「きっと地上には満天の星」
2020年・アメリカ 90分
製作:Likely Story=Level Forward=K Period Media
配給:フルモテルモ、オープンセサミ
原題:Topside
監督:セリーヌ・ヘルド、ローガン・ジョージ
原案:ジェニファー・トス
脚本:セリーヌ・ヘルド、ローガン・ジョージ
撮影:ローウェル・A・マイヤー
音楽:デビッド・バロシュ
製作総指揮:キンバリー・スチュワード、クリスティ・スピッツァー・ソーントン
ニューヨーク地下鉄の廃トンネルで暮らす母娘の地上への逃亡を描いた人間ドラマ。監督は短編「Caroline」がカンヌ国際映画祭で注目を集めたセリーヌ・ヘルドとローガン・ジョージ。これが長編デビュー作となる。出演は監督も兼任するセリーヌ・ヘルド、これが映画初出演となる新星ザイラ・ファーマー、ヒップホップミュージシャンのファットリップ、「アメリカン・アニマルズ」のジャレッド・アブラハムソンなど。
(物語)ニューヨークの地下鉄のさらに下に広がる暗い廃トンネルで暮らす母ニッキー(セリーヌ・ヘルド)と5歳の娘リトル(ザイラ・ファーマー)は、貧しくも仲むつまじく暮らしていた。だがある日、市の職員たちによる不法住居者の摘発が行われ、母娘は地上への逃亡を余儀なくされる。生まれて初めて外の世界に出たリトルは、眩い喧騒の中、夜空にまだ見ぬ星を探し続ける。どこにも行き場のない母娘はニューヨークの街を彷徨うが、次第に追い詰められて行く…。
アメリカ映画にしては珍しい、社会の最底辺(文字通り、地下のそのまた地下)で、ギリギリの生活を送っている貧しい人たちにスポットを当てた作品である。
社会の最底辺で生きる貧しい人たちの暮らしぶりを描いている点で、イギリスのケン・ローチ監督作品を思わせるが、この映画の主人公たちはローチ作品の主人公たちよりもっと悲惨である。住む家がなくて地下の廃トンネルを寝ぐらにし、そこさえも冷たい行政によって追い出されてしまう。
原案は、ジェニファー・トスのノンフィクション「モグラびと ニューヨーク地下生活者たち」。地下鉄の廃トンネルなどで暮らすホームレスを取材したルポルタージュで、映画はそれをベースに、セリーヌ・ヘルドとローガン・ジョージの二人が脚本を書き、監督も兼任して完成させた。
それにしても「モグラびと」という原作タイトルが実に的を射ていると言うか何と言うか。まさにモグラのように、太陽を見る事なく地下で生活する人たちが現実にニューヨークに実在していたのだから。
「実在していた」と書いたのは、原作が発表されたのは1993年だが、その翌年、ニューヨーク市の治安改善と再開発を旗印にして当選したジュリアーニ市長の方針の下、映画にあるように、市の職員による不法居住者の摘発が行われ、多くのモグラびとたちが住み家を追われる事になったという。
何とも酷い話で、映画はそんな行政の非情さを厳しく批判しつつ、母親と幼い5歳の娘との、貧しくとも懸命に生きる親子愛の物語に焦点を当てている。
(以下ネタバレあり)
5歳の小さな娘、リトルは生まれてから一度も地上に出た事がない。ずっと地下の廃トンネルで暮らしている。生活も貧しい。学校に行く事も出来ない。
それでも、スマホをいじったりゲーム機で遊ぶくらいの余裕はあるようだ。
生活費は、母ニッキーが売春をして稼いでいる。ただニッキーは麻薬依存症のジャンキーでもある。
それでも、我が子リトルに注ぐ愛情は普通の家庭の母親と変わりない。リトルも母を慕っている。
ちょっと面白いのは、ニッキーはリトルに「もう少しすれば、あなたの背中に翼が生えて来る。そうすれば地上に出られる。それまではここにいるのが安全なの」と言い聞かせている。
無論これはウソで、リトルの不満や不安を和らげる為の方便である。しかし無垢なリトルはその母の言葉を信じて、健気に地下の生活を我慢し続けている。いつかは地上に出て、文字通り思いっきり羽根を伸ばし、夜には満天の星を眺めたい。その時を夢見て。
この母親ニッキーというキャラクターがとても微妙である。ちゃんと地上で職を得て働けば、娘にもっといい生活もさせてあげられるし学校に行かせる事も出来るのに、麻薬に溺れてまともな生活をする事が出来ない。
しかし娘にはとても優しく、限りない愛情を持って育ててくれている。我が子を捨てたり虐待したりする最近の親たちに比べたらよっぽどマシである。
こうした複雑な人物を、監督・脚本も兼任するセリーヌ・ヘルドが見事に演じ切っている。
そんなある日、市の職員たちが現れ、この廃トンネルに暮らす人たちに対して強制退去を命じた事で母子の生活は一変する。
もうここには住めない。仕方なくニッキーはリトルを抱いて一つ上の階層にある地下鉄ホームを経由して地上に出る。
生まれて初めて広い地上に出たリトル。だがそこでリトルが体験したのは、車両の騒音、人々の喧騒、光の洪水等に満ちた、不協和音にも近い街の騒がしさであった。
あまりの環境変化に、思わず悲鳴を上げてしまうリトル。地下の暮らしが静かだっただけに余計ショックだったのだろう。
ニッキーはこれからの暮らしの為、かつて身を寄せていた売春組織の元締めを頼って訪れるが、それは身体を売り、薬漬けの昔の自堕落な生活に戻る事も意味する。
結局この地上にも彼らの居場所はなく、母子は地下鉄構内に戻って来る。
だがここで事件が起こる。先に地下鉄に乗った母の後を追おうとしたリトルの鼻先でドアが閉じてしまい、リトルはホームに残され、気付いたニッキーが必死でドアをこじ開けようとするも空しく電車は走り出してしまう。
ここから後のシークェンスは本作の白眉である。ニッキーはパニックになって電車を止めようと車内を走り回り、次の駅で降りるや向かいのホームに走り、反対方向の電車に飛び乗り、元の駅に戻ると必死でリトルを探すがどこにもリトルの姿は見えない。また走り、娘を探して当てどなく彷徨うニッキー。
カメラはこの走るニッキーにピタリ密着し、一緒に走る、走る。ほとんどワンカットに見えるそのダイナミックなカメラの動きには圧倒される。まるで我々観客もニッキーと一緒に娘を探して走っているような錯覚さえ覚えてしまう。
いくら探しても娘は見つからない。切羽詰まったニッキーは地下鉄の案内所係員に、迷子の女の子が保護されていないかと問い合わせてみるが、係員がセンターに電話しようとすると、警察に通報されるのではないかと恐れてその場を立ち去ってしまう。なにしろ自分たちは不法居住者なのだから。
探し疲れたニッキーは、もしかしたら元の住処に帰っているのではと廃トンネルに戻るが、ここにもリトルはいない。
そこで親しい地下住人仲間のジョン(ファットリップ)と出会うが、話を聞いたジョンはニッキーに次のような言葉をかける。
「大丈夫だ。見つからないという事はもう誰かに保護されているはずだ。これはリトルにとってチャンスじゃないか」
ジョンは彼女を慰め、安心させるつもりで言ったのだろう。そしてそれは事実かも知れない。それでもニッキーは娘の姿を見るまでは安心出来ない。また地下鉄構内に戻り、電車を乗り継ぎ探し回る。
そして遂に、電車内で、リトルらしき少女が車内で眠りこけている姿を見つける。だがそこでニッキーが取った行動は…。
このラストにおけるニッキーの決断は考えさせられる。先ほどのジョンの言葉がある意味伏線にもなっている。
でも、ジャンキーでこの先の生活もおぼつかないニッキーにとっては、娘の幸福の為には、この方法しかなかったのかも知れない。それは、娘を深く愛しているからこその苦渋の決断なのだろう。そう思うと涙が溢れて来る。
重い、考えさせられるラストシーンだった。母の愛とは何なのかを考えさせられると共に、福祉行政の貧困についても鋭い批判が込められた、社会派テーマの力作である。
ニッキーに扮したセリーヌ・ヘルドの熱演は言うまでもないが、リトルを演じた子役のザイラ・ファーマーの自然な演技も見応えがあった。
金をかけた超大作やアメコミ・ヒーローものが席巻しているアメリカ映画界でも、一方でこんな低予算・社会派映画も作られる、その幅の広さにも感心させられる。
セリーヌ・ヘルド&ローガン・ジョージ監督、デビュー作ながら見事な出来栄えであった。次回作にも注目したい。女優としてのセリーヌ・ヘルドも同じく。 (採点=★★★★)
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