「百花」
(物語)レコード会社に勤める葛西泉(菅田将暉)は香織(長澤まさみ)と社内結婚をして、まもなく子供が生まれようとしていた。ピアノ教室を営む泉の母・百合子(原田美枝子)と泉は、過去のある“事件”をきっかけに、互いの心の溝を埋められないまま過ごしてきた。ある日、百合子が認知症を発症する。その進行は早く、百合子は次第にピアノも弾けなくなって行き、香織の名前さえ分からなくなってしまう。それでも泉は、これまでの親子の時間を取り戻すかのように献身的に母を支え続ける。そんなある日、泉は百合子の部屋で1冊のノートを発見する。そこには、泉が決して忘れることの出来ない事件の真相が綴られていた。
これまで「悪人」「告白」「モテキ」「君の名は。」「天気の子」など、数多くの意欲的な作品をプロデュースし、それらをヒットに導いて来た東宝プロデューサーの川村元気。その活動は映画製作のみに留まらず、近年は小説家、脚本家、絵本作家としても活躍し、そして本作でとうとう長編映画監督としてもデビューした。呆れるくらいのマルチ・クリエイターぶりである。
特に2010年に公開された「悪人」「告白」の2作は共に素晴らしい傑作で(同年の各種ベストテンで1位、2位を独占という快挙を成し遂げた)、以来川村元気の製作する作品は意識して観て来たので、監督デビューと聞いて、これは是非観ておかねばと劇場に足を運んだ。
テーマは、ここ数年よく取り上げられる“認知症”である。川村の祖母が認知症になり、個人的にその祖母と向き合って来た、その体験をベースに原作小説を書いたのだという。
これまでは自身の原作本の映画化は別の監督に委ねていたが、本作のようなプライベートに関わる作品は自分で監督せねばと思ったのが、監督チャレンジの理由だそうだ。
(以下ネタバレあり)
映画を観て驚いた。なんと冒頭からワンシーン、ワンカットの長回し映像。これが一部を除きほぼ最後まで続く。相米慎二監督作を思い出した。
監督へのインタビューによると、故人で一緒に仕事をしたかった映画人として、相米慎二監督の名を挙げていた。影響を受けているのは間違いないだろう。
しかもその映像はかなりトリッキー。例えば冒頭、初老の百合子がピアノ曲(シューマンのトロイメライ)を弾いている。ふと誰かいる気配を感じてキッチンの方に向かうと、そこから若い(30代の)百合子が一輪挿しに花を活けて出て来る。その若い百合子の視線の先には、現在の百合子がピアノを弾いている。やがてその音程が次第にズレて来て…。
これをワンカットでやっている。恐らくCGを使っているのだろうが、観ているうちにこれは認知症(正確にはアルツハイマー症)を発症した百合子の混濁した意識下の映像である事も想像がつく。
アンソニー・ホプキンス主演の「ファーザー」を思わせるが、以後も登場する百合子の脳内映像はワンカット長回しに不思議な反復映像と、「ファーザー」以上に実験的な映像になっている。
この後、夜中に母の様子を見に来た泉が、母の不在に心配になり、夜の街を探し回るシーンもワンカットで、しかもカメラは泉の姿をアップで捉え、やがては走る泉の背中に密着するように追いかけて行く。ハンガリー映画「サウルの息子」(ネメシュ・ラースロー監督)を彷彿とさせる。
内外の映画を無数に観たという川村監督、いろんな記憶に残る映画のシーンを参考にしているようだ。ここらも映画ファンの心をくすぐってくれる。
やがて泉は公園のベンチで座り込んでいる百合子を見つける。「買い物に出かけて帰り道が分からなくなった」と言う百合子の言葉に泉は不安を覚える。これは認知症の初期症状だからだ。そして百合子の認知症は以後急速に進んで行く事となる。
秀逸なのは、長いワンカットで描かれた、百合子の認知症の症状を示す2つの脳内映像で、一つはスーパーで買い物中に、同じ場所をグルグル回り、同じものを何個も買ってしまうシーン、もう一つは雨の日、団地の階段を何度昇っても同じ階(2階)が続き、そのうちに一つのドアを開けると学校の廊下になっているシーン。
特に後者は、実際の団地でのロケと、全く別の場所(学校)の映像とがシームレスに繋がっているようにしか見えない(CGとは分かっていても)何ともトリッキーな映像に驚かされる。
どちらも、警察に通報されたり、ケアマネージャーや学校警備員にやっかいをかけたりと、その都度泉は各所で謝罪する破目となる。
こうした百合子の症状から、泉は母を介護施設に入れる決断をする事となる。
以前にも書いたが、私も母がアルツハイマー症になり、介護に苦労したり、なんとか老人養護施設に入所させたりの経験をした事がある。なので他人事とは思えない。あの頃を思い出して何度も涙が出た。
ただ全編がワンシーン、ワンカットという訳ではなく、泉が子供の頃、母と一緒に遊ぶ幸せな映像がフラッシュで短く挿入されたり、後に登場するが、百合子が残した日記から判明する過去のシーンでは短いカット割も使われている。
どうやらワンシーン、ワンカットは、百合子の意識下の映像と、現在進行する泉を取り巻く物語のシーンに限定されているようだ。新人監督とは思えない、きめ細かい映像設計ぶりには瞠目させられる。
泉は会社の同僚である香織と結婚し、もうすぐ赤ちゃんが産まれる。香織は百合子の事を心配してくれるが、二人の会話の端々から、百合子に対する泉の態度がどこか突き放しているようにも感じられる。
これはやがて判明するのだが、百合子は泉が小学生の頃、泉を置いて突然家を飛び出し、1年ほど帰って来なかった時期があった。帰って来てからは以前と同じように泉に優しく接してくれるのだが、泉の心のわだかまりはまだ尾を引いているようだ。後日明らかになるその不在の理由は、実は母が妻子ある男性・浅葉(永瀬正敏)と不倫関係になり、神戸で浅葉と同棲していたからである。
母と子の感動の物語を期待していた観客は、なんて酷い母親だと思いガッカリするだろう。ネットでのレビュー評価が低いのもその為だろう。
だが、人間は誰しも完璧ではない。どこかで過ちも犯すし、失敗もする。百合子は酷い母親の時もあったけれど、それでも心から泉を愛し育ててくれた時もある。むしろ後者の時間の方が圧倒的に多いはずだし、わだかまりはあっても、肉親の情は断ち切れないものである。この二つの相反する母への思いに泉の心は揺れる。
こうした複雑な設定を入れる事によって、映画は単なる認知症もの、単なる親子の情愛の物語を超えて、人間のエゴイズム、人の心の不思議さにまで広がりを持った奥の深い物語になっていると言えるだろう。
批判を承知で、こうしたチャレンジングな映画を作り上げた川村監督の意欲は買える。ただリスクと紙一重ではあるのだが。
終盤、百合子は「半分の花火が見たい」としきりに泉に懇願する。香織がネットで探した、“半分の花火”大会に泉は母を連れて行く。最初は楽しそうに花火を見ていた百合子だが、やがてまたも「半分の花火が見たい」という。百合子が望む「半分の花火」はこれではなかったのだ。
そしてラスト、ようやく泉は、百合子が見たかった「半分の花火」を見つけ、母と並んで眺める。記憶が薄れて行く百合子が覚えていた「半分の花火」を、泉は忘れていたのだ。それは百合子にとっては忘れられない、母と子の幸せな日々の記憶なのである。
健常な泉でさえも忘れる事はある。人の記憶とは、時間と共に薄れて行き、大切な事も忘れてしまう。それでも忘れなかった母の思いにやっと気付いた泉は涙するのである。きっと泉は、これからはわだかまりなく、愛情を持って母との日々を過ごす事だろう。
認知症は、最近の記憶はどんどん忘れて行く。ついさっき自分が取った行動すらも忘れる。やがては身内の人の顔すらも忘れてしまう。私もそんな経験をした。これは辛い。
しかし、昔の事は鮮明に覚えている場合もある。私も、母と話をしていても、何十年も前の事はちゃんと覚えていたりする(やはり母親の認知症を題材とした森﨑東監督「ペコロスの母に会いに行く」にもそんなエピソードがあった)。
百合子も、最近の事は忘れているのに、「半分の花火」は覚えていた。
また普通の人でも、時間が経つと記憶が不鮮明になったり忘れてしまったり、あるいは古い記憶を美化して覚えていたりする場合もある。
本作はさまざまなエピソードを通して、認知症の人に留まらず、誰にでもあり得る“人間の記憶の不確かさ、不思議さ”にも迫った意欲的な作品と言えるだろう。
泉が仕事で携わっている、AIヴォーカロイド・KOEについてのエピソードも、一見物語とは関係ないようにも思えるが、“記憶”(英語ではメモリー)というキーワードでは繋がっている。
AIのメモリーに記録されたデータはそのまま鮮明に保存され、人間が削除しない限り元の形のまま永久に残る。人間のようにボヤけることも、忘却・美化も起こり得ない。この点が人間とは決定的に異なる。その対比としてこのエピソードを盛り込んだのだろう。
川村元気監督、デビュー作ながら実に大胆、実験的な作品を作り上げた。どちらかと言うとミニシアター向きの作品なのだが、“川村元気ブランド”のネームバリューか、あるいはこれまで儲けさせた東宝のご祝儀か、全国シネコン250館の拡大興行となった。この公開方法が良かったかどうかは判断が別れる所だろう。
しかし映画ファンなら観ておいて損はない。随所に仕込まれた、映画的記憶を反芻しながら観るとより楽しめるだろう。
俳優では菅田将暉、長澤まさみが役柄を心得た確かな演技を見せる。しかし何と言っても原田美枝子がいい。自身も認知症の実母の姿を捉えたドキュメンタリー映画を監督しているだけに、次第に認知症が進む百合子をリアルに演じていた。(多分)CGによる30歳の頃の若々しい映像にも驚嘆。
誰にでも奨められる作品ではないが、認知症の親を介護した経験のある方、これから高齢者となる親がいる方、それと相米慎二ファンにもお奨めである。川村元気の次回監督作にも大いに期待したい。
(採点=★★★★☆)
(付記1)
上にも挙げた、長回しで有名な相米慎二監督作の中でも、「ションベン・ライダー」の冒頭の10分近くに呼ぶワンカット長回しには圧倒される。
で、この作品で俳優デビューを果たしたのが本作にも出演している永瀬正敏。相米監督ファンだという川村監督の、これは意識しての起用なのかも知れない。
(付記2)
川村監督はもう一人、溝口健二監督作品にも強い影響を受けたと語っている。
そう言えば溝口監督の傑作、「雨月物語」では終盤、源十郎(森雅之)が故郷の家に帰って来ると、家は荒れ果て誰もいないが、カメラがゆっくりパンして戻って来ると、囲炉裏に火が燃え、妻の宮木(田中絹代)がいる(実は幽霊)。これをワンカットで描いていた。
当然CGもない時代、現実と幻想を巧みにオーバーラップさせた見事な演出とカメラワークである。本作冒頭の現実と幻想が入り混じったワンカット・シーンは、多分これにヒントを得ているに違いない。
(付記3)
本作で浅葉を追って神戸に移った百合子が、1995年の阪神淡路大震災に遭遇するエピソードが出て来る。
このシーン、必要だったかどうか、本筋と何の関係があるのか等、疑問に思う人が多いが、私はここである映画のシーンを思い出した。
それは黒澤明監督の「赤ひげ」(1965)における、佐八(山崎努)とおなか(桑野みゆき)のエピソードである。おなかには許婚がいたのだが、佐八と道ならぬ恋に堕ち二人は一緒に暮らす。だがある日江戸に大地震が起き、おなかはバチが当ったのだと思い、黙って佐八の前から姿を消し、許婚の元に帰る。
大地震に遭遇して、自分のした事(道を外れた恋)は間違いだったと気付き、元の道に戻る女…という展開が本作とよく似ている。多くの映画を観て来て、前記のように幾人かの名匠の作品からアイデアをいただいている川村元気、黒澤作品からもインスパイアされた可能性は大いにあるが、さてどうか。
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