「ケイコ 目を澄ませて」
(物語)生まれつきの聴覚障害で両耳とも聞こえないケイコ(岸井ゆきの)は、再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで鍛錬を重ね、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。嘘がつけず愛想笑いも苦手な彼女には悩みが尽きず、母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉に出来ない想いが心の中に溜まっていく。ジムの笹木会長(三浦友和)あてに書いた「一度、お休みしたいです」との手紙もなかなか渡す事が出来ない。そんな時ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動き出す。
三宅唱監督は、2018年の「きみの鳥はうたえる」がとても素晴らしい出来だった。以来注目しているのだが、ようやく、メジャー作品としては4年ぶりとなる本作が公開された。
これがまた、見事な秀作だった。ボクシング映画には傑作・秀作が多いが、本作もまたその1本に加えられるだろう。
(以下ネタバレあり)
主人公が聴覚障害者のボクサーという設定がまずユニーク。これが実際に聴覚障害者でプロボクサーとなった小笠原恵子の自伝「負けないで!」が元となっていると聞いて驚いた。本当にそんな方がいたのだ。
しかし映画は、設定だけ借りて、部分的に実話に基づいてはいるがほぼフィクションである。
フィクションなら、いくらでもドラマチックな物語に出来るだろう。逆境を乗り越え、とても勝てないと思える相手と互角に闘い、最後に試合に勝利するという話にすれば感動的で盛り上がる事だろう。
だが三宅監督はそんな王道の物語にする気はなかったようだ。映画は、ケイコのボクシングと仕事のそれぞれの日常を淡々と描いて行く。
耳が聴こえないと、ボクサーにとってはかなりハンデだろう。セコンドの指示、アドバイスも聞こえないし、ゴングも聞こえない。女性である事で、二重のハンデがある。それでもケイコはボクシングに打ち込む。
作劇的に面白いと思ったのは、かなりドキュメンタリー的な演出を試みている点である。冒頭、ケイコのこれまでの生い立ちが字幕で表示されるし、途中ジムの笹木会長がマスコミのインタビューを受けるシーンも、ロングの長回しでテレビドキュメンタリーを観ているような印象を受ける。
そして凄いのが、何度か登場するケイコと松本トレーナーとのミット打ち練習シーンである。松本が時折り俊敏なスピードでミットをケイコの頭付近に振り回して来る。それを避けつつケイコはさらにパンチを繰り出す。この流れをワンカット据え置きでかなり長く描いている。松本を演じたのが本職のトレーナーである松浦慎一郎氏で、その事もあってこのシーンはとてもリアルで、まるで本当のボクサーの練習シーンを見ているかのようだ。ケイコが途中でヘタリかけるシーンも演技には見えない。
ケイコを演じた岸井ゆきの、相当練習したのだろう。見上げたものだ。
途中には、コロナ禍によるマスク手洗い励行のアナウンスが流れたり、ソーシャル・ディスタンスの様子や、多くの人がマスクをしている映像も出て来る。これもドキュメンタリーを思わせる。
音の演出も独特で、冒頭のケイコが日記にペンを走らせる音、街の騒音、ジムでのサンドバッグを叩く音、床を滑るシューズの音などが意識的に強調されている。
我々が何気なく聴いているこれらの音も、聴覚障害者のケイコには聴こえない。音のない世界がいかに辛く不安であるか、改めて感じざるを得ない。
もう一つ面白いのは、手話会話シーンにおける字幕の使い方である。ケイコと彼女の弟との手話シーンでは、まるで昔の無声映画のように黒バックに縦書きの字幕が出る。
1世紀も前の映画には、音がなかった。観客は画面と字幕で、音や会話を頭の中で再現する。それはまるで耳の聴こえない世界のようでもある。
(日本には活動弁士がいて登場人物の声色を使ったり細かく解説していたが、海外のサイレント映画はせいぜい音楽伴奏くらいである)
無声映画のような字幕にしたのは、そんな意味合いを強調したかったのだろう。これは1対1で静かに対話するシーンに限定されているようで、画面下に字幕が出るシーンもある。
撮影はデジタルでなく、16㎜フィルムを使って撮影されている。その為やや赤みがかった柔らかい色調で、昭和を思わせる雰囲気が醸しだされている。
そうした独特の映像表現もとても魅力的だが、本作がいいのは主人公ケイコを、どこにでもいる等身大の人物に設定して、時には悩み、苛立ち、不安を抱え、迷いながらも少しづつ成長して行く姿をじっと見つめている点である。障害者に同情したり、特別視するような扱いは極力排除されている。
周囲の人たちも彼女と普通に接するし、彼女も同情される事を嫌う。ボクシングの練習は健常者と同じ扱いだし、ホテル清掃員の仕事も健常者に交じってテキパキとこなす。
耳が聴こえない事もあるが、ケイコは寡黙である。心の内を他人に見せない。それを知ろうとする人に、「勝手に人の心を読まないで」と怒る。どこか殻に閉じこもっているようでもある。
ボクシングを始めた理由も不明である。仕事仲間には「仕事のストレス発散の為」とか言ってるが、本心かどうかは判らない。
観客にすら、彼女の心情に寄り添う隙を与えない、どこかクールで距離を置いたような描写が続く。これも異色だ。
後半、笹木会長が体長を崩し、会長はジムの閉鎖を決断する。会長は選手たちに他のジムを斡旋し、ケイコもあるジムを紹介されるが、何かと理由をつけて移籍をやんわり拒絶する。優しい会長の元を離れて、知らない所に行く不安もあるのだろうか。ボクシングを続けるかどうかも迷っているようだ。いずれにせよ彼女の心の内は判らないままだ。
そしてケイコはノートの切れ端に「一度、お休みしたいです」と書いて会長に渡そうとするも、逡巡し思いきれない。
ジムを覗くと、会長がケイコが勝った試合のビデオをじっと見ていた。それを見てケイコの心は揺らぐ。
その後、ケイコと会長が鏡の前でシャドーボクシングをするシーンがとてもいい。ケイコが少しづつ、他人に心を開いて行く、そのきっかけとなる名シーンである。三浦友和、好演。
終盤、ケイコが毎日書き綴っていたノートを、会長の妻(仙道敦子)が目に留め、会長の病室でそのノートを読むシーンがある。ノートにはケイコの練習する日々の記録が書かれている。
ケイコがどれだけ過酷なハードワークを地道にこなして来たのか、どんな思いでボクシングに励んだのか、余す所なく綴られている。
寡黙で、他人に心の内を見せなかったケイコの溢れる思いが、やっと見えて来る。このシーンは感動的である。やはり彼女にとって、ボクシングは心の糧であったのだ。
そしてケイコはボクシングの試合に挑む。だが力及ばずケイコは試合に負けてしまう。
それでも彼女の心は晴れ晴れとしている。ボクシングがやれる喜びに満ちている。勝ち負けは関係ないのだ。
ラスト、早朝、川べりの土手に佇むケイコの前に、顔を腫らした作業着姿の一人の女性がやって来て、ケイコに挨拶する。昨日の試合の相手であった。
その爽やかな笑顔を見て、ケイコの心は和む。やはりボクシングを続けて良かった、自分は一人ではない。
そしてケイコは土手を駆け上がり、走り出す所で映画は終わる。
素晴らしい映画であった。終盤は何度も泣けた。
途中まで、ケイコから距離を置いているように描いていたからこそ、ラストに向かって観客とケイコとの距離が一気に縮まって、彼女の心の中まで見えて来る、その演出の計算には唸った。
全編に亘って、音楽は一切ない。エンドロールでも、東京のさまざまな風景に、街の騒音がカブるだけである。これまたドキュメンタリー・タッチである。
三宅演出は、余計なセリフや説明描写を極力排し、無駄な要素を削ぎ落してギリギリまでタイトな表現に留めている。説明描写がないからこそ、観客は自分の目と耳で、しっかり映画を凝視しなければならない。題名の「目を澄ませて」とは、我々観客にも呼びかけられているようだ。
この演出手法、どこかで観たようなと思ったら、初期の頃の北野武監督作品と似ているのだ。特に監督3作目の「あの夏、いちばん静かな海。」は、聴覚障害者の若者が主人公で、サーフィンというスポーツに熱中する等、本作との共通点は多い。
クドクドと、説明セリフばかりの映画はこの作品を見習って欲しい。
出演者では、岸井ゆきのが素晴らしい。クランクインの3カ月前からトレーニングを積んだそうで、その引き締まったボクサーの体、試合シーンの敏捷な動き、寡黙な中に時折り見せる笑顔、そして手話もちゃんとこなす等、完璧な演技で作品を支えた。本年度の主演女優賞は決まりである。
会長役を演じた三浦友和もいい。「線は、僕を描く」に次ぐ名演である。こちらも本年度の助演賞は決定である。
他のボクシングものとは一線を画した、大胆かつ斬新な物語構成と演出が見事に成功した、これは本年を代表する素晴らしい人間ドラマ、青春映画の傑作である。 (採点=★★★★★)
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コメント
先行上映で観た際、モデルの方が挨拶してましたが、手話でこんなことを言ってました。
「字幕が無いので私は日本の映画を観ることはあまり無いですが、字幕付きでこの映画を観て、日本映画で一番感動しました。昔の自分を思い出しました」
ちなみにたまたま見つけたこのインタビュー記事によると、3回も観たそうです。
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c030198/
投稿: タニプロ | 2022年12月22日 (木) 20:11
想像以上に、岸井ゆきのが素晴らしく、感動しました。あまりセリフのない難しい役をこなしてました。ボクシングをかなり練習したんでしょうね。違和感なく見れました。
投稿: 自称歴史家 | 2022年12月31日 (土) 15:52
◆タニプロさん
前に秀作だと教えていただいてたので、観れてよかったです。ありがとうございました。
原作者からも喜んでいただけるなんて、監督冥利に尽きますね。興行的にも成功する事祈ってます。
◆自称歴史家さん
岸井ゆきのさんの神がかり的熱演は本当に素晴らしいですね。年末にこんな傑作に巡り会えて、よい年を越せそうです。
今年は何度かコメントをいただき、ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
投稿: Kei(管理人 ) | 2022年12月31日 (土) 21:03