「土を喰らう十二ヵ月」
(物語)作家のツトム(沢田研二)は13年前に妻・八重子が他界し、今は長野の人里離れた山荘で1人で暮らしている。ツトムは畑で育てた野菜や山で収穫する実やキノコなどを料理して、四季の移り変わりを実感しながら執筆する日々を過ごしている。そんな彼の元には時折、担当編集者である歳の離れた恋人・真知子(松たか子)が東京から訪ねて来る。2人にとって、旬の食材を料理して一緒に食べるのは格別な時間だ。四季折々の季節の中で、ツトムは悠々自適の暮らしを送る。だがある日、ツトムは心筋梗塞で倒れてしまい…。
原案となったのは、「雁の寺」、「飢餓海峡」などで知られるベストセラー作家、水上勉が婦人雑誌『ミセス』に、1978年1月号から12月号まで連載した料理エッセイ「土を喰ふ日々 わが精進十二ヶ月」である(文庫本化した際「土を喰う日々 わが精進十二ヵ月」と改題)。
映画はこれをベースに、いろいろなエピソードを加えて中江裕司が脚色して監督した。
(以下ネタバレあり)
映画は、ツトムが信州の山奥の山荘(というか古い民家)に住まいを構え、畑で採れた大根その他の野菜、芋、キノコ等を自分で丁寧に洗い、料理して食べる自給自足の生活に密着する。
少年の頃、禅寺での修行時代に身に着けた精進料理に基づく数々の料理は、質素だがどれも美味しそうだ。
ご飯も、電気釜やガス釜でなく、カマドで薪を燃やして炊く昔ながらの方法だ。まさにシンプルライフ。
タイトルの「土を喰らう」とは、どの食材も土から栄養を貰い、その土を洗い落して食べる、まさに土から頂いた食べ物を食べる、という事を示している。
雪深い立春から始まり、啓蟄、立夏、 立秋、 白露、そして立冬と、いわゆる二十四節気に沿って物語が進む。ペン字で書かれた二十四節気を説明したテロップがほのぼのとした味わいで印象深い。
撮影は四季を追って1年半にも及んだそうで、その季節感は見事に画面を彩っている。
ツトムは妻を13年前に亡くし、今は独り身で同居するのはサンショと名付けた犬だけ。時折、担当編集者の真知子が東京からやって来て原稿を催促するが、お目当ては実はツトムの料理だったりする。真知子がツトムの料理をとても美味しそうに食べるシーンがいい。
真知子は作品紹介では恋人となっているが、特に感情を寄せ合うシーンなどはない。プラトニックなものなのかも知れない。
その後も、季節ごとに収穫される旬の食材を使った料理が何度も登場する。原案エッセイの中に登場するこれらの料理を手掛けたのは料理研究家の土井善晴氏。私も歳を取ったら本作のDVDを参考に自分で作ってみたい(笑)。
映画はそんな具合に、特に事件も起こらず淡々と進む。しかし料理が美味しそうなのと、信州の四季の風景が美しいので、退屈はしない。
立夏、山荘から少し離れた所で一人暮らしをしている、八重子の母チエ(奈良岡朋子)の家にツトムは様子見がてら訪れる。チエはいつもツトムに山盛りの白飯、たくあん、味噌汁などをプレゼントしてくれる。だがツトムが八重子の遺骨をいまだに墓に収めていない事を、チエはたしなめる。それでもツトムは決心がつかない。
チエを演じる奈良岡朋子が、僅かの出番ながら印象深い好演。本当に田舎で暮らしている老婆そのものに見える。
ツトムが世話になった禅寺の住職の娘・文子(檀ふみ)が、彼女の亡き母が60年前に漬けた梅干を持参して訪れるシーンも印象的だ。亡くなっても、その人が作った食材は何十年も生き続け、人に食べられる時を待っている。人生に通ずる物があるようで感慨深い。
そして中盤、物語が動き出す。八重子の弟・隆(尾美としのり)とその妻・美香(西田尚美)がツトムの所にやって来て、母チエの様子を見て来て欲しいと言う(なんで自分たちで行かない!)。
ツトムが見に行くと、チエは一人寂しく亡くなっていた。それを伝えると、隆たちは葬式もツトムの家でやって欲しいと頼む。厚かましい夫婦だ。
ここでの通夜シーンが本作の白眉。一つのクライマックスともなっている。ツトムは通夜振る舞いの料理も自分で作る事にする。畑の山菜を集め、東京からやって来た真知子にも手伝ってもらって、予想以上に多い弔問客の為にさまざまな精進料理を作って行く。
ゴマをすり潰し、ゴマ豆腐を作って行くプロセスなどはとても興味深い。
弔問客が思いの外多かったのは、チエが地元の人々に慕われていたからだろう。それぞれに手作りの味噌や漬物等を持ち寄って祭壇に供えている。ツトムたちが精進料理を膳に出すと、弔問客たちは「美味しい!」と褒めてくれる。
通夜の弔問客が帰った後、ツトムは真知子に「ここに住まないか」と持ちかける。真知子はすぐに返答はせず「考えさせて」と言うが、心はツトムの申し出に傾いているようだ。
葬儀が終わると、隆夫婦は今度は「母の遺骨もそちらで預かってくれないか」と頼む。どこまでも厚かましく自分勝手だ。呆れながらもツトムはそれを引き受ける。
尾美としのり、「マイ・ブロークン・マリコ」の虐待父親に続いてクズな男を演じているのがおかしい(笑)。
そんなある日、ツトムは心筋梗塞を発症して倒れてしまう。幸い真知子が直後に訪れ、救急車を呼んだので命は助かり、やがて退院する事も出来た。
だが、それを契機にツトムの心境に変化が訪れる。自らの“死”を意識し始めるのだ。
人間は誰しも、いつかは死ぬ。先の事だと思って毎日を生きて来たが、危うく死にかけた事で、死を間近に感じるようになったのだ。
どうせ免れないのなら、どうやって死に向き合うか、その準備をどうやって進めて行くか、ツトムは考える。
13年も墓に入れないままだった妻と、新たなチエの遺骨も共に池に散骨し、真知子には、一緒に住むという話は取消し、一人で生きて行くと言う。真知子は「身勝手ね」と呟き、憤慨し帰って行く。
それからのツトムは、毎日料理し食べる生活は変わらないものの、寝る時には「皆さんさようなら」と言って床に就く。そのまま目が覚めず死ぬことを願って。
先日観た「夜明けまでバス停で」の中で、先生と呼ばれる老人がいつも「明日こそ、目が覚めませんように」と言っていた事を思い出す。
そして立冬、季節はめぐり、また冬がやって来る。ツトムは今日も、畑で山菜を採り、精進料理を作り食する日々を送り、夜はランプの灯りの下で、万年筆で小説、随筆を書く生活を続けている。以前と違うのは、いつ死んでもいい準備は出来ているという事だ。
こうして映画は、静かに余韻を残して終わる。
生きているとは、どういう事なのか。人の人生とは何か。人間は、何によって生かされているのか…。料理の美味しさと自然の風景だけでなく、そうした人生観についても考えさせられる、素敵な映画だった。
主人公の名前は“ツトム”だし、9歳で京都の禅寺に奉公に出され、13歳で脱走したというツトムの経歴は水上勉と同じ。従ってこの映画の主人公は水上自身である。だがいくつかの点で水上の経歴とは若干異なっている。例えば映画では68歳となっているツトムの年齢だが、原作エッセイを書いた時の水上の年齢は59歳。また水上が心筋梗塞で倒れたのはエッセイ執筆より11年後の1989年、70歳の時である。また妻の名前も八重子ではない。
従って映画は、原作の精神を尊重しつつも、中江監督がフィクションも交え、自由にエピソードを膨らませる事によって、原作とは違った奥深いテーマを持った作品となった。
ツトムを演じた沢田研二が素晴らしい。「キネマの神様」ではも一つだったが、本作では飄々とした中に人生の年輪を感じさせる名演だった。料理を作る時の手さばきもとてもいい。彼以外にこの役は考えられない。
エンドロールでは主題歌も歌っている。これがまたいい声で聴き惚れる(新曲ではなく過去の既成曲)。本年度の主演男優賞は彼に決まりである。
中江監督は、2000年の「ナビイの恋」が私の大のお気に入り。とてもハッピーな気持ちにさせられる秀作だった。だがその後もいくつかの映画を監督しているが、も一つ心を打つ作品はなく、少し残念に思っていた。
本作は全く久しぶりの、中江監督の復活と言っていい秀作である。テーマ的にも、人生観、死生観といった所まで幅が広がっている点でも、監督として大きく飛躍したと言っていい。この調子でまた素敵な映画を作ってくれる事を大いに期待したい。 (採点=★★★★☆)
(付記)
それにしても今年は、「川っぺりムコリッタ」、「マイ・ブロークン・マリコ」それに本作と、何故か“遺骨を散骨する”作品がここ2カ月の間に連続して公開されている。しかもいずれも“食べ物を食べる”シーンが印象的に描かれている。いずれも秀作である。不思議な巡り合わせを感じてしまう。
おまけに尾美としのり、「マイ・ブロークン-」では遺骨を奪われ、本作では遺骨をツトムに預からせてと、どちらも遺骨を手放す役柄だ(笑)。
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