「川っぺりムコリッタ」
(物語)北陸の小さな町にある小さな塩辛工場で働き口を見つけた山田たけし(松山ケンイチ)は、社長の沢田(緒形直人)から紹介された古い安アパート「ハイツムコリッタ」で暮らし始める。できるだけ人と関わる事なく、ひっそりと生きたいと思っていた山田だったが、ある日隣の部屋の住人・島田幸三(ムロツヨシ)が「風呂を貸して欲しい」と上がり込んで来た事から山田の静かな日常は一変する。風呂だけでなく、山田が炊いたご飯まで勝手に食べる島田に山田は呆れるが、それでも毎日のように自分が作った野菜を持って来てくれる島田と山田の間には、少しずつ友情のようなものが芽生え始める。しかしある日、山田がこの町にやって来た秘密が島田に知られてしまい…。
「かもめ食堂」(2005)という、ほっこりとした気分になれる秀作でファンになって以来、荻上直子監督作品は注目して観て来たが、この所寡作気味で、監督作は「彼らが本気で編むときは、」以来5年ぶり。
本作は荻上監督が2019年に発表したオリジナル長編小説が原作。実は最初、映画の為の脚本を先に書いたのだが、製作に至らなかったのでその間に小説として仕上げたのだそうだ。
ようやく出資先も見つかり、映画化に漕ぎつける事が出来た。前作から5年も間が空いてしまったのはそういう訳だ。
荻上監督へのインタビューによると、NHKの「クローズアップ現代」(2016年放映)で、ホームレスとか行き倒れで亡くなった人の、どこにも行き場のない遺骨がかなりある事が取り上げられており、役所に引き取り手のない遺骨の箱が並んでいて、そういう人のための葬儀屋もあるとの内容に衝撃を受けたそうだ。この葬儀を“ゼロ葬”とも呼ぶらしい。
以後この事はずっと荻上監督の頭の中に残り、いつか映画にしたいと思っていたとの事だった。
そんな訳で、本作はこれまでの荻上作品とはやや異なり、“生と死”が重要なテーマとなっている。
しかしそれでも、“おいしい食事”や“ゆったりとした生活”といった荻上監督作品の持ち味はしっかり盛り込まれている。
(以下ネタバレあり)
主人公山田(松山ケンイチ)が、北陸(富山らしい)の小さな町にやって来る所から物語は始まる。この町の小さな塩辛工場で働く事になった山田は、そこの社長・沢田の紹介で「ハイツムコリッタ」という築50年の古い安アパートで暮らし始める。このアパートの管理人(大家)は南詩織(満島ひかり)という若い未亡人である。
無口で、他人ともあまり接触しようとしない山田だが、沢田社長の口ぶりから、どうやら前科があって刑務所から出たばかりだという事が分かって来る。
前科者が働き口を見つけ更生する、というお話は、昨年の「すばらしき世界」や今年の「前科者」と、最近よく扱われる題材である。
ただ、内容がハードだったり事件が起きたりする前記2作に対し、本作は何も起きないまったりとした時間が流れ、登場人物も親切でいい人ばかりという点がいかにも荻上監督作品らしい。
「ムコリッタ」とは聴き慣れない言葉だが、これは仏教における時間の単位で、漢字では「牟呼栗多」と書き、1日を30で割った時間を指す。つまり1ムコリッタは48分である。
時間の流れが普通とは違うようで、この点も先に書いた“ゆったりとした時間”が流れる荻上監督作品の特徴とリンクしているようだ。
山田は同僚ともあまり口を利かず、ただ黙々と真面目に仕事をこなしている。沢田社長が時々山田に声をかけ、励ましてくれる。仕事は単調な繰り返しだが、社長は「毎日毎日続けて、これを10年続ければその価値が分かって来る」と山田に言う。この言葉も“時間”に関係している。
ある日山田が風呂から出た頃、隣人の島田が「風呂が故障して、銭湯も高いから風呂を貸して欲しい」と言って上がろうとする。他人と付き合いたくない山田は追い返すが、その後も島田は自分で栽培したキュウリやナス、トマトなどを勝手に差し入れて来る。給料前で食べるものも事欠く山田が、島田の差し入れたキュウリをポリポリと齧る音が印象的である。
そんな事もあって山田はしぶしぶ島田に風呂を貸すのだが、山田が初めて貰った給料でお米や食料品を買い込み、自炊をするようになると、島田は厚かましくもそのご飯やオカズまで勝手にいただき始める。呆れる山田だが、「一人で食べるより、誰かと一緒に食べる方がご飯は美味しい」と言う島田の言葉に、そんなものかと思い始める山田。
こうして、最初は孤独だった山田が、島田を含めたハイツムコリッタの住人たちとの交流を通して、“人は孤独のままでは生きて行けない”事、“なにげない日常の中にも、ささやかな幸せがある”事を実感し始めるのである。
厚かましくてずうずうしいけれど、どこか憎めない島田役をムロツヨシが絶妙の好演。
二人の食事シーンに登場する、炊飯器で炊いたご飯、イカの塩辛、味噌汁、漬物などがシンプルなのに美味しそう。「かもめ食堂」以来、荻上監督作品には欠かせないフードスタイリスト飯島奈美さんがここでもいいお仕事をされている。
そんなある日、市役所から山田宛てに、あなたの父親が亡くなったので、遺骨を取りに来て欲しいとの連絡が入る。
山田が4歳の時に母と離婚して以来、一度も会っておらず顔も覚えていない父の遺骨を引き取るべきかどうか山田は躊躇するが、それを聞いた島田は、「どんな人だったとしても、いなかった事には出来ない、引き取りに行くべきだ」と強く言う。
その言葉に押されるように山田は市役所に行く。応対した市役所職員・堤下(柄本佑)が案内した部屋には、引き取り手のない無数の遺骨が所狭しと置かれていた。
先にも書いた、荻上監督がテレビで見た光景はこれだったのだろう。実話に基づいているだけに、このショットには愕然となる。
以後この遺骨と共同生活をする事となる山田だが、夜、光っているように見える遺骨になかなか眠れず、ある時には川に捨てようとまで思い詰めるが人に見つかり断念する。
父の遺品のガラケーにあった、無数の同一発信記録の先に電話してみると、そこは「命の電話」センターだった。父は何度も自殺を試みたのだろうかと思い、山田は父の最期の時を慮る。
センターのカウンセラーが、他の電話相談相手と同様に、山田に対し命の大切さを優しく語るのだが、その中で、空に浮かぶ金魚の霊の話が登場するのが後の伏線になっている。
これ以降、映画にはさまざまな形での、“生と死”に関するエピソードが登場する。管理人の詩織は早くに最愛の夫を亡くし、今も忘れられずにいる。陽気な島田でさえも、実はかつて肉親(恐らく子供)を亡くした辛い過去があるらしい。もう一組のハイツムコリッタの住人、溝口(吉岡秀隆)は子供を連れて墓石のセールスをやっているがなかなか売れず生活に困っている様子。そしてある時溝口は「空に浮かぶ金魚」の話をポロッと洩らす。つまりは溝口もかつて“死”を考えていたのだろう。
そして山田はある日、アパートの裏庭で花に水をやっている老女を目撃するが、住人たちにその事を話すと、その人は数年前に亡くなっており、山田が見たのは幽霊だと教えられる。
住人たちが、「久しぶりに出たね」とか、楽しそうに話すのがなんだかおかしい。このアパートでは、常に生と死が隣り合わせになっているのかも知れない。
山田はもう一度市役所に行き、堤下に案内されて父が死ぬ間際まで暮らしていたアパートを訪れる。そこには確かに、父が生きていた時の名残があった。
こうしたさまざまな、生と死と向き合う日々の暮しを経験して、山田はようやく父を大切に弔う事を決意する。父の遺骨を細かく砕き、アパートの住人たちが総出で音楽を奏でる葬列の最中に、山田は粉となった父の遺骨を空に散骨して、物語は終わる。
人は誰も、いつかは死ぬ。大勢の親族に見守られて、盛大な葬式を挙げてくれる人もいれば、あの市役所に山積みされた遺骨のように、誰にも看取られず、葬式さえもされずひっそりとこの世から消えてしまう死者もいる。
人は孤独のままでいてはいけない、ハイツムコリッタの住人たちのように、縁もゆかりもなくても仲良く、楽しく付き合える友人を持ち、ささやかな楽しみを分け合い、亡くなった人がいればみんなで賑やかにおくってあげる…、そういう人間関係を構築して行くべきではないか。映画は、その事を強く訴えているのである。
この荻上監督の製作意図に、私は強く感動した。いい映画だった。
出演者も何気に豪華である。松山ケンイチ、満島ひかり、吉岡秀隆、緒形直人、柄本佑など、うまい役者が揃っているが、ほんのワンシーン出演の笹野高史(亡き妻の遺骨を花火で打ち上げたというエピソードが凄い)に、塩辛工場の同僚、江口のりこに至ってはずっとマスク姿でセリフもない。なんとも贅沢な使い方だ。また命の電話で声だけの出演をしていたのが薬師丸ひろ子。エンドロールでようやく気付いた。
荻上監督の最近の作品は、前作「彼らが本気で編むときは、」ではトランスジェンダーと育児放棄がテーマだったし、本作では引き取り手のない遺骨の話から“生と死”のテーマに繋げたりと、これまでのほっこり、ゆったり的雰囲気は持続しつつも、社会派的な作品が増えて来たようで、監督としての成長も感じさせられる。次回作にも注目したい。 (採点=★★★★☆)
(付記)
音楽を担当したのは、パスカルズ。終幕の葬列で流れる音楽も彼らが演奏している。
で、どこかで聞いた名前、あるいは音楽のような気がして調べたら、大林宣彦監督の「野のなななのか」の劇中音楽と主題歌を担当し、映画の中で“野の音楽隊”として野原や雪の中を行進しながら演奏していたのがパスカルズだった。
そう言えば本作のラストの音楽を奏でながらの葬列風景が、「野のなななのか」のパスカルズの演奏行進の絵柄と似ていた気がする。
「野のなななのか」も、死者をおくる“なななのか”(四十九日)を題材に、生者と死者が交流する、まさに”生と死”をテーマとした作品だった。荻上監督が本作でパスカルズを音楽担当として起用したのは、この大林作品に少なからぬ影響を受けたせいかも知れない。
(さらに、お楽しみはココからだ)
(その1)
おかしな住人たちが住む古ぼけたアパートが舞台で、そこの管理人が美しい未亡人、と聞いてすぐに思い出すのが高橋留美子のコミック「めぞん一刻」。
そう言えば本作で管理人の詩織が初登場するシーンでは、詩織が「めぞん-」の響子さんと同じように竹ボウキで庭を掃いていたし、同作の隣の主人公の部屋に勝手に入り込んで居座る厚かましい四谷さんは本作の島田とキャラがそっくりだ。
築何十年も経つおんぼろアパートなのに、ネーミングが片や「めぞん-」、片や「ハイツ-」と洒落た洋風の建物を思わせる辺りも共通している。そしてどちらの名前にも“時間”が関係している(時計塔のある「一刻」館と、1日が30時間の「ムコリッタ」)。
荻上監督、多分「めぞん一刻」のファンで、いろいろネタを拝借しているのかも知れない。
(その2)
本作で、墓が高額で売れた溝口親子がすき焼きを食べていると、匂いを嗅ぎつけた島田と山田が押しかけ、詩織親子までやって来てすき焼き肉を奪い合うシーンが笑えるが、このすき焼き騒動で思い出す映画が、山本晋也監督のピンク映画(日活ロマンポルノ買取作)「未亡人下宿」シリーズ。
毎回下宿ですき焼きパーティをやるシーンが登場し、下宿人たちが盛大にすき焼き肉の奪い合いバトルを繰り広げるシーンがおかしくて大笑いした。
で、この作品でも下宿の大家が題名通り未亡人。本作には詩織が夫の遺骨を使って自慰をするエロいシーンがあるが、これなんかもいかにも「未亡人下宿」に登場しそうなシーンである(実際に登場していたかは未確認)。
すき焼き肉奪い合いに、未亡人の自慰シーンと、「未亡人下宿」に関連したネタが2つもあるのは偶然とは思えない。荻上監督、この映画からもおいしい所をいただいているフシが覗える。
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