「流浪の月」
(物語)ある雨の日の夕方、公園でびしょ濡れになっていた10歳の少女・家内更紗(白鳥玉季)に、19歳の大学生・佐伯文(松坂桃李)が傘をさしかける。更紗は伯母に引き取られていたが、ある理由でその家に帰りたがらなかった。文はそんな更紗を自宅に連れて帰り、更紗はそのまま2か月を過ごすが、やがて文は更紗を誘拐したとして逮捕される。“被害女児”とその“加害者”という烙印を背負ったまま生きて来た更紗(広瀬すず)と文は、事件から15年経ったある日、偶然再会する。
李相日監督は、吉田修一原作の「悪人」(2010)が絶賛され、各映画賞を総ナメした後、「許されざる者」(2013)、「怒り」(2016)と、一貫してヘヴィーで重厚な問題作を作り続けて来た、日本を代表する名匠であり、私も大好きな監督である。
そうした作風故か寡作で、本作は長編としては「怒り」以来6年ぶりの作品。もっと映画を作って欲しいし、例えば「フラガール」のような心温まる感動作も作って欲しいと願っているのだが、さて本作は…。
(以下ネタバレあり)
本作は2020年度の本屋大賞を受賞したベストセラーで、テーマは相変わらず重い。その点ではいかにも李監督好みの題材である。
19歳の大学生・文が、公園で雨に打たれながらも動こうとしない10歳の少女・更紗を見とがめ、「家に帰りたくない」という更紗を自分の家に連れて帰るのが物語の発端。
世間の常識から見れば、これは未成年者誘拐のれっきとした犯罪だし、相手が10歳の少女であれば、ロリコン変態と言われても仕方がない。
実際には文は更紗に何もしてないし、ただそばに置いておいただけなのだが、世間はそんな事実などどうでもいい、面白おかしく叩いて溜飲を下げるだけである。
こうして文は“少女を誘拐、弄んだ卑劣な変態野郎”、更紗は“傷者にされた被害女児”のそれぞれの烙印を押されたまま生きる事となる。
そして15年が過ぎ、更紗は恋人の中瀬亮(横浜流星)と同棲しており、いずれは結婚も考えている。暗い過去は封印したままであれば、一応は人並みの人生を送れるはずである。
ただ昔と違ってSNSが発達した現代では、過去に世間で話題になった出来事がネット上に残ったままであり、何かあれば蒸し返され、また拡散される事もある。
そんなある日、更紗は偶然入った深夜カフェで、そこの店長として働く文と再会する。文は気付いていないようだが、更紗は動揺する。
実は、10歳の更紗が家に帰りたくなかったのは、伯母の息子が深夜に更紗に性的悪戯を繰り返していたからであり、文はそんな更紗を救ってくれた恩人なのである。
にも関わらず、更紗は警察に本当の事が言えず、結果として文を“卑劣な犯罪者”にしてしまった。その負い目が更紗の心の奥深く棘のように刺さっている。
もっとも、真実を警察に言った所で、犯人に心が寄り添ってしまうストックホルム症候群とみなされ、信じてもらえなかったかも知れないが。
更紗はその後も、文のカフェを何度も訪れる。だがそれだけ。あの時の事を文に詫びるでもなく、いや、詫びたいがどうしても言えないのか、無言のままである。
そして文が、恋人と思われるあゆみ(多部未華子)と店を出た所を見かけると、ストーカーのように二人の後をつける。
これらの更紗の行動は、なんとも不可解である。観客も混乱する。
だが、人間の心とはそういうものである。自分にも、他人にも判らない何かが、人を突き動かすのである。
おそらく更紗は、自分の思い通りに更紗を支配しようとする亮に比べて、あの時も、そして今も更紗に何もせず、遠くから見てくれている文に、本当の人間的な繋がりを見出したのかも知れない。
だが、更紗の行動を不審に思った亮は、やがて更紗の文のカフェ通いを見つけ、文があの誘拐男だと知ると、SNSで画像を拡散する。そればかりか更紗の行動を詰り、更紗に暴力さえ振るう。更紗は家を飛び出し、やがて文のマンションの隣の部屋に引っ越してしまうと、亮は今度は暴露文書をマンションの郵便受けに片っ端から投げ込む等、常軌を逸した行動を取るようになる。
更紗を支配する事だけしか考えず、キレると暴力的になる自分勝手な男・亮を横浜流星が絶妙の怪演。でも多分そういう人間が実際に増えているのだろうなと思わせる。
更紗と文の、隣の部屋同士の奇妙な生活が始まる。だが亮によって二人の過去がSNSで拡散された現在、更紗がそうやって文の傍にいる事はリスキーでしかない。
さらに、更紗の友人の女性が、しばらくの間という条件で娘を更紗に預けたまま所在不明となり、その娘を文が可愛がる姿がまたネットで晒され、週刊誌のスキャンダルネタになったり、遂には警察まで介入、文が逮捕される事態にまで発展する。
物語はこうして、更紗と亮、文とあゆみ、それぞれのカップルの関係に修復不可能なヒビが入り、お互い別れる事となる。更紗と文が再会しなければ、みんな幸せなままでいられたかも知れないのに。
それでも最後に、更紗と文はずっと二人で一緒に生きて行く事を選択する。例えどこまでも流浪する事になろうとも。
ズッシリと、重い作品である。李監督の演出はいつもながら骨太で重厚で、人間というものの愚かしさ、不思議さをこれでもかと力強く粘っこく表現する。その演出パワーには圧倒される。
演技陣も監督の意図を理解し、それぞれの最高の演技力を見せている。ガリガリに瘦せ、文を見事に体現した松坂桃李、また新しい一面を見せた広瀬すず、いずれも素晴らしい。
そしてもう一つ、“正義と悪とは何か”という、李監督らしいテーマが背景にある点も見逃せない。
「悪人」では、世の中に満ち溢れるさまざまな“悪意”を痛烈に描き、本当の「悪人」は誰かについて考えさせられる作品だったし、「許されざる者」ではまさに“何が正義で、何が悪なのか”についての鋭い追及がなされていた(詳細は各拙作品評参照)。
本作では、世間から見れば文は可哀想な少女を餌食にした変態の“悪人”である。そんな悪人を糾弾するネット民たちは、まさに“正義”に酔っている。
だが更紗から見れば、文は行き場のなかった自分を救ってくれた“正義の人”である。そんな文を寄ってたかって苛めるネット民、週刊誌は“悪意”の象徴である。両者の間では正義と悪は逆転しているのである。
そう考えれば、「悪人」、「許されざる者」、本作は李監督による、“正義と悪に関する考察・3部作”と言えるかも知れない。
ただ本作は、細部においてやや脚本の練りが足らない所も散見され、傑作とは言い切れないのが残念。
例えばカフェの1階にあるアンティーク・ショップのオーナー、柄本明がいつの間にか消えてしまったり(ショップの入口が落書きされてるのに何故出て来ない)、本人への聞き取りもなく週刊誌が記事にする事は現在ではあり得ないし、捜索願が出されてる訳でもないのに、警察が週刊誌の記事を鵜呑みにして文を逮捕したりするのもあり得ない。
他のレビューでも書かれているが、文の身体的欠陥が更紗に何もしなかった理由のように描かれているのは、入れない方が良かった気がする。
ただこのエピソードは原作にも描かれており、これを外すか残すか、脚本も書いている李監督は悩んだ事だろう。どちらが良かったかは判断が難しい所ではある。
そういう難点を差し引いても、本作が圧倒的な力作であるのは間違いない。何より、先にも書いたが、李監督の剛腕の演出力は現代では抜きん出ている。その演出の前では、細かい粗などは気にならなくなる。
昔の監督で言えば、ねちっこい人間描写が光る今村昌平作品や、どこまでも堕ちて行く男女の道行きを凝視した溝口健二監督「近松物語」や成瀬巳喜男監督「浮雲」などを思い出す。
“水”を効果的に使った描写も秀逸。そして韓国の撮影監督ホン・ギョンピョによるカメラワーク、「キル・ビル」等海外でも高く評価されている種田陽平の美術、いずれも素晴らしい。
これぞ大人が観るべき、本物の映画である。前述の難点さえうまくクリアされていたら満点を差し上げてもいい。観るべし。
(採点=★★★★☆)
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コメント
良い映画とシンプルには言えないが、惹きつけられます。松坂桃李、広瀬すずはもちろん、意外と言ったら失礼だが、横浜流星が印象に残りました。ハッピーエンドと言い切れない展開が気になり、原作を買いました。まだ、読んでませんが。
投稿: 自称歴史家 | 2022年6月 5日 (日) 18:52
追加、あまり話題になってないようですが、出番は少ない内田也哉子の不気味な存在感は見逃せない。
投稿: 自称歴史家 | 2022年6月 5日 (日) 19:47
◆自称歴史家さん
役者がみんないいですね。
記事には挙げませんでしたが、更紗の少女時代を演じた白鳥玉季さんも素晴らしい名演技でしたね。広瀬すずさんと雰囲気がよく似てます。内田也哉子さん、時々樹木希林さんとそっくりな表情になる時がありましたよ(笑)。
投稿: Kei(管理人 ) | 2022年6月 6日 (月) 09:46
映画「流浪の月」。ネタバレあります。主人公更紗(さらさ)の少女時代は白鳥玉季です。彼女はテレビドラマ「凪のお暇」(黒木華・高橋一生主演)に出演してた人です。本作では800人の応募者の中から更紗役に選ばれたそうです。成人した更紗は広瀬すずです。少女時代の更紗は快活ですが、成人してからの更紗は暗くて大人しい。少女時代と成人してからの更紗は性格が違うように見えました。監督はそこを意識して演出してると思います。映画「青(ちょん)」の李監督なので心の奥の見えない部分を描く事に拘ると思います。更紗のキャスティングは重要です。更紗役の白鳥はあどけない、明るい更紗を演じていた。大人になった広瀬の演じる更紗には明るさが無くなっていた。更紗のこの変化がこの映画の描きたい中心部分だと思います。更紗が10歳の時に出会った男・当時大学生の佐伯文(松坂桃李)。成人した更紗を愛した男・中瀬亮(横浜流星)文を愛する女・谷あゆみ(多部未華子)亮は更紗が文を愛していることを知り自暴自棄に成り、自傷行為におよぶ。あゆみ(多部未華子)は、文に自分の気持を踏みにじられた怒り・悲しみをぶつけて別れた。撮影監督のホン・ギョンピュはアカデミー賞作品賞「パラサイト半地下の家族」のカメラマンだそうです。彼の撮影は、話し相手の顔にピントをあわせない。日本のカメラマンはそれはしません。川の流れの撮影も流れの中に光も一緒に流していました。光の映像を意識的に入れています。「パラサイト・・」のように現実ではない、おとぎ話のような映画を日本のカメラマンは撮れるのかなと思いました。撮れるとは思います。勿論、李監督の演出意図が有ってのことです。美しい撮影です。演技が良かったです。松坂桃李はイケメンです。13㌔の減量をしてこの役に臨んだ。僕は二人の再会の喫茶店のシーンのためだけに減量したと思う。細い寡黙な文を演じています。李監督は演技に拘る方です。俳優の演出には相当粘ったと思います。横浜流星の演技はかなり激しい演技でした。更紗を殺すのではないかとハラハラしました。撮影写真を見て思ったのですが、湖に飛び込むとか、雨の中で佇むなど、血だらけで、人の大勢居る街を走り抜けるとか、尋常で無いことを俳優はする。素人が手を出したらいけない職業です。広瀬すずは実際に湖に飛び込んでいますし、血だらけで街なかを逃げます、松坂桃季は実際に湖に浮かんだり、全裸になっています。大した度胸です。映画は天才たちの仕事です。とても怖い世界です。二人は「流浪の月」の題名のように、流れていくのでしょう。最初の方で川の流れを写したシーンが印象的です。奇跡のような再会。良かったです。ベストパートナーです二人は。ラストは暗くないです。二人の未来は開けています。
投稿: 広い世界は | 2022年6月 8日 (水) 00:31
前回のケイ様の「死刑にいたる病」は全部読ませて頂きました。僕はこの映画は好きなので内容に関しては賛同出来るものでは有りませんでした。しかし、例え僕の好きな映画であっても、ケイ様の映画を貶す姿勢に関しては理解いたします。僕も最近見た映画をボロクソに貶しました。その理由は監督の姿勢が観客なんて理解しなくても構わないと言う高慢な考えなのが気に食わなかったからです。映画関係者はきっとこの映画を問題作と言って持ち上げるでしょう。それが嫌でした。僕は映画が好きなので、こんな映画を作るのが許せないのです。映画自体はそこそこ面白かったのですが楽しめませんでした。僕のコメントを無視されるのはご自由ですよ。
投稿: 広い世界は | 2022年6月 8日 (水) 07:52
◆広い世界はさん
私は当ブログで何度も書いて来ておりますが、映画の感想というものは人それぞれ、同じ作品を絶賛する人もいれば批判する人もいて当然です。自分が感じた事を素直に表現すればそれでいいのです。だから、私は自分の大好きな作品を貶されても、それはその人がそう感じた訳ですから、そういう見方もあるのだなと思うだけです。人によって、いろんな見方が出来るから映画は面白いのです。
そういう訳で、拙記事に対する感想コメントへのお礼の返事は差し上げますが、他人の作品論にはどうお返事しようか考えてる間に時間が経ってしまいました。決して無視してる訳じゃありませんので。
もう一つ、私は作品を批判する場合でも、一方的に貶す事はしません。必ず、「ここを直せばもっと良くなるのに、惜しい」、「この作家なら、もっと凄い作品を作れるはずだ」という期待と愛情を込めて批判するよう心がけています。
それと広い世界はさん、こうした長い作品論を書けるのなら、こんな所に書き込むより、ご自分でブログなりFacebook、Note等を立ち上げて、そちらでじっくり作品論を展開された方がいいと思いますよ。その方がもっと多くの人に読んでいただけると思います。立ち上げたら、是非伺わせていただき、感想を書かせていただきますよ。
投稿: Kei(管理人 ) | 2022年6月 8日 (水) 11:21
コメントって人の顔を見て語っているわけではないので、相手が今どういう表情をしているのか分かりません。不快なのか、喜んでいるのか、ブログもそうです。顔の見えない相手に話しかけているわけです。ですので、仮に僕が管理人だったら、コメントに返信しなければならないのが義務とすれば、億劫だよなと思ったので、無視してもいいですよと書きました。本心は無視されれば良い気持ちはしないのですが。思い込みで失礼なことを申し上げました。申し訳有りませんでした。
投稿: 広い世界は | 2022年6月 8日 (水) 17:06
コメントって相手の顔が見えないし、顔を見ないで書いているので、相手がどんな顔をして読んでいるのか分からないぶん、怖い所があると思います。ケイ様の「流浪の月」の作品評を読ませていただきました。映画の全てを落ちなく語られている事に素晴らしい才能を感じました。僕はこのようには書けませんし、多分書きません。僕が拘っているのは映画をどのように感じたかだけです。自分が発見した事は何だったのか、自分だけが発見した宝ものを書きとめておきたい人間です。作品評ではないですね、多分。拘った部分を深掘りしたいのでしょう。枝葉の部分はどうでも良く、映画の足りない部分もどうでもよく成るみたいです。映画に酔う、のめり込むタイプかもしれません。深掘りできているかは分からないです。
投稿: 広い世界は | 2022年6月 9日 (木) 05:49
◆広い世界はさん
拙作品評をお褒めいただき、感謝です。ありがとうございます。
>僕が拘っているのは映画をどのように感じたかだけです。
それでいいのですよ。感じたままに書く、素敵な事です。評論家でもない我々映画ファンは、固い作品論よりそっちに重点を置くべきでしょう。私もそう心がけてはいるのですが、つい好きな作家に肩入れして長文になってしまいます。反省ですね。
感じたままに書く事、これからも続けて行かれる事をお奨めします。それもある程度纏まった文章になれば、立派な作品論と言えば言えるかも知れませんね。
投稿: Kei(管理人 ) | 2022年6月12日 (日) 17:30
そちらではもう公開されてるのでしょうか?私の現時点での今年の日本映画一位は「夜を走る」かもしれません。
観終わって少しも良い気分にならないんですが、私の観てる範囲内では近年稀に見る暗黒日本映画です。
かつての黒沢清映画を思わせる気持ち悪さです。
今年の日本映画一位はこれか、または日本の闇の歴史をくっきり描いた「わが青春つきるとも 伊藤千代子の生涯」です。「わが青春つきるとも」は、戦争体験者であり何でもかんでも観ていた佐藤忠男さんが生きてらしたら絶賛してくれたかもしれません。
暗い時代には、暗い映画が必要です。
投稿: タニプロ | 2022年6月14日 (火) 23:07
◆タニプロさん
佐向大監督は「教誨師」が良かったし、キネ旬星取表でも高評価ですので観たいのですが、当地での公開はやっと6月17日(明日)からとなりました。ところが時間表を見ると初日が夜7時頃から、4日目からはPM8時50分のレイトショーのみ。当地では1館のみの上映ですから、これでは観たくても観られません。なんでこんな不当な扱いなんでしょうかね。
そのうち口コミで評判が広がって、上映機会が増える事を期待するしかなさそうですね。残念。
投稿: Kei(管理人 ) | 2022年6月16日 (木) 20:39