等を監督した他、スタローン主演のアクション映画を撮った事もある。ソ連崩壊後はロシアに戻り、プロデューサー、監督業を精力的にこなしている。

本作は、コンチャロフスキー監督が自らのプロダクションで製作したソ連時代の不都合な真実を、史実に沿って描いたもので、モノクロ、スタンダードサイズで撮影されているが、これによってドキュメンタリーを観ているような迫真の臨場感が出ている。当年で84歳になる監督渾身の力作である。

(以下ネタバレあり)

主人公リューダは、第二次世界大戦の最前線で看護師を務めたのち、南部のノボチェルカッスクで共産党市政委員会のメンバーとして働いている。国家への忠誠心も強い。
しかし私生活では、党の幹部という立場を利用して、庶民にはなかなか手に入らない高級食材、日用品などを裏でこっそり入手している。
父親は元革命家で、今もレーニンの記章を付け、酒を飲んでは昔の夢に浸っている。

しかし18歳の娘のスヴェッカ(ユリヤ・ブロワ)はそんな特権に胡坐をかく母に反抗し、工場労働者に連帯の意を示している。

そんな時、ノボチェルカッスクの機関車工場で、労働者たちが物価高騰や給与カットに抗議して、大規模なストライキが発生する。市政委員会はなんとか沈静化を図ろうとするが、抗議の火の手は大きくなる一方。会議中の建物にも石が投げ込まれ、委員たちは逃げ惑う。

業を煮やした中央政府はKGB高官を現地に派遣し、ストライキ弾圧と事態鎮静化の為に軍隊を動員する。それでも群衆が引き下がらないと見るや、遂に6月2日、約5,000人のデモ隊や市民に対して、無差別に銃撃が行われる。たちまち銃弾を受けて次々倒れて行く市民。たまたま現場にいた無抵抗の婦人たちも射殺され、広場は血の海となって行く。このシークェンスのリアルな描写には戦慄させられる。

会議の場でも「ストライキを扇動した人物は即刻逮捕すべき」と強硬な意見を述べるほど政府べったりだったリューダだが、非武装の市民が次々に殺害される現場を目の当たりにして、政府のやり方に疑問を抱き始める。さらに、娘のスヴェッカがデモ隊の中にいたのではないかと案じ、必死にスヴェッカの行方を探し奔走する。


主人公を、ストライキを起こした労働者や民衆ではなく、共産党市政委員という、権力者側にいる人物にした点がユニークである。
リューダは、最初は政府の意向を忠実に守る立場であったのに、娘が騒動に巻き込まれたと知ると、途端に子を思う母として、“個人”を優先する行動にシフトする。

この辺り、昨年公開された日本映画「由宇子の天秤」(春本雄二郎監督)との類似性を感じさせる。あちらも真実を伝える事を使命としていたジャーナリストの主人公が、自分の家族が事件に関わっていると知ると、途端に自分の主義を捨て、個を優先させるのである。

呆れたのは、さすが鉄のカーテンの国と言うか、政府側は市民大量殺戮の事実を隠蔽する為、現場に居合せ、生き残った市民たちに「この事件については一切口外しない」という守秘義務の誓約書を書かせたり(秘密を洩らせば投獄される)、広場のアスファルトに沁み込んだ大量の血糊が洗っても消えないとの報告を受けると、「その上に新しくアスファルトを舗装して隠せ」と命令したり…。信じられないような隠蔽工作を平然とやってたのが当時のソ連で、その実態をコンチャロフスキー監督は容赦なく暴き出す。

リューダは、知り合いのKGB幹部に頼んで、一緒に娘スヴェッカの行方を探す。

ある村の墓地に、殺害された労働者の死体が運び込まれたとの情報を得ると、その村に向かう。
現地の墓地管理者に死体の有無を訊ねると、最初は守秘義務の為になかなか答えようとしなかったが、KGBの男に促され、ようやく二人を墓地に案内する。

ここでも驚くのは、埋葬された死者の墓を掘り返し、そこに労働者たちの死体を投げ込んで埋め直したという事実。つまり死体の隠蔽が行われたという事である。
ウクライナ侵攻で、民間人の死体を穴を掘って埋めたというロシア側の隠蔽工作がたちどころに思い浮かぶ。

娘が埋まってはいないかと、リューダが素手で必死に掘り返す姿が哀れを誘う。もはや政府に忠誠を尽くしていた共産党幹部の姿はどこにもない。娘に生きていて欲しいと願う、一人の母の姿があるだけである。

ラストシーンはやや甘い気もするが、内務省検閲が今もあるロシアで作る映画としては、これが限界なのかも知れない。むしろソ連時代における国家の暴虐の実態を、よくここまで映画化出来たものだと感心した。ソ連崩壊で、この事実は既に明らかになっているとは言え。

おそらくは、“昔のソ連時代にはこんな虐殺、隠蔽が行われていたかも知れないが、今のロシアはソ連とは違い、そんな酷い事はしない”というロシア当局の思惑もあって、本作の製作が認められたのかも知れない。

皮肉にも、ロシアのウクライナ侵攻が起きた事で、“無差別大量虐殺を行い、国民には事実を隠蔽する”点において、今のロシアは実はソ連時代と何も変わっていない事が明らかになったと言えるだろう。
もしこの映画を現在においてロシア国内で公開しようとしたら、あるいは上映禁止にされるかも知れない。それほどにこの映画はロシアの痛い所を突いている。

この映画がロシア製だと聞いて、ロシア製品は何でもボイコットすべきだ、こんな映画は観るなと主張する人がいるかも知れない。

だが文化・芸術に罪はない。優れた作品は誰にでも観る権利はあるし、ましてや本作は旧ソ連の愚かしさを描き、結果的にロシアという国を痛烈に批判する作品になり得ている。今だからこそ観るべき映画である。是非多くの人に観て欲しいと思う。 
(採点=★★★★☆

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(付記)
本作に関連して、未見なら是非観ていただきたい作品がある。

Battleshippotemkin 1925年、当時のソ連で作られた、セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督のモノクロ・サイレント映画「戦艦ポチョムキン」である。

映画史に残る名作として、また当時としては画期的な、“モンタージュ”手法を確立させた、映画のお手本のような作品である。

この作品は、1905年の第一次ロシア革命の時代を背景に、戦艦ポチョムキン内で起きた、劣悪な環境に抗議する水兵たちの反乱、及びそれを支持する市民たちを鎮圧しようとする軍隊との衝突をリアルに描いた作品で、特に終盤、ポチョムキン号の雄姿を見る為に集まった市民に軍隊が無差別に発砲し、次々と市民、女性、子供たちが死んで行くシーンは凄惨で息を呑む。

Battleshippotemkin2特に母親が射殺され、赤ん坊が乗った乳母車が階段を転がり落ちて行くシーンは哀切極まりない名シーンと言え、後にブライアン・デ・パルマ監督が「アンタッチャブル」でオマージュを捧げているくらい有名である。

この映画の舞台となる時代はまだソビエト連邦が出来る前の帝政ロシア時代で、製作したソ連としては、市民を弾圧するロシア帝国主義の横暴を非難するという意図もあったのだろうが、“軍隊が市民を無差別殺戮する”という点では、帝政時代も、本作で描かれたソ連時代も、今のロシアも、まったく変わっていない事を結果的に証明していると言えよう。

コンチャロフスキー監督が本作をモノクロ・スタンダードで撮ったのは、この同じモノクロ・スタンダード作品「戦艦ポチョムキン」を意識していたのかも知れない。

ところで、この軍隊による市民無差別殺戮の舞台となっているのが“オデッサ”である(このクライマックスシーンは「オデッサの階段」シーンと呼ばれている)。
即ち現在ロシア軍が侵攻しているウクライナ西部にある主要都市である。ニュースでこの地名が出て来る都度、つい「戦艦ポチョムキン」を思い出してしまった。

Dear-comrades2

そんな点においても、映画「戦艦ポチョムキン」 は今の時代、改めて観直すべき価値があると私は思っている。

 

 

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コメント

 ストーリーは最初、比較的ノンキな感じで進むがジワジワとモノクロの画面が効いて、共産党の怖さが。その共産党の地域幹部が主人公、それが管理人さんの仰る通り新鮮に感じる。ソビエト共産党の体質が如実に出たという意味で、良い映画でした。

投稿: 自称歴史家 | 2022年4月19日 (火) 22:22

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