「生きる LIVING」
2022年・イギリス 103分
製作:Number 9 Films=Film4 他
配給:東宝
原題:Living
監督:オリバー・ハーマナス
原作脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄
脚色:カズオ・イシグロ
撮影:ジェイミー・D・ラムジー
音楽:エミリー・レビネイズ=ファルーシュ
製作:スティーブン・ウーリー、エリザベス・カールセン
製作総指揮:コオ・クロサワ、ノーマン・メリー、ピーター・ハンプデン、ショーン・ウィーラン、トーステン・シューマッハー、エマ・バーコフスキー、オリー・マッデン、ダニエル・バトセック、カズオ・イシグロ、ニック・パウエル、ケンゾウ・オカモト
黒澤明監督の不朽の名作「生きる」を、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの脚本によりイギリスでリメイクしたヒューマンドラマ。監督は「The Endless River」(日本未公開)等のオリヴァー・ハーマナス。主演は「ラブ・アクチュアリー」のビル・ナイ。共演は「シカゴ7裁判」のアレックス・シャープ、「Mank マンク」のトム・バーク、新進のエイミー・ルー・ウッドなど。第95回アカデミー賞の脚本(脚色)賞、主演男優賞ノミネート。
(物語)1953年。第二次世界大戦後のロンドン。仕事一筋に生きてきた役所勤めのウィリアムズ(ビル・ナイ)は、ある日医者から末期の胃ガンで、余命半年であると告げられる。残りの人生をどう生きるか悩んだウィリアムズは、仕事を無断欠勤し、海辺のリゾート地で酒を飲んで馬鹿騒ぎするも心は満たされない。ロンドンへ戻った彼はかつての部下マーガレット(エイミー・ルー・ウッド)と再会し、バイタリティに溢れる彼女とささやかな時間を過ごすうちに、これまでとは違う新しい一歩を踏み出すことを決意する…。
黒澤明監督「生きる」(1952)は、私の生涯ベストテンの中でも上位に入る名作である。劇場で、テレビで、DVDで何度も観た。観る度に心打たれ、泣けた。歳を取って主人公の年齢に近づいてから観ると、なお感動が深まった。
そんな大傑作映画をリメイクすると聞いて不安にかられた。以前にも書いたが、映画史に残る不朽の名作は絶対リメイクするべきではないと思っている。実際、黒澤リメイクに限っても、西部劇(「荒野の七人」、「荒野の用心棒」)を除いて「隠し砦の三悪人」、「椿三十郎」、洋画「ラストマン・スタンディング」(用心棒)、ことごとく失敗作だった。「野良犬」(森﨑東監督)はまあ頑張ってはいたが、本家の素晴らしさには敵わない。
ところが本作は脚本をカズオ・イシグロが書いていると知って興味が沸いた。イシグロは10歳くらいの頃に黒澤「生きる」を観て感動し、小説家になってからも、作品には「生きる」に込められたメッセージが色濃く反映されていると言う(注1)。リメイクも、イシグロ本人が熱望したと聞いている。それならあんまり酷い作品にはならないと思って観る事にした。
(以下ネタバレあり)
映画は、思ったより以上に、オリジナルに忠実である。役所勤めの、ほとんど生きているのか死んでいるのか分からないような影の薄い主人公ウィリアムズは、部下のマーガレットから“Mr.ゾンビ”と仇名されている(黒澤版では“ミイラ”)。
役所に、悪臭を放つ下水溝を公園にして欲しいと陳情に来るご婦人たちをたらい回しにする所も黒澤版とほとんど同じ。「書類をうず高く積んでる方が仕事してるように見える」とかのセリフでお役所仕事のダメさをチクリと批判している所までほぼ同じ(黒澤版はセリフの代りに、これでもかとばかりにぎっしり積み上げられた書類の山という画で表現している)。
ある日医者から、胃ガンで余命半年と告げられたウィリアムズが、残りの人生をどう生きるか悩み、仕事を放り出して遊び回るも充たされない…と、ほぼ同じ展開が続く。細部の細かいエピソードもだいたい同じである。
で、黒澤版と大きく異なる点が2つある。一つ目は主人公のキャラクター。黒澤版の志村喬(渡辺)は、ガンで死期が近い事を悟り、オロオロと狼狽え、肩を落として憔悴し、目にいっぱい涙を溜めて泣いたり、若い小田切とよ(本作のマーガレットに当る)に喉を振り絞るような声でもっと付き合って欲しいと懇願したりと、“死に対する恐怖”をかなりエキセントリックな演技で表現していた。
対して本作のウィリアムズは、極めておとなしい。悩み、落ち込む事はあっても、狼狽えたりわめいたりはしない。それはイギリスというお国柄もあるのだろう。ウィリアムズをはじめ、役所の同僚たちもみんな山高帽にステッキ代りの雨傘を持参したりと、紳士らしい身だしなみである。ウィリアムズもまた英国紳士の矜持を保とうとしている。取り乱すのは紳士の恥、という意識が染みついているのだろう。
だから、死ぬにしても、どうしたら紳士らしく最期の時を過ごせるか、それを模索し続けているように見えるのである。いかにも英国育ちのカズオ・イシグロらしい視点である。
主人公が“公園を作ろう”と思い立った動機が、黒澤版では渡辺がとよにウサギの玩具を見せられ、「こんなものでも作ってると楽しいわよ。課長さんも何か作ってみたら?」と言われた事がきっかけとなっていたが、本作では活き活きと快活に生きるマーガレットと連れ歩くうちに、自然に何か行動を起こそう、と考え始めるという風に変えられている。
これもまた、“英国紳士としてどう生きるか、何をなすべきか”という意識から来る発想なのだろう。ウィリアムズに扮したビル・ナイの風貌、態度もいかにもイギリス紳士である。
そういう意味で本作は、まさにイギリス映画らしい作品に仕上がっていると言えるだろう。
二つ目は、アレックス・シャープ演じる新入課員・ピーターの存在である。黒澤版では日守新一演じる市民課課員・木村に当る役どころだが、もう中年に差し掛かっている木村に比べて、ピーターは若いし、勤め始めたばかりでまだお役所仕事に染まっていない。黒澤版ではナレーションで渡辺の過去や人となりを説明していたが、本作ではナレーションを排し、先輩課員がピーターに教える形で、ウィリアムズの性格や役所の判で押した仕事ぶり等を観客に伝えるようになっている。
また、若くて純粋無垢なピーターを配する事で、彼の目から見た怠惰、無責任、事なかれ主義のお役所仕事ぶりを際立たせる仕組みにもなっている。
そして終盤、ウィリアムズが亡くなった後、ピーターはウィリアムズから遺書を託される。これは黒澤版にないオリジナル。
ウィリアムズも多分若い頃は仕事の意欲に燃え、官僚主義的な役所の閉鎖性を打破しようと試みた時期もあったのだろう(注2)。それが長年の役所勤めですっかりその空気に染まってしまい、無気力なままの人生を生きて来た。
死を前にしてやっと自分の生き方を悔い、公園作りに奔走し、少しは生きていた証しを残したかも知れないが、それで役所が変わるとは思っていないだろう。
自分のような、他の同僚のような人間にはなって欲しくない、自分が果たせなかった組織改革を成し遂げて欲しい…。遺書からは、まだ若く、純真なピーターに、その遺志を受け継いで欲しい願望が窺い知れる。
これからの時代を生きる若者に未来を託す、このラストには感動した。ピーターとマーガレットが手を繋ぎ歩いて行くラストシーンにもその思いが込められている。
そう思うと、黒澤版にはややペシミスティックな視点が感じられる。公園を作った所で、役所は何も変らない。渡辺の行動に胸打たれた市民課員たちも、翌日になればまたいつもの変らない日常に戻っている。木村はそんな役所の現状に憤りを覚えるも、何も出来ないままに、ただ空しくトボトボと去って行く所で映画は終わっていた。
未来に対する絶望、空虚感で終わった黒澤版に対して、イシグロが書いた本作のラストは、その先を、未来への希望を見据えていると言え、黒澤版とはまた違った感銘を覚える作品になっている。
無論、黒澤版も素晴らしい出来で、時代を超えて残る不朽の名作である事に変わりはない。ラストのテーマはともかくも、細部においては黒澤版の方が圧倒的に優れている。
とりわけ、主人公が亡くなった後のシークェンスは黒澤版の方が圧巻である。本作ではそこはややあっさり、短く済ませているが、黒澤版ではその通夜のシーンだけで50分近くも費やしている。ここは、まるで一幕ものの優れた舞台劇を見ているかのようである。
市民課の同僚が、何故渡辺が突然あんなに公園作りに奔走し始めたのかを語り合うその合間に、新聞記者がやって来たり、公園作りを陳情していた主婦たちが焼香に訪れ、渡辺の死を嘆き悲しむ様子に、手柄を横取りした助役がいたたまれずにその場を去ったり、警官が公園に落ちていた渡辺の帽子を届けに来たり…。そうしたエピソードや課員たちの回想を積み重ねる中で、渡辺の真意が少しづつ明らかになって行き、やがて酔いながらも「渡辺さんの死を無駄にするな」「俺たちも頑張ろう」と意気投合して行く様は、脚本の見事さ、役者たちの名演技も相まって圧巻、見応えがある。
この、酔った勢いで誓い合う、という点が秀逸で、酔いが醒めたら覚えてなかったり、気が大きくなって言い過ぎたと反省したりする事はよくある話。翌日から元のお役所仕事に戻ってるのもさもありなんと思わせる。
この点、本作は葬式帰りの列車の中で同僚たちがウィリアムズの行為を賞賛し、「俺たちも見習おう」と言いながらその後は黒澤版と同じ経過を辿るのは、やや説得力に欠ける。しらふで言ってるのだから。まあイギリスには通夜のような習慣がないだろうから、やむを得ないかも知れない。
笑えるシーンが多いのも黒澤映画の特徴で、例のたらい回しのシーンも黒澤版の方がずっと笑えるし、渡辺が病院で隣り合わせた男(渡辺篤)から、医者が軽い胃潰瘍と言ったらガンだとか、ガンの初期症状は、と話しかけられる都度、不安が高まってズルズル席を変えようとしたり、その後医者が「軽い胃潰瘍ですね」と言った途端に渡辺がバサッとコートを落したり(劇場では笑い声が起きた)。真面目な中に時折り笑いを挟み込む緩急自在の黒澤演出は何度観ても堪能させられる。
本作も秀作であるのは間違いないが、黒澤版を観てない人は、是非そちらも観て欲しい。DVDも出ているしTSUTAYAでも借りられるが、本作公開を機に、是非劇場でも再映して欲しいと強く思う。東宝さん、お願いしますよ。 (採点=★★★★☆)
(注1)
映画化されたイシグロ作品「日の名残り」では、忠実に仕事をこなしていた老執事が老境に至ってやり残してしまった過去を悔いる話だったし、同じく映画化された「わたしを離さないで」では、限りある命の中で、人間らしく生きる意味を問いかけていた。いずれも映画「生きる」のテーマと合致する。
(注2)
黒澤版では渡辺の引出しに、渡辺が書いた「事務効率化に関する私案」という書類がしまい込まれていて、渡辺がそのページを破ってハンコ掃除に使う様子が描かれる。つまり若い頃は役所改革の意欲に燃えていたのに、さまざまな圧力、抵抗、役所の壁にぶつかって挫折し、その頃から今のようなミイラになってしまった事が暗示されている。そこに「彼は20年前程前から死んでしまったのである。その以前には少しは生きていた」とかぶるナレーションが切ない。
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コメント
見事なリメイクでした。良い意味であっさりしていても、見応えありました。主人公がどこか飄々としたところがあるのに加えて、ピーターとマーガレットのカップル、特にマーガレットの明るさに救われます。
投稿: 自称歴史家 | 2023年4月 8日 (土) 20:50
◆自称歴史家さん
>主人公がどこか飄々としたところがある…
脚本を書いたカズオ・イシグロは、主人公に笠智衆をイメージしたと言ってます。確かに飄々として物静かなビル・ナイは笠智衆を思わせますね。
そう言えば小津監督の「晩春」で、笠智衆扮する周吉は外出する時、いつもソフト帽にステッキと英国紳士を思わせるスタイルでしたね。
投稿: Kei(管理人 ) | 2023年4月15日 (土) 21:59