「ワン・セカンド 永遠の24フレーム」
2020年・中国 103分
製作:安樂影片有限公司
配給:ツイン
原題:一秒鐘 (英題: One Second)
監督:チャン・イーモウ
脚本:チャン・イーモウ、ヅォウ・ジンジー
脚本監修:チョウ・シャオフォン
撮影:チャオ・シャオティン
音楽:ラオ・ツァイ
製作:ドン・ピン、ビル・コン、ピーター・チャン
文化大革命を背景に、映画をめぐるさまざまな出会いと、娘への父の想いを描いた人間ドラマ。監督は「SHADOW/影武者」の中国映画界の巨匠チャン・イーモウ。出演は「山河ノスタルジア」のチャン・イー、「愛しの故郷」のファン・ウェイ、本作がデビュー作となるリウ・ハオツン。第15回アジア・フィルム・アワードで、チャン・イーモウ監督が最優秀監督賞を受賞した。
(物語)1969年、文化大革命真っただ中の中国。造反派に抵抗したことで強制労働所送りになった男(チャン・イー)は、妻に愛想を尽かされ離婚し、最愛の娘とも疎遠になっていた。数年後、映画の本編前に流れるニュースフィルム「22号」に娘の姿が1秒だけ映っているとの手紙を受け取った男は、娘の姿をひと目見たいという思いから強制労働所を脱走し、逃亡者となりながらフィルムを探し続けていた。男は「22号」が上映される予定の小さな村の映画館を目指すが、ボロボロの格好をした一人の子供が映画館に運ばれるフィルムの缶を盗みだすところを目撃し、後を追いかける…。
この所、「グレートウォール」、「SHADOW/影武者」と、CGを多用したエンタティンメント大作が続いていた巨匠、チャン・イーモウ監督の、久しぶりのアクションのない小規模な人間ドラマである。
しかも物語が、1960年代末期を舞台に、“映画フィルムを巡っての一騒動”を描く、映画愛をテーマにした人情劇だというから、これは観たくなる。
(以下ネタバレあり)
冒頭、広大な砂漠の向こうから一人の男(チャン・イー)がやって来る所から物語は始まる。
物語が進むに連れて、その男の目的が明らかになって来る。男(役名は最後まで不明。キャスト表では「逃亡者」とある)は数日前強制労働所から脱走して来たのだが、それは、映画の本編前に流れるニュースフィルムに、自分の娘の姿が1秒だけ映っているとの手紙を受け取ったからで、そのニュース映画を観る為に脱走、逃亡してこの地までやって来たのである。
この村では既に上映は終わり、バイクの運び屋がカバンにフィルム缶を詰め、次の上映地まで運ぶ準備をしていた。
食事をする為に運転手が離れたので、男がフィルムを確認しようかどうか迷っていると、突然ボサボサ頭にボロボロの格好をした子供がフィルム1缶を盗み出し駆け出す。
男は子供を追いかけ、フィルムを取り返すが、戻ってみると既にバイクは出発していた。フィルム1缶が無くなっている事も気が付かずに。
男はフィルムを届けようと、次の村まで歩きだす。その後を、なんとかフィルムを盗もうと子供がつけて来る。
後で明らかになるのだが、最初は男の子だと思われていたその子供は実は女の子で、名前はリウ(リウ・ハオツン)という。フィルムを盗んだのは、当時フィルムの切れ端(50cmくらい)数枚を電気スタンドの笠にするのが流行っていて、リウの弟が友達から借りたフィルム笠を燃やしてしまい、返さないと苛められるので代りのフィルムがどうしても必要になったからという理由だった。
かくして、1巻の映画フィルムを巡って、盗まれてはまた取り戻したりの男とリウの争奪戦が何度も繰り返される事となる。このくだりはまるでチャップリンのサイレント短編映画の如きドタバタ・コメディ・タッチで笑わせてくれる。
いろいろあって、男はやっと村にたどり着き、リウを見つけてフィルムを取り戻し、村で映画館を仕切るファン電影(ファン・ウェイ)に返すが、村ではさらに大問題が起きていた。故障したバイク便に代わってフィルムを運んでいた馬車が、フィルム缶が開いていた事に気付かずフィルムを引き摺り、ボロボロの砂だらけにしてしまった。しかもそのフィルムは、男が探していたニュースフィルム22号だったのだ。映画を楽しみにしていた村人たちは落胆する。無論娘の姿を見たい男も。
ここから映画は、ファン電影の指揮の下、村人総出でフィルムの洗浄・修復作業を経て、映画上映が無事行われるまでを、かなり細かく時間をかけて描いている。
幕の裏に針金を何本も渡してフィルムを素麺作りみたいにぶら下げ、水をかけて洗浄し、布でゆっくり水を吸い取った後、団扇で扇いで乾かして行く。
これはイーモウ監督自身が若い頃に勉強したり体験した事が基になっているらしい。
映画が始まると、もうお祭り騒ぎ、歓声を上げ、スクリーンに映る光に手を上げたり、中には自転車を持ち上げる者もいたり(笑)。
上映される映画は、「英雄児女」(1964年)という実際に中国で作られた作品で、朝鮮戦争が舞台の、兵士の英雄的な活躍ぶりを描いた、いわゆるプロパガンダ映画だが、観客たちはそれでも感動し涙を流しながら見入っている。
映画が娯楽に飢えた貧しい村人たちにとって、唯一の楽しみだった時代の空気感が見事に表現されている。名作「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出す。
映写技師でもあるファン電影が映写機にフィルムをかけて行く作業をじっくりと描いているのもいい。フィルム映画ファンにはたまらない。
フィルムは擦り傷だらけで雨が降っていたり、ご丁寧に途中で映写が止まり、フィルムが溶け出すシーンまである。これらはタランティーノの「グラインドハウス・ムービー」へのオマージュっぽい(笑)。
上映が終わった後、男はファンに、もう一度22号のフィルムを上映して欲しいと懇願する。娘は映ってはいたが、たったの1秒ではあまりに物足りない。ファンは男の要望に応えて、観客がいなくなった映画館で22号を上映するのだが、何度も「もう1回」と男が頼むので、ファンはフィルムの最初と最後を接着剤でくっ付け、エンドレスで上映できるよう細工する。ここらも映写に詳しい人ならニヤリとさせられる(実際に可能である)。
以後の展開は簡単に述べるが、男は保安局に捕まり強制労働所に送還されるものの、ファンの温情で娘が映っていたフィルムの2コマをプレゼントされるが、それを局員に見つけられ砂漠に捨てられてしまう。
2コマのフィルムが、砂にゆっくりと埋もれて行くシーンは悲しい。
2年後、文化大革命(文革)の嵐も過ぎ去り、男は釈放され、中止されていた入学試験が再開されるシーンもある。そして男とリウが再会するラストシーンは感動的である。
2年前は汚い身なりだったリウが、見違えるほど美人になっていたが、そのリウの姿が「初恋のきた道」のチャン・ツィイーにちょっと似てるのも楽しい。
最初はいがみ合っていた男とリウが、物語が進むに連れて次第に心を通わせて行くプロセスも、定番だがうまく描かれている。終盤では、お互いに家族をなくした二人が、まるで疑似的な親子のような関係になって行く辺りも秀逸である。
観ている間、やや不思議に思ったのは、男がフィルムにたった1秒映っている娘の姿をなんでそこまで観たいとこだわるのかという点。いずれは会えるだろうに。
が、後で知った話だが、元の脚本では、男の娘は既に死んでいた事になっていたそうだ。それだったら男が、もう二度と会えない娘の姿をフィルムで見て、目に焼き付けておきたいと熱望する気持ちも理解出来る。
ところが中国当局の検閲で、娘が死んでいたというくだりは文革批判に繋がると判断されたのか、カットを命じられる。やや甘いラストも当局の意向らしい。
本作はベルリン国際映画祭に出品されるはずが、直前になって“技術的原因”で上映中止になったそうだが、それも勘ぐれば中国当局が内容に横やりを入れたのかも知れない。
チャン・イーモウのような中国を代表する世界的巨匠でも検閲で修正を命じられるとは。中国の言論統制の厳しさを思い知らされる。
それでも、男が強制労働所に送られた原因が造反派に抵抗した為という所は描かれているので、結果的にこの映画は文革批判になっていると言えるだろう。
チャン・イーモウ作品では、1994年の「活きる」も文革時代を批判的に描いたとして中国国内で公開禁止となっているし、「妻への家路」(2014)でも文革が扱われていた。
夏季・冬季と2度のオリンピック開会式の総監督を担当する等、体制側に近い人物と思われているようだが、こうした過去の活動や本作の文革批判を見ても、一見体制寄りに見えて、実はしたたかに自分の描きたい映画を作り続けている、なかなか骨のある監督だと私は思う。
本作をご覧になる方は、“逃亡者の娘は死んでいる”事を頭に入れて鑑賞する事をお奨めする。そうすればより感動させられるだろう。
チャン・イーモウ監督のファンの方は無論の事、「ニュー・シネマ・パラダイス」ファンの方、昔学校の校庭で、風に揺れる白幕に映る映画を鑑賞した経験のある方には特にお奨めの、これはチャン・イーモウによる映画愛、映画館愛、フィルム愛に満ちた素敵な秀作である。 (採点=★★★★☆)
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