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2023年2月 1日 (水)

「エンドロールのつづき」

Lastfilmshow 2021年・インド・フランス合作   112分
製作:Monsoon Films=Jugaad Motion Pictures 他
配給:松竹
原題:Last Film Show
監督:パン・ナリン
脚本:パン・ナリン
美術:パン・ナリン
撮影:スワピニル・S・ソナワネ
音楽:シリル・モーリン
製作:パン・ナリン、ディール・モーマーヤー、マルク・デュアル

インドの田舎町を舞台に、映画に魅せられた少年の奮闘を描くヒューマンドラマ。脚本・監督を務めたインドの実力派監督パン・ナリンの実体験がベースになっている。主人公の少年サマイ役は約3,000人のオーディションで選ばれた新人バヴィン・ラバリ。2021年トライベッカ映画祭観客賞第2位。米アカデミー賞国際長編映画賞インド代表。

(物語)インド・グジャラート州の田舎町で暮らす9歳の少年サマイ(バヴィン・ラバリ)は、学校に通いながら父(ディペン・ラヴァル)のチャイ店を手伝っている。厳格な父は映画を低劣なものと考えているが、信仰するカーリー女神の映画だけは特別だと言い、家族で映画を見に行く事に。初めて経験する映画の世界にすっかり魅了されたサマイは再び映画館に忍び込むが、チケット代を払えずつまみ出されてしまう。それを見た映写技師ファザル(バヴェーシュ・シュリマリ)は、料理上手なサマイの母(リチャー・ミーナー)が作る弁当と引き換えに映写室から映画を見せると提案。サマイは映写窓から観る色とりどりの映画の数々に圧倒され、いつしか“映画を作りたい”という夢を抱きはじめるが…。

“現代版「ニュー・シネマ・パラダイス」”とのキャッチフレーズに、映画ファンとして心を動かされない人はいないだろう。「ニュー・シネマ・パラダイス」が大好きな私としては見逃す訳には行かない。早速映画館にて鑑賞。

(以下ネタバレあり)

舞台は2010年のインド・グジャラート州。監督はここの出身であり、物語にはパン・ナリン監督の子供時代の実体験がかなり反映されているらしく、自伝的作品とも言われる。

だがフィルモグラフィを見ると、監督デビュー作は2001年の「性の曼荼羅」となっており、2010年なら恐らく30歳代。よって時代的には監督の年齢とは合わない。主人公の年齢である9歳の頃は1990年前後であると推定される。何故時代設定を敢えて2010年にしたかは終盤に明らかになる。

主人公サマイの家はかつては牛500頭を所有するほどに裕福だったが、弟に財産を騙し取られた事で一家は破綻、今では列車が1日数本しか走らない田舎の駅でチャイ売りの店を構え、サマイもチャイ売りを手伝い、なんとか生活を保っている。

一家はバラモン階級に属するため、厳格な父は映画を低劣なものと考えているが、たまたま隣町の映画館で自分が敬愛している女神がテーマの作品が上映されていたので、今回だけ特別の、最初で最後の家族揃っての映画鑑賞に出かける事となる。

ギャラクシー座という映画館で、サマイは、強烈な色彩に満ち、ダイナミックなダンスが展開される映画の魅力にすっかり憑りつかれる。とりわけサマイの心を打ったのは前方のスクリーンよりも、後方の映写窓から放たれる眩い光。その光を捉えようとするかの如く光に手を伸ばすシーンは、あたかも夢を掴もうとする少年の未来をも象徴しているようで印象深い。

サマイは映画を観たくて、チャイの売上金の入った箱からこっそり金をくすね、学校もサボって列車に乗ってギャラクシー座に行き、映画を観ようとする。だが入場料を払う金もないサマイは見つかって追い出される。
それを見ていた映写技師のファザルはサマイの持っていた母の手作りの弁当に目を付け、弁当と引き換えにサマイを映写室に誘い、小さな窓から映画を見せてあげる。
こうしてサマイは毎日のようにギャラクシー座に通い、弁当をファザルにあげては映画を観る日々を過ごす事となる。

サマイは映写室に入り浸るうち、やがてはファザルに教わってフィルムのカッティング・接着、映写機の操作方法まで習得するようになる。

この辺りは「ニュー・シネマ・パラダイス」とほぼ同じ展開で、それならあの作品の二番煎じで目新しさはないな、と思っていたのだが、実は少しづつ方向が変わって行く。

何より異なるのは、サマイは時に線路上に色ガラスを並べたり、色の付いたガラス瓶を目の前にかざして、それらごしに風景を眺めたりと、フィルムよりも映画を映す光の方に好奇心を寄せて行く。それはやがて、“映画をどうやってスクリーンに映し出すか”、その技術手法に関心が向かって行くのである。

Lastfilmshow2

最初のうちは映写室にあったフィルムの切れ端を持ち帰り、ダンボール紙に穴を開けて1コマのフィルムを挟み、光の反射で壁に映る画像を仲間たちに見せていたが、それでは飽き足らなくなり、悪ガキたちと夜、フィルム倉庫に忍び込み、フィルムを盗み出して自分たちで映画を上映出来ないかと模索・研究し始めるのである。

ただフィルムを走らせるだけではボヤけた絵にしかならないので、サマイはファザルに映写の仕組みを教わる。フィルムの前にはシャッターがあり、コマの継ぎ目がシャッターで暗転する事で絵がスムースに動くように見える事を教わる。この原理と、「観客は映画の何割かは暗闇を見ている」というセリフは、タナダユキ監督「浜の朝日の嘘つきどもと」にも登場していたのを思い出す。

こうしてサマイたちは、ガラクタの中からさまざまな道具、機械を集めて、シャッターは扇風機の羽根で代用したりと、とうとう自前で映写機を作ってしまうのである。

子供たちが、嬉々として手製の映写機作りに熱中するさま、映写が成功し、スクリーンに投影される映画を食い入るように眺めるさまはなんとも微笑ましい(注)

フィルム泥棒は犯罪であり、いけない事なのだが、子供たちの無邪気な探求心、物を造り出す向上心、創造力には素直に感動してしまう。結局盗みがバレて、サマイは感化院のような所に入れられ、出所後は父に尻を叩かれる等、十分罰を受けたのだから許してあげようという気になる。

実はパン監督自身も子供の頃、実際に映写室に忍び込み、フィルムのリールを盗んで少年院で夜を過ごしたこともあったそうだ。つまりはほぼ実話。映写機作りも実話なのだろうか。

ある日、サマイの父が、家族が誰も姿が見えないので探しに出て、ある廃屋を覗くと、サマイたちが上映会をやっていて、大勢の観衆がおり、中にはサマイ一家の母子までいる。そしてトーキー音声の代りに子供たちで効果音やセリフまで自前でやってのけ、本当に楽しそうに映画を上映して観て喜んでいる。
それを見た父は、黙ってそこを出る。我が子がこんなに映画に夢中で、創意工夫で不可能と思える事まで実現してしまう、その熱意と才能に心打たれたのだろう。このシーンが、感動的なラストに繋がる事となる。

そんな時事件が起きる。なんとギャラクシー座では時代の波に押され、フィルム映写をやめてデジタル上映方式に転換したのだ。当然映写技師のファザルもクビになる。英語の喋れないファザルにはデジタル上映機器を使えないからだ。舞台を2010年という時期に設定したのは、この時代の変化を描く為であった。

この後、トラックで運び出される映写機とフィルムの後を追いかけたサマイは、それらがスクラップとなり、再処理されて行く残酷な現実を見る事となる。

映画がデジタル化されれば、もうフィルムの切れ端を集める事も、フィルムを陽にかざして画を眺める事も、フィルム上映を子供たちだけで行う至福の時間も持てなくなってしまう。サマイは落胆する。
サマイが夥しいフィルムの海の中に飛び込む幻想シーンは切なく悲しい。

ラストは、息子サマイの映画を作りたいという夢を実現させてやる為に、映画作りを学べる都会へ息子を送り出す父の決意が描かれる。「ニュー・シネマ・パラダイス」で主人公トトを都会へ送り出したのは映写技師のアルフレードだが、ここでは父がその役割を任じる。このシーンは泣ける。

列車で旅立って行くサマイを、家族、一緒に遊んだ子供たち、ファザルなどが見送るシーンも泣けた。

列車の中で、フィルムを再加工した腕輪を填めた女性たちを眺めるサマイの姿に、サマイの声で彼が観た映画を作った監督、俳優の名前が語られ、やがては大人の声(多分パン・ナリン監督自身)で数多くの映画関係者、監督、俳優の名前が羅列されて行く。パン監督が敬愛する映画人たちだろう。

リュミエール兄弟に始まり、デヴィッド・リーン、キューブリック、ベルイマン、タルコフスキー、ホドロフスキーからヒッチコック、スピルバーグ、Q・タランティーノまで。俳優ではシャー・ルク・カーン、アーミル・カーン、サルマーン・カーン、ラジニカーントとインド映画でお馴染みの名前が次々と。中には勅使河原宏、小津安二郎、黒澤明と日本人監督の名も。
「世界で一番の映画ファン」を自負するパン・ナリン監督ならではのチョイスだろう。これは古くからの映画ファンであるほど頷けると思う。インドの映画監督の名前もあるが、サタジット・レイくらいしか分からなかった。インド映画に精通していればもっと感銘を受けたかも知れない。…しかし勅使河原宏にタルコフスキー、ホドロフスキーって…マニアック過ぎる(笑)。


というわけで、「ニュー・シネマ・パラダイス」の感動を期待すると、ややはぐらかされる気分になるかも知れない。単純にノスタルジックな映画愛に満ちた同作に比べ、本作は関心が映画の映写手法に向かったり、サマイの母が作る美味しそうな弁当の数々が登場したり、デジタル化で消滅して行くフィルムの行く末を延々と追ったりと、テーマが分散されてしまった気がする。フィルムを盗んだり、粗末に扱ったりするシーンもあまり気分のいいものではない。
映画館で上映されている映画も実際のインド映画のようだが、ほとんど知らない作品ばかりだったのが残念。「ニュー・シネマ・パラダイス」にはフォードの「駅馬車」やチャップリン・コメディやジャン・ギャバンやブリジット・バルドー主演作など、知ってる名画が多数登場して、それだけでも懐かしい気分にさせられただけに。

そういった不満な点もいくつかあるが、サマイを演じるバヴィン・ラバリ少年がとても愛らしく、見事な好演ぶりであった点と、終盤の駅での別れのシーンには感動し泣かされたし、パン・ナリン監督の映画に対する熱い思いにも心打たれたので、やはり観て良かったと思う。

原題は"Last Film Show"。多分ピーター・ボグダノヴィッチ監督の名作「ラスト・ショー」(原題は"The Last Picture Show")にあやかっているのだろう。“フィルムの挽歌”を奏でる本作に相応しい、いいタイトルである。

やはり映画ファンであれば、ギュッと心を掴まれる素敵な作品である事は確かである。観てから時間が経つほど、愛おしくなって来る作品と言えるだろう。 (採点=★★★★☆

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(注)実際の映写機は、フィルムは24分の1秒ごとにコマが送られ一瞬静止しており、シャッターで光が遮られた間にコマが移動する。その残像効果で画がスムースに動いているように見える。サマイの手作り映写機ではフィルムが一定スピードで流れるだけだから、シャッターを使っても実際にはあんなに本物の映写機並みに動く映像を映す事は出来ないはずだ。パン監督もそんな事は知ってるはずだが。
まあこれは感動を呼び起こす為の映画の嘘として、大目に見ておこう。

 

 

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コメント

これはなかなかいい映画でした。
パン・ナリン監督の自伝的な話でインド版「ニュー・シネマ・パラダイス」と言われますが、おっしゃる通りちょっと違いますね。
面白く見ましたが、主人公の行動は結構無茶ですね。
オーディションで選ばれたという主人公役のバヴィン・ラバリが可愛い。
母役のリチャー・ミーナー(美しい)の作る料理が美味しそうでした。
スワピニル・S・ソナワネの撮影の風景がきれいでした。

投稿: きさ | 2023年2月 1日 (水) 19:44

◆きささん
>母役のリチャー・ミーナー(美しい)の作る料理が美味しそうでした。
本当にそうですね。毎回メニューが違ってたり、インド的な料理もあったり、弁当眺めるだけでも楽しい映画でした。
弁当と言えばやはりインド映画「めぐり逢わせのお弁当」(2013)を思い出しました。あれも弁当が美味しそうでした。

投稿: Kei(管理人 ) | 2023年2月 7日 (火) 10:58

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